共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

久しぶりのコメダ珈琲モーニング

2022年10月31日 14時45分40秒 | カフェ
今日も抜けるような快晴の秋晴れの日となりました。今日は先週土曜日の運動会の代休で休みのため久しぶりにゆっくりと朝の散歩に出かけ、



久しぶりにコメダ珈琲に立ち寄りました。

今日はこれまた久しぶりに



アイスコーヒーとモーニングセットをオーダーしてみました。コーヒーだけオーダーするとパンと付け合わせとサイドメニューが選べるモーニングで、今日は山切りトーストにイチゴジャムと茹で卵を組み合わせてみました。

久しぶりにコメダ珈琲に来たのですが、以前当たり前のように出てきたミニ豆菓子は出てきませんでした。それにメニュー価格もかなり高額になっていましたが、これらも昨今の値上げラッシュと無関係ではないのでしょう。

このコメダ珈琲の近くに



昨日の火災現場があるので、嫌でもその側を通ることになりました。実際に目の当たりにすると、そのあまりの凄惨さに言葉を失いました。

結局この火災では火元の住宅と合わせて5棟が全半焼し、3人の犠牲者が出てしまいました。50代の男性が石油ファンヒーターの上に洗濯物を干してしまうという軽率な行為によって起きてしまったこの火災で失われたものは、あまりにも多過ぎます。

未だに焦げ臭いニオイが漂う現場に、ただ合掌するしかできませんでした。これからの乾燥する時期に、改めて火災の恐ろしさを肝に銘じたのでした。

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早朝の火災

2022年10月30日 12時50分30秒 | 日記
運動会の疲れから、昨日は21時頃には就寝していました。そして夜明け方6時過ぎになって、何だかやたらと外が騒がしくなったので目が覚めました。

何だろう…と寝ぼけた頭で思いながらベランダに出てみたのですが、何だか尋常ではない数の消防車や救急車がけたたましくサイレンを鳴らして国道246号を走っていることが分かりました。と同時に、何だかものすごく焦げ臭いニオイと共にやたらと煙臭いことに気づいたのです。

これは只事ではないと思って外に出てみたら



我が家から北方面の厚木市妻田地区辺りから、もうもうと黒煙が立ち昇っているではありませんか!しかも、何だか目の前を黒いヒラヒラしたものが飛び交っているので見てみたら



紙のようなものが燃えた黒い燃え殻や薄茶色の灰が風上の火災現場から飛んで来ていたのです。

昼前のニュースによると

『30日午前6時20分ごろ、神奈川県厚木市妻田東2丁目の木造2階建ての住宅から「火が出ている」と近隣住民から119番があった。厚木署や市消防本部によると、焼け跡から1人の遺体が見つかり、他に2人の安否が不明。この家の住人3人と連絡が取れておらず、署は遺体の身元や出火原因を調べている。』



『署によると、この家は6人暮らしで、出火当時、70代夫婦と50代息子、孫の20代男性の計4人がいた。息子は逃げて無事だった。息子は「1階でファンヒーターをつけ、その上で洗濯物を干していた」と話している。』

とのことでした。残念ながら、どうやら犠牲者が出てしまったようです。

それにしても、石油ファンヒーターの上で洗濯物を乾かしていたとは…。製品の取扱説明書にも燃えやすいものの側に置かないように注意喚起されていたでしょうに、よりにもよって洗濯物を乾かしていたとしたら、恐らく目を離した間に洗濯物が石油ファンヒーターの上に落ちて、それに引火してしまったかなにかしたのでしょう。

季節が冬に近づくにつれて、空気が乾燥してきているのを肌身で感じるようになってきていました。そんな中で火事など出したら、木造建築はひとたまりもなかったことでしょう。

未だにあちこちに散乱している黒い燃え殻を見るだに、改めて火災の恐ろしさを目の当たりにした気持ちになりました。我が家もなかなか築年数の経った木造建築ですから、決して他人事ではありません。

もし我が家で火災を起こしたりしたら楽器も燃えてしまうことになりますから、そんなことになったら一大事です。これからの季節、我が家でも気を引き締めて防災に留意しようと思います。

改めて、犠牲者の御霊安かれと祈ります。合掌。

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感動の運動会

2022年10月29日 16時45分15秒 | 日記
今日は勤務先の小学校の運動会本番でした。ここ最近晴天に恵まれていたこともあって天候はあまり心配していませんでしたが、今日も早朝から抜けるような快晴の空が広がり、日中は少し暑いくらいになりました。

ここ数年はコロナ禍に振り回されて学年を区切ったブロック開催となっていましたが、今年は実に3年ぶりに全校開催となりました。今まで一家族あたり一人しか認められていなかった観覧も三人まで認められるようになり、会場内もかなり賑わった感じとなりました。

勿論、全てがコロナ禍以前の仕様に戻ったわけではなく、競技以外の時にはマスクの着用が必須となり、競技前後には手指のアルコール消毒が徹底されました。応援も極力声を出さずに、子どもたちも保護者たちも拍手で応援するスタイルがとられました。

