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共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はモーツァルト《ケーゲルシュタット・トリオ》が完成した日〜クラリネット、ヴィオラ、ピアノによる渋いアンサンブル

2025年08月05日 15時55分00秒 | 音楽
今日も日中は猛暑日となり、厳しい暑さに見舞われました。天気予報で『危険な暑さ』と連呼していますが、たしかにこれは危険性を感じます…。

ところで、今日8月5日はモーツァルトの《クラリネット、ヴィオラ、ピアノのためのトリオ》が作曲された日です。

《クラリネット、ヴィオラ、ピアノのためのトリオ K.498》は



ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した室内楽作品で、俗に《ケーゲルシュタット・トリオ》の愛称で親しまれています。愛称の由来は、モーツァルトが



ボウリングの原型とされる「ケーゲルン(Kegeln)」(日本語では九柱戯とも訳される)に興じながら作曲した…という言い伝えによるものです。

因みにボウリングというスポーツの起源は古く、紀元前5000年頃の古代エジプトの遺跡で、木でできたボールとピンが発見されているそうです。元々は倒すピンを災いや悪霊に見立て、それをたくさん倒せば災いから逃れることができる…という宗教儀式だったようです。

他にもボウリングのようなゲームは世界中のあちこちで発見されていますが、ヨーロッパでは中世ドイツで宗教革命家マルティン・ルター(1483〜1546)が



9本のピンをひし形に並べて倒し、ルールも定めたことから、『ナインピンズ・ボウリング=九柱戯』として広まっていきました。17世紀になるとアメリカにまで渡っていきましたが、賭け事と結びついて人気になりすぎたため、1840年代には禁止されてしまいました。

そこでナインピンを禁じる法律を回避するために、



一本ピンを追加して、三角形に並べた10本のピン=テンピン・ボウリングが発明されます。これが今の形のボウリングの始まりだそうで、1950年代に全自動ピンスポッター(ピンを自動で並べる機械)が発明されてからは、世界中に急速に普及していきました。

話をモーツァルトに戻すと、《ケーゲルシュタット・トリオ》は1786年8月5日にウィーンで作曲されました。クラリネット、ヴィオラ、ピアノというこの一風変わった編成は、友人のクラリネット奏者アントン・シュタードラー(1753〜1812)ら仲間うちで演奏するために作曲されたからだと言われています。

モーツァルトはシュタードラーというクラリネットの名手が友人にいたこともあって当時発明されて間もないこの楽器に興味を持ち、《クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581》や《クラリネット協奏曲 イ長調 K.622》、また歌劇《皇帝ティトゥスの慈悲》K.621のセストのアリアでのクラリネット・ソロなど幾つかのクラリネットの曲を残しました。この《ケーゲルシュタット・トリオ》は、クラリネットを独立して扱ったおそらく最初の作品であろうといわれています。

また、クラリネット音楽としての重要性に隠れがちであるが、実はヴィオラパートも魅力的です。初演時にはモーツァルト自身がヴィオラを担当したと伝えられていますが、奏法的にも、一つの独立した声部としての取り扱い方からいっても、ヴィオラという楽器の能力を十分に発揮させた作品ということもできます。

そんなわけで、今日はモーツァルトの《ケーゲルシュタット・トリオ K.498》をお聴きいただきたいと思います。中音域の楽器が奏でる、モーツァルト円熟期の室内楽をお楽しみください。


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猛暑日に聴くグラスハーモニカの清音〜モーツァルトによるグラスハーモニカのための作品2点

2025年08月04日 18時18分18秒 | 音楽
ここ数日、神奈川県では猛暑日が連続しています。昼間は35〜36℃にまで気温が上昇し、日没後も気温が下がらずに不快な熱帯夜が続いてしまっています。

とにかく暑過ぎるので、いきおい自宅に引きこもっていることが多くなっています。そんな中で、今日は



主にモーツァルトを聴いていましたが、涼し気な音色を求めてグラスハーモニカの作品を聴くことにしました。

グラスハーモニカ、正式名称アルモニカ(armonica)は、ベンジャミン・フランクリン(1706〜1790)が1761年に発明した複式擦奏容器式体鳴楽器です。

グラスハーモニカは、ガラスの器を音階に並べて指で擦って演奏する楽器です。よくイメージされるのは、



こうやって大小様々な大きさのワイングラスを並べて中に水を入れてチューニングしたものを上から指で擦るものかと思います。実際18世紀の書物にも

「泉の水で調律されたグラスを用いた楽器」

という記載がありますが、これは今日では『グラスハープ』と呼ばれているものです。

ここからより完成度をあげたのが



アメリカの政治家であり、凧を用いて雷が電気であることを実証したことでも知られるベンジャミン・フランクリンでした。現在、米100ドル札の肖像画にもなっている人物です。

フランクリンは1761年にグラスを並べたグラスハープを工夫して、



お椀状にした直径の異なる複数のガラスを大きさ順に十二平均律の半音階に並べ、それを横一列にしたものを金属製の回転棒に突き刺して水を張った箱に固定しました。そしてペダルを踏んでガラスを回転させながら水で濡らした指先をガラスの縁に触れて摩擦を起こすことによって、グラスハープと同様に共鳴するガラスからの音で音楽を奏することができるようにしました。

ワイングラスを横に並べて指で縁を摩擦させるグラスハープでは一度に鳴らせる音数が限られていました。また指先もグラスも濡れた状態でないと音が鳴らないため、演奏中に指先が乾く度に急いで手を水に浸けて濡らさなければならないという手間もありました。

しかしフランクリンは指ではなく横一列に並べたガラス器の方を回転させるという逆転の発想で、一度に多数の音を奏することを容易にしました。更に収納箱の中に水を溜めておいて、ガラスの下半分を浸したかたちで回転させて常にガラスが濡れている状態を保つことを可能にしたことによって、いちいち指先を濡らさなくてもスムーズに演奏することが可能となりました。

グラスハーモニカはヨーロッパ中で大人気となり、例えばヴァイオリンの鬼才ニコロ・パガニーニ(1782〜1840)は

「何たる天上的な声色」

と言い、第3代アメリカ合衆国大統領で『アメリカ建国の父』と呼ばれるトーマス・ジェファーソン(1743〜1826)は

「今世紀の音楽界に現れた最も素晴らしい贈り物」

と主張しました。他にも詩人のゲーテやモーツァルト、ベートーヴェンなどの作曲家もこの楽器を絶賛した記録が残っていて、かのフランス王妃マリー・アントワネットもグラスハーモニカを習って奏していたという記録が残されています。

開発者であるベンジャミン・フランクリン自身もグラスハーモニカの音色を

「何ものに比べがたい甘美な音」

と表現したと伝えられています。また彼は、

「もしハープが『天使の楽器』であるなら、グラスハーモニカは『天使の声』である」

と形容したとも言われています。開発者ならではの、なかなかの自画自賛ぶりです(笑)。

熱狂的に流行したグラスハーモニカですが、その発音原理故に常に指先に微振動が加わり続けてしまうことから神経障害を引き起こす事例も報告され、遂には演奏禁止令まで出されてしまいました。その復権は20世紀を待たなければなりませんでしたが、現在では専門の奏者も何人か存在しています。

