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共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

初日からやらかしました…

2025年09月02日 16時00分00秒 | スピリチュアル
今日から、私の小学校勤務が再開しました。今日まで午前中授業だったのですが、そこであった音楽の授業で早速やらかしました。

高学年のリコーダーの教材に《風とケーナのロマンス》という曲があり、今日その実技の時間がありました。この曲は



楽譜を御覧いただくと分かる通り、8分の6拍子で書かれています。

8分の6拍子という拍子は、その名の通り1小節の中に8分音符が6つ入っている拍子です。ただ、6つ並んでいれば何でもいいというものではなく



8分音符3つを一塊にして、それを2つならべるかたちで拍子をとります。

なので、実際に拍子をとるには



のように、6拍子とはいいながら実質2拍子のようなカウントをとることになります。こうした拍子のとり方を、専門用語で『複合拍子』といいます。

話を音楽の授業に戻しますが、音楽担当の教師が子どもたちの前で模範演奏をしたのですが、それがどう聴いても4拍子なのです。4拍子とは


文字通り1小節に4分音符が4つ入る拍子ですから6拍子とは相容れないのですが、教師はそんなことはお構い無しに4拍子のまま模範演奏を吹ききりました。

そして

「はい、それではみんなで吹いてみましょう。」

と言い出したので、

『ここで誤解させたままの演奏をさせてはいけない!』

と思った私は、教室の後ろから

「すみません、拍子が違うのでやり直していただけませんか?僭越ながら今のままだと、子どもたちが間違えた音楽を覚えてしまうので…。」

と声をかけました。

教師は、はじめ

『は?』

みたいな顔をしていましたが、私が経緯を説明すると

「じゃあ、先生(私)説明をお願いできますか?」

と言ってよこしました。私は一瞬躊躇したのですが、言い出しっぺとしての責任を全うするべくカウントをとらせていただきました。それを聴いて教師も何か思い当たる節があったのか、

「では、もう一度やってみましょう。」

と言って、今度は8分の6拍子っぽくカウントをとってくれました。

個別学習支援員はあくまで日陰の存在ですから

『出しゃばってはいけない』
『教師に恥をかかせてはいけない』

ということをモットーにしなければなりません。ただ今回のことは、音楽屋の端くれとしてどうしても看過できなかったのです。

今回の件は、結果として子どもたちの前で教師に恥をかかせてしまう結果となったことは否めません。今後、同じようなことのないように氣をつけようと思いますし、教師にもきちんとした音楽的知識に基づいた授業をしてほしいと願ってやみません。

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今日は瀧廉太郎の誕生日〜日本初の本格的ピアノ作品《メヌエット ロ短調》

2025年08月24日 15時55分51秒 | スピリチュアル
今日も日本全国で猛暑日となり、危険な暑さとなりました。私は涼しい室内で一人リハビリをしていましたが、なかなかスムーズに小指が動くようにはなりません。

ところで、今日8月24日は瀧廉太郎の誕生日です。



瀧 廉太郎(1879〜1903)は、日本の音楽家・ピアニスト・作曲家です。明治期における西洋音楽黎明期の代表的な音楽家の一人で、歌唱共通教材として《花》《箱根八里》《荒城の月》などが知られています。

瀧廉太郎は、1879(明治12)年8月24日、父・吉弘、母・正子のもと東京市芝区南佐久間町(東京都港区西新橋)に長男として生まれました。父は九州の日出藩(大分県速見郡日出町)の家老で、明治新政府の要人である大久保利通や伊藤博文らの側近として働いた上級官吏でした。

廉太郎が生まれて3年後の1882(明治15)年、父が内務省勤務をはずれて転任したため横浜、富山、東京、大分と転居を重ね、1891(明治24)年12月に一家全員で大分県の竹田市へ移りました。この時、廉太郎は11歳。父が郡長だったので、かつて武家屋敷だった郡長官舎が住居でした。

広い敷地に重厚な門と土塀がめぐらされたその屋敷で、廉太郎も暮らしました。学校の裏にある岡城跡は、廉太郎にとって石垣に座って尺八を吹いたりして遊んだ思い出の場所だったといいます。

廉太郎は、背が高くて色白で、上品な雰囲気のある都会的な少年でした。記憶力に優れ図画が得意でしたが近視が強く、眼鏡をかけた顔を机にすりつけるようにして勉強していたそうです。

一家が横浜に住んでいた頃、廉太郎の二人の姉たちは外国人の家で洋裁や編み物を習っていました。そこで日本ではまだ珍しかったバイオリンや手風琴(=アコーディオン)といった西洋の楽器と出会います。

裕福だった瀧家では姉たちに西洋楽器を習わせ、廉太郎は姉たちが演奏する西洋音楽を聴きながら育ちました。廉太郎が後にピアノの名手となり、数々の名曲を作曲するようになったのは、こうした幼少期の経験の影響が大きかったと言えるでしょう。

