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共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はホルストの祥月命日〜ヴィオラの貴重なレパートリー《抒情的断章》

2025年05月25日 15時55分55秒 | 音楽
昨日の本番から一夜明けて、今日は朝からボンヤリしていました。やはり、弾き慣れない音楽を演奏して、知らず知らずの間に神経を使っていたのだと思います。

ところで、今日5月25日はホルストの祥月命日です。



グスターヴ・シオドア・ホルスト(1874〜1934)は、イングランドの作曲家、編曲家、教育者で、組曲《惑星》が代表作です。

ホルストの略歴等についてはかつて書いたことがありますので、今回は割愛します。そして、今日はホルストの《抒情的断章》をご紹介しようと思います。

《抒情的断章》H.191 は、ホルストが亡くなる前年の1933年に作曲したヴィオラと小管弦楽のための協奏的作品です。約10分ほどの短い作品で、ホルスト最晩年の作品のひとつです。

1932年、ホルストは十二指腸潰瘍に伴う出血性胃炎に見舞われ、これに関連する不調は亡くなるまで散発的に続いていくことになりました。そんな痛みと衰えに苛まれながらも、ホルストは1933年に



当代最高の奏者と評価していたヴィオラ奏者のライオネル・ターティス(1876〜1975)のために曲を書くという、かねてからの構想に手を付けることにしました。

曲は1934年に完成され、ホルストのもとを数度訪れたターティスは作品の解釈の詳細について協議を行いました。初演はBBCのスタジオにおいて、ターティスの独奏、エイドリアン・ボールト(1889〜1983)指揮によるBBC交響楽団によって行われました。

初演の様子はロンドンから放送され、ホルストも病室の中へボールトが設営したラジオからこの演奏を聴くことができました。早くにこの作品を手掛けた奏者たちは曲が禁欲的過ぎて趣味に合わないと感じたようでしたが、ターティスの演奏が完璧だったと考えたホルストは彼に祝意を表しました。

やがて時代が下ると、この作品はホルストの後期作品でも屈指の成功作と考えられるようになっていきました。娘のイモージェン・ホルスト(1907〜1984)も年月を経てこの評価に同意していて、彼女は後にオーケストラ部分のピアノ伴奏編曲にも着手しています。

ヴィオラのカデンツァで幕が上がると、続いてフルートにカデンツァが引き継がれます。やがてミステリアスな弦楽器群の和音にのって、木管楽器群が4/4拍子で書かれているようには聴こえない不思議なメロディを奏でます。

独奏ヴィオラが息の長いメロディを奏でる裏でざわめくオーケストラが徐々に熱を帯びて、一つの頂点を迎えます。そのオーケストラが落ち着いていくと、ヒンデミットが書きそうな無調音楽的メロディを独奏ヴィオラが紡いでいきます。

オーケストラが新たな和音を弾き伸ばしていく中、独奏ヴィオラが24/16拍子という独特なリズムで16分音符を駆け巡らせます。やがてそれはフルートにも受け継がれますが、少しずつ沈静化していきます。

その後、弦楽器群の和音にのって独奏ヴィオラが重音のメロディを奏でていき、2度目のカデンツァがやってきます。その終わりに始めに提示された4/4拍子らしからぬメロディが登場すると、低音弦楽器からオーケストラが静かに鳴り始めます。

それが木管楽器とヴァイオリン、ヴィオラの高音のみに受け継がれながら全曲中で初めて明確なニ長調の和音が奏でられ、その中を独奏ヴィオラが不思議な拍子感のメロディを重音で奏でます。そして最後は独奏ヴィオラとヴァイオリン、ヴィオラのみで美しいニ長調の和音が奏され、



あたかも19世紀のイギリス・ロマン主義を代表する画家であるウィリアム・ターナー(1775〜1851)晩年の絵画のように消えていきます。

そんなわけで、今日はホルスト晩年の傑作《抒情的断章》をお聴きいただきたいと思います。アンドレイ・ヴィトヴィッチのヴィオラ、ハワード・グリフィス指揮によるイングリッシュ・シンフォニカの演奏で、ホルストが晩年に遺したヴィオラのための傑作をお楽しみください。


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カンプラ&シューベルト本番

2025年05月24日 17時10分00秒 | 音楽
今日はカンプラとシューベルトの本番の日でした。

かなりヒンヤリとした空気の漂う中を橋本まで向かい、『杜のホールはしもと』に入りました。舞台に入ると


昨日と少しセッティングが変わって、全体的に奥まっていました。

ステージリハーサルが始まったのですが、全員に戸惑いが走りました。昨日よりあまりにも位置が動いたため、昨日のリハーサルと音の聴こえ方が全く違っていたのです。

合唱もオケも戸惑っていましたが、今更セッティングを変えている時間はないので、このまま本番を迎えることになりました。何とも言えない一抹の不安を残したまま休憩に入り、本番を迎えました。

本番になると客席に観客が入り、更に響きが変わります。ただ、本番ではそれがいいように作用して響きがまとまり、安心して演奏することができました。

シューベルトのミサ曲もそうですが、カンプラは演奏者人生の中でもなかなか経験できない音楽です。そんな貴重な音楽の演奏に関わることができたことは、自分にとって大きな経験となりました。

明日は自宅で、ゆっくりと過ごそうと思います。

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いよいよステリハ!

2025年05月23日 19時20分21秒 | 音楽
今日は金曜日ですが、小学校勤務に年休をとって橋本まで行きました。いよいよ明日、こちらの《森のホールはしもと》で本番を迎えます。

今回のプログラムはシューベルトの《ミサ曲第2番ト長調》と、フランス・バロックの巨匠アンドレ・カンプラの【レクイエム》です。今回は



上の写真を見ても分かる通り、かなりの小編成での演奏会となります。

今回、特にカンプラがかなり大変です。バロック音楽の中でも日本でなかなか採り上げられる機会の少ない作曲家なこともあるのですが、フランス・バロックならではの演奏上の『暗黙のお約束』があるのです。

フランス・バロックならではのお約束の代表的なものに『イネガル奏法』というものがあります。これは特に8分音符の連なりがある際に行われる手法で、例えば



楽譜にこんな記載がある場合、通常なら

♪タタタタタタタン

と奏しますが、フランス・バロックの場合は偶数個目の音を少し軽くして

♪タ〜ㇻタ〜ㇻタ〜ㇻタン

と、まるで三連符のように奏する習慣があるのです。

このイネガル奏法をすることによって、フランス・バロック独特の軽やかさを演出することができます。逆に言うと、イネガルせずに演奏すると何だか野暮ったく聴こえてしまうのです。