そんなわけで、今日はモーツァルトがグラスハーモニカのために書いたオリジナル作品をお聴きいただきたいと思います。先ずは独奏曲《グラスハーモニカのためのアダージョ ハ長調 K.356/K.617a》をお楽しみください。



続いて、《グラスハーモニカ、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロのためのアダージョとロンド ハ短調 K.617》をお聴きいただきたいと思います。



いかがでしょうか、少しでも涼しさを感じていただけましたら幸いです。

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今日はロッシーニの歌劇《ウィリアム・テル》初演の日〜誰もが知っている序曲

2025年08月03日 15時55分51秒 | 音楽
今日も『あつぎ鮎まつり』なのですが、昨日の花火大会と比べると市内の盛り上がりはイマイチでした。本来なら二日目の方が本祭のはずなのですが、今やすっかり花火大会の後夜祭のような立ち位置に甘んじてしまっている感が否めません。

ところで、今日8月3日はロッシーニの歌劇《ウィリアム・テル》がパリで初演された日です。歌劇《ウィリアム・テル》は



ジョアキーノ・ロッシーニ(1792〜1868)作曲の4幕構成のグランドオペラです。

台本は、フリードリヒ・フォン・シラーによる戯曲『ヴィルヘルム・テル』を原作としています。台本がフランス語で書かれているため本来ならば『ギヨーム・テル(Guillaume Tell)』と表記されるべですが、こと日本では逸話が先行しているためか『ウィリアム・テル』と表記することが多くなっています。

『ギヨーム・テル』はパリ・オペラ座との契約によるグランド・オペラで、

(1)5幕(または4幕)仕立て
(2)劇的な題材、
(3)歴史的な興味を惹きつけるもの
(4)大合唱やバレエなどの多彩なスペクタクル要素
(5)異国情緒を備えていること

が基本条件となっていました。パリでの上演後には、

「スイスの気候と風土、村人たちの結婚式の模様など、地方色をさらに強調したグランド・オペラと見なされた」

「《ギヨーム・テル》は自由を希求する民衆の闘いを壮大なスケールで描き、ロッシーニの創作の集大成であると共にロマン主義的グランド・オペラの幕開けを告げる記念碑的作品となった」

「本作の音楽に表された情景は充分にロマンティックであり、本質的には古典派であったイタリア人のロッシーニが、皮肉にもフランスのグランド・オペラの典型を示した作品となった」

と評されました。

この作品をフランス・オペラに適合させるため、いつもは速筆のロッシーニが5ヵ月もかかって作曲しました。本作の後に1836年のマイアベーアの《ユグノー教徒》や1840年のドニゼッティの《ラ・ファヴォリート》といった大作が続々と生み出され、グランド・オペラの黄金時代が築かれていくことになったのでした。

このオペラを作曲したのを最後に、ロッシーニは30年以上にわたる引退生活に入った。ロッシーニは37歳という若さでオペラ作曲家を引退した後には美食家として知られるようになり、サロンを開いて招待客に食事と音楽を楽しませる生活を送りました。

引退後は作曲活動も続けていましたが、主にサロンで演奏される小品が中心でした。また、美食を追求して料理にも情熱を注ぎましたが、現在でも一部の高級レストランでは



フォアグラとトリュフを贅沢に使った『牛フィレ肉のロッシーニ風』という、ロッシーニの名前を冠したメニューを楽しむことができます。

ウィリアム・テルの逸話は日本でも有名なので、ここで改めて書く必要もないと思います。ロッシーニの《ウィリアム・テル》もこの逸話とほぼ違いなく展開していき、勿論



息子の頭上のリンゴを矢で射落とす場面も登場します。

ただ、全4幕通すと5時間近くかかってしまうオペラなので、今回は超有名な序曲をご紹介しようと思います。

歌劇《ウィリアム・テル》序曲は中学校音楽の授業の鑑賞教材にもなっていますから、日本で義務教育を受けた方なら必ず耳にしている音楽です。特に序曲終結部の『スイス軍の行進』の音楽はテレビで使われたり運動会で流れたりしていますから、改めて説明するまでもないでしょう。

そんなわけで、今日はロッシーニの歌劇《ウィリアム・テル》から序曲をお聴きいただきたいと思います。クリストフ・エッシェンバッハ指揮、フランクフルト放送交響楽団の演奏で、ロッシーニ最後のオペラの華やかな幕開けの音楽をお楽しみください。


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花火大会には行かずに『花火』を〜ストラヴィンスキー《花火》

2025年08月02日 19時00分00秒 | 音楽
今日は、厚木市で開催される『あつぎ鮎まつり』の花火大会の日です。毎年8月の第1土曜日に開催されるこの花火大会には、厚木市内外から多くの人々が詰めかけます。

私も例年は花火大会の会場まで足を運んで花火を見上げていたのですが、今年は行かないことにしました。その理由としては、2つ挙げられます。

先ず、昨日の過ごしやすさから一転して今日はとにかく暑く、長時間外にいるなど正気の沙汰ではなかったのです。そこへもってきて、人とすれ違うこともままならない会場にいることなど、到底できることではありません。

それに、年々花火の規模が寂しくなってきていることもあります。鮎まつりの花火大会は市内を流れる相模川の河原で行われるのですが、打ち上げ場所のすぐ横に圏央道の高架ができてからは有料道路に花火の燃えカスが落ちるのを懸念してか、かつての派手さがなくなってきてしまったように思えるのです。

そんな理由で今年は会場には足を運ばず大人しくしていることにしたのですが、ただドンパチドンパチやっている音だけ聴いていても芸がないので、花火に因んだ音楽を聴いてみることにしました。よくある候補としてはヘンデルの《王宮の花火の音楽》が挙がりますが、今回は趣向を変えてストラヴィンスキーの《花火》という作品をご紹介しようと思います。

《花火(Feu d'artifice)作品4》は、



イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(1882〜1971)の初期の管弦楽曲です。スケルツォ形式によるオーケストラのための幻想曲ですが、演奏に5分とかからない文字通りの小品です。

この作品はストラヴィンスキーが作曲家として名を揚げる上で役立ちましたが、成熟期の代表作として認められてはいません。その後の作風に比べると大部分において非常に調的ではあるものの、要所要所に複調的な響きも仄めかされています。

ストラヴィンスキーの自伝によると、《花火》は1908年に


リムスキー=コルサコフ(右)とストラヴィンスキー
(1908年)

恩師であるニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844〜1908)の娘のナジェージダと、同門の作曲家マクシミリアン・シテインベルクとの結婚を記念して作曲されました。ただ、リムスキー=コルサコフはその年の6月に亡くなってしまったために、残念ながら演奏を聴くことは出来ませんでした。

ストラヴィンスキーは師の追憶のために《葬儀の歌》を作曲しましたが、それ以前に《花火》は一応の完成を見ていたようで、シテインベルク夫妻は7月11日に曲の感想を書いています。その後も改良を続け、実際に曲が完成したのは1909年の5月から6月と考えられています。