また、竹田の高等小学校で最高学年になった年、風琴(=オルガン)が弾ける先生が赴任して廉太郎の担任になります。
以前からアコーディオンを弾いていた廉太郎は鍵盤がわかり楽譜も読めたので、先生に頼んでそれまで弾く人がいなかったオルガンを弾かせてもらい、たちまち先生よりも上手に弾けるようになったといいます。

廉太郎は音楽家になりたいと周囲に話していましたが、父には反対されていました。しかし、天長節(=明治天皇の誕生日)の祝典に郡長として参列した父が、学校を代表してオルガンを弾く廉太郎の演奏を聴いて音楽の才能があることを認め、廉太郎に東京に出て音楽学校を受けることを勧めてくれたのでした。

14歳の廉太郎が上京したのは1894(明治27)年5月のこと、従兄で義理の兄であった瀧大吉の家に居候して、この年の9月に音楽学校の入学試験を受けます。15歳という最年少で予科に合格した廉太郎は、翌年には本科専修部1年に進みました。

廉太郎は1897(明治30)年、専修部2年に進級し、作曲とともに作歌の勉強もしていました。この時の習作として作詞の《砧(きぬた)》、作曲の《日本男児》が雑誌『おむがく(おんがく)』に掲載されています。

しかしこの頃、廉太郎は体調不良を感じ始めます。脚気と診断されて夏休みに大分の竹田に帰省して保養することにしました。体調は回復し、翌年に主専攻を洋琴(=ピアノ)として音楽学校本科専修部を首席で卒業することになった廉太郎は、卒業式では卒業生7名の総代として謝辞を朗読し、卒業演奏会ではピアノの独奏をしました。

1898(明治31)年9月、19歳になった廉太郎は音楽学校の研究科へ進学してピアノと作曲を学び、翌年には音楽学校の嘱託となって授業補助を担うようになります。

1899(明治32)年の4月、音楽学校は高等師範学校から独立して「東京音楽学校」という専門学校になりました。そして、西洋への音楽留学生の派遣を検討し文部省に申請しました。

一日も早く留学したいと思っていた廉太郎ですが、留学の前年の1900(明治33)年、近代日本で初めて作曲されたピアノ曲である《メヌエット ロ短調》、また《荒城の月》、《箱根八里》、《花》、《鳩ぽっぽ》、《お正月》といった現在も愛唱されている名曲の数々が集中して生まれています。

ついに憧れの海外留学が叶ったのは廉太郎が21歳の時でした。ピアノ及び作曲研究のため3年間のドイツ留学を命ぜられ、意気揚々と横浜港を出航したのは1901(明治34)年4月のことでした。

留学先のドイツでは、ベルリンから音楽の街、ライプツィヒに移りました。ここで作曲家のメンデルスゾーンが設立したライプツィヒ王立音楽学院に入るべく、ドイツ人教師にドイツ語を学び、ピアノ教師のレッスンを受けて受験に備えました。

ライプツィヒはかつてバッハやメンデルスゾーン、シューマンらが活躍したところで、森鴎外もライプツィヒ大学で軍事医学を学びました。廉太郎が来た頃は日本人留学生が14〜5人いて、彼らとも交流していました。

1901(明治34)年10月1日、ライプツィヒ王立音楽学院の入学試験を受けて合格した廉太郎はさっそく翌日から通い始め、特に実技の勉強では手ごたえを感じていました。校外での音楽会やオペラにも出かけていき、ドイツの優れた音楽家たちの演奏や本場のオペラの迫力に圧倒されたといいます。

充実した留学生活が順調に送れると思っていた矢先の11月末、廉太郎はオペラ劇場にビゼー作の《カルメン》を観に行った帰りに風邪をひいてしまい、さらに肺炎になってしまいました。留学生仲間に付き添われて病院に入院し、すぐには退院できそうにないので音楽院は翌年の3月まで休学します。

6月頃になると小康を取り戻しますが、廉太郎の病気は肺結核のようだとわかりました。40日前後の船旅に耐えなければならないため今のうちに日本に帰らせたほうがよいという周囲の判断により、廉太郎は8月にドイツを後にします。

3年間の留学のはずが、わずか1年数か月、しかも念願の音楽学院に通ったのはたった1か月と3週間あまりでした。イギリスや香港などを経由して、廉太郎が乗る船が日本の神戸港へ着いたのは10月15日の朝のことでした。

帰国した廉太郎は義兄の瀧大吉の東京の家でしばらく過ごし、《水のゆくえ》、《別れの曲》を作曲しています。それからまもなく大吉が脳溢血で急死してしまい、病気の廉太郎は大吉の葬儀も行われないうちに大分の両親のもとに帰りました。