それと、ヴィオラパート的に大変なのが『休みの多さ』で、特に最後の曲には



冒頭に71小節+6小節、合計77小節もの長い休みがあるのです。こんなに長い休みのある曲は、弦楽器では早々お目にかかることはありません。

そこへいくとシューベルトは、さすがは慣れ親しんだ古典派音楽ということで、そうした気苦労はほとんどありません。ただし、『歌曲王』の異名をとるシューベルトの作品ですから、合唱には勿論、オーケストラにも歌心が求められます。

今日は大まかな音楽の展開と、ソリストや合唱とのバランスの確認が主な練習となりました。明日の本番前に更に調整をして、本番に臨みます。

というわけで、今日は早目に休みます。

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今日はマーラーの祥月命日〜呪縛を避けたのに未完になった《交響曲第10番嬰ヘ短調》

2025年05月18日 16時00分00秒 | 音楽
昨日の雨が残っていて朝から湿度が高く、今日は何とも不快な天候となりました。予報ほどに気温が上がらなかったからまだよかったようなものの、これで日差しがあったらどうなっていたかと思うとゾッとします。

ところで、今日5月18日はマーラーの祥月命日です。



グスタフ・マーラー(1860〜1911)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者で、交響曲と歌曲の大家として知られています。

略歴については今までにも何度が書いていますので、ここでは割愛させていただきたいと思います。そして今回は、マーラーの未完の交響曲となった《交響曲第10番》をご紹介しようと思います。

マーラーは『第九の呪縛』を恐れていたといいます。というのも、何人かの主だった作曲家が《交響曲第9番》を完成させて亡くなっていて、有名なところでは

ベートーヴェン
シューベルト(ただ、後に一曲減らされたため現在は第8番までとなっている)
ドヴォルザーク 
ブルックナー
ヴォーン・ウィリアムズ

といった作曲家たちが《交響曲第9番》を完成させた後に亡くなっています。

そうしたことから、いつしか

『作曲家は交響曲を9つ書くと死んでしまう』

というジンクスがささやかれるようになりました。そのためマーラーは事実上9つ目の交響曲を完成させたときに、そのジンクスから“第9番”と名付けるのを忌避して番号をふらず、《大地の歌》という別の題名を与えたのでした。

マーラーは以前から“死”というものをテーマとして作曲してきましたが、この《大地の歌》も“死”との関連が深い作品でした。その第1楽章「大地の哀愁に寄せる酒の歌」では

「生は暗く、死もまた暗い」

と歌われますし、第6楽章「告別」では諸行無常の世界観が表現され、最後は独唱が

「愛すべき大地も、春には至るところで花咲き、新たな緑が萌え出でる。遠に、遙か彼方が碧く光る。」

と歌い、最後は

「永遠に…永遠に…」

と繰り返しながら消え入るように終わります。

その後、1909年にマーラーは正式に《交響曲第9番ニ長調》を完成させます。そしてこの曲も「死に絶えるように」という指示とともに、静かに全曲を閉じるのです。

マーラーはその後《交響曲第10番》に取り組むのですが、皮肉にも折角避けたジンクスの通り完成しないまま亡くなりました。生涯において「死」をテーマに作曲し続けたマーラーは、最期には「死」を肯定するかのように《交響曲第9番》を書き、その初演と《交響曲第10番》の完成を見ることなく50年の人生を終えました。

《交響曲第10番嬰ヘ長調》は1910年に作曲が開始されましたが、翌1911年にマーラーが死去してしまったことにより完成させることができませんでした。楽譜は第1楽章がほぼ浄書に近い段階で、他の楽章は大まかなスケッチがなされた状態で残されました。

そのため、国際マーラー協会は第1楽章のみを「全集版」として収録・出版していて、これに基づいて第1楽章のみ単独で演奏されることが多かったのですが、第二次世界大戦後に行われた補筆によって数種の全曲完成版が作られています。中でもイギリスの音楽学者デリック・クック(1919〜1976)によるものが広く受け容れられていて、『クック版』としての補筆完成版の演奏機会が近年増加傾向にあります。

マーラーの遺稿によると《交響曲第10番》は5楽章からなり、第3楽章を中心とする対称的な構成として構想されています。スケルツォ楽章を中心とする5楽章構成は《交響曲第2番『復活』》や《交響曲第5番》などでマーラーが好んで用いていますが、第10番では第3楽章に「プルガトリオ(煉獄)」と題する短い曲を置き、これを挟む第2楽章と第4楽章にスケルツォ的な音楽が配置するつもりだったようです。

第1楽章は《交響曲第9番》につづいて緩徐楽章ですが速度はさらに遅くなり、形式感は薄れてソナタ形式の痕跡はほとんど認められません。調性的には嬰ヘ長調(#が6つ!)で書かれていますが、調性感が不確定だった《交響曲第9番》からさらに不確定な印象を与え、ところによっては無調音楽に迫る部分が見られます。

所々に極度の不協和音が用いられていて、第1楽章で1オクターブ12音階中の9音が同時に鳴らされ、トランペットのA音(ラ)の叫びだけが残る劇的な部分は、


全ての音を同時に発するトーン・クラスター(密集音塊)に近い手法です。無調音楽の代表的作曲家であるアルノルト・シェーンベルク(1874〜1951)は、これを『和声の革新』とみなしていました。

そんなわけで、今日はマーラーの《交響曲第10番嬰ヘ長調》をお聴きいただきたいと思います。蠢くようなヴィオラのメロディから始まるマーラーの革新的な未完の大作を、じっくりとお聴きいただきたいと思います。


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今日はエリック・サティの誕生日〜雨が似合う名曲《3つのジムノペディ》

2025年05月17日 17時17分17秒 | 音楽
 今日はほぼ一日中強い雨が降る、生憎のお天気となりました。このままシレッと梅雨入りなんかしないでほしいのですが、この大雨ではそんなことも勘ぐりたくなってしまいます。

ところで、今日5月17日はサティの誕生日です。



エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(1866〜1925)は、オンフルール生まれ、パリ育ちのフランスの作曲家です。

「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」の異名で知られる一方で、ドビュッシーやラヴェルの音楽にも影響を与えた人物でもあります。今年はサティの没後100年のアニバーサリーでもあり、各地で様々なサティに特化したコンサートが開かれているようです。

そんなエリック・サティの誕生日である今日は、代表作である《3つのジムノペディ》をご紹介しようと思います。

《ジムノペディ》は第1番から第3番までの3曲で構成されていて、それぞれに

第1番「ゆっくりと苦しみをもって」 (Lent et douloureux)