《花火》はオーケストレーションの技巧や色彩感において、後のストラヴィンスキーの作品、特にバレエ《火の鳥》に影響を与えたと考えられています。スタイルとしてはスケルツォ形式で書かれていて曲全体は急速に展開し、クライマックスを迎えた後に花火が炸裂するように華やかに終わります。

演奏時間が短いわりに大編成のオーケストラを必要とするため、演奏される機会は多くありません。それでも、その音楽的な価値は文句無しで高く評価されています。

そんなわけで、今日はストラヴィンスキー作曲の《花火》をお聴きいただきたいと思います。パーヴォ・ヤルヴィ指揮、フランクフルト放送交響楽団の演奏で、若きストラヴィンスキーの意欲作をお楽しみください。


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心静かにフランクを〜《プレリュード、フーガと変奏曲 ロ短調 作品18》をピアノとオルガンとで

2025年08月01日 16時50分50秒 | 音楽
今日は午前中は比較的過ごしやすい気温でしたが、昼過ぎにかけて気温が上昇してきました。台風9号が関東地方に接近していることもあって、今後も油断ならない状況が続いています。

今日はそんな暑さを紛らわすため、一日自宅に籠もってあれこれとしていました。そんな中でもいろいろと音楽を聴いていたのですが、そんな中から今回はフランクの《プレリュード、フーガと変奏曲》をご紹介したいと思います。

《プレリュード、フーガと変奏曲 ロ短調 作品18》は、



フランスの作曲家セザール・フランク(1822〜1890)が1860年から1862年にかけて作曲した『大オルガンのための6曲集』の第3曲にあたる曲です。この曲を含む『大オルガンのための6曲集』は、フランクが初めてその才覚を現した作品として重要視されています。

1851年から1853年にかけて完成させた喜歌劇『頑固な召使い』が完全な失敗に終わってしまったフランクは、極度のスランプ状態に陥っていました。元来内向的な性格のフランクにとってオペラは一番不向きなジャンルでしたから、無理もないことではありました。

オペラの失敗から数年間にわたって折ったままとなっていた作曲の筆を再び執ったのは、1858年頃になってからのことでした。この時期にフランクの励みとなったのはサント・クロチルド聖堂のオルガンの音色でした。

聖堂には



アリスティド・カヴァイエ=コル(1811〜1899)の手によってに最新鋭のパイプオルガンが設置されたばかりで、フランクは1860年に念願叶ってこの聖堂のオルガニストに任用されました。聖堂のオルガンの発する豊かな音色に創作意欲を掻き立てられたフランクは、このオルガンを念頭に置いて『6曲集』を書き上げ、それがフランク円熟期の幕を開けたのでした。

初版は『6曲集』の《幻想曲》作品16や《交響的大曲》作品17などと同様に、パリのマイアン・クヴルール社から出版され、その後デュラン社からも刊行されました。曲は



親交のあったカミーユ・サン=サーンス(1835〜1921)へと献呈されました。

静かな部屋で静かなフランクを聴いていると、心がものすごく落ち着きます。こういう夏休みの時間の使い方というのも、また楽しいものです。

そんなわけで、今日はセザール・フランクの《プレリュード、フーガと変奏曲》をお聴きいただきたいと思います。先ずは、今日私が聴いていたピアノ編曲版をお楽しみください。



次に、オリジナルのオルガン版も載せてみました。ピアノ編曲版とは違った、重厚な音楽をご堪能ください。


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今日はリストの祥月命日〜隠れた名曲《レクイエム》

2025年07月31日 12時34分58秒 | 音楽
今日も晴れて暑くなりましたが、台風9号がじわりじわりと関東地方に接近しているためか、雲の多めの空となりました。 明日には久しぶりの降水が予想されていますが、どの程度降るのかはまだ未知数です。

ところで、今日7月31日はリストの祥月命日です。



ドイツ語ではフランツ・リスト、ハンガリー語ではリスト・フェレンツ(1811〜 1886)はハンガリー王国出身で、現在のドイツやオーストリアなどヨーロッパ各地で活動したピアニスト、作曲家です。



華やかな社交界で活躍し、《ラ・カンパネラ》のような華麗なピアノ作品や《レ・プレリュード》のような壮大な管弦楽作品を世に送り出したリストでしたが、



その晩年には指揮者や教育者としても活躍しました。更に1861年にリストがヴァイマールからローマに移住した後、1865年には典礼を司る資格のない下級聖職位ながら僧籍に入り、それ以降キリスト教に題材を求めた作品が増えてきました。

リストは晩年、虚血性心疾患・慢性気管支炎・鬱病・白内障に苦しめられていました。また、弟子のフェリックス・ワインガルトナーはリストを

「確実にアルコール依存症」

と証言していますが、晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在しています。

1986年にリストの生誕75年が各地で祝われる中リストは自ら演奏旅行に赴き、イギリス・ベルギー・フランスを訪れました。帰途バイロイトに寄って実娘コージマのもとを訪れ、既に悪化していた健康状態を押してヴァーグナーの歌劇《トリスタンとイゾルデ》のバイロイト初演に出席しましたが終演後に肺炎で寝込み、6日後の1886年7月31日の夜に亡くなりました(享年74)。

そんなリストの祥月命日である今日は、珍しいリストの《レクイエム》をご紹介しようと思います。

リストが僧籍に入って間もない1868年に初演されたこのレクイエム、編成はテノールソロ✕2、バリトンソロ✕2、男声コーラス、オルガン、トランペット✕2、トロンボーン✕2、ティンパニという小編成な作品です。同時期のフォーレの《レクイエム》よりもなお編成が小さく、演奏時間も50分前後とレクイエムとしてはそれほど長くはありません。

ロマン派後期の作品としては編成が小さくて音量もさほど大きくなく、所によってはグレゴリオ聖歌を髣髴させるような静謐な響きをもつこの曲は、恐らく教会内で演奏されることを目的に作曲されたものと思われます。それでも、所々にオルガンの強奏部があったり、『妙なるラッパ』でトランペットやトロンボーン、ティンパニが加わってかなりドラマチックに作られていたりするので、もしかしたら教会でもコンサートでも演奏できるように企画した作品なのかも知れません。

リストの《レクイエム》は

1.入祭唱(レクイエム・エテルナム)
2.怒りの日(ディエス・イレ)
3.ドミネ・イエズ(オッフェルトリウム)
4.サンクトゥス
5.神の小羊(アニュス・デイ)
6.リベラ・メ

の6曲からなっています。通常のレクイエムの典礼文をかなり省いていたこの頃のレクイエム以上に、リストの作品は簡素化されています。

これを見るベルリオーズやヴェルディ、ドヴォルザークといった19世紀のほかの作曲家と同じように、リストのレクイエムも順序を入れ替えたり省略したりしていることが分かります。しかし、いかに省略したかたちとは言いながら、入祭唱の後に神に憐れみを希う『キリエ』がないことには些か驚かされます。

