「いや、いる。わたしはここにいる」
すると、不意に、眼前の町が、ぐらりと揺れました。円に近い形をした待ちそのものが、風を受けた水面のようにすよいで、大きなおひと方の怒れる神のお顔になりました。
小さな神さまが、ごあいさつをなされようとする前に、その大きなお顔の神は、涙をしぼられて、おっしゃいました。涙は町を流れる川に落ちて、川岸の道路を濡らしました。
「こんなはずではなかったのだ。こんなはずでは……」
「お悔やみ申し上げます」
小さな神さまは、頭をたれて、おっしゃいました。しかし稲佐の神の涙が止まるはずもありませんでした。
「言ったのに、殺してはならんと。憎んではならんと……。だがだれもわたしの言うことを聞かなかった。だれもわたしを信じなかった……。そして今や、見るがいい、こやつらを。戦勝を喜び、つかの間の美酒を浴びて得意げに闊歩する者たちの、その足元を」
稲佐の神は、強く言い放ちました。小さな神さまは、目を凝らして、にんげんたちの足元をごらんになりました。そこには、赤や、青や、薄紅や、灰色などの、かすかに光るかけらがたくさん見えました。小さな神さまは、深々とため息をおつきになりました。それは、にんげんたちの奥に光っていた、あの美しい核のかけらだったのです。
「あわれな子らよ。おまえたちは、何もわかってはいないのだ。おまえたちが殺したのは敵ではない。他人ではない。おまえたちは未だ目も開かぬ赤子のうちに、何も知らぬ心のままに、おまえたち自身の魂を、踏み砕いている……」
稲佐の神の声は、もうそれ以上言葉にはならないようでした。ただ苦しい嗚咽だけが、
見えない蛇のように長く長く続きました。かすかに青みを帯びたその吐息が、幽霊のように辺りを漂い、それは勝利に狂喜する人々の仮面のような顔に、凄惨な色を添えました。小さな神さまは、その様を正視することができず、つい顔をそらし、目を閉じてしまいました。同時に、そんなご自分の行為に、身の縮まるような恥ずかしさを覚え、小さな神さまは、石のようにその場に立ち尽くすしかありませんでした。
稲佐の神の嗚咽の声に耳を澄ましているうちに、小さな神さまは、もうにんげんを育てるのはやめようかと、お思いになりました。大羽嵐志彦の神のおっしゃったとおりでした。あまいにかわいいので、つい夢中になってしまったが、いずれこんな悲しい目にあわねばならぬのなら、にんげんなど育てないほうがいい。小さな神さまは、も自分の谷に帰ろうかとさえ、思われました。
しかし、小さな神さまがそのご決意をなさる前に、稲佐の神がおっしゃいました。
「あなたがたに、頼みがある」
「……頼み、と?」
小さな神さまがお顔をあげられると、稲佐の神は、口を開け、ふっと息をはいて、一つの核を吐き出しました。
「その人間の核を、久香遅の神のお許に届けて欲しいのだ」
「これは……?」
小さな神さまが、その核を受け取られると、それは小さな神さまのお手の中で、薄金色にちかちかと光りました。それはみごとな核でした。小さな神さまも、また美羽嵐志彦たちも、このように大きく、ほぼ完全に円いにんげんの核を見るのは、初めてでありました。
「それは久香遅の神の、息子だ。一度は神の心に背き、戦に身を投じたが、やがて憎み殺しあうことの愚かさ、悲しさを知り、深く悔いた。そして何とか戦をとめようと働いたが時すでに遅く、やがて、神の許に帰りたいと願いながら死んだ。ゆえに今までわたしが預かり、密かに守って来たのだ……」
小さな神さまは、その核にそっとお耳を寄せられました。核は小さく震えて、微かな声で、「おとうさん、おとうさん、どこですか?」と、繰り返していました。
「わたしは、久香遅の神にあわせる顔がない。どうか、あなたがた、その核を久香遅の神に届けてくれ、お願いだ」
「分かりました。届けましょう」
小さな神さまはおっしゃると、一筋お髪をほどき、その核を通して、ご自分の指にとめられました。いくら大きな核とはいえ、小さな神さまの首や手首にまわすには、少々小さすぎたからでした。稲佐の神は、ご安心なさったように、一言「ありがとう」とおっしゃると、地中にふっと沈みこまれるように消えておしまいになりました。乾いてひび割れたような町が、再び眼下に現れました。先ほど聞いたピキピキという音は、魂が踏み砕かれる音だったのかと、小さな神さまは思われました。
(つづく)