両親の住まいは当時、稲荷町(現在の大分市府内町)にありました。4年ぶりに会う両親は廉太郎のやつれて衰弱した姿に心を痛めるのでした。

1903(明治36)年の正月を家族そろって迎えた廉太郎は《荒磯》、ピアノ曲《憾(うらみ)》などを作曲しました。しかし、同年の6月29日の夕方、24年に満たない短い波乱の生涯を閉じました。

そんな瀧廉太郎の誕生日である今日は、《メヌエット ロ短調》をご紹介しようと思います。

《メヌエット ロ短調》は、瀧廉太郎が明治33年(1900年)10月1日に作曲したピアノ曲です。近代日本で初めて作曲されたピアノ曲であり、廉太郎にとっても3年後の《憾(うらみ)》と共に、ほぼ唯一の器楽作品となっています。

ロ短調の複合三部形式で速度指定は無く、主部はメヌエットというよりワルツのようなホモフォニックな書法が中心となっています。トリオはロ長調で主部とは一転してポリフォニックな書法となりますが中間部でロ短調に転調して盛り上がり、主部に帰って終わります。

全体の構成や旋律が、ショパンの《ワルツ第10番 ロ短調 作品69-2》を思わせる作品です。作品としてはやや硬い印象ですが、瀧廉太郎が西洋音楽の書法をよく学習していた事を示す佳作となっています。

そんなわけで、今日は瀧廉太郎の《メヌエット ロ短調》をお聴きいただきたいと思います。小川典子のピアノで、日本初の本格的ピアノ作品となった瀧廉太郎の小品をお楽しみください。


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今日はドビュッシーの誕生日〜実は本人の評価が低かった名曲《夢》

2025年08月22日 15時15分15秒 | スピリチュアル
今日は退院後初の経過観察の日でした。

東海大学付属病院に到着してレントゲンを撮ってから整形外科のフロアに向かったのですが、待合室は松葉杖をついたり車椅子に乗ったりしている高齢者で超満員!

『これは自分の番がくるまで相当待たされるな…』

と、覚悟を決めて椅子に座りました。

そのうちウトウトし始めてしばらく経った頃に、ようやく名前を呼ばれました。ちょっと慌て気味に診察室に入ると、そこには先程撮影したレントゲン写真があり、医師からは

「経過は順調そうですね。」

という言葉が飛び出しました。

ホッとしたのも束の間、指の可動域の様子を診るために包帯を取ることになったのですが、



この包帯の下を初めて見てビックリしました。と同時に、その見た目のグロさに見たことを後悔しました。

そんなゲンナリしている私をよそに、医師が

「ちょっと動かしてみましょうか。」

と言ってわたしの手を取ると、小指をギューッ!と内側に曲げ始めました。瞬間

『!!?※✕△□◇☆+?!!』

という衝撃が身体中を駆け巡り、摩擦で欠けるのだはないかと思うくらい奥歯がギリギリと音を立てました。

悪夢のような時間が過ぎ、再び包帯が巻かれました。医者って、こういう突発的な動きをふるから嫌いです…。

ところで、今日8月22日はドビュッシーの誕生日です。



クロード・アシル・ドビュッシー(1862〜1918)は、フランスの作曲家で、長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれることのない自由な和声法などを用いて作曲し、その伝統から外れた音階と和声の用い方から、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家の一人とされています。

ドビュッシーの略歴については、ここでは省略します。そして、今回ご紹介するのはピアノ独奏曲《夢》です。

《夢》は、ドビュッシーが作曲したピアノ独奏曲の中でも、一二を争うほど有名な作品です。演奏会だけでなく、様々な映像作品やCM等で使われることの多い音楽なので、聴き馴染みのある方も多いのではないでしょうか。

1884年、22歳でカンタータ《放蕩息子》によってローマ大賞を受賞したドビュッシーは、受賞に伴いローマへ留学していました。そこからパリへ帰国した3年後の1890年《ベルガマスク組曲》に着手した頃に、この《夢》も作曲されました。

この頃のドビュッシーは経済的に非常に苦しい状況にあり、そのために《夢》のような作品を作曲せざるを得なかった…というのが正直なところのようです。この曲は1891年に《マズルカ》と共に出版される予定でしたが、手違いで異なる出版社に5ヶ月差で売られてしまいました。

実はドビュッシーはこれらの若書きの作品を評価しておらず、後年《映像》第1集などの傑作を書くようになると、

「この手の作品は全然好きではない」
「やっつけ仕事で書いた大したことのない粗悪品」

と出版社に語っています。それでも、この曲は聴く人々にとっては非常に魅力的であり、今では多くの人に愛されています。

そんなわけで、今日はドビュッシーの《夢》をお聴きいただきたいと思います。ドビュッシー自身の演奏を4Kリマスタリングした音源で、今やドビュッシーのピアノ音楽を代表するものとなっている美しい音楽をご堪能ください。