19世紀以降のレクイエムは、ヴェルディやドヴォルザークに顕著なようにセクエンツィア『怒りの日』の比重が大きくなる傾向が強くなります。リストのレクイエムもドラマチックには仕上げられている部分はありますが小編成なため、たとえば一連の交響詩で見せるような華々しいリストの音楽ではありません。

編成が特殊だったり、独唱や合唱に女声がなかったりという理由から、取り上げられることの少ない宗教作品です。それでも、晩年に僧籍に入るまでになったリストの晩年の境地を体感するのに相応しい作品でもあります。

そんなわけで、今日はリストの《レクイエム》をお聴きいただきたいと思います。ド派手なピアノ作品や交響詩とは一線を画する、晩年のリストならではの宗教作品をお楽しみください。


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今日はシューマンの祥月命日〜推敲の末にたどり着いた傑作《交響曲第4番ニ短調 作品120》

2025年07月29日 15時25分35秒 | 音楽
今日も神奈川県は、抜けるような青空に恵まれました。そうなると気温もうなぎ登りになり、当たり前のように猛暑日となってしまいました…。

ところで、今日7月29日はシューマンの祥月命日です。



ロベルト・アレクサンダー・シューマン(1810〜1856)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家です。

シューマンはライプツィヒ大学やハイデルベルク大学で法科を学び始めましたが、大学は中退してピアニストをめざして、18歳の時からフリードリヒ・ヴィーク(1785〜1873)にピアノを習うことになりました。しかし22歳の時には無理な練習のために右手の指が麻痺してピアニストを断念し、作曲家として活動するようになりました。

ヴィークの娘クララ・ヴィーク(1819〜1896)はまだ10代であった当時から天才ピアニストとして演奏活動もしていましたが、シューマンとクララは1835年頃には相思相愛の関係になりました。1839年に、シューマンがその楽譜を発見したシューベルトの《交響曲第8番ハ長調『ザ・グレート』》が初演され、その初演を聴いたシューマンは当時クララに手紙で

「君が僕の妻になり、僕がこのような交響曲を書けたら」

と書いています。

しかし結婚については父フリードリヒ・ヴィークが猛反対して二人の交際を禁じてしまったため、シューマンとクララがヴィークを相手どって裁判までおこして1840年にようやく結婚することができました。シューマンのそれまでの作曲の中心は、ほとんどがピアノ曲でしたが、正式にクララと結婚してからは《詩人の恋》《女の愛と生涯》などの傑作歌曲集が次から次へと作曲されたため、1840年はシューマンの「歌の年」として有名です。

安定した家庭を獲得したシューマンにとって、自らの歴史的・社会的な責任の自覚、とりわけドイツ音楽で最も敬愛する作曲家ベートーヴェンやシューベルトへの意識や、当時メンデルスゾーンが指揮者を務めていたライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の存在などによって、管弦楽曲の作曲に重点を移しました。1841年は管弦楽作品を次々と作曲し「交響曲の年」と呼ばれています。

1852年ころからは、抑うつ症状、めまい、聴覚異常など、様々な精神・神経症状に悩まされるようになり、シューマンは沈黙、内閉への傾向を強めていきます。1854年2月には激しい幻覚妄想状態の中でライン川に投身自殺を試みてその後2年間は精神病院で過ごし、1856年7月27日に全身衰弱で死去しました。

そんなシューマンの祥月命日である今日は《交響曲第4番ニ短調 作品120》をご紹介しようと思います。

シューマンは「交響曲の年」である1841年に2曲の交響曲を作曲しましたが、2番目の交響曲として作曲されたのが、のちに第4番となったニ短調の作品でした。しかし、この交響曲の完成度に疑問のあったシューマンは1851年に改訂して1853年に出版したため、実際には2番であるこの交響曲は出版年の順によって今日まで第4番として親しまれています。

曲は、4つの楽章から構成されていますが、全楽章が休みなしに演奏されます。最も大きな特徴は、第1楽章序奏の主題、提示部の主題が第2、3、4楽章にも出現し、全曲が構成上でも情感の上でも統一性をもって緊密に構成されていることです。

第1楽章:かなりおそく〜いきいきと

冒頭にユニゾンでラの音(イ音)が鳴らされてからすぐに主題の旋律が第2ヴァイオリン、ヴィオラ、ファゴットで演奏されますが、この音階的に行きつ戻りつする感じの主題は、続く第2・第3楽章でも形を変えて現れる非常に重要な主題です。テンポが遅い序奏の終わりの方で、次に現れる第1主題を示唆する旋律が第1ヴァイオリンで演奏されてテンポが次第に速くなり、提示部で第1主題が生き生きと演奏されますが、この第1主題は躍動感にあふれ、この交響曲のもつ情感を象徴しています。

展開部に入ると付点のリズムが特徴的な動機が何度も展開されます。そして最後はニ長調に転じて明るく結び、そのまま第2楽章に続いていきます。

第2楽章:ロマンツェ〜かなりおそく

ロマンツェとは英語で言うロマンスのとことですが、冒頭のオーボエとチェロソロによる主題はまさにロマンツェです。その後すぐに、第1楽章の冒頭主題がほとんどそのままの形で現れます。

中間部ではヴァイオリンソロによる流麗な旋律が現れますが、これは次の第3楽章のトリオの部分の先駆けとなっています。そしてロマンツェの主題が転調して再現された後、ドミナントの和音を残して第3楽章になだれ込んでいきます。

第3楽章:スケルツォ〜いきいきと

冒頭のカノンのように追いかける形の主題は、第1楽章冒頭の主要主題の反行形と考えられます。情緒豊かな中間部のトリオは流れるような変ロ長調の旋律によりますが、この主題は第2楽章中間部のヴァイオリンソロ旋律からきています。

通常のスケルツォ楽章では、主部~トリオ~主部となるのですが、シューマンの場合は第2トリオがしばしば置かれます。交響曲第4番の第2トリオは先に出たトリオと同じように始まりますが、次第に音が薄くなって第4楽章にそのまま移行します。まさに異次元の世界に移行するという雰囲気です。

第4楽章:フィナーレ おそく〜いきいきと

第4楽章冒頭では、第1楽章の第1主題が遅いテンポで、これからのドラマを暗示するかのように再現されます。この後、響きが厚くなり、テンポも盛り上がって、崇高な高みを象徴する場面が感動的です。

提示部では第1楽章提示部の主題と展開部の動機が統合されて、エネルギーにあふれて現われます。音楽はさらに高みを目指し、最後はテンポを2段階に分けて上げて情熱的な中でも古典的な均整感を保ち、最後はトロンボーンの力強いニ長調の三和音のロングトーンの中で華やかに終わります。

そんなわけで、今日はシューマンの《交響曲第4番ニ短調》をお聴きいただきたいと思います。レナード・バーンスタイン指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、シューマンの交響曲作品の傑作をお楽しみください。


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今日はヴィヴァルディとバッハの祥月命日〜《調和の霊感第10番》と《4台のチェンバロの協奏曲》

