今日も厳しい残暑となりました。ただ外を歩いているだけで、具合が悪くなりそうです…。
ところで、今日8月18日はサリエリの誕生日です。
アントニオ・サリエリ(1750〜1825)はイタリアで生まれ、オーストリアで活躍した作曲家です。
ともするとサリエリは、モーツァルトとの関係でクローズアップされがちです。しかし、実際のサリエリは神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕える宮廷楽長としてヨーロッパ楽壇の頂点に立った人物であり、またベートーヴェン、シューベルト、リストらを育てた名教育家でもありました。
サリエリはウィーンで作曲家として、特にイタリア・オペラ、室内楽、宗教音楽において高い名声を博しました。サリエリは43曲ものオペラを作曲し、1778年のミラノ・スカラ座の開場を飾ったのもサリエリのオペラ《見出されたエウローパ》でした。
イタリア北部のレニャーゴに生まれたサリエリは、幼少の頃からジュゼッペ・タルティーニ(1692〜1770)の弟子であったヴァイオリニストの兄フランチェスコや、レニャーゴ大聖堂のオルガニストだったジュゼッペ・シモーニの音楽教育を受けました。1763年から翌年にかけて両親が相次いで死亡して孤児となり、はじめは兄のいる北イタリアのパドヴァ、ついでヴェネツィアに移り住んで、声楽と通奏低音を学びました。
1766年、サリエリが15歳の時に、ウィーン宮廷楽長にもなった作曲家フロリアン・レオポルト・ガスマン(1729〜1774)にヴェネツィアで才能を評価され、ウィーンに同行することになりました。ガスマンにウィーンの宮廷に紹介されて以後、サリエリはウィーンに留まり、ここでオペラ《オルフェオとエウリディーチェ》で知られるクリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714〜1787)らの面識を得ることとなりました。
1774年にガスマンが没すると、サリエリは皇帝ヨーゼフ2世によってその後継者として宮廷作曲家兼イタリア・オペラ監督に任命されました。更に、 ウィーンの宮廷楽長であるジュゼッペ・ボンノが1788年に没するとその後継者として宮廷楽長に任命され、亡くなる直前の1824年までの36年間、その地位に就くことになりました。
高い社会的地位を獲得したサリエリは、しばしばフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)などの著名な作曲家との交際がありました。またサリエリは教育者としての評価も高く、
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
フランツ・シューベルト
フランツ・リスト
カール・チェルニー
ヨハン・ネポムク・フンメル
ジャコモ・マイアベーア
フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー
(モーツァルトの未完の遺作となった《レクイエム ニ短調 K. 626》を補筆完成させた人物)
フランツ・クサヴァー・モーツァルト
(モーツァルトの息子)。
といった錚々たるメンバーがサリエリの薫陶を受けていました。 また、ベートーヴェンの《交響曲『ウェリントンの勝利』》の初演に参加し、砲手や太鼓奏者のための副指揮者を担当したこともありました。
死後はその名と作品を忘れられたサリエリですが、ピーター・シェーファーによる戯曲『アマデウス』(1979年)、およびその映画版(1984年)の主人公として取り上げられたため、一躍知名度が上昇することとなりました。 ただ、そのことによってサリエリは『天才モーツァルトを死に追いやった人物』という、歪んだかたちで知られることとなってしまいました。
実際に 1820年代のウィーンでは、サリエリがモーツァルトから盗作したり、毒殺しようとしたりしたと非難するスキャンダルが起こりましたが 、これらは何ひとつ立証されてはいません。 サリエリがそのようなことを言われるようになったのは、ロッシーニを担ぐイタリア派とドイツ民族のドイツ音楽を標榜するドイツ派の対立の中で、宮廷楽長を長年独占して来たイタリア人のサリエリが標的にされたからだ…ともいわれています。
サリエリはロッシーニからも
「あなたは本当にモーツァルトを毒殺したのか?」
と面と向かって尋ねられ、毅然とした態度でこれを否定したこともありました。それでもサリエリ自身は 身に覚えの無い噂に心を痛めていたらしく、弟子のイグナーツ・モシェレスにわざわざ自らの無実を訴えていたのですが、かえってこれがモシェレスの疑念を呼び、彼の日記に
「(サリエリは)モーツァルトを毒殺したに違いない」
と書かれてしまう結果になったため、話が余計にややこしくなってしまったのでした。
ただ、現在ではサリエリがモーツァルトのミサ曲をたびたび演奏し、オペラ《魔笛》を高く評価するなど、モーツァルトの才能を認めて親交を持っていたことが明らかとなっています。一方でモーツァルトは、1773年にピアノのための《サリエリのオペラ『ヴェネツィアの市』のアリア「わが愛しのアドーネ」による6つの変奏曲 ト長調 K. 180 (173a)》を作曲していますが、これはウィーンでの就職を狙って作られたものと考えられています。
またサリエリは、1791年のモーツァルトの死に際して葬儀に参列していましたり更にサリエリは2年後の1793年1月2日に、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵の依頼でモーツァルトの遺作《レクイエム ニ短調 K. 626》を初演しています。
こうした事実から、サリエリをモーツァルト絡みのスキャンダラスな存在としてではなく、純粋に音楽家として評価する動きが高まってきました。2003年にはメゾソプラノ歌手のチェチーリア・バルトリがアルバムを出すなど再評価の動きもあり、2009年からは生地レニャーゴでサリエリ・オペラ音楽祭が毎年開催されるまでになりました。
そんなサリエリの誕生日にご紹介するのは、1815年に作曲された《『スペインのラ・フォリア』による26の変奏曲 ニ短調》 です。
『ラ・フォリア』はスペイン起源の舞曲で、様々な作曲家がこのメロディを使って変奏曲を書いています。圧倒的に有名なのが
アルカンジェロ・コレッリのヴァイオリン・ソナタですが、ヴィヴァルディのトリオ・ソナタやマラン・マレのヴィオール作品などもあります。
他にも
ジャン=バティスト・リュリ
アレッサンドロ・スカルラッティ
フランチェスコ・ジェミニアーニ
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ
フランツ・リスト
セルゲイ・ラフマニノフ
といった名だたる作曲家たちが『ラ・