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あってはならない平和式典と『桃のワッフル』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2025年08月06日 21時00分00秒 | スピリチュアル
今日は広島平和記念式典の日でした。80年前の今日午前8時15分、広島市上空で炸裂したウラン型原子爆弾『リトルボーイ』は、一瞬にして10万余もの非戦闘民を焼き殺したのです。

今日もその時間に『平和の鐘』が打ち鳴らされ、1分間の黙祷が捧げられましたが、その後で『時の首相が居眠りをしでかす』という衝撃的な画像が飛び込んできました。本会議中でも平気で眠りこけている姿が映像にとらえられていますこま。こんな輩が一国の総理大臣であって本当にいいものなのでしょうか。

そんな憤懣やる方ない思いをさせられた中で、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日は何をおいても



今月限定メニューの『桃のワッフル』をオーダーすることにしました。今やすっかりこちらの店の夏の定番メニューとなりましたが、今年も登場してくれました。

お店の看板メニューであるクロワッサン生地のワッフルに、白桃のコンポートとソース、ソルベが添えられています。正に白桃尽くしの、この時期に相応しい一皿です。

天気予報では明日以降少しずつ猛暑が収まっていくとのことでしたが、今のところそんな気配は微塵も感じられません。いい加減収まってくれないとおかしくなりそうですが、さてどうなりますでしょうか。

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日本の音楽教育、かく凋落せり

2025年05月13日 17時00分00秒 | スピリチュアル
今日、中学年の音楽の授業で《エーデルワイス》をとりあげていました。そこで、またしても日本の音楽教育の凋落を見てしまいました。

《エーデルワイス》といえば言わずと知れた『サウンド・オブ・ミュージック』の中の名曲で、世界中で歌い継がれています。日本語の歌詞も当てられていて、音楽の教科書にも掲載されていますが、今日この曲を教えていた女性教師が子どもたちに歌わせる際に

「それでは歌ってみましょう。さんハイ♪」

と声高らかにカウントをとったのです。

《エーデルワイス》の楽譜は



こんな感じで、3/4拍子で書かれています。ですから、せめてカウントをとるなら

「1、2、3♪」

ととるべきなのですが、よりにもよってこの女教師は前年度の高学年担当の教師と全く同じことをやらかしてくれたのです。

こんな体たらくでは、日本の音楽教育は終わりです。こんな教わり方をしている日本の子どもたちの音楽レベルを案ずるに、暗澹たる気持ちにさせられます。

自分の省庁の名前を冠した『文部省唱歌』を教科書から排斥し、自国の歴史や文化を蔑ろにし、母国語も覚束ないのに英語をゴリ押しする…文部科学省は何も考えているのでしょうか。可能であれば文科省の建物の前に文科省官僚と大臣を一纏めにして縛りあげ、火をつけて燃やしてやりたいくらいです。

文化や芸術を蔑ろにする国に、未来はありません。いつかそのことを痛いほど実感させられる未来が来てほしいと、本気で思わずにいられません。

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連休明け小学校勤務と『甘夏みかんワッフル』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2025年05月07日 19時00分00秒 | スピリチュアル
ゴールデンウィークらしからぬゴールデンウィークが明けて、今日からまた日常が戻ってきました。小学校の子どもたちは予想通りボケボケで、学校が始まってしまったことに対する愚痴があちこちでこぼれていました。

そんな中でも支援級の子どもたちが最も嫌だったであろうことが、私との再会のようでした。何しろ、登校してきて私の顔を見た途端

『ウヘア…( ´Д`)』

みたいな顔をしていましたから(笑)。

そんな子どもたちを見て、こちらも少しは気を使う…こともなく、ダラけた彼らを叱り飛ばしていました。とにかく彼らには、さっさと通常モードに入ってもらわなければ困ります。

そんな連休明け初日の小学校勤務を終えてから、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

月が改まってメニューも様変わりしていたので、今回は



今月限定の『甘夏みかんワッフル』をオーダーしました。お店の看板メニューであるクロワッサン生地ワッフルに、自家製の甘夏のシロップ漬けやマーマレード、ピールがあしらわれていて、以前出ていた『デコポンワッフル』とはまた違った柑橘の爽やかさが印象的なメニューです。

初夏モードに入ったこともあって、今月から水出しコーヒーも始まっていました。美味しいコーヒーとワッフルをいただいて、ひと時ホッとすることができました。

明日は、我が家の近所に新しく出来たお店に行ってみようと思います。

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避難訓練と『御感の藤』

2025年04月25日 18時15分25秒 | スピリチュアル
今日、勤務先の小学校で避難訓練がありました。地震とそれに伴う火災を想定してのことですが、支援級では大概大騒ぎになります。