2025年07月28日 18時18分18秒 | 音楽
今日も神奈川県各所で猛暑日となり、凄まじい暑さに見舞われました。こう暑いと思考も停止するようで、自宅でボンヤリと過ごしてしまうことが多くなった氣がしています…。

さて、今日はビッグネーム2人の登場です。今日7月28日はヴィヴァルディとバッハの祥月命日です。



アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ(1678〜1741)はヴェネツィア出身のバロック音楽後期の著名な作曲家の一人であり、ヴァイオリニスト、ピエタ孤児院の音楽教師、カトリック教会の司祭でもあり、興行師、劇場支配人でもありました。多数の協奏曲の他、室内楽、オペラ、宗教音楽等を作曲していて、中でも現代ではヴァイオリン協奏曲集《四季》の作曲者として広く知られています。

一方、



ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685〜1750)は言わずと知れたバロック期の巨匠で、『音楽の父』の異名をもつ作曲家です。《マタイ受難曲》や多数の教会カンタータ、《トッカータとフーガニ短調》をはじめとしたオルガン作品、《ブランデンブルク協奏曲》をはじめとした多くの器楽作品を遺しました。

二人は直接面識があったわけではありませんが、バッハはヴィヴァルディの音楽から多大な影響を受けていました。そんな中から生まれた、バッハのチェンバロ協奏曲の名品があります。

バッハが若い時分にヴァイマール公の宮廷に仕えていた頃、オランダに留学していたヴァイマール公の従兄弟エルンスト公子が帰ってきました。公子は、当時世界中の情報が集まるアムステルダムでヴィヴァルディを始めとする最先端のイタリア音楽に触れて大いに刺激を受けて帰郷し、バッハに


(1711年刊行の初版表紙)

《調和の霊感》をオルガン曲に編曲するよう依頼しました。

この経験でバッハはイタリア音楽に深く触れ研究することができ、後の作曲に決定的な影響を受けました。それから10数年後、バッハはライプツィヒの地でヴィヴァルディの編曲に取り組むことになりましたが、そこで登場したのが《4台のチェンバロのための協奏曲イ短調 BWV1065》でした。

《4台のチェンバロのための協奏曲イ短調》は、ライプツィヒのツィマーマン・コーヒーハウスで開かれていたコレギウム・ムジクムでの演奏のために作曲されました。

ここで先ず

「4台ものチェンバロを揃えることができたのか?」

という疑問が生じますが、実はバッハはチェンバロを何台も所持していて、遺産目録には大型チェンバロ4台と小型チェンバロ2台が記されています。持っていたとしても、自宅からツィンマーマンのコーヒーハウスにチェンバロを4台もワッセワッセ運ぶのは大変だったでしょうが、それでもバッハは複数のチェンバロのによる演奏効果をライブで実験していました。

次に、

「4人もの奏者を集められたのか?」

ということですが、コレギウム・ムジクムのメンバーにはバッハとふたりの息子〜長男フリーデマン・バッハと次男カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ〜の他にヨハン・ルートヴィヒ・クレプスやヨハン・ゴットフリード・ベルンハルト・バッハといった優秀なバッハの弟子たちもいました。バッハの一連のチェンバロ協奏曲は、こうした息子や弟子たちの研鑽のためにも書かれたと考えられています。

ヴィヴァルディの《調和の霊感》の原曲は4つのヴァイオリンと1つのチェロのためのコンチェルトで、そのヴァイオリン・ソロをバッハはそのまま4つのチェンバロに置き換えました。ただチェンバロの音域の都合で、ロ短調から一音下げてイ短調に移調しています。

4本の指で演奏する基本単旋律のヴァイオリンから10本の指で弾くチェンバロになったのですから、メロディもハーモニーもより複雑になりました。弦楽パートにもかなり加筆を行いましたが、それでも原曲の性格はほとんどそのまま残されています。

なぜバッハは自作のチェンバロ協奏曲ではなくヴィヴァルディの曲を編曲したのかということですが、単純に同じ4つのソロ楽器のコンチェルトを作っていなかった、ということもあるでしょう。もう一つの可能性としては、

「あえて当時のヒット曲をアレンジしたのではないか」

というものです。

バッハとしても、4つのチェンバロを使う…という冒険的な実験をするのに、誰もが知っている人気曲を使った方が聴衆はその効果を実感しやすかったことでしょう。実際、この曲の自筆譜は残されていませんが筆写譜はたくさん残っていて、これが当時からバッハの作品の中でも人気があったことを示しています。

そんなわけで、ヴィヴァルディとバッハの祥月命日である今日は、それぞれの協奏曲を聴き比べてみようと思います。

先ずは原曲であるヴィヴァルディの《4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲ロ短調作品3-10》からお聴きいただきたいと思います。レイチェル・ポッジャー率いるアンサンブルの演奏で、華やかなヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲をお楽しみください。



次に、これを基にしてバッハが編曲した《4つのチェンバロのための協奏曲イ短調 BWV1065》をお聴きいただきたいと思います。ネザーランド・バッハ・ソサエティの演奏で、何とも贅沢な4台ものチェンバロの響きをご堪能ください。






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これぞ正真正銘《タイスの瞑想曲》

2025年07月27日 17時17分17秒 | 音楽
今日も凄まじい暑さとなり、外に出る気にもなれずに一日自宅に籠もっていました。そんな中でもあれこれとしていたのてすが、今度大人の生徒さんがレッスンでマスネの『タイスの瞑想曲』を弾くことにしたので、いろいろとしらべていました。



ジュール・エミール・フレデリック・マスネ(1842〜1912)はオペラで最もよく知られているフランスの作曲家で、その作品は19世紀末から20世紀初頭にかけて大変人気がありました。現在も特に《マノン》(1884年)、《ウェルテル》(1892年)、《タイス》(1894年)は頻繁に上演され、主要なオペラハウスのレパートリー演目となっています。

『タイスの瞑想曲』は、オペラ《タイス》の第2幕の第1場と第2場の間で演奏される器楽の間奏曲(entr'acte)です。 場面としては

第2幕第1場で修道僧アタナエルは、美貌の快楽主義の高級娼婦(クルチザンヌ)でヴィーナスの巫女のタイス(アレクサンドリアの聖タイス)に対峙して、豪奢で享楽的な生活から離れ、神を通じた救いを見出すように彼女を説得する。

出会いの後のタイスの熟慮の間に、「瞑想曲」が管弦楽によって演奏される。 後半には、舞台裏からハミングコーラスが響いてくる。

「瞑想曲」の後の第2幕の第2場でタイスは、自分は砂漠へとアタナエルを追っていくことを告げる。

というものです。

この場面の間奏曲であるこの曲を、 マスネは宗教的意図を伴った作品として書きました。宗教的雰囲気で歩くようなテンポで演奏されるべきであるという意図を表して、楽曲の速度の指示は



