今日も爽やかな秋晴れに恵まれました。吹く風も穏やかで、わけも無く浮かれてしまいそうになります。
さて、今日知り合いの方からこのようなものを頂戴しました。これは聖徳太子が建立した大阪・四天王寺の伽藍を昭和33年に修復をした際に出た古材を使って作られた多宝塔です。知り合いの方がお父様から譲られて今まで持っていらしたそうなのですが、特にどうするわけでもなく仕舞い込んでおられたのだそうです。それで、
「こういうものは、意味を理解している人間が持つべきだ。」
とのことで、有り難く頂戴することとなったわけです。
かつて奈良時代、天平宝字8(764)年に『藤原仲麻呂の乱』を平定した称徳天皇(聖武天皇と光明皇后の内親王)は、その乱の犠牲者鎮魂と国家安寧を祈念して『無垢浄光大陀羅尼経』を納めた百万基の小塔を作らせ、東大寺や西大寺・薬師寺・法隆寺・四天王寺等、平城京近辺の主だった10の官営寺に十万基ずつ奉納しました。しかし、その後の戦災で焼失してしまったりお寺が手放してしまったりして、今では法隆寺だけに4万数千基が残るのみとなっています。
本物の百万塔本体は桂の木をろくろ引きしたものに胡粉を塗って白く仕上げられた高さ20cm程の三重塔で、屋根の上の相輪が外せて中に陀羅尼経を納められるように中空になっています。こちらは恐らく松か檜材で作られており、三重塔を作る程の大きさを確保出来なかったか何かで低めの多宝塔の形に作られています。こちらは相輪ではなくお屋根が外せて、

中空になった中に陀羅尼経巻が納められています。
本物の百万塔の中に納められた陀羅尼経は縦5cm・横50cm程の小さいもので、根本陀羅尼・相輪陀羅尼・自心印陀羅尼・六度(りくど)陀羅尼の4種類があります。これら百万部もの陀羅尼経を一つ一つ手書きするのは大変なことですので、百万塔には木版或いは銅版を用いて大量に印刷したものを納めました。これは『世界で最も古い印刷物』と認められています。
ただ、使われた版が木版のみなのか銅版も併用されたかは未だに定かではありません。もし銅版が使われていたと判明したら、世界初の銅版印刷はグーテンベルクの活版印刷ではなくなってしまい、歴史の記述が変わってしまう大事件に発展しかねないのです。
さて、こちらには

サンスクリット語で書かれた陀羅尼経と、この古材百万塔が作られた経緯を当時の御貫主が書かれた由緒書きが併記されたものが入っています。残念ながら現在の四天王寺は殆どの建物が木材ではなく鉄筋コンクリートで建てられてしまっていて、古式ゆかしい趣きからはかなりかけ離れてしまっているのですが、この由緒書きを読むと、昭和33年当時それはそれなりに苦労されたのかな…ということが垣間見られます。
折角の名刹所縁の多宝塔ですから、これからは我が家の仏壇にお祀りして、朝晩のお勤めの場に居て頂こうと思います。
さて、今日知り合いの方からこのようなものを頂戴しました。これは聖徳太子が建立した大阪・四天王寺の伽藍を昭和33年に修復をした際に出た古材を使って作られた多宝塔です。知り合いの方がお父様から譲られて今まで持っていらしたそうなのですが、特にどうするわけでもなく仕舞い込んでおられたのだそうです。それで、
「こういうものは、意味を理解している人間が持つべきだ。」
とのことで、有り難く頂戴することとなったわけです。
かつて奈良時代、天平宝字8(764)年に『藤原仲麻呂の乱』を平定した称徳天皇(聖武天皇と光明皇后の内親王)は、その乱の犠牲者鎮魂と国家安寧を祈念して『無垢浄光大陀羅尼経』を納めた百万基の小塔を作らせ、東大寺や西大寺・薬師寺・法隆寺・四天王寺等、平城京近辺の主だった10の官営寺に十万基ずつ奉納しました。しかし、その後の戦災で焼失してしまったりお寺が手放してしまったりして、今では法隆寺だけに4万数千基が残るのみとなっています。
本物の百万塔本体は桂の木をろくろ引きしたものに胡粉を塗って白く仕上げられた高さ20cm程の三重塔で、屋根の上の相輪が外せて中に陀羅尼経を納められるように中空になっています。こちらは恐らく松か檜材で作られており、三重塔を作る程の大きさを確保出来なかったか何かで低めの多宝塔の形に作られています。こちらは相輪ではなくお屋根が外せて、

中空になった中に陀羅尼経巻が納められています。
本物の百万塔の中に納められた陀羅尼経は縦5cm・横50cm程の小さいもので、根本陀羅尼・相輪陀羅尼・自心印陀羅尼・六度(りくど)陀羅尼の4種類があります。これら百万部もの陀羅尼経を一つ一つ手書きするのは大変なことですので、百万塔には木版或いは銅版を用いて大量に印刷したものを納めました。これは『世界で最も古い印刷物』と認められています。
ただ、使われた版が木版のみなのか銅版も併用されたかは未だに定かではありません。もし銅版が使われていたと判明したら、世界初の銅版印刷はグーテンベルクの活版印刷ではなくなってしまい、歴史の記述が変わってしまう大事件に発展しかねないのです。
さて、こちらには

サンスクリット語で書かれた陀羅尼経と、この古材百万塔が作られた経緯を当時の御貫主が書かれた由緒書きが併記されたものが入っています。残念ながら現在の四天王寺は殆どの建物が木材ではなく鉄筋コンクリートで建てられてしまっていて、古式ゆかしい趣きからはかなりかけ離れてしまっているのですが、この由緒書きを読むと、昭和33年当時それはそれなりに苦労されたのかな…ということが垣間見られます。
折角の名刹所縁の多宝塔ですから、これからは我が家の仏壇にお祀りして、朝晩のお勤めの場に居て頂こうと思います。