間際までアタフタしていましたが、いざ始まってしまえば特に大きなトラブルも無く、至極スムーズに運んでいきました。6年生が障害物競走の道具の出し入れや設営をキビキビと行ってくれたおかげで、競技の入れ替えも素早く進みました。

今回個人的に感動したのが、各学年毎に披露されたダンスでした。1・2年生、3・4年生、5・6年生がそれぞれに演技を披露しましたが、子どもたちは今まで練習してきた成果を遺憾なく発揮してくれました。

今日を迎えるまでには、様々な困難がありました。

振り付けが覚えられなくてイライラして小道具を投げてしまう子、注意力散漫でフォーメーションチェンジの時に何回やってもアタフタしてしまう子、近くの子とお喋りしてしまって先生の説明を聞いていない子、

「何でこんなことやらなきゃいけないんだ」

と不貞腐れてチンタラチンタラしか動かない高学年の子…とにかく学年毎にいろいろな子たちがいたのが事実でした。その度に指導しておられる先生方のイライラも募っているのが手に取るように分かるので、先生方が爆発してしまわないうちに注意して回るのが私達支援員の仕事でもありました。

先生方も通常授業をしながら、如何に子どもたちが覚えやすく、尚且つ見映えがするものにするかを考えに考えて振り付けやフォーメーションを決めておられました。その御苦労が分かるだけに、何とか子どもたちに動いて覚えてもらおうとこちらも必死だったのです。

そうして迎えた本番でしたが、蓋を開けてみれば子どもたちはみんな時間をかけて覚えたダンスを精一杯披露してくれました。演技終了後、やり切った子どもたちの笑顔を見ていたら、危うく彼らの前で泣きそうになったのは内緒です(汗)。

全ての競技が滞り無く終了して閉会式が終わった後、高学年の子どもたちと一緒に使った道具や低学年の子どもたちが座っていたパイプ椅子の片付けを一気に済ませました。そして学年毎に記念撮影をしたのですが、その撮影を担任の先生がしようとしていたので

「先生、折角ですから子どもたちと写ってください」

とカメラをお預かりして撮影もしました。

子どもたちを無事に送り出してから軽く掃除をして、今日の全ての業務が終了しました。その頃には、昨日の礫拾いスクワットの筋肉痛が思い出したようにジワジワと効き始めてきて、ちょっと足を引きずるようにしながら小田原駅へと向かいました。

そのまま帰ろうかと思ったのですが、駅に着いたらものすごく空腹感に襲われたので、駅の近くにあるBURGER KINGで



ハンバーガーにポテト、チキンナゲットにアップルパイまでついたセットを食してきました。すると、後ろから肩をツンツンされたので

『?』

と思って振り向いたら、何とさっき送り出した子の一人が家族でランチに来ていたようで、私を見つけてわざわざ挨拶にきてくれていました。

思わぬ再会にビックリするやら、気を抜いて食事をしていたところを見られて気恥ずかしいやらで、一人でやたらと慌てました(汗)。それでも、

「今日は本当に頑張りましたね、お疲れ様でした。明日と月曜日はお休みですから、十分に身体を休めてくださいね。」

と伝えて別れ、私も帰路につきました。

自宅に着いた頃には、身体全体がバキバキになっていました。昨日の礫拾いスクワットにプラスして今日のあれこれが重なったことで、一気に疲れがきたようです。

今日はゆっくり風呂にでも浸かって、早目に就寝します…。

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ひたすらに、ただひたすらに礫拾い…

2022年10月28日 18時18分18秒 | 日記
いよいよ明日は運動会本番です。それに向けて今日は各学年毎に最終リハーサルが行われ、子どもたちは障害物競走のコースやダンスの振り付けの最終チェックをしていました。

明日の本番に向けて、今日は6年生以外は午前中授業で終わりました。5年生までの子どもたちが下校した後、6年生と先生方とで地面にラインを引いたりロープを張ったりして会場設営をしました。

その中で、私は



運動場の礫(れき)をひたすら拾い集めていました。高学年の子どもたちが裸足でダンスをするプログラムがあるのですが、練習中に足裏に礫が刺さって痛がる様子があちこちで見られていて、傍で見ていてものすごく気になっていたのです。

6年生の子どもたちも何人か参加してくれて、かなりの量の礫を取り除くことができました。ただ、しゃがんで礫を拾い集めては立ち上がって場所を移動してまたしゃがむを繰り返していたことで地味なスクワットをし続けているような状況になっていたため、作業が終了した頃にはすっかり腰痛と膝痛に見舞われてしまっていました…。

それでも、これで本番での演技がより良いものになってくれれば、私も汗まみれで礫を拾い集めた甲斐があるというものです。今日は膝や腰に湿布を貼りまくって、明日に備えて早目に休もうと思います(。-ω-)zzz. . .