第2番「ゆっくりと悲しさをこめて」 (Lent et triste)

第3番「ゆっくりと厳粛に」 (Lent et grave)

という指示があります全曲とも3/4拍子のゆったりとしたテンポ、装飾を排した簡素な曲調、独特の愁いを帯びた旋律が特徴として挙げられ、特に第1番がサティの代表的な作品として、タイトルとともに知られるようになりました。

『ジムノペディ』という名称は、大勢の青少年が古代ギリシアのアポロンやバッカスなどの神々をたたえる祭典『ギュムノパイディア (Γυμνοπαιδίαι)』に由来していて、サティは





この祭りの様子を描いた古代ギリシアの壺を見て曲想を得たといわれています。また一説には、サティが愛読してやまなかったギュスターヴ・フローベールの小説『サランボー』からインスピレーションを得て作曲したとも言われています。

あまり表舞台に出たがらないサティのために、友人であったクロード・ドビュッシーによって1897年に、ピアノ曲からより大きな規模による演奏形態である管弦楽曲に編曲されました。ただ、その時に編曲されたのは第1番と第3番だけでした。

「なぜ第2番を編曲しなかったのか?」

という問いに、ドビュッシーは

「第2番まで編曲して聞かせるには少し退屈だから」

と答えたといわれています。また編曲の際にはドビュッシーの意図によって元の第1番は第3番として、第3番は第1番として番号をひっくり返しています。

日本では、戦前に作曲家の早坂文雄(1914〜1955)と共にサティ作品の演奏・紹介に努めていた伊福部昭(1914〜2006)が1951年に著した『音楽入門―音楽鑑賞の立場』において《3つのジムノペディ》のことを

「人類が生みえたことを神に誇ってもよいほどの傑作」

と絶賛していました。しかし、残念ながら当時はこの曲が広く知られることはほとんどありませんでした。

その後、1963年公開のフランス映画『鬼火』(ルイ・マル監督、モーリス・ロネ主演)がこの曲をフィーチャーしたことにより、この曲は一躍世界的に知られるようになりました。更に1975年に東京都豊島区池袋に開館した西武美術館で、それまでタブーとされていた美術館内での環境音楽として使用され、日本でもこの曲が広く知られるようになっていきました。

因みにこの曲には気分を落ち着かせるヒーリング効果もあるとされ、例えば病院における血圧測定中に心身の緊張をほぐすBGMとして流されたり、精神科などでは音楽療法の治療の一環として使用されることもあるようです。また、演劇やTV番組の静かな場面でのBGMとして流されることも多いので、クラシック音楽にあまり馴染みのない方でも耳にする機会は多いかと思います。

そんなわけで、今日はサティの《3つのジムノペディ》をお聴きいただきたいと思います。楽譜付き動画で、限られた音符数の中で最大級の効果をもたらすことに成功した、エリック・サティ音楽の真骨頂的作品をお楽しみください。


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今日はフォーレの誕生日〜《ヴァイオリン・ソナタ第1番イ長調》

2025年05月12日 16時30分15秒 | 音楽
今日は曇天の空が広がる、肌寒い一日となりました。そんな中、今日は自宅で練習やデスクワークに勤しんでいました。

ところで、今日5月12日はフォーレの誕生日です。



ガブリエル・ユルバン・フォーレ(1845〜1924)はフランスの作曲家、オルガニスト、ピアニストで、教育者でもあった人物です。

フォーレはフランス南部のアリエージュ県パミエに、父のトゥサントノレ・フォーレ(1810〜1885)と、小貴族の娘だった母のマリー=アントワネット=エレーヌ・ラレーヌ=ラプラード(1809〜1887)の間の六人兄弟のうち末っ子五男として生まれました。フォーレ家はかつては大地主でしたが19世紀までにその財力は衰えていて、父方の祖父のガブリエルは精肉店を営み、その息子である父は学校教員をしていました。

フォーレの家庭は文化的素養が高かったものの音楽一家ではありませんでしたが、フォーレの才能は幼い頃から明らかで、9歳でパリのニデルメイエール音楽学校へ送られると、教会オルガニスト、合唱指揮者になるべく指導を受けました。その教師陣の中にいたカミーユ・サン=サーンス(1835〜1921)とは、生涯にわたる親交を結ぶこととなりました。

1865年に同校を卒業したフォーレがオルガニスト、教師として得た賃金はさほど多いとは言えず、作曲のために取れる時間は少なくなってしまいました。壮年期になって成功を見せ始めると、パリのマドレーヌ寺院のオルガニストやパリ音楽院の学長という重職に就き、依然として作曲に時間を充てることができなかったため、夏季休暇には田舎へと逃れて作曲に集中したといいます。

晩年にはフランスで当代を代表する作曲家として認められ、1922年のパリではフランス共和国宰相が音頭を取り、彼に敬意を表して過去に例のない国家的音楽祭が開催されました。フランス国外ではフォーレの音楽が広く受け入れられるには数十年の時間を要しましたが、唯一イギリスでは生前より多くのファンがいました。

フォーレは同時代のフランスを代表する作曲家の一人であり、その作曲スタイルは20世紀の作曲家の多くに影響を与えました。フォーレの作品の中でも有名なものに《パヴァーヌ》、《レクイエム》、《シシリエンヌ》、歌曲『夢のあとに』などがあります。

そんなフォーレの誕生日である今日は《ヴァイオリン・ソナタ第1番イ長調》をご紹介しようと思います。

《ヴァイオリンソナタ第1番 イ長調 作品13》はフォーレが1876年に完成した作品で、フォーレの室内楽曲のうち最も早い時期に書かれ、また最もよく知られている作品でもあります。 なお、フォーレのヴァイオリンソナタは2曲あり、第1番から40年以上経った1917年に第2番が書かれています。

ニデルメイエールの音楽学校を卒業したフォーレは、レンヌのサン=ソヴァール教会のオルガニストとして4年間を送り、1870年にパリに戻りました。その後サン=トノレ教会及びサン=シュルピス教会を経て1874年にカミーユ・サン=サーンスの後任としてマドレーヌ寺院のオルガニストに就任しました。

《ヴァイオリンソナタ第1番》に着手したのはその翌年1875年8月、フォーレ30歳の時でした。

当時、パリの音楽界ではオペラがもてはやされていて、他のジャンルはほとんど問題にされていませんでした。室内楽はアマチュア音楽家の内輪の集まりやサロンの場で演奏されていましたが、そのレパートリーは保守的であり、古典派からロマン派にかけての著名作曲家の作品に限られていました。