避難訓練ですから唐突に校内放送から緊急地震速報の警報音が鳴るのですが、その音に過剰に反応して騒ぎ出してしまう子が支援級では少なくありません。更に、所定の場所から火災が発生したという設定で校庭に避難する時にも通ってはいけないところなのに

「あっちの階段の方が近い!」

と、頑として自身が行きたい方向へ行ってしまいそうになる子がいるので大変なのです。

毎年のことなのですが、今回もいろいろと大騒ぎになりました。言いたいことは多々あるのですが、とにかく朝の会で口酸っぱく説明した内容をよく聞いていてもらいたいものです…。

そんな支援級勤務を終えて退勤してから、小田原城址公園に寄り道していくことにしました。こちらの南堀では、大正天皇ゆかりの『御感の藤』が見頃を迎えています。

南堀に到着すると、





藤棚いっぱいに広がった枝から藤の花房が下がっていました。ただ、近寄ってみると







なんだか例年より花付きがあまりよくなく、隙間が目立つような気がしました。

それでも



藤の花房が風にそよぐ姿は実に美しく、藤棚の周りには何とも言えぬ良い香りが漂っていました。この花が咲き終えると、本格的な初夏を迎えます。

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今日は今上陛下とヘンデルの誕生日〜華やかに祝う《王宮の花火の音楽》

2025年02月23日 17時20分17秒 | スピリチュアル
今日は



第126代今上陛下の65回目のお誕生日です。先ずは日本人として、僭越ながら拙ブログでも祝意を奉じたいと思います。

そして、今日はヘンデルの誕生日でもあります。



ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685〜1759)は、ドイツ出身の作曲家、オルガニストです。

ヘンデルはイタリアで成功した後にイギリスで長年活躍し、イギリスに帰化した後期バロック音楽の著名な作曲家の一人で、特にイタリア語のオペラ・セリアや英語のオラトリオの作曲で知られています。中でもオラトリオ《メサイア》は現在でも特に人気が高い作品となっています。

ヘンデルの略歴等はここでは割愛させていただきますが、今回はヘンデルの作品の中から《王宮の花火の音楽》をご紹介しようと思います。

《王宮の花火の音楽》は、1748年にオーストリア継承戦争終結のために開かれた『アーヘンの和議』を祝う祝典のための花火大会の音楽として作曲されました。1749年4月21日にロンドンのヴォクソール・ガーデンズで公開リハーサルが行われたのですが、未曾有の1万2000人の観客を集め、ロンドン橋で交通渋滞を引き起こしたと伝わります。

初演では、当時のイギリス国王ジョージ2世の意向により勇壮な響きを出すため管楽器と打楽器のみが使われました。この時は軍楽隊の編成で、

オーボエ 24本
ファゴット 12本
コントラファゴット 1本
ホルン 9本
トランペット 9本
ティンパニ 3対

という、とてつもない大編成でした。

現在発売されている1962年発行のベーレンライター社のスコアでは、

第1オーボエ 12本 (※第1ヴァイオリン)
第2オーボエ 8本 (※第2ヴァイオリン)
第3オーボエ 4本 (※ヴィオラ)
第1ホルン 3本
第2ホルン 3本
第3ホルン 3本
第1トランペット 3本
第2トランペット 3本
第3トランペット 3本
ティンパニ 3セット
第1ファゴット 8本 (※チェロとコントラバスのトゥッティ)
第2ファゴット 4本 (※追加でコントラファゴット1本)

という楽器群が指定されていて、任意でスネアドラムが加わることもあります。ただ、ヘンデル自身は弦楽器を使うことを強く主張していたので、現在では※のついた弦楽器を含む管弦楽版も広く演奏されています。

《王宮の花火の音楽》は

序曲(Ouverture, ニ長調)
ブーレ(Bourée, ニ短調)
平和(La paix, ニ長調)
歓喜(La réjouissance, ニ長調)
メヌエットI(Minuet, ニ短調) 〜 メヌエットII(ニ長調)

の5つの楽曲からなっています。序曲は祝典曲に相応しい華麗な音楽で、その後には軽快な「ブーレ」や、ゆったりした「メヌエット I&II」といった舞曲が配置されていて、変化が楽しめるものとなっています。

因みに序曲の旋律は、1737年に初演されたヘンデル自身のオペラ《ベレニーチェ》の第3幕の前奏曲(シンフォニア)を再利用しています。こうした自作の再使用は当時普通に行われていたことなので、別にこの曲に限ったことではありません。

