世界はキラキラおもちゃ箱・第3館

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ファンゴーの猿・8

2017-08-15 04:17:14 | 月夜の考古学・第3館


そのころ、ファンゴーがなかなか帰ってこないので、親方は店先に座っていらいらと待っていた。
「すいません、おそくなりました」

おずおずと店先の戸を開けて入ってきたファンゴーを、親方は鞭の一振りで迎え出た。とたんに、さっきまでのいい気分が吹き飛んで、ファンゴーは親方の前でしゅんと縮こまってしまった。

「遅いじゃねえか。何してたんだ、今まで」
「す、すいません。そこで、し、知り合いに会ったもので……」
「知り合いぃ? お前に知り合いなんぞいるのか?」
そう言うと、親方はファンゴーが持っていたお酒のびんをひったくり、蓋をとってぐいと飲んだ。ファンゴーは、そんな親方の前に、何かものいいたげな様子で、ぼんやりと立った。

「いつまで立ってるんだ! さっさと行け!」
「あ、あの、親方……」
ファンゴーはもじもじしながら、親方の顔をちらりと見上げた。
「何だ、何かあるのか」
「ええ、あ、あの……」
「言いたいことがあるんなら、さっさと言わねえか!」
ぴしっと、親方の鞭が鳴った。それに驚いて、ファンゴーは反射的に口走った。

「や、休みが欲しいんです」
「あんだとお? 休みだあ? そんなもんどうすんだ?」
「い、一日、だけでいいですから……、その、友達と約束があるんで……」

突然、親方が、持っていた酒びんを床にたたき付けた。パリーンという音が響き渡って、あたりに強い酒の匂いが満ちた。
「友達? 友達だと? へ、馬鹿め! おれが知らないとでも思ってるのか! この色ぼけ野郎め!」

親方は、顔を真っ赤にして叫ぶと、ファンゴーのほおをいやと言うほど強くなぐった。そのはずみで、ファンゴーは、パン台の上にたたきつけられた。
「いいか! おまえみたいな半人前が、女とつきあうなんざ十年はええんだ! わかったらさっさとこれを片付けろ! 夕飯は抜きだ!」

それだけ言うと、親方は厨房に通じるドアから逃げるように姿を消した。しばらくの間、ファンゴーは、そのドアの方を、呆然と見つめていた。いったい何が起きたのか、どうすればいいのか、彼にはわからなかった。さっきまで、ほのかに胸に灯っていたささやかな希望が、一瞬にして消え去り、いつもの重たい失望感が、彼のむねをしめつけていた。

やがて、散らばった酒びんのかけらを、のろのろと片付けてから、ファンゴーは重い足取りで、真っ暗な自分の部屋にもどった。そしていつものようにベッドにどかりと座ると、半ば無意識に、ベッドの横に置かれた木の箱の上にあるランプに、手探りで灯をつけた。

小さなたよりない明かりが、ぼんやりとファンゴーの顔を照らした。そして、それと同時に、ファンゴーは、ランプの向こうのすぐそばに、あの猿の顔が浮かび上がるのを見た。

猿は、泣いていた。目に涙をいっぱい浮かべて、哀れむようにファンゴーの顔をじっと見つめていた。大きな丸い目の中に、黄色い小さなランプの光が、くっきりと映っている。猿がまばたきをすると、深いしわの刻まれた猿のほおの上に、一筋の透明な涙の筋が、するりと落ちた。やがて猿がふるえる声で言った。

「何で泣かないんだ? ファンゴー。こんなに、つらいのに……」
「つらい? 何でおれがつらいんだ?」

ファンゴーが、半ばぼうっとして言うと、猿は、明りの前からふと姿を消した。ひとしきり、暗闇の中から、猿のかすかな泣き声が聞こえた。ファンゴーは、ぼんやりと明かりを見ながら、ほとんど無意識のうちにつぶやいた。
「おれがいけないんだ。おれが、アネッサのことで、のぼせ上がって、親方を怒らせてしまった……、彼女といると、何だかおれも、まんざら馬鹿でもないような気になってしまうから……。でも、おれはやっぱり、親方の言うような、ほんとの馬鹿なのかもしれない……、だから、悪いのは、おれなんだ……」

「ああ、ファンゴー!」

不意にまた、猿が明りの中に顔を出した。そして、涙でいっぱいの顔を歪ませて、はらわたを引き絞るような声で叫んだ。

「おまえは馬鹿だ! 馬鹿だ! 馬鹿だ!」

ファンゴーは思わず、猿ののどくびをつかもうとした。その弾みでランプがたおれ、あたりは真っ暗になった。一瞬、ファンゴーは、指の先に微かに柔らかい猿の毛皮を感じた。

「痛いよ、ファンゴー、乱暴しないでくれ」
闇の向こうから、哀れっぽい猿の声が聞こえた。
「出てこい! この悪魔め! おれは、馬鹿じゃないぞ! おれは、おれは、親方の言うことを聞いて、いつか親方みたいなりっぱなパン職人になるんだ!」
彼がそう叫ぶと、猿はいっそうはげしく、すすり泣いた。
「ああ、ファンゴー、おまえには、おれが見えるじゃないか。おれの言葉が聞こえるじゃないか。どうしておれに背を向けるんだ? ファンゴー、おれは寒いよ。寒いんだよ。おれを抱いて、あっためておくれよ……」
「消えろ!」

彼は闇に向かって、ランプを投げつけた。甲高い悲鳴をあげて、ランプは粉々に砕けた。そして、再び部屋の中に静けさが訪れたとき、もう猿の気配は部屋の中にどこにもなかった。

「今度おれの前に現れたら、殺してやるからな!」

ふるえる声でそう叫ぶと、ファンゴーは飛び込むようにベッドの毛布の中にもぐりこんだ。そして、くちびるをかみしめ、耳を伏せて、必死に眠ろうとした。暗闇の中で、得体のしれない不安がどんどんふくらんで、ファンゴーを圧し潰そうとしているかのように。やがて彼は苦しそうに「ああっ」と声をあげると、右手の指を胸の前でかかえこむようにして、左手でにぎりしめた。指の先が、きりきりと、しびれるように痛かった。それはさっき、あの猿にふれた指だった。

(つづく)


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