「宗教的なアンダンテ("Andante religioso")」となっています。

ゆったりしたテンポで重音も無く、調性がヴァイオリンにとって非常に演奏しやすいニ長調である上に最大で第5ポジションまでの音域で弾けるので、演奏会や発表会でも多くとりあげられる作品です。ただ、「宗教的なアンダンテ」の真意を無視して感情の赴くままに演奏してしまうと下品になってしまう危険性をはらんでいるので、実に難しい作品でもあります。

生徒さんには先ず音取りをしてもらい、その後にオペラでの場面を説明しながらイメージを作ってもらう予定です。時間はかかるでしょうが、楽しみながら取り組んでもらえるようにしようと思います。

そんなわけで、今日は《タイスの瞑想曲》をお聴きいただきたいと思います。コーラスの入ったオリジナルのかたちで、ヴァイオリンのアンコールピースとしてではなく、オペラの間奏曲としての本来のスタイルをお楽しみください。


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『幽霊の日』に『幽霊』を聴く〜ベートーヴェン《ピアノ三重奏曲第5番ニ長調『幽霊』》

2025年07月26日 15時55分51秒 | 音楽
猛暑日にこそならなかったものの、今日も神奈川県は強烈な暑さに見舞われました。こんな時には、ありとあらゆる方法で涼をもとめたいところです。

ところで、今日7月26日は『幽霊の日』なのだそうです。これは1825年(文政8年)のこの日、鶴屋南北作の『東海道四谷怪談』が江戸・中村座で初演されたことに由来します。

いまだに歌舞伎の人気演目である『東海道四谷怪談』ですが、動画で全部視聴しているとかなりの長時間になってしまうため、今回は趣向を変えて音楽で幽霊を楽しむことにしました。それが、



ベートーヴェンが作曲した《ピアノ三重奏曲第5番ニ長調》、愛称『幽霊』を聴くことです。

《ピアノ三重奏曲第5番ニ長調 作品70-1》 はベートーヴェンが作曲した室内楽作品で、次作である第6番と共に「作品70」として出版されました。ベートーヴェンがこの曲を作曲する以前には、《ピアノ協奏曲第5番『皇帝』》や《交響曲第5番『運命』》、《交響曲第6番『田園』》など大規模な傑作が次々と誕生していたため、ベートーヴェンは室内楽の作曲にはなかなか手がまわらなかったといいますが、創作の中期において最も充実した時期の作品として広く知られています。

この曲は1808年にピアノソナタとして書き始められ、当初はベートーヴェンのパトロンかつ音楽の弟子でもあり、《ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調 作品97『大公』》を献呈されたルドルフ大公に献呈する予定だったようです。しかし、同じくパトロンであったエルデーディ伯爵夫人がピアノ三重奏曲の新作を熱心に依頼したために当初の計画を変更し、2曲のピアノ三重奏曲に変わったといいます。

この当時のベートーヴェンはエルデーディ伯爵夫人の邸宅に身を寄せていて、彼女の尽力によって終身年金を受けられたことへの恩義として作曲されたものと考えられています。初演は1808年12月(日付不明)にエルデーディ伯爵邸で行われ、ベートーヴェン自身がピアノを弾いたことは判明していますが、ベートーヴェン以外の誰が演奏に参加したのかは不明です。

『幽霊』という愛称は、ベートーヴェンがシェイクスピアの悲劇『マクベス』のために書いた魔女の宴会のシーンのスケッチをこの作品に流用しようとしたためといわれています。また、第2楽章の開始部分が当時の聴衆にとって、いかにも幽霊が出てきそうな不気味な雰囲気に感じられてそう呼ばれたとも言われていますが、いずれにしてもこの『幽霊』という愛称は作品の本質とは大きな関わりはなく、誰が命名したのかは未だはっきりとしていません。


(ピアノ三重奏曲第5番の自筆譜)

全体は3楽章からなり、演奏時間は25〜26分ほどです。

第1楽章はアレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・コン・ブリオ
ニ長調の4分の3拍子、ソナタ形式

一気に奏される冒頭の溌剌としたスタッカートによる第1主題に続いて、ヴァイオリンとチェロがユニゾンで音階を動き出します。この部分は第2主題と捉えたり、第1主題の変形とした展開の一種と看做す見方があります。

主題の動機を扱った経過部を経てイ長調に転調し、第2主題が現れます。提示部の後は展開部に入り、再現部を経ると展開部から反復してそのままコーダへ繋がり、冒頭のスタッカートの動機を奏して強く閉じます。

第2楽章はラルゴ・アッサイ・エ・デスプレッシーヴォ
ニ短調の4分の2拍子、展開部を欠くソナタ形式

第1楽章とは打って変わって抒情的で悲歌的な雰囲気が漂う楽章で、第1主題はソット・ヴォーチェで奏される弦のユニゾンの動機にピアノが応答しながら何回も繰り返されます。第2主題はヘ長調になり、幻想的な趣を深めてより不鮮明なものとなっていきます。

この楽章では展開部は持たず、そのまま再現部からコーダへと続きます。コーダでは3つの楽器が64分音符を奏しながら、次第に弱まって終わっていきます。

第3楽章はプレスト
ニ長調の2分の2拍子、ソナタ形式

第2楽章の陰鬱な雰囲気が一変して明朗な趣へと転じる楽章で、8小節の序奏がピアノを中心に楽章全体の気分を暗示するように明るく奏され、ヴァイオリンとチェロによる第1主題が提示されます。主題は直ちにピアノによって繰り返されると流暢な経過部に続き、やさしく歌われる第2主題が提示され、華やかに高潮していきます。

展開部では第1主題が主に扱われ、再現部では第2主題がニ長調で扱われます。弦楽器のピッツィカートで始まるコーダではピアノが華麗に奏され、最後はクレッシェンドに続いてffで全曲を終えます。

そんなわけで、『幽霊の日』である今日はベートーヴェンの《ピアノ三重奏曲第5番ニ長調『幽霊』》をお聴きいただきたいと思います。脂の乗りまくった頃のベートーヴェンによる室内楽の名品を、じっくりとご堪能ください。


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今日はモーツァルト《交響曲第40番ト短調》が完成した日〜ニコラウス・アーノンクールの強烈な解釈によるライブ

2025年07月25日 16時45分55秒 | 音楽
まだ関東地方にははっきりとした梅雨明けが宣言されていませんが、今日も今日とて強烈な暑さに見舞われました。長期予報なるものを見たら、どうやらこの暑さが10月くらいまで続くようですが、本当にいい加減にしてもらいたいものです…。

ところで、今日7月25日はモーツァルトが《交響曲第40番》を完成させた日です。

《交響曲第40番ト短調 K.550》は



ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)の『後期三大交響曲』(第39~41番)の中央に位置する作品で、他の2曲とともにウィーンで1788年の夏に書かれました。いつ初演されたかは不明ですが、後にクラリネットパートが書き足されていることから、生前に初演された後に改変して再演がなされたと推測されています。

モーツァルトにとっては例外的な短調の交響曲で、他には《交響曲第25番ト短調》しかありません。それ故にか、この曲にこめられた強い情動と悲劇性は人々の心を捉え、今なお考察の対象であり続けています