そんなわけで、今上陛下のお誕生日でもありヘンデルの誕生日でもある今日は、ヘンデルの《王宮の花火の音楽》をお聴きいただきたいと思います。エルヴェ・ニケ率いるル・コンセール・スピリチュエルの2012年のプロムスでの演奏で、指定数の管楽器群がズラリと居並ぶ壮観なアンサンブルをお楽しみください。


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今日はシベリウスの誕生日〜10歳で書いた処女作《水滴》

2024年12月08日 17時30分00秒 | スピリチュアル
今日も神奈川県は、安定した晴天に恵まれました。そんな中で、私は今日もデスクワークに勤しんでおりました。

ところで、今日12月8日はシベリウスの誕生日です。



ジャン・シベリウス(1865〜1957)は、後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランド出身の作曲家でありヴァイオリニストです。フィンランドの最も偉大な作曲家であると広く認められていて、フィンランドが帝政ロシアからの独立を勝ち得ようと抗う最中、音楽を通じて国民意識の形成に寄与したと看做されることも多い作曲家です。

ジャン・シベリウスは1865年12月8日にヘルシンキの北方約100kmのハメーンリンナに、医師であった父クリスチャンの元に生まれました。父クリスチャンはシベリウスが2歳の時に他界してしまいましたが、姉リンダ、弟クリスチャンはそれぞれピアノ、チェロの演奏をしていました。

1885年、ヘルシンキ音楽院で作曲などを学び始めたシベリウスは、1889年にベルリンに留学し、その留学中にリヒャルト・シュトラウスの交響詩《ドン・ファン》の初演、ハンス・フォン・ビューローの演奏などに直接触れることとなりました。さらにウィーン音楽院において、ハンガリー出身のユダヤ人作曲家カール・ゴルトマルク(1830〜1915)に師事しました。

1891年にはシベリウス初の交響曲となる《クレルヴォ交響曲》作品7を手がけ、翌年春に初演されました。これは管弦楽に独唱・男声合唱の加わる大規模な曲で、初演は好評をもって受け入れられましたがその後は抜粋で3度演奏されるにとどまり、作曲者の生前に全曲が演奏されることはありませんでした。

1892年にアイノ・ヤルネフェルトと結婚して6女をもうけましたが、1人は2歳で他界してしまいました。1899年に『愛国記念劇』の音楽を発表しましたが、この曲の7曲目が改作されて交響詩《フィンランディア》作品26として独立し、現在でも人気を博しています。

そんなシベリウスの誕生日である今日は、ヴァイオリンとチェロのための《水滴》という作品をご紹介しようと思います。

この作品は1875年、シベリウスが10歳の時に書いた最初の作品で、ヴァイオリンとチェロのデュオによるたった24小節の小品です。シベリウス自身と弟がそれぞれの弦楽器を一緒に練習するためのものだったようで、ヴァイオリンのピッチカートが描く水滴がひとつ、ふたつと落ちていく描写は実に微笑ましく、それを受け止めるようなチェロのピッチカートも秀逸です。

この可憐な小品からシベリウスのキャリアが始まり、やがてフィンランドに国家の独立をめざす気運が高まり行く中で、フィンランドの民族叙事詩にもとづく劇音楽や帝政ロシアをおののかせた《フィンランディア》などの交響詩、さらには音の世界を突きつめた抽象画のような7つの交響曲が誕生することとなっていってわけです。演奏時間45秒ほどの作品ですが、この曲には後の大作たちにつながる豊饒な可能性が秘められている…と言うことができるでしょう。

そんなわけで、今日はシベリウスの《水滴》をお聴きいただきたいと思います。本当にあっという間に終わってしまうので、集中してお聴きください(汗)。


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もはや高値(?)の花…

2024年10月13日 18時55分18秒 | スピリチュアル
今日はカラッと暑い陽気となりました。正に運動会日和なのですが、これが今月末にも来てくれることを願わずにはいられません…。

今日もデスクワークに勤しんでいたのですが、気分転換に買い物に出かけることにしました。人間、長時間同じ姿勢で居続けていると本当によくありません。

あれこれと買い物をしていたら、青果コーナーに



早生の青ミカンが売られていました。そう言えば10月も半ばを迎えようとしている時期ですから、早生ミカンが出ていてもおかしくはありません。

しかし…高い!袋にギッシリ入っているとはいえかなり小粒の青ミカンでしたが、それが一袋で600円はさすがに高過ぎます。

実家にいた頃はミカンは箱買いしていたものでしたが、今では気軽に食べられない果物になってしまっています。何だかやるせない気持ちのまま、粛々と買い物を済ませて帰宅したのでありました…。

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今日はヴィヴァルディとバッハの祥月命日〜《調和の霊感》第8番と《オルガン協奏曲イ短調BWV593》

