ウェスヴール街はそこからけっこう遠かった。背嚢を前に回し、アンブロワーズを背負って、ノエルは20分ほども歩かねばならなかった。背はノエルの肩より下だが、アンブロワーズは重かった。ノエルは腰が砕けそうにもなったが、放っておくことはできなかった。折れてしまった義足も拾い、それはアンブロワーズに持ってもらった。
「すみません、だんな、すみません」
ノエルの背に負われながら、アンブロワーズはしきりに謝った。いいんですよ、と笑いながら、ノエルはかすかに、アンブロワーズの体から薔薇の匂いがすることに気付いた。
香水をつけてるわけでもなさそうだな。なぜだろう。ノエルは思いつつほほ笑んだ。この哀れな男のために善意をしてやれることが、うれしくてたまらないとでもいうように。
腰に来る重みに耐え、アンブロワーズの言ったとおりに来てみると、そこはずいぶんと大きな屋敷だった。木造りだが品のいい感じの門があり、その向こうに白い壁の3階建ての家があった。アパートではなさそうだ。その証拠に、ずいぶんと立派な庭がある。薔薇の香りが流れてきた。ああ、薔薇が咲いているんだ。秋の薔薇だな。
アンブロワーズのいう通り、門のわきについていた呼び鈴を押してみると、しばらくして屋敷の中から黒い服をきた40がらみの女が出てきた。それを見て、アンブロワーズは叫ぶように言った。
「ベルタ! ベルタ! おれだよ!」
「まあ、アンブロワーズったら、おまえさん、どうなすったの?」
ベルタと呼ばれた女は目を見張り、アンブロワーズとノエルをかわるがわるに見た。ノエルは重みに耐えながら、にっこりと笑った。
20分後、ノエルはその屋敷の庭の、小さなテラスに座り込んでいた。アンブロワーズを渡すと、すぐに帰ろうとしたのだが、それをベルタが無理に引き留めたのだ。
「こんな重い男を、ここまで背負ってきてくださったなんて、何もしないで追い返すわけにはいきません。どうかお茶の一杯なりと召し上がって行ってください。庭の方の薔薇もたくさん咲いております。どうか見ていってください」
断ることもできず、別にそれからほかに特別な用もなかったので、ノエルはその日の午後のひとときを、その屋敷の庭で過ごすことにしたのだ。
確かに庭の薔薇はすばらしかった。そう広いとも言えない庭に、一株の大きなうすべにの薔薇の木があり、それが庭いっぱいに匂うほどたくさん花をつけていた。ベルタの話によると、アンブロワーズはこの屋敷の庭師なのだそうだ。この薔薇の世話をしているのも彼だという。彼から薔薇の匂いがしたのはそのせいだったのかと、ノエルは思った。
薔薇に囲まれた小さなテラスの椅子に座って、ノエルはしばらく待った。ベルタがお茶を運んできてくれるのだと思っていたが、現れたのは彼女ではなく、白い髪と髭の老人だった。背が高く恰幅のいい姿はどことなく貴族的だが、普段着の茶色いセーターに、気さくな微笑みをしながらノエルに声をかけてきた。
「やあ、あなたですか。うちの庭師を助けてくれたのは。わたしは、シリル・ノールと申します。この屋の主人です」
丁寧にあいさつされたので、ノエルは思わず立ち上がり、帽子をとって挨拶を返した。
「ノエル・ミカールと申します。いや、偶然お見掛けして、とても大変そうでしたので…」
その声を聞いて、驚いたのはシリルのほうだった。実に美しい声だ。自分の知っているどんなテノール歌手より柔らかい。着ているものは粗末だし、見たところ普通の青年のようだが、ものごしがどこか高貴だ。何者だろう。
興味をひかれたシリルは、御礼と挨拶だけで終わろうと思った態度を改め、テラスの、ノエルの前の席に座り込んだ。間もなく、ベルタがお茶を運んできた。ノエルだけだと思ったので、お茶は一つしかなかったのにベルタは戸惑ったが、シリルはすぐに言った。
「ベルタ、わたしの分のお茶も持って来てくれ。それと、ラジオ」
「はい、長くおかかりなんですね?」
そういうとベルタは少しほほえみ、面白そうな目をノエルに振り向けてから、いそいそと屋敷に戻っていった。
(つづく)