第1楽章はモルト・アレグロ 
ト短調、2/2拍子のソナタ形式。

2部に分かれたヴィオラのさざ波に乗って、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンがオクターブで哀感に満ちた有名な第1主題を演奏し始めます。第2主題は束の間の安らぎのような変ロ長調の旋律ですが、これは第1主題の素材の派生でしかなく、音楽はもっぱら第1主題の旋律によって緊迫感を保ちながら構築されていきます。

第2楽章はアンダンテ 
変ホ長調、6/8拍子のソナタ形式。

同音反復の8分音符が淡々と刻むリズムが印象的な冒頭の音型の上に展開される穏やかな第1主題と、呼び声のような第2主題で構成されています。のどかな音楽のはずですが時に悲愴な面も垣間見せ、特に展開部の装飾音符の付いた下降音型は、まるで爪を立ててガリッガリッと引っ掻いているような激しさです

第3楽章はメヌエット、アレグレット〜トリオ 
ト短調〜ト長調、3/4拍子の三部形式。

音楽は再び短調に戻り、鋭いシンコペーションと4分音符の厳しい調子の主題が鳴り響き、反復されます。ト長調のトリオは柔和な世界で、管楽器の絶妙なアンサンブルが美しい音楽です。

第4楽章はフィナーレ、アレグロ・アッ
サイ 
ト短調、2/2拍子のソナタ形式。

頭の上向きの分散和音風に始まる第1主題は「悲劇的」と形容したくなるような激しい世界を表出させ、それに対して甘美な変ロ長調の旋律が第2主題として現れて提示部はまとまる。展開部は激烈なユニゾンから第1主題のみが音楽を支配していって強烈なカノンやフーガを展開しながら再現部へとつながり、圧倒的な緊迫感をもって音楽は終わります。

何度も演奏したことのある作品なのですが、その度に個人的にちょっとした違和感を感じることもあります。というのも、いろいろな箇所で音や和音が強烈にぶつかることがあるため、かなり上手くやらないとあちこちで響きが濁りまくってしまうのです。

その個人的違和感を一気に払拭してくれたのが、古楽の雄ニコラウス・アーノンクール(1929〜2016)が2014年に行ったライブでした。ここでアーノンクールは、音の濁りが生じそうな箇所でパウゼ(休止)を入れ、前の響きが一段落してから次の和音を鳴らすということをしています。

これによって私が抱いていた音楽的な違和感が軽減され、よりスッキリと頭に入ってくるようになりました。まさにアーノンクールが晩年にたどり着いたひとつの境地なのでしょうが、私の思いを具現化してくれたようで嬉しかったことを覚えています。

そんなわけで、今日はモーツァルトの名曲《交響曲第40番ト短調》をお聴きいただきたいと思います。ニコラウス・アーノンクール指揮、コンセントゥス・ムジクスの演奏で、かなり個性的なアーノンクールの解釈に基づくモーツァルトの交響曲をお楽しみください。


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今日は八橋検校の祥月命日〜明治期に一気に有名になった箏曲の名品《六段の調べ》

2025年07月13日 15時11分51秒 | 音楽
昨日までの涼しさはやはり幻だったようで、今日はまた暑くなりました。それでも猛暑日にはならなかったこともあってか、まだ『居られる温度』となっていました。

ところで、今日7月13日は八橋検校の祥月命日です。



八橋検校(やつはしけんぎょう、1614〜1685)は近世中期の検校で、江戸時代前期の箏曲の音楽家でもあった人物です。

『検校(けんぎょう)』とは、中世から近世にかけての盲人の最高位の官職名です。当道座という盲人の組織の中で検校は最上位に位置づけられていて、鍼灸や按摩、琵琶演奏などの職業を独占していました。

八橋検校の出身は諸説ありますが、山田松黒が安永8(1779)年に記した『箏曲大意抄(そうきょくたいいしょう)』によると陸奥国磐城(明治期の磐城国、現・福島県)が定説とされています。他に摂津国(現・大阪府北中部)とする説もあり、本名は磐城説では城談(じょうだん)、摂津説では城秀(じょうしゅう)だといいます。

八橋検校は寛永年間(1624〜1645年)の初め頃、摂津(現・大阪府)で城秀と称して三味線の分野で活躍した後に江戸にくだり、筑紫善導寺の僧・法水に師事して筑紫流箏曲を学んで、現在の日本の箏の基礎を作り上げました。それまで歌の伴奏楽器だった箏を独奏楽器として発展させ、楽器や奏法の改良、段物などの楽式の定型化など、箏曲の発展に努めました。

余談ですが、八橋検校は


京都の銘菓『八ツ橋』の名前の元になった人物ともされています。ただ、八ツ橋の起源については、八橋検校を偲んで箏の形に焼き上げた菓子を『八ツ橋』と名付けたとする説と、歌人として名高い在原業平を偲び、『伊勢物語』第九段「かきつばた」の舞台である「三河國八橋」にかけ、八枚橋の板の形を模した菓子を作ったとする説があります。

そんな八橋検校の祥月命日である今日は、名曲《六段の調べ》をご紹介しようと思います。

《六段の調べ》は、箏で演奏する日本の楽曲として最も有名な作品の一つです。箏曲をほとんど知らない人でも、お正月のデパートや和食レストランやなどでBGMとして流れることがありますから、耳にしたことがあるかもしれません。

《六段の調べ》は箏曲の段物(だんもの)の代表的な曲です。段物とは一曲がいくつかの部分(段)で出来ていて、歌が入らない曲を「段物」や「調べ物」といいます。

六段の調のそれぞれの段は、初段だけ導入部の4拍分が多くなっていて、初段以外は同じ拍数になっています。



六段の調は、初段と呼ばれる最初のほうはゆっくり始まって、段が進むにつれてだんだんとスピードが速くなっていき、最後は再びゆっくりと終わります。

こうした構成を「序破急(じょはきゅう)」といい、日本の伝統的な音楽の特徴のひとつとなっています。《六段の調べ》でいえば、



初段から徐々に速度が速まっていって、一番スピードが速く演奏されるのは「六段目」となるわけです。

《六段の調べ》は八橋検校の作品とされていますが、実際のところはそれ以前から伝承されてきた曲を八橋検校が一つの決まった形にして弟子に伝えたもののようです。 ただ、江戸時代には重要な箏曲にはみな歌詞がつけられていて、《六段の調べ》のように歌詞のない楽曲が重要視されることはなく、明治初期までは単なる箏の練習曲として扱われていました。

箏曲《六段の調べ》が注目を浴びるようになったのは、明治政府によって西洋音楽の研究が始まったことによります。 西洋音楽には「器楽」と「声楽」というジャンルがありますが、日本で重要とされている音楽にはすべて歌詞がついており、純粋な器楽曲はほとんどありませんでした。

そこで、1879年から1887年にかけて日本の音楽教育機関として活動していた文部省音楽取調掛(現在の東京芸術大学音楽学部)が日本における器楽曲として注目したのが《六段の調べ》でした。 こうして《六段の調べ》は練習曲から、一気に「日本を代表する箏曲」にランクアップしたのです。