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実は神奈川県下トップ!小田原みかん

2022年10月27日 18時00分30秒 | 日記
今日は火曜日とは別の小学校の放課後子ども教室の日でした。日差しがあったので日中は暖かでしたが、それでも吹く風は晩秋の冷たさをはらんでいました。

さて、その通勤の途上にみかん畑があるのですが、ふと見てみると



枝にたわわに実をつけていました。この辺りで栽培されているのはいわゆる温州みかんで、この時期のみかんは早生みかんです。

実は小田原でのみかん栽培の歴史は長く、江戸時代にはすでに栽培が始まっていました。小田原の温暖な気候と水はけのよい火山灰土壌が栽培に適していて、小田原が温州みかん栽培の北限ともいわれています。

明治時代に鉄道が開通したことをきっかけにしてみかんは本格的に商品化され、順調に収穫量・販売量を増やしていきました。しかし、1971(昭和46)年のグレープフルーツの輸入自由化や翌年の豊作による生産過剰などからみかんの価格は大暴落してしまい、小田原みかんの収穫量もこれを機に減少へと向かっていってしまいました。

更に、昨今の消費者の糖度至上主義の中で甘さと酸味のバランスが特徴の温州みかんは今ひとつ人気が低く、各農家は苦戦を強いられているようです。それでも小田原の温州みかんは神奈川県内では収穫量第1位で、年間約2万トンを出荷しています。

昭和の人間だからなのか、私は個人的に甘いばっかりのみかんにあまり魅力を感じません。むしろ

「みかんはある程度ちゃんと酸っぱくもあってほしい」

と思うタイプなので、そうした意味で温州みかんが性に合っている私としては小田原みかんはかなり魅力的です。

こうして黄色いみかんがなっているところを見ると、季節が着実に冬に近づいていることを実感します。もう少し季節が進んで買い求めやすくなる頃に、我が家でも買ってみようと思います。

学校からの帰り道、ふと見上げると



雪を戴いた富士の高嶺が夕空に聳えていました。明日もいい天気になりそうです。

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秋色『キャラメルナッツパフェ』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2022年10月26日 18時35分18秒 | カフェ
今日は日中青空が出て、昨日よりは暖かくなりました。それでも風が吹いてくると肌寒いことに変わりはなく、運動会の練習をしている子どもたちは一様に寒そうにしていました。

今日もどうにか小学校勤務を終えて、そこから横浜あざみ野の音楽教室に移動しました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日はかなり動き回ってすっかり疲れてしまったので、とにかく甘いものを欲していました。なので今日は



『キャラメルナッツパフェ』をオーダーしてみました。

アイスクリームや生クリームがのったパフェにはお店自家製のキャラメリゼナッツがあしらわれ、これまた自家製のキャラメルソースがたっぷりとかけられています。アイスクリームの下はお店のスペシャルティコーヒーで作ったモカプリンになっていて、甘さの中にキャラメルソースとモカプリンとの2種類のほろ苦さを楽しむことができるパフェとなっています。

今日は



温かいグアテマラコーヒーと共に、美味しく堪能しました。こうした落ち着いた見た目のスイーツをいただくと、本格的に秋になったことを実感します。

明日は、もう一つの小学校の放課後子ども教室のある日です。昨日の教室と違ってそちらは相変わらず手探り状態ですが、何とか頑張ってみようと思います。

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小田原ゆかりの北原白秋作詞《ゆりかごの歌》

2022年10月25日 18時35分18秒 | 音楽
今日は一段と寒い日となりました。昼間になっても一向に気温が上がらず、小学校の子どもたちは口々に

「さむいっ!」

と震えていました。

学校としてもあまりの気温の下落ぶりに戸惑っていたのですが、何しろ急なことで石油ファンヒーターの準備も進んでいないので、今日はとりあえずエアコンを回して凌ぐことにしました。それでもコロナ対策として換気はしなければならないのでいつまで経っても教室が温まらず、子どもたちには可哀想なことをしました。

さて、今日は放課後子ども教室のある日でした。今日も子どもたちに宿題や折り紙、塗り絵や迷路といった様々なものをやらせて過ごしましたが、教室の最後にみんなで歌を歌うことにしました。

コロナ禍以前に放課後子ども教室を実施していた時にも歌って終わっていたのですが、コロナになって歌うことそのものを禁じられてしまったため実施が危ぶまれていました。しかし、小田原市のコロナ警戒レベルが1にまで下がったことで、無事に学校側からも歌唱の許可が降りました。

今回とりあげたのは



童謡《ゆりかごの歌》です。この曲は現在、小田原市の夕方の放送で使われているので、一番に子どもたちに歌わせようと思っていた歌です。

多くの自治体では《夕焼け小焼け》が夕方に放送されていますが、小田原市では《ゆりかごの歌》が使用されています。その理由は、この曲の作詞をした詩人の北原白秋が8年もの間小田原に住んでいたことにあります。



北原 白秋(1885〜1942)が上京するまでの19年間暮らした故郷の福岡県柳川に次いで長く居住し、初めて自宅を持った土地が小田原でした。小田原に転居したのは大正7年3月、白秋33歳の時でした。