2024年07月28日 19時00分30秒 | スピリチュアル
昨日に引き続き、今日も暑くなりました。今日は昨晩の雨が蒸発したことによって空気中の湿度が上昇し、かなり不快な暑さとなったのでした。

ところで、今日は






ヴィヴァルディとバッハという、バロックの巨匠たちの祥月命日です。ヴィヴァルディは1741年、バッハは1750年の今日他界しています。二人の晩年については一年前にかなり詳細な記事を挙げているので気になる方はそちらを御覧いただくことにして、今日はヴィヴァルディとバッハの時を超えた掛け合いにスポットをあててみようと思います。

バッハのオルガン曲の中で《オルガン協奏曲》というジャンルがあります。しかし協奏曲といっても、例えばヘンデルのオルガン協奏曲のような合奏曲ではなく、オルガン単体の独奏曲です。

バッハはヴァイマル宮廷時代に当時の先端流行であったイタリア音楽を吸収すべく、ヴィヴァルディやマルチェッロなどの作品を盛んにチェンバロやオルガンの協奏曲に編曲しました。チェンバロ協奏曲は弦楽や通奏低音を従えたコンチェルティーノの形をとっていますが、《6つのオルガン協奏曲》は全てオルガン独奏となっています。

この6曲中3曲がヴィヴァルディのコンチェルトからの転用なのですが、中でも秀逸なのは《調和の霊感》作品3の中の第8番《2台のヴァイオリンのための協奏曲イ短調》を編曲した《オルガン協奏曲イ短調BWV593》です。

この作品は私もかつて生徒たちに発表会で弾かせたことがあるのですが、限られた音域のみを使っていながら、そんなことを感じさせない実にのびのびとした音楽であることに驚かされます。先ずは、そんなヴィヴァルディの原曲をお楽しみください。



そして、後にこの協奏曲をバッハがオルガン独奏用に編曲したのが《オルガン協奏曲イ短調BWV593》です。恐らくバッハもこの協奏曲のシンプルなカッコよさに惹かれて、自分一人でも演奏できるようにしたのでしょう。

ただ、そこはバッハですから、ただ単にヴィヴァルディの楽譜をオルガン用にしただけではなく、そこに自分なりの工夫を凝らしています。特に第3楽章では、原曲にはない下降音型を、なんとペダルで演奏するというブッ飛び技を披露しています(笑)。

そんなわけで、今度はバッハの《オルガン協奏曲イ短調BWV593》をお聴きいただきたいと思います。先程のヴィヴァルディの原曲と聴き比べながら、所々にバッハなりの工夫が凝らされた秀逸なオルガン独奏曲をご堪能ください。



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酷暑のプール清掃からの『マンゴーワッフル』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年05月29日 18時45分25秒 | スピリチュアル
昨日の暴風雨から一夜明けて、今日は午後から日が差してきました。そんな中、今日は小学校のプール清掃がありました。

5年生の子たちが携わったのですが、一年近く放置していたプールの汚れっぷりはなかなかのものでした。土埃だけでなく、近くの木から散り落ちた枯れ葉や、プールのすぐ脇にある棚から落ちたヘチマの実なども堆積してヘドロ化しており、かなりカオスだったのです。

子どもたちは主にプールの中を、大人たちはプール周辺のタタキの清掃や、柵を越えて侵食してきた周辺の木の枝打ちをしました。照りつける日差しの中で力を合わせて作業した結果、かなりいいところまで綺麗にすることができました。

私も作業に参加したのですが、日陰の全くないプールサイドで掃除をしていたら、すっかり日焼けしてしまいました。今まで日焼けは全く気にしてこなかったのですが、そろそろ日焼け止めのお世話になった方がいいのかも知れません。

そんな小学校勤務を終えて子どもたちを下校させてから、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日は



明後日で終わってしまう今月限定メニューの『マンゴーワッフル』をオーダーしました。お店の看板メニューであるクロワッサン生地のワッフルと濃厚なマンゴーの風味が絶妙にマッチしていて、美味しいコーヒーと共にいただくと幸せな気持ちになれます。

明日は学校勤務がない日なので、自宅でゆっくりと過ごそうと思います。

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一時の迷いでフラペチーノ…

2024年05月14日 17時50分25秒 | スピリチュアル
昨日の大嵐が嘘のように、今日は気持ちよく晴れ渡った空が広がりました。そんな陽気に誘われたのか、今日は支援級の子たちも割と機嫌がよかったように思われました。

何しろ、普段なら不貞腐れて机に突っ伏して抵抗するような子が、今日は理科の時間に挙手して発表までしたのです。これは嬉しい驚きで、私もその成果を支援級の担任に伝えると喜んでいました。