因みに八橋検校が他界した1685年は、



ドイツでヨハン・ゼバスティアン・バッハが誕生した年でもあります。『音楽の父』が生まれるよりも前に日本を代表する箏曲が完成していたということは、驚くべきことかも知れません。

そんなわけで、今日は八橋検校の《六段の調べ》をお聴きいただきたいと思います。ユーチューバー『kotomen』としても活躍されている大川義秋氏の演奏で、邦楽を代表する器楽作品をお楽しみください。


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今日は芥川也寸志の誕生日〜弦楽合奏の名作《弦楽のための三楽章(トリプティーク)》

2025年07月12日 15時55分51秒 | 音楽
昨日の秋のような涼しさこそ続きませんでしたが、今日も比較的涼しい陽気となりました。願わくばこのままもう猛暑日が来ないことを期待したいのですが、恐らくそうは問屋が卸さないでしょう…。

ところで、今日7月12日は芥川也寸志の誕生日です。



芥川也寸志(1925〜1989)は日本の作曲家、指揮者で、JASRAC元理事長でもあった人物です。

作家の芥川龍之介(1892〜1927)の三男として生まれた芥川也寸志の来歴については、この場では省略させていただきます。その芥川也寸志の誕生日である今日は《弦楽のための三楽章》をご紹介しようと思います。

《弦楽のための三楽章》は、『トリプティーク』という題名でも知られる弦楽合奏曲で、1953年に作曲されました。この曲は3つの楽章から構成され、それぞれ異なる性格を持つ3つの絵画(三連幅)のような音楽を表現しています。

軽快でモダンなタッチと日本的な響きが融合した、明るく爽快な作品で、演奏時間は約13分です。1955年にはワルシャワ音楽賞を受賞しています。

全体は3つの楽章で構成されています。

第1楽章はアレグロ、明確な調性はないもののイ短調が基調

全合奏で力強い主題が奏でられ、その後ヴァイオリンソロや副主題を挟みながら進みます。中間部では抒情的なメロディが現れますが、低音部のリズムは変わらず勢いを保ちます。

第2楽章はアンダンテの子守歌、変ホ長調が基調

作曲者の娘のために書かれた子守歌で、主題はヴィオラで歌われます。弱音器装着が指定された両端楽章と対比をなす叙情的な楽章で、楽器のボディを叩く特殊奏法も用いられています。

第3楽章はプレスト、ロ短調が基調

ロンド形式で、祭囃子の太鼓のような変拍子の主題で始まり、おどけたような三拍子の主題を挟みながら加速してクライマックスを迎えます。その後、アダージョの主題を経て再び冒頭の速度に戻り、最後に冒頭の主題を全奏で力強く奏でて終わります.

この作品は芥川也寸志が好んで用いたオスティナート技法(同じリズムを繰り返す手法)が多用されていて、急-緩-急の構成でまとまりの良い組曲として仕上がっています。日本的な旋律と近代的な和声が融合した独特な響きを持っているこの作品は、日本の弦楽合奏曲の中でも最も演奏される作品の一つです。

そんなわけで、今日は芥川也寸志の《弦楽のための三楽章(トリプティーク)》をお聴きいただきたいと思います。芥川也寸志自身の指揮、芥川が創設したアマチュアオーケストラである新交響楽団の演奏で、芥川音楽を代表する傑作をお楽しみください。


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小田原と所縁ふかい童謡《めだかの学校》

2025年07月10日 17時17分17秒 | 音楽
今日は、勤務先とは別の小学校な放課後子ども教室でした。宿題やら工作やらをさせた後で、帰りの歌として7月は《めだかの学校》を歌わせることにしました。

この《めだかの学校》、実は小田原市と深い関係があります。この歌詞を書いた茶木茂(1910〜1998)はかつて小田原に住んでいて、そこで子息と見た光景を書いた作品が《めだかの学校》なのです。

小田原市内には



めだかをモチーフにしたマンホールがいたるところに見受けられます。また、舞台となった荻窪用水には


『めだかの学校』と称された水車小屋が建てられていて、敷地内には



『めだかの学校』がこの地でできたことを知らせる石碑も建てられているのです。

先月の《ゆりかごのうた》もそうですが、小田原という地は様々な童謡の故郷でもあります。放課後子ども教室の子どもたちには、自身が暮らしている小田原市はそうした素晴らしい文化的背景に 彩られた場所なのだということを認識し、誇りに思ってほしいと思うのです。

そんなわけで、今日は童謡《めだかの学校》をお聴きいただきたいと思います。皆さんも童心にかえって、最後まで口ずさんでみてください。


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墨田区交響楽団第71回定期演奏会

2025年07月06日 17時40分55秒 | 音楽
今日は、墨田区交響楽団の定期演奏会本番の日でした。

今季初めて東京都に熱中症警戒アラートが発令されるほどの暑さの中、錦糸町の駅に着いて電車の扉が開くと、ムワッとした不快な暑さの空気が襲いかかってきました。それだけで辟易としてしまいそうになったのですが、何とか気持ちを奮い立たせてすみだトリフォニーホールに向かいました。

受付を済ませて楽屋に荷物を置き、舞台へ向かいました。サムネイルには客席から見たホールの全景を載せてみましたが、こちらには



自分の座っている席から客席をのぞむ、出演者にしか見ることのできない様子を収めてみました。

今回はベートーヴェンの《交響曲第7番》という人気の高い曲がメインプログラムでおることもあってか、多くの聴衆がつめかけていました。この酷暑の中でこれだけの集客があったことは、何とも喜ばしいことです。

今回、個人的にはハイドンの《交響曲第103番変ホ長調『太鼓連打』》が楽しみでした。この曲はハイドンの交響曲作品の中でも迷作の誉れ高いものですが、演奏機会がそう多くはないものなのです。

一般的には『太鼓連打』の別名にもなった第1楽章冒頭のティンパニソロが有名ですが、個人的には変奏曲である第2楽章が楽しみでした。ハイドンの交響曲の緩徐楽章には変奏曲がおかれることが多いのですが、この曲の緩徐楽章は数あるハイドンの変奏曲の中でも屈指の名作です。

途中には交響曲には珍しくヴァイオリンのソロが入っていますが、これは当時の
オーケストラのコンサートマスターにイタリア人のヴァイオリン奏者で作曲家でもあったジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ(1755〜1824)がいて、ヴィオッティに演奏させるために書かれたと言われています。録音ではいろいろと聴いていましたが生で聴くのは初めてだったので、演奏しながら密かに楽しんでいました。

ベートーヴェンは、さすがに疲れました。昨日も書きましたが何しろ中音部の音符の数が半端なく多く、ヴィオラはハモリや裏メロも多いので、とにかくやることが多いのです。

若かりし昔は体力でのりきっていた部分もありましたが、さすがに半世紀生きてきたヲジサンは体力だけではやり過ごせません。そうしたペース配分も気にしながらどう体力をもたせるかがカギになるのですが、まぁ何とかできたと思います(汗)。

今日はさっさと帰って、明日に備えて休みます。疲れたーっ!

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