白秋はその後、大正15年5月まで8年2ヶ月にわたって小田原に居住し、

「雨」
「赤い鳥小鳥」
「あわて床屋」
「ちんちん千鳥」
「砂山」
「からたちの花」
「かやの木山の」
「ペチカ」
「待ちぼうけ」
「この道」

など、多くの作品を小田原時代に創作しましたが、その中に《ゆりかごの歌》もありました。

小田原の生活は快適なもので、白秋は終生小田原で暮らすことを考えていたといわれています。しかし、小田原にも甚大な被害を出した関東大震災で住居が半壊してしまったために東京へ移ることとなり、やむなく小田原を去ることになったのでした。

そんな歴史も絡めながら子どもたちに《ゆりかごの歌》を歌わせることにしましたが、その前に『ゆりかごクイズ』を出題しました。


問題:1番の歌詞に出てくる『カナリヤ』はどれ?











正解は



②なのですが、意外と①と答えた子が多くて、先生的には『してやったり』でした(悪)。因みに


③はウグイスで、一番間違った子が多かった引っ掛け問題の



①はマヒワでした。

そんなミニクイズをはさみながら子どもたちに《ゆりかごの歌》を歌わせましたが、普段夕方の放送で聴き慣れているメロディに4番まで歌詞があることに驚いている様子でした。折角ですから、これを期に子どもたちには日本の美しい歌をいろいろと覚えていってほしいと思います。

そんなわけで、今日は《ゆりかごの歌》をお聴きいただきたいと思います。小田原ゆかりの北原白秋の詞による、美しくも優しい子守歌をお楽しみください。


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なんじゃそら!?な最高裁判決

2022年10月24日 19時25分35秒 | 音楽
今日は朝から曇りがちだったこともあってかあまり気温が上がらず、肌寒い一日となりました。こう寒いとジャンパーを出してもいいかと思いましたが、10月に引っ張り出すのもどうかと躊躇したりもしました。

さて、今日のニュースで音楽教室と日本音楽著作権協会(JASRAC)との間で争われていた著作権料について、以下のような報道がありました。


『音楽教室でのレッスン演奏に関し、日本音楽著作権協会(JASRAC)が著作権使用料を徴収できるかどうかを巡って争われた訴訟の上告審判決で、最高裁第1小法廷(深山卓也裁判長)は24日、生徒の演奏に対しては徴収できないとした二審の判断を支持し、JASRAC側の上告を棄却した。 レッスン中の生徒の演奏を音楽教室による楽曲利用とみなし、教室から使用料を徴収できるかどうかが争点だった。』

『一方で教師の演奏からは徴収可能との判断が確定。JASRAC側が従来想定していた使用料は教師と生徒双方を徴収対象とすることを前提としていたため、実際の金額は今後改めて協議される見通し。』


これはレッスンで使う楽曲について音楽教室が著作権使用料を支払う必要があるかどうかが争われた裁判で、最高裁判所は

「生徒の演奏は対象にならない」

とする判決を言い渡し、先生の演奏に限って教室側に使用料を徴収できるという判断が確定しました。音楽教室での著作権について司法判断が確定するのは初めてのことです。

ことの発端は2017年、楽曲の著作権を管理するJASRACが音楽教室に対して、レッスンでの楽曲の使用料を請求する方針を示したことでした。音楽教室関係者からしたら正に寝耳に水で、ヤマハ音楽振興会などおよそ250の音楽教室の運営会社などはJASRACに対して、

「支払う義務がない」

と主張して訴えを起こしました。

1審の東京地裁は

「先生・生徒双方から著作権料を徴収できる」

と判断しましたが、2審の知財高裁では先生と生徒の演奏を分けて考え、先生の演奏については使用料を徴収できるとした一方で生徒の演奏は対象にならないと判断されました。最高裁では、JASRACが主張するように

『生徒の演奏についても音楽教室から使用料を徴収できるか』

が争われていました。

今日の判決で、最高裁判所第1小法廷の深山卓也裁判長は

「音楽教室での生徒の演奏は技術を向上させることが目的で、課題曲の演奏はそのための手段にすぎず、教師の指示や指導も目的を達成できるよう助けているだけだ」

と指摘しました。その上で、

「生徒の演奏はあくまで自主的なもの」

として、

「音楽教室が演奏させているわけではない」

と判断し、生徒の演奏について音楽教室から使用料をとることはできないとする判決を言い渡しました。

私に言わせれば、何の不思議もない至極真っ当な判断だというだけです。最近CDの売り上げが落ち込んで著作権料のピンハネが思わしくなくなったJASRACが苦し紛れに捻り出した浅知恵なのでしょうが、音楽を志す子どもたちから著作権料の大義名分で金を掠め盗ろうなどとした目論見は見事に潰されたことになります。