子どもたちを下校させた後で小田原駅まで向かっていたのですが、その頃にはだいぶ疲れていました。いろいろな意味で奔放な彼らのサポートは、結構大変なのです。

なので、



普段ならまず寄らないSTARBUCKSに寄っていくことにしました。お目当ては



看板にもある『ストロベリーフラペチーノ』です。

濃厚なイチゴソースの甘さが、今日の疲れた心身に沁み渡りました。ただ、やはり強烈な甘さなので、そんなしょっちゅう飲みたいものではありません(笑)。

STARBUCKSの店内には、その店独自の黒板アートが飾られていることがあります。小田原店の店頭には、



どこかで見たような波濤の向こうに小田原城天守閣が描かれていました。

明日は6時間授業の日です。今日はどうにか乗り切ってくれた子どもたちですが、さて明日はどうなりますやら…。

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今日はヨハン・セバスティアン・バッハの誕生日〜ゲーベル指揮による《管弦楽組曲第3番ニ長調BWV1068》

2024年03月31日 16時50分35秒 | スピリチュアル
昨日から更に気温が上昇し、今日は遂に今年初の夏日を迎えました。この暖かさ…いや暑さで、ソメイヨシノの開花もかなり促進されることでしょう。

ところで、今日3月31日はバッハの誕生日です。



ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685〜1750)の誕生日は3月21日と書かれていることがありますが、それはローマ帝国時代から使われていたユリウス暦上でのことで、1526年に公布されて以降広く使われているグレゴリオ暦上では3月31日となります。

バッハの来歴については、ここであれこれ述べるまでもないことかと思いますので、今日は数あるバッハの作品の中から《管弦楽組曲第3番ニ長調BWV1068》をご紹介しようと思います。

バッハの《管弦楽組曲》は《ブランデンブルク協奏曲》と並ぶその代表的管弦楽作品の一つで、第1番BWV1066から第4番BWV1069までの独立した4組曲から成っています。それぞれバリエーション豊かな4作品は当時の様々な舞曲や宮廷音楽の集大成であり、またフランス風序曲形式の一つの完成体を見ることができるものとなっています。

成立年代はそれぞれ、バッハが世俗器楽曲を多数作曲したケーテン時代(1717年〜1723年)、またはそれ以前のヴァイマール時代(1708年〜1717年)と考えられています。ただ、トランペットやティンパニを含んでいる第3・第4組曲などの編成を見ると、当時のケーテン宮廷の小規模な楽団には不釣り合いと思われるので、ケーテン時代の後のライプツィヒ時代(1723年以降)にコレギウム・ムジクムでの演奏のために大幅に加筆された可能性が高いと考えられています。

因みに第4組曲の序曲は、バッハ自身の手によってヴィヴァーチェ部分に合唱を加えて《カンタータ110番『笑いは我らの口に満ち』》の冒頭合唱曲に転用されています。また、かつて『第5番』とされていた《管弦楽組曲ト短調BWV1070》は、現在では長男ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの作ではないかとの見方が有力視されています。

《管弦楽組曲第3番ニ長調BWV1068》は、4つの組曲の中でも第2番と並んで有名な作品です。中でも第2曲の『アリア』は『G線上のアリア』として単独で有目ですし、第3曲の『ガヴォット』はヴァイオリン教則本に必ず登場する曲として知られています。

『G線上のアリア』というタイトルは第2曲『エール (Air)』を、ドイツのヴァイオリニストであるアウグスト・ウィルヘルミ(1845〜1908)がピアノ伴奏付きのヴァイオリン独奏のために編曲したものの通称です。その名の通りヴァイオリンの最低音のG線だけを使って演奏するというものですが、よくぞこうやって演奏できることに気づいたものだと思います。

そんなわけで、今日はバッハの《管弦楽組曲第3番ニ長調BWV1068》をお聴きいただきたいと思います。ラインハルト・ゲーベル指揮、ブダペスト祝祭管弦楽団の演奏でお楽しみください。


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久々お出まし!龍神様

2023年11月02日 17時20分20秒 | スピリチュアル
今日は、勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室の日でした。11月だというのに、時ならぬ暑さとなった小田原駅に降り立って東口から外に出ると、目の前の空に



龍神様が浮かんでいました。

あまりにもハッキリと空に浮かんでいらしたので、急いで写真を撮りました。ただ、肉眼ではもっとハッキリと視えているのですが、いざスマホを構えて撮影してみると、何枚撮ってもなかなか上手く写らなかったのです。

その中でもとりあえずどうにか見られるかな…と思えたのは、上の写真と



ちょっとだけズームアップしたこの2枚だけでした。右側に向かって口を開けておられる姿がお分かりいただけますでしょうか。

今までにも何度か龍神様がお出ましになったことがありましたが、毎回そう安々とは写真に収まってはいただけません。だからこその龍神様なのでしょうが、とりあえず自身の眼に焼きついた御姿を記憶に留めておこうと思います。

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