1875年、フォーレは夏の休暇をル・アーヴル近郊のサント=アドレスにあった友人のクレール夫妻の屋敷で過ごしていて、ベルギーのヴァイオリニスト、ユベール・レオナール(1819〜1890)と寝食を共にする機会を得ました。フォーレはレオナールからヴァイオリンの演奏技法について多くのことを学び、日中フォーレが書いた譜面が夜にはレオナールによって音にされるという状況で、フォーレの作曲に積極的な協力が得られました。

こうして、サント=アドレス滞在中に作品の大部分が書き上げられました。しかし年内に作品は仕上がらず、完成は翌1876年の夏になりました。

この年、ロシアから作曲家のセルゲイ・タネーエフ(1856〜1915)がパリを訪れていて、パリに在住していた文学者ツルゲーネフが彼にフォーレを紹介しました。タネーエフはフォーレが書き上げたばかりのソナタについて、師のチャイコフスキー(1840〜1893)に宛てた手紙に

「驚嘆すべき美しさ」

と書いています。


第1楽章はアレグロ・モルト、イ長調、2/2拍子、ソナタ形式。

大規模な協奏風の様式に基づく楽章です。ピアノパートに現れる力強い低音のオクターヴ、アルペジオや和音の響きを活かした表現などは以前のフォーレの作品にも見られるものですが、ここではさらに新たな力強さと厚みが加わっていて、交響的な広がりを感じさせます。

ピアノによって歌い出される第1主題はフォーレが好んだシンコペーションのリズムを持ち、万人を魅了する美に溢れています。 これをヴァイオリンが引き継いでいきますが、全体にイ長調の感じは少なく、むしろ短調の響きが支配的な楽章です

第2楽章はアンダンテ、ニ短調、9/8拍子、ソナタ形式。

二つの主題を持つソナタ形式に基づきますが全体は3部分からなり、展開部に当たる第2の部分でも二つの主題が同じ順序で調的に変化するのみであるため、単純な「2主題3部ソナタ形式」と見ることも可能です。第1主題はピアノの減七のアルペジオにヴァイオリンが短い動機で応答する形で進んでいき、けだるい雰囲気の中で歌われる一種の舟歌となっています。

第3楽章はアレグロ・ヴィヴォ、イ長調、2/8拍子、三部形式。

1小節に8分音符が2つの2/8拍子という疾走感のある主部に、3/4拍子の中間部を持つスケルツォ楽章で、 主部ではピアノとヴァイオリンが競い合うように第1主題が示されます。この主題は目の回るように速い楽想で後拍にアクセントがあり、ヴァイオリンはスタッカートやピチカートを駆使しながらピアノとともに転ぶように進んでいきます。

第4楽章はアレグロ・クアジ・プレスト、イ長調、6/8拍子、ロンドソナタ形式。

ピアノの和音に乗って、ヴァイオリンが第1主題を軽やかに歌い始め、ピアノがこれを繰り返します。息の長い旋律性と抒情性を併せ持つこの主題は、後にフォーレが作曲したピアノ連弾のための組曲《ドリー》の第3曲「ドリーの庭」(1895年作曲)にも用いられました。

そんなわけで、今日はフォーレの《ヴァイオリン・ソナタ第1番イ長調》をお聴きいただきたいと思います。クリスチャン・フェラス(1933〜1982)のヴァイオリン、ピエール・バルビゼ(1922〜1990)のピアノによる1964年の録音で、フランス・ロマン派の貴重な室内楽作品をお楽しみください。



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あれから30年後の母の日〜ドヴォルザーク《我が母の教え給いし歌》

2025年05月11日 16時50分20秒 | 音楽
今日は全国的に母の日です。街中には





色とりどりのカーネーションが売られていて、レジには長い列ができていました。

私の母は1995年に、52歳の若さで彼岸に発ちました。あれから今日で30年、今元気なら82歳ですから、存命でも不思議はありません。

母は美容師でした。高校を出てすぐに上京して美容学校に入り、己の技術をひたすら磨いた人でした。

その努力は凄まじく、プレーンな状態から地髪で文金高島田を結い上げ、着付けまでこなして一人で花嫁を仕上げる技を持っていました。成人の日には朝早くから近所のお姉さんたちの支度をしていましたが、全員に違う帯の結び方を施す匠でもありました。

その技術の高さから、いろいろな結構式場からスカウトがありました。受ければ身入りもそれなりによくなったと思われますが、母は

「自分のしたいことができなくなる」

という理由でそれらを断り続け、最後まで一国一城の主であり続けました。

そんな母が癌に侵されたのは40代が終わろうとする頃、私は当時オーケストラプレイヤー、長女の妹は高卒で社会人、次女の妹は中学生でした。当初は余命一年といわれていましたが、『次女の中学校卒業を見届ける』という目標を立てた母の執念は凄まじく、見事その目標を達成して人生の幕を下ろしました。

あれから30年、気づけば私はすっかり母の齢を追い越してしまいました。あとどのくらい生きるのか分かりませんが、私はあの母のようには強く生きられそうにありません。

そんな母の日である今日は、ドヴォルザークの《我が母の教え給いし歌》をお聴きいただきたいと思います。佐藤しのぶのソプラノ、外山雄三指揮によるNHK交響楽団による演奏で、ドヴォルザークの優しいメロディをご堪能ください。


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雨と湿気とエリック・サティ〜《グノシエンヌ第1番》

2025年05月10日 17時00分00秒 | 音楽
カミーユ・ピサロ【テアトル・フランセ広場~雨の効果~ 】(1898年)

今日は朝から冷たい雨の降る、生憎のお天気となりました。湿気の多い天気だったのと小学校勤務の疲れとで、今日は家から出る気になれませんでした。

こんな陰鬱な天気には



エリック・サティ(1866〜1925)のピアノが似合います。その中でも、今回は《グノシエンヌ第1番》をとりあげてみようと思います。

《グノシエンヌ(Gnossiennes)》は、エリック・サティが1889年から1891年と1897年に作曲したピアノ曲です。特にサティが24歳の時に作曲した第1番から第3番の3曲は「3つのグノシエンヌ」として有名です。

題名の《グノシエンヌ》は、従来は古代ギリシアのクレタ島にあった古都クノーシスに由来するというのが定説でした。しかし、グノーシス派に由来したサティによる造語であると説明する人もいます。

グノーシス派とは古代の地中海世界でキリスト教とほぼ同時に興った宗教思想運動で、グノーシス(gnōsis)はギリシャ語で「知識」を意味しますが、ここでは人間を救済に導く究極の知識を指します。グノーシス主義は、この流れに属する一方で、既存の世界に対する強い批判も含まれています。