ただ、この判決によって

「先生の演奏に限って使用料を徴収できる」

という判断も確定しました。つまり、

「アンタらプロの演奏者でっしゃろ?なら、たとえ子どもに対しての模範演奏でも一人のオーディエンスに向けて『演奏行為』をしたんやから、払うもん払うてもらいまっせ。」

ということです。

となると、先生が演奏する場合にはすべからく著作権料の納付が義務付けられるわけですが、楽譜を購入した際に既に著作権料が取られた上に更に演奏の著作権料も徴収されるとなると著作権料の二重取りになるのではないかと…いったモヤモヤポイントは今後の協議次第ということになりました。とにかく、音楽教室講師の立場としては釈然としないのが本音です。

確かに、著作権は音楽を生み出した芸術家に対する大切な権利です。かつてそうした権利が蔑ろにされていたことを憂いて古賀政男をはじめとした面々が設立したのが日本音楽著作権協会のはずなのですが、今やこんなゴタゴタを引き起こす厄介な鼻っつまみ団体になってしまっているのが現実です。

これを期に、そもそも『著作権』とは何かについて改めて議論すべきなのではないかと思えてなりません。少なくともそれが音楽を学びたいと欲する子どもたちの足を引っ張るようなものであるなら、本末転倒です。

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霜降に聴くブラームス《弦楽六重奏曲第1番変ロ長調》

2022年10月23日 13時33分31秒 | 音楽
今日は二十四節気のひとつ『霜降(そうこう)』です。文字通り朝露にかわって霜が降りる頃ということですが、今日はそこまでの寒さにはならず、気持ちのいい秋晴れの空が広がっていました。

こんな爽やかな秋晴れの日には、爽やかな音楽が聴きたくなります。それで、ここ最近はバッハに行きがちだったので、今日はブラームスの室内楽を聴いてみることにしました。

そんなブラームス作品の中から、今日は《弦楽六重奏曲第1番》をご紹介しようと思います。

《弦楽六重奏曲第1番変ロ長調作品18》は1860年に作曲された作品で、当時27歳だったブラームスによって紡ぎ出された若々しく情熱的な曲調で知られています。その頃のブラームスを撮った写真が



こちらですが、音楽の教科書に載っている



ヒゲモジャ姿からは想像もつかないイケメンぶりです(汗)。

交響曲でもそうでしたが、ブラームスは弦楽四重奏曲の分野でもベートーヴェンの残した16曲もの名曲の重圧から、40歳になるまで作品を発表することができませんでした。しかし、弦楽六重奏曲は古典派の巨匠たちに同様の曲種がなかったこともあって、その気楽さからか若くしてこの第1番を残すことができたようです。

作曲にあたってブラームスは、



シューベルトが最晩年に残したチェロ2本の《弦楽五重奏曲ハ長調》の重厚で深い表現から影響を受けて、弦楽四重奏にチェロと更にヴィオラをプラスして六重奏にするという着想を得たともいわれています。ヴィオラやチェロの重厚な響きを好んだブラームスは、2本ずつに増えたヴィオラとチェロの声部を自在に書くことによって、厚みのある響きや陰影豊かな叙情性を表現することに成功しています。

チェロで奏でられる穏やかな秋の日だまりのように暖かいテーマで始まり美しいメロディが濃厚に展開されていく第1楽章、


(第2楽章自筆譜)

その美しくも哀しいメロディがルイ・マル監督の映画『恋人たち』にも使われたブラームスの変奏曲の名品第2楽章、田舎の農村のダンスミュージックのような陽気さが楽しい第3楽章、どこまでも爽やかなメロディを紡ぎながら最後に畳み掛けるように駆け抜けて終わる第4楽章と、どこをとっても聴き応えのある魅力的な作品です。そんな名曲を、1963年に録音された



20世紀を代表するヴァイオリニストの一人ユーディ・メニューインを筆頭に迎えたアンサンブルによる演奏でお楽しみください。

ブラームスの弦楽六重奏曲にはもう一つ、1865年に書かれた《弦楽六重奏曲第2番ト長調作品36》があります。ただ、そちらについても書いているととんでもなく長い投稿になってしまうので、そちらについてはまたの機会に。


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今日はルイ・シュポアの祥月命日〜重厚な《複弦楽四重奏曲第4番ト短調》

2022年10月22日 16時40分50秒 | 音楽
今日は朝から曇りがちの空が広がり、気温も予想された程には上がりませんでした。風も結構冷たい感じで、長袖シャツでちょうどいいくらいでした。

ところで、今日10月22日はシュポーアの祥月命日です。



ルイ・シュポーア(1784〜1859)はドイツ出身のヴァイオリニスト、作曲家、指揮者です。ドイツ語の本名はルートヴィヒ・シュポーアですが、ヨーロッパ中でヴィルトゥオーゾとして活躍するにあたってフランス語名のルイを名乗るようになりました。