サティが生前に《グノシエンヌ》の題名で発表したのは、『3つのグノシエンヌ』(グノシエンヌ第1番、第2番、第3番)の3曲のみでした。サティの死後、他に3曲が発見されて『グノシエンヌ』の題名で出版されましたが、自筆譜に『グノシエンヌ』の題名が書かれていたわけではなく、作曲時期や曲の傾向から第三者に『グノシエンヌ』と勝手に命名されたにすぎません。

《グノシエンヌ》は《3つのジムノペディ》よりも東洋的な雰囲気が漂いますが、これは1889年のパリ万国博覧会で民族舞踊合唱団を通じて知ったルーマニア音楽の影響だと言われています。他のサティ作品にもありますが、この曲にも

「思考の端末で」
「うぬぼれずに」
「頭を開いて」

といった、この曲の演奏者への助言として付された奇妙な注意書きがあります。

《グノシエンヌ第1番》は1890年作曲で、楽譜を見ると、



拍子記号も小節線もなく、音楽と時間に対するサティの自由な思考が窺えるものとなっています。この曲には

「思考の隅で…あなた自身を頼りに…舌にのせて」

などと、独特な表現の注意書きが書き込まれています。

この曲は一連の《グノシエンヌ》の中でも、不穏でミステリアスな表現を助長させるために様々な映画やドラマ、CMなどに使われています。なので、タイトルだけ聞いて分からなくても、一度音楽を聴けば

「あぁ!」

と思っていただける音楽かと思います。

そんなわけで、今日はサティの《グノシエンヌ第1番》をお聴きいただきたいと思います。同じモチーフが繰り返されることによる独特の浮遊感と、言い様のないミステリアスさをご堪能ください。


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雨模様に聴くリスト〜《3つの演奏会用練習曲》より第3曲『ため息』

2025年05月06日 15時55分51秒 | 音楽
今日は朝から冷たい雨の降る、寒々しい連休最終日となりました。前日に天気予報をチェックして用事を済ませておいたおかげで、今日は家から一歩も外に出ずに過ごしていました。

練習やデスクワークをしていたのですが、今日のデスクワーク中にはピアノ音楽を中心に聴いていました。その中で特に印象的だったのが、リストの《3つの演奏会用練習曲》でした。

《3つの演奏会用練習曲》は、



フランツ・リスト(1811〜1886)によって作曲されたピアノ曲集です。着手したのは1845年頃で、リストがピアニストとして一線を退きヴァイマルで職に就いた1848年までに作曲され、1849年に出版されました。

練習曲とはありますが、機械的な技巧や耐久力のみを要求するのではなく甘美な詩情にあふれた曲集でもあり、演奏会等でも好んで演奏されています。特に日本では、2024年に他界したピアニストのフジ子・ヘミングの演奏によって一躍有名になりました。

作曲当初、リスト自身は各曲に題名を付けてはいませんでした。ただ、フランスで《3つの詩的なカプリース》として出版された際にそれぞれの曲にイタリア語の題名が付けられ、現在もそれが広く用いられています。

第1曲 『悲しみ』 (Il lamento)
アレグロ・カンタービレ、
変イ長調、4/4拍子。

旋律と伴奏とを弾き分ける練習曲で、「ア・カプリチオ」と指示された即興的な序奏に続き、切れ切れに歌われる主題が様々な調を転々としながら変容していきます。長調ではありますが、減七和音の頻出や二度下降の動機(いわゆる「ため息」モティーフ)によってメランコリックな色調を帯びている作品です。

第2曲 『軽やかさ』 (La leggierezza)
クアジ・アレグレット、
ヘ短調、3/4拍子。

右手の繊細なコントロールのための練習曲で、三連符の伴奏に乗って主題が様々な音形で変奏を加えられます。中盤以降は、ショパンの《練習曲 Op.25-2》を思わせる急速な音形が現れます。

第3曲 『ため息』 (Un Sospiro)
アレグロ・アフェットゥオーソ、
変ニ長調、4/4拍子、三部形式。

アルペジオと両手で旋律を歌い継いでいく練習曲で3曲の中で特に演奏機会が多く、リストの作品のなかでも有名な部類に入る作品です。これは発表当時からのことで、弟子たちの演奏のために書いたカデンツァが複数残されています。

流れるような甘美な旋律が曲を通して歌われ、後半には19世紀のピアニスト・作曲家であるジギスモント・タールベルク(1812〜1871)が用いたピアノ演奏の技法である「タールベルクの三本の手」と呼ばれる超絶技巧が典型的な形で用いられています。楽譜を見るとメロディの8分音符の旗が上を向いたり下を向いたりしていますが、音符が上向きなところは右手で、下向きなところは左手で演奏する指示なので、優雅に聴こえる中でも素早く手が入れ替わる難しさがある曲でもあります。

そんなわけで、今日はリストの《3つの演奏会用練習曲》から、今回は第3曲『ため息』をお聴きいただきたいと思います。ポール・バートンによる楽譜付き演奏動画で、「タールベルクの3本の手」が交錯する超絶技巧の中に溢れる叙情性満載の音楽をお楽しみください。


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立夏に爽やかモーツァルト〜《フルート四重奏曲第4番イ長調》

2025年05月05日 17時00分00秒 | 音楽
今日は端午の節句であり、二十四節気のひとつ『立夏』です。暦の上では今日から夏となりましたが、それに見合うような暖かさとなりました。

折角天気がいいこともあったのでどこかへ出かけてみようか…と思ったのですが、渋滞情報などを見るにつけどこもとんでもない人出だということが判明したため、自宅で大人しくしていることにしました。結果いつもと変わらない休日となりましたが、誰にも口出しされずに休みを満喫できるのも、独り者の醍醐味です。

ゆったりと過ごしながら、今日は気分で



モーツァルトの室内楽を聴いていました。いろいろと聴いていたのですが、そんな中から今回は《フルート四重奏曲第4番イ長調》をご紹介しようと思います。

この曲は従来の説では1778年にパリで作曲とされてきましたが、現在では1786年の秋から翌年の初め頃にウィーンで作曲されたという説が決定的になっている作品です。その根拠は、この曲の全ての楽章の主題が当時の流行していた歌からできていて、特に第3楽章が1786年にウィーンでヒットしたジョヴァンニ・パイジエッロ(1740〜1816)のオペラ《勇敢な競演》のアリアの主題を拝借していることによります。

1786年といえば歌劇《フィガロの結婚》や《交響曲第38番ニ長調『プラハ』》が生み出された時期で、音楽の彫りが深くなり、表現にいっそう幅が増した時期でもあります。しかしこの四重奏曲は各楽章の主題が当時親しまれていた旋律によっていることもあって、むしろ気楽で快適な気分に満ちています。

第1楽章はアンダンテ、イ長調、
4分の2拍子、変奏曲形式。

フランツ・アントン・ホフマイスター(1754〜1812)の歌曲『自然に寄す』の主題による変奏曲で、フルートによる主題の後に4つの変奏が続き、主旋律を担う声部はフルート→ヴァイオリン→ヴィオラ→チェロと、次第に低弦へと移って行きます。

第2楽章はメヌエット、ニ長調、
4分の3拍子、三部形式。

主題はフランスの古い民謡『バスティエンの長靴』です。生き生きとしたリズムの主部と、フルートの軽やかな舞いによる中間部のトリオからなっています。

第3楽章はロンドー:アレグレット・グラツィオーソ、イ長調、
4分の2拍子、ロンド形式。

明るく壮麗なフィナーレですが、モーツァルトが冗談でロンドーを"Rondeaux"ではなく“Rondieaoux”とふざけて表記している上に、アレグレット・グラツィオーソと指示した速度指定のあとに、

「あまり速すぎず、あまり遅すぎず、そうそう、愛想良く、上品に、表情豊かに (ma non troppo presto, però non troppo adagio. Così-così - Con molto garbo ed espressione) 」

という、いたずらめいた指定が書き込まれています。

こうした例はホルン協奏曲にもあり、モーツァルトが親しい知人たちのための作品に書き込む冗談で、この曲が友情の産物であることを暗示しています。最後はどこか《魔笛》のパパゲーノのアリアを思わせるようなパッセージを響かせ、力強く終わります。

そんなわけで、今日はモーツァルトの《フルート四重奏曲第4番イ長調》をお聴きいただきたいと思います。古楽器アンサンブルのクイケン・カルテットの演奏で、何とも典雅なモーツァルトの音楽をお楽しみください。


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今日はハインリヒ・イグナツ・フランツ・フォン・ビーバーの祥月命日〜《レクイエムヘ短調》

2025年05月03日 15時55分51秒 | 音楽
今日はゴールデンウィーク後半戦の初日、憲法記念日です。1947年に施行されてから78年経ちますが、そろそろ戦勝国押し着せ憲法から脱却してもいい頃だと思っているのは私だけでしょうか。

ところで、折角の祝日になんですが、今日はビーバーの祥月命日です。



ハインリヒ・イグナツ・フランツ・フォン・ビーバー(1644〜1704)は、代表作《ロザリオのソナタ》などで知られるオーストリアの作曲家でヴァイオリニストです。

ビーバーは、ボヘミアのヴァルテンベルクに生まれました。若きビーバーは、作曲家でありオーストリア最高のヴァイオリニストと称されていたヨハン・ハインリヒ・シュメルツァー(1623〜1680)と早くから親交があり、そのシュメルツァーに作曲を学んだと考えられています。

ヴァイオリン音楽は当時イタリアが国際的に高い評価を獲得していて、オーストリアでもイタリア様式のヴァイオリン音楽が支配的でした。しかしビーバーはそれを覆す活動を行うことに成功し、当代最高のヴァイオリニストとしての評価を不動のものにしたのでした。

ビーバーは1671年からはザルツブルクで活躍していて、1679年には副楽長、1684年には宮廷楽長に就任し、以後亡くなるまでこの地位にありました。死後になりますが1690年には貴族に叙せられていますから、余程その信頼は厚かったのでしょう。

そんなビーバーの祥月命日である今日は、《レクイエム ヘ短調》をご紹介しようと思います。

ビーバーは《レクイエム》を2曲作っています。1687年に作られた15声部の《レクイエム イ長調》は編成も大きく演奏時間は40分以上かかりますが、今回ご紹介するもう一つの5声部の《レクイエム ヘ短調》は編成はよりコンパクトで、演奏時間は30分もかかりません。

このヘ短調のレクイエムは、どのようなきっかけで作曲されたのか分かっていません。聴いていると分かりますが、全体的に短調ならではの重苦しい雰囲気が漂っています。

「入祭唱」では和声的なホモフォニーの部分に挟まれて多声的なポリフォニーの部分があるという対称的な構成となっていて、さらに「キリエ」と「アニュス・デイ」とでは使われているテーマがともに短調の音階をそのまま使うというシンプルさで全体的な統一が図られています。そこに劇的な「ディエス・イレ」やメロディアスな「ベネディクトゥス」などが加わり、音楽的に非常に充実したレクイエムとなっています。

そんなわけで、今日はビーバーの《レクイエム ヘ短調》をお聴きいただきたいと思います。アンサンブル・オルランド・フリブールの演奏で、静謐な響きのレクイエムをお楽しみください。


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今日はドヴォルザークの祥月命日〜荘厳な《レクイエム 変ロ短調 作品89》

2025年05月01日 15時15分15秒 | 音楽
今日から皐月に突入し、2025年が三分の一終わりました。そんな今日も、昨日同様に過ごしやすい爽やかな陽気となりました。

ところで、今日5月1日はドヴォルザークの祥月命日です。



アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク(1841〜1904)は後期ロマン派に位置するチェコの作曲家で、チェコ国民楽派を代表する作曲家です。

晩年のドヴォルザークには尿毒症と進行性動脈硬化症の既往があったのですが、1904年4月にこれが再発し、5月1日の昼食の際に気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取りました(享年62)。死因は脳出血で、葬儀はその4日後の5月5日に国葬として行われました。

そんなドヴォルザークの祥月命日である今日は、《レクイエム 変ロ短調 作品89》をご紹介しようと思います。

ドヴォルザークの《レクイエム》はイギリスのバーミンガム音楽祭のために委嘱された作品で、1890年1月に着手されて同年10月に完成し、翌1891年10月にバーミンガムで作曲者自身の指揮により初演されました。この頃は《交響曲第8番
ト長調》や《ピアノ三重奏曲 変ホ長調『ドゥムキー』》といった名曲たちとほぼ同時期に書かれていて、ドヴォルザークの円熟期の作品のひとつと見ていいでしょう。

あくまでも演奏会のための作品であり、具体的なミサ典礼は想定されていないため、モーツァルト(自身の死)やヴェルディ(友人の死)、フォーレ(母の死)などに比べて作曲に関する動機や物語性は乏しいものといわれています。しかし、同じくドヴォルザークの《スタバトマーテル》に劣らぬ宗教的大曲に周囲の期待は高く、ドヴォルザーク自身も並々ならぬ創作意欲を燃やして作曲に取り組みました。