1805年から1812年までゴータの宮廷楽長に就任したシュポーアですが、1808年にはウィーンでベートーヴェンと知り合い、ピアノ三重奏曲《幽霊》の練習に加わりました。1813年から1815年の間はウィーンに滞在してアン・デア・ウィーン劇場の指揮者を務め、1813年12月8日に行われたベートーヴェンの《交響曲第7番イ長調》と《戦争交響曲》の初演にも参加しました。

1817年から1819年まではフランクフルト歌劇場のオペラ監督となり、ウィーンでは劇場オーナーとの諍いによって上演を拒否された自身初のオペラ《ファウスト》を上演することができました。1822年からはカール・マリア・フォン・ヴェーバーの申し出によって、カッセル選帝侯の宮廷楽長の役職を得ることができました。

1851年、カッセルの選帝侯は雇用契約に基づく権利であるシュポーアの2か月の休暇について許可証への署名を拒否しましたが、シュポーアが許可証なしに演奏旅行に出発したため、給与の一部が差し引かれることになってしまいました。最終的に1857年には自らの望みに反して宮廷楽長職を引退させられてしまい、シュポーアの収入は一気に減少してしまったのでした。

1857年の冬、事故によって腕を骨折したため演奏家としてのキャリアは終焉を余儀なくされてしまったシュポーアでしたが、指揮者としてはその後も活躍していました。しかし2年後の1859年10月22日にシュポーアはカッセルで死去し、当地の中央墓地に埋葬されました(享年75)。

そんなシュポーアの作品の中から、今日は《複弦楽四重奏曲第4番ト短調》をご紹介しようと思います。

ヴァイオリニスト、作曲家、指揮者としてヨーロッパ中を席巻したシュポーアは、その生涯にヴァイオリンデュオや弦楽四重奏、弦楽五重奏をはじめとした48曲もの弦楽アンサンブルのための作品を遺しましたが、その中でも特異なものとして『複弦楽四重奏曲』というものがあります。シュポーアがヴァイオリニストのアンドレアス・ロンベルク(1767〜1821)と弦楽四重奏曲を演奏した時に、

「2つの弦楽四重奏団が共に響きあったら、どんなに素晴らしい音楽ができるのだろう」

と思いついたのが作曲のきっかけだということですが、自身がヴィルトゥオーゾでもあったシュポーアならではの工夫が凝らされた複弦楽四重奏曲は、室内楽ながらも厚みのある響きの作品となっています。

楽器編成としてはメンデルスゾーンも手掛けた弦楽八重奏と同じといってもいいのですが、シュポーアの複弦楽四重奏曲はあくまでも弦楽四重奏✕2ということで構想されています。シュポーア自身は

「メンデルスゾーンの弦楽八重奏曲は8つの弦楽器が全て同等に扱われているが、私の複弦楽四重奏曲は2つの弦楽四重奏の協調なので意味合いが全く違う。」

と語っていますが、2つの弦楽四重奏団がある時はぶつかり合い、ある時は溶け合いながら音楽を紡いでいく様は独特のものです。

この第4番ト短調も、弦楽四重奏✕2団体という編成ならではの濃密な音楽が満載です。各パートに奏でられるつむじ風のような音型が特徴的な第1楽章、暖かくも濃密なアンサンブルが展開していく第2楽章、2つの弦楽四重奏団が丁々発止にかけ合う第3楽章、重厚なアンサンブルからト長調のフィナーレへと結ばれる第4楽章と、なかなか聴き応えのある作品となっています。

そんなわけで、シュポーアの祥月命日である今日は《複弦楽四重奏曲第4番ト短調》をお聴きいただきたいと思います。バッハ・コレギウム・ジャパンのチェリストでもある鈴木秀美氏をはじめとしたアンサンブルによる、濃厚なシュポーアの音楽世界をお楽しみください。


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富士とニャンコと《小さな木の実》

2022年10月21日 18時00分18秒 | 音楽
今日も爽やかな秋晴れの日となりました。通勤の小田急線の中からは



快晴の空に映える富士山が聳えているのも見ることができました。

小田原駅を出て、登校する前にいつも参拝している辨天様に御挨拶に参じました。すると



玉垣の間からニャンコが顔を出していました。



鼻をクンクンさせながら何かを探している様子で、



あちこち眺め回していましたが、



カラスの声に驚いて上空を見つめたままフリーズしていました(汗)。私もあまりの声の大きさにビックリしたくらいでしたから、ニャンコにしてみたらさぞかし大声だったことでしょう。

今日も小学校では運動会の練習が行われました。来週土曜日が本番なのですが、学年によっては振り付けが上手くいっていないようで、先生方からは焦りの表情が見て取れました。

そんな若干ピリついた空気感の中で、一人の男の子が

「先生、これあげる!」

といって何かを手渡してくれました。何だろうと思ったら、



校庭で拾ったドングリの実でした。

何でしょう、たったこれだけのことなのに、何だかものすごくジ〜ンときてしまいました。あまつさえちょっと泣きそうになったのは内緒です(汗)が、最近とみに涙腺が緩くて困ります。

そんなドングリを見ていたら、《小さな木の実》という歌が脳裏に浮かびました。

《小さな木の実》は1971年にNHKの『みんなのうた』で発表された曲で、メロディは《カルメン》などを作曲したジョルジュ・ビゼーの歌劇《美しきパースの娘》の中で歌われるセレナードを基にしています。現在では音楽の教科書にも載っていますから、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

そんなわけで、今日はその《小さな木の実》をお聴きいただきたいと思います。発表から50年以上経った現在でも愛されている、美しくも哀しいメロディをお楽しみください。


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黄昏空と不二の山

2022年10月20日 18時30分18秒 | 日記
今日は二つ目の放課後子ども教室の日でした。先週の冷たい雨から一転して、今日は抜けるような快晴の秋晴れの下での開室となりました。

以前ここの学校の放課後子ども教室を担当されていた先生方の話では、かなりヤンチャな子がいて手を焼いたということでした。しかし、蓋を開けてみればそんな突拍子もない子はおらず、先週ロマンスカートークで釣って宿題をさせた子も至って大人しく宿題を済ませていました。

宿題が終わった後は、教室で用意した迷路や塗り絵や間違い探しを個々に楽しんで、子どもたちは元気に帰っていきました。部屋の掃除をしてからミーティングをしたのですが、かつてこちらで経験されている先生方からは

「今年度は信じられないくらい落ち着いていて、ものすごくやりやすい。」

という意見がありましたが、私はその頃を知らないので

『へぇ〜そうなんだ…。』

と他人事のように聞いていました。

次週の教室運営について確認して解散した後、最寄駅までつらつら歩いていました。すると、目の前に



夕焼け空に映える不二の御山が聳えていました。

小田原の公立学校の校歌には『富士の山』や『富士の峰』といった、富士山を歌う歌詞が含まれています。しかし、小田原から見ると富士山は箱根から連なる山並みの向こう側にあるため、実際に富士山が見える学校はそう多くはないのです。

かつて私が神奈川県に引っ越してきた時に、一番期待していたのが

『富士山を間近に見られること』

でした。しかし、いざ越してきてみると手前の丹沢連峰が見事なまでに屏風になって富士山のふの字も見えないことが分かった時には、ちょっとした絶望感に苛まれたものでした(泣)。

これからしばらくは、最寄駅からの行き帰りにこうした雄大な不二の御山を眺めることができそうです。ただ、これから夕暮れが早くなってくることもあるので帰り道の不二の御山を見られなくなる時期があることは、今から覚悟しておこうと思います。

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正統派ピザトースト@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2022年10月19日 18時18分18秒 | カフェ
今日は、この秋初めて寒くて目が覚めました。朝の気温は12℃と11月並の寒さで、さすがの私も厚手の長袖シャツを引っ張り出して出勤したくらいでした。

それでも、小学校で運動会の練習につきあっていると暑くなってくるので、長袖シャツを脱いでもどうにかなるTシャツを仕込んでいきました。結果その判断は大正解、運動場の端から端まですっ飛んで歩いていた私は、終わった頃にはうっすら汗をかいていたのでありました。

そんな小学校勤務を終えてから、横浜あざみ野の音楽教室に移動しました。そして2週間ぶりに《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

何だか運動会練習で給食のエネルギーを使い果たしてしまってものすごく空腹だったので、今日は



ブレンドコーヒーとピザトーストをオーダーしました。チーズたっぷりのピザトーストは正に喫茶店メニューの定番中の定番といった感じで、香り高いコーヒーとの相性も抜群です。

昼間にバタバタしてまともに椅子に座れなかった分、こちらでゆっくり座って美味しいコーヒーとピザトーストを堪能できたおかげで、ようやくホッとひと心地つくことができました。音楽教室でレッスンをしたら、明日はもう一つの小学校の放課後子ども教室です。

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今日はグノーの祥月命日〜室内楽的な響きの《レクイエム》

2022年10月18日 20時10分30秒 | 音楽
昨日の天気予報では午前を中心に雨が予想されていましたが、蓋を開けてみれば薄日が差すような比較的安定した陽気となりました。そんな中、今日は月末に開催予定の運動会の全体練習があったのですが、コロナ禍に翻弄されて3年ぶりに全校開催になるとあって、子どもたちは勿論大人たちもテンヤワンヤでした。

ところで、今日10月18日はグノーの祥月命日です。



シャルル・フランソワ・グノー(1818〜1893)は、フランスの作曲家です。

1859年に発表した歌劇《ファウスト》、1867年に初演された《ロメオとジュリエット》で大成功をおさめたグノーは1870年から1875年まで戦乱を避けてイングランドに過ごしました。そこで王立合唱協会(ロイヤル・コーラル・ソサエティ)の首席指揮者を務めたグノーは、この頃から作品の多くが実質的に声楽曲や合唱曲となりました。

グノーは後半生において、主に宗教曲を手掛けるようになりました。中でもバッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻第1曲の前奏曲にオリジナルの旋律をかぶせた《アヴェ・マリア》は有名で、《グノーのアヴェ・マリア》と称されています。