第1曲 『入祭唱とキリエ』

冒頭に『ファ・ソ♭・ミ』という半音階的なジグザグ音形、いわゆる十字架音程が出現しますが、この動機は全曲を通じて繰り返される『生と死の不思議』を暗示するものです(この動機はドヴォルザークが敬愛していたバッハの《ロ短調ミサ》の第2キリエとの類似が指摘されています)。終結部のキリエで十字架音程が再現され、合唱は短調の最後の和音を長調の三和音で終わらせるピカルディ終止で終止します。

第2曲 『昇階唱』

この昇階唱は近現代のレクイエムでは省略されることが多く、曲がつくことは珍しい部分です。ソプラノソロと合唱の交唱で進行していき、最後はソプラノソロがアルトのような低音を響かせるフレーズは、地味ながら聞かせどころのひとつです。

第3曲 セクエンツィア『ディエス・イレ』(怒りの日)

この旋律は明らかに、グレゴリオ聖歌「怒りの日」の発展形です。強烈なオーケストラの響きと3連符には何か恐ろしいものが迫ってくるような感覚があり、 恐怖を掻き立てられます。

第4曲 『トゥーバ・ミルム』(奇しきラッパの響き)

「ラッパの音とともに最後の審判を受けるために死者が蘇るのを見て、死と自然界は驚くであろう」と歌う部分で、生と死の神秘を表象する動機に導かれてアルトのソロが歌い出します。後半はディエス・イレが再現されます。

第5曲 『クィドスムミゼル』(哀れなる我)

まるでうめくような半音階上昇調の合唱と、生と死の神秘を表象する動機で進行していき、後半はレックストレメンデ(恐るべきみいつの大王)が厳粛に歌われます。審判の厳しさをソロと合唱で表現し、最後はサルバメ(我を救い給え)と静かな祈りで終息します。

第6曲 『レコルダーレ』(思い出し給え)

「慈悲深きイエス様。あなたが人間の世界に降臨され、苦しみと辱めを受けたことは、この私のためでもありました。」「望むらくはその労苦を無駄にしないでください。」とキリストに語りかける場面で、テノールソロから始まり、その後は美しい4重唱が展開されますが合唱の出番はありません。この点は、モーツァルトの《レクイエム》のレコルダーレとも共通しています。

第7曲 『コンフターティス』(呪われし者は口をふさがれ)

まるで地獄の業火を思わせる激しい伴奏に導かれて合唱が歌いだすこの部分は、ヴァーグナーの音楽を想起させます。19世紀後半、ドイツ楽壇はヴァーグナー派とブラームス派が対立していて、ドヴォルザークはブラームス派の重鎮でしたが若いころはヴァーグナーに傾倒していたこともあったので、こうした音楽が登場したのかも知れません。

第8曲 ラクリモーザ(涙の日)

「審判者に答えるために人間たちが灰からよみがえるその日こそ涙の日である。」と歌うセクエンツィアの終結部です。モーツァルトやヴェルディのレクイエムでは人間の弱さや悲しみを哀切的なメロディで訴えていますが、ドヴォルザークは審判の厳しさと永遠の安息を願う祈りを音楽にしています。

第9曲 『奉献唱』

木管の格調高い前奏からバス合唱が「主、イエスキリスト、栄光の王」と厳かに歌い出し、リベラアニマス「魂の救済」から4重唱と合唱のかけあいが展開していきます。 後半はフーガで「私たちの魂の救済は主がアブラハムとその子孫に約束したことです。」と、神に対して契約の確実な履行を繰り返し要求していきます。

第10曲 『オスティアス』(生け贄)

独唱「主よ、賛美の生け贄と祈りを受け入れ給え」から始まり、合唱「死から生へと移しかえる御業をなし給え」と結ばれます。後半は、奉献唱と同じフーガが繰り返されます。

第11曲 サンクトゥス(聖なるかな)

万軍の神なる主を讃える歌で、後半には別の曲として作曲される場合もあるベネディクトゥス(祝福されますように)が続きます。最後のオザンナインエクシェルシスは「いと天高きところにオザンナ」と翻訳される場合が多いのですが、オザンナという何かが天に出現するわけではなく「主の栄光を讃える声が天高く響き渡りますように」という意味です。

第12曲 ピエ・イエス(慈悲深きイエス様)

サンクトゥスの後にピエイエスを置く様式はフランス式ミサ典礼に多く見られるもので、フォーレのレクイエムもこの様式をとっています。世間一般の評判では「ピエ・イエス」といえばフォーレですが、ドヴォルザークの作品も大変魅力的なものです。

第13曲 アニュスデイ(神の子羊)

「神の子イエスが人間となって降臨し、我々になりかわり世の罪を購ってくださった」というキリスト教独特の神秘的な救済の教えで、後半、ソプラノソロがルクスエテルナ(永遠の光)と歌い、ここからが聖体拝領唱となります。最後は「絶えざる光を彼らの上に照らし給え」敬虔な祈りの音楽となり、十字架音程が再現して静かに幕を閉じていきます。

そんなわけで、今日はドヴォルザークの《レクイエム》をお聴きいただきたいと思います。2002年にフランスのシャルトル大聖堂で行われた公演の動画で、ドヴォルザークならではの壮大な世界観の鎮魂歌をお楽しみください。


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今日はボロディン『韃靼人の踊り』日本初演の日〜フェドセーエフ指揮による熱演

2025年04月29日 17時17分17秒 | 音楽
今日は昭和天皇天長節です。決して『昭和の日』などというわけの分からない祝日ではありません。

さて、今日は昭和天皇天長節ですが、音楽的に有名な出来事のあった日です。今日4月29日は、ボロディンの『韃靼人の踊り』が日本で初演された日です。

『韃靼人の踊り』は



アレクサンドル・ボロディン(1833〜1887)が作曲した未完の歌劇《イーゴリ公》の中の音楽で、単独で管弦楽の演奏会で採り上げられることもある有名な音楽です。タイトルだけ聞いて分からなくても、オーボエのメロディを聴けば大概の方は

「あぁ!」

と気づかれるのではないでしょうか。

ボロディン作曲の『韃靼人の踊り』が日本で初めて演奏されたのは、1925(大正 14)年の4月29日のことです。クラシック音楽の日本での初演日を特定するのは難しいのですが、『韃靼人の踊り』がオーケストラによって日本初演されたのがこの日であるのは間違いありません。

演奏したのは、中国東北のハルビンから来日したロシア人演奏家33名に日本人の演奏家38名が加わった混成オーケストラでした。ハルビンは極東に進出したロシアが建設した都市で、欧風の街並みをもち、当時はロシア人の演奏家たちによって連日のように音楽会やオペラが上演されていたといいます。

ハルビンにはユダヤ人迫害やロシア革命の難を逃れて、はるばるモスクワやサンクトペテルブルクからやってきた一流の演奏家も多くいて、ハルビンのオーケストラの演奏水準は非常に高いものでした。その当時まだ低レベルだった日本のオーケストラの水準を何とか高めようと努力していた山田耕筰(1886〜1965)は、このハルビンの音楽家たちを日本に招いて日本人の演奏家と合同で演奏させることを企画し、実現したのが『日露交歓交響管絃樂演奏會』でした。

この演奏会は、4月26日午後7時から東京銀座の歌舞伎座で、近衛秀麿の指揮、ベートーベン交響曲第5番『運命』の演奏で始まって4日間連続開催され、4日目の最後に演奏されたのがボロディンの『韃靼人の踊り』でした。その後、楽団は名古屋、京都、神戸、大阪と巡回し、再び東京で追加の演奏会を行い、ロシア人のメンバーはハルビンへと戻っていきました。

そんなわけで、今日はボロディンの歌劇《イーゴリ公》から、4月29日に日本で初演された『韃靼人の踊り』をお聴きいただきたいと思います。ヴラディーミル・フェドセーエフ指揮、チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラの演奏でお楽しみください。


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久々に聴いた《ナクソス島のアリアドネ》〜若きグルベローヴァのツェルビネッタ『偉大なる王女様』

2025年04月28日 17時00分00秒 | 音楽
今日は何だかあまり具合がよくなかったので、投薬して静養していました。そんな中、ただ寝ているのも暇なので、いろいろと音楽を聴いていました。

今日は気分でオペラを観ようと思い、リヒャルト・シュトラウスの《ナクソス島のアリアドネ》を選びました。ここしばらくリヒャルト・シュトラウスを聴いていなかったので、久しぶりの観賞でした。

《ナクソス島のアリアドネ》は架空の貴族の屋敷内にある劇場の舞台裏で繰り広げられるオペラ制作のドタバタと、出来上がったオペラの劇中劇という二重構造を持つユニークな作品です。私が観ていたのは、



1978年に製作された映画版です。

出演者は

グンドゥラ・ヤノヴィッツ(プリマドンナ/アリアドネ)
エディタ・グルベローヴァ(ツェルビネッタ)
ルネ・コロ(テノール歌手/バッカス)
トゥルデリーゼ・シュミット(作曲家)
ヴァルター・ベリー(音楽教師)
ハインツ・ツェドニク(喜劇団長/道化)
エーリヒ・クンツ(執事長)

といった当時を代表する歌手陣たちで、カール・ベーム、指揮によるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏ですから、ハズレなわけはありません。残念ながら字幕がドイツ語、英語、フランス語、スペイン語、中国語しかないのですが、私はかつてレーザーディスクで日本語訳を観ているので問題ありませんでした。

このオペラでなんと言っても聴きどころなのが、ツェルビネッタのアリア『偉大なる王女様』です。恋人テセウスに捨てられ絶望してしまっている真面目な役柄のアリアドネに対して、コメディア・デラルテのヒロインであるツェルビネッタが

「男なんて浮気なもの。次のお相手なんていくらでもいますわ。」

と話しかける、ある意味ものすごく場違いなアリアです。

このアリア、オペラのちょうど真ん中あたりに設定されているのですが、14〜15分の間ひとりで歌いっぱなしになる長いものです。しかも長いだけでなく、超絶技巧てんこ盛りの激ムズアリアでもあるため、歌えるソプラノ歌手は限られています。

グルベローヴァのツェルビネッタは当代一と賞賛されていて、リヒャルト・シュトラウスと交流のあったカール・ベームからも

「シュトラウスが貴女の存在を知っていたら、どれだけ喜んだだろうか」

という最大級の評価を得ていました。そんな歌唱を、名手たちが映像作品にしておいてくれたこと、そして映像とはいえその名唱を聴ける時代であることに、感謝しかありません。

そんなわけで、今日はリヒャルト・シュトラウスの歌劇《ナクソス島のアリアドネ》からツェルビネッタのアリア『偉大なる王女様』を、エディタ・グルベローヴァの歌唱でお聴きいただきたいと思います。若きグルベローヴァの弾けるような美しさと、カール・ベームも絶賛した完璧な歌唱とをお楽しみください。


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苦労を共にしたメロディ〜ビゼー《アルルの女》第2組曲より『メヌエット』

2025年04月27日 17時17分17秒 | 音楽
今日、出かけた町田市でたまたま知人と行き合いました。この知人はアマチュアオーケストラでフルート奏者をしていて、かつて私が奏法のアドバイスをしたことがあり、それ以来の長い付き合いです。

ヴィオラ弾きのオマエが何でフルート?と思われるかも知れませんが、これには理由があります。

私がエキストラで参加していたオーケストラの演奏会で彼がソロを吹くことになっていたのですが、その曲というのが



ビゼーの劇付随音楽《アルルの女》第2組曲でした。そして、この曲でフルートのソロといえば、なんと言っても



第3曲の『メヌエット』です。

彼はアマチュアにしてはかなり上手な奏者なのですが、この『メヌエット』にはかなり苦戦していました。というのも、この曲のフレーズが長過ぎて、どこで息を吸ったらいいのか悩んでいたのです。

その時の指揮者はあまり的確な指摘のできる人ではなかったため、尚の事混乱していました。なので、休憩時間に

「僭越ながら…」

と、ちょっとしたヒントを授けたところ、ある程度したところから腑に落ちたらしく、その後の練習からはスムーズに演奏することができるようになっていたのです。

その時の指揮者は彼を褒めることもせず

「それくらいできるなら、はじめからちゃんと吹いてよ!」

と吐き捨てていましたが、

『本来ならばこうした指導は貴方の仕事でしょ!』

と、その場に居合わせた人たちほぼ全員が思っていたことは内緒です(笑)。

それから彼とは個人的に仲良くなり、いろいろと音楽談義をするようになっていました。コロナ禍ですっかり会わなくなっていましたが、思いがけず旧交を温めることができました。

そんなわけで、今日はその思い出の曲であるビゼーの『メヌエット』をお聴きいただきたいと思います。ビゼーのメロディの中でも抜きん出た名曲を、楽譜付きの演奏動画でお楽しみください。


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