他にも2つの交響曲はハイドンやモーツァルトらの作品を熟知した上で作曲されていて、これらは後に17歳のビゼーが《交響曲ハ長調》を作曲する上でも手本となりました。そんなグノーは1893年の10月18日、パリ郊外のサン=クルーで死去しました(享年75)。

そんなグノー作品から、今日は《レクイエムハ長調》をご紹介しようと思います。

グノーは14のミサ曲と4曲の荘厳ミサ、そして3つのレクイエムを作曲していますが、《レクイエム ハ長調》はグノー自身の死の年1893年に作曲されました。半音階で上昇と下降を繰り返す不安げな音楽は意味ありげですが、これは華やかなオペラを作り出してきたグノーが、自身の死の年に作られたことに関係があるのかも知れません。

当初はオルガンのみの伴奏で書かれましたが、その後フルオーケストラ伴奏の楽譜も出版されました。今回はオルガンに弦楽四重奏を加えたバージョンでお聴きいただきたいと思います。



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今日はショパンの祥月命日〜最後の室内楽作品《チェロ・ソナタト短調》

2022年10月17日 19時00分20秒 | 音楽
今日は弱い雨が降ったり止んだりを繰り返す、生憎の空模様となりました。気温も予報通りには上昇せず、湿度が高いながらも薄ら寒い陽気となりました。

ところで、今日10月17日はフレデリック・フランソワ・ショパン(1810〜1849)の祥月命日です。



上の写真は、ショパンが亡くなった1849年に撮影されたものです。

パリの音楽界で活躍していたショパンでしたが、1844年初めにインフルエンザに罹り重態に陥りました。春になってやっと病状が回復しましたが、5月25日、父の死の知らせを受け取ると深い絶望に陥りました。

当時恋人関係にあった



女流作家ジョルジュ・サンド(1804〜1876)は、ショパンの母宛に弔いの言葉とショパンを思う心情を綴った手紙をしたためました。そして7月、ショパンの姉ルドヴィカがショパンを訪ねてパリを訪れました(ショパンが姉と再会するのは14年ぶりのことでした)。

しかしこの頃のショパンは、サンドと二人の子供との間の屈折した関係の中に少しずつ巻き込まれていて、特にサンドと彼女の娘のソランジュとの対立の構図の中で居場所を失ってつつありました。そして1847年、ソランジュの結婚に際してショパンが彼女に理解を示したことからサンドとの間に決定的な亀裂が生まれ、サンドはショパンに別離を告げることとなりました。

孤独な身となったショパンは招きに応じてイギリス・ロンドンに渡り、ヴィクトリア女王の御前で演奏会を催すなどの栄誉に浴しました。イギリスではロンドンのほかに、マンチェスター、グラスゴー、エディンバラなどでも演奏会を催しましたが、結核で身体が衰弱していたショパンにとって、この旅行は衰弱を加速させるものとなってしまいました。

パリに戻ったショパンは病床に伏し、大量に喀血してしまいました。姉ルドヴィカとの再会を望むショパンの求めに応じて1849年8月にルドヴィカがパリに到着しましたが、10月17日に姉ルドヴィカをはじめとした人々に看取られて亡くなりました(享年39)。


ショパンの葬儀は10月30日に、聖マドレーヌ教会で行われました。遺言によって葬儀の前に取り出されたショパンの心臓は姉のルドヴィカによって祖国に持ち帰られ、




クラコフスキ区の聖十字架教会柱に、アルコールに浸けられて収められています。


さて、そんなショパンの祥月命日の今日は《チェロ・ソナタ ト短調》をご紹介しようと思います。

人生の中心がピアノだったショパンは作品の殆どがピアノ曲ですが、わずかながら室内楽曲や歌曲も書いています。《チェロ・ソナタ ト短調》は、親友のチェリストで作曲家のオーギュスト・フランショーム(1808〜1884)のために書いたショパン晩年の作品で、同じ時期にヴァイオリン・ソナタにも着手していることから、ショパンがピアノ曲以外のジャンルにも積極的になっていたことが推測されています。

《チェロ・ソナタ ト短調》は、ショパンが36〜37歳の晩年に作られました。小品が多いショパンですが、この曲は大規模なソナタ形式楽曲で書かれていることからも、この曲に対するショパンの意欲の高さが窺い知れます。

構成的には《ピアノソナタ第3番》に似ているところが多く、全楽章にわたってチェロとピアノを対位法的に扱って協奏的にフレーズを展開しているのが大きな特色となっています。そのため『チェロ独奏+ピアノ伴奏』というスタイルにはならず、常にチェロとピアノが対等な関係て展開されています。

そんなわけで、ショパンの祥月命日である今日は《チェロ・ソナタ ト短調》をお聴きいただきたいと思います。ピアノの詩人ショパンの貴重な室内楽作品を、ヤーノシュ・シュタルケルのチェロ、ジェルジ・シェベックのピアノによる演奏でお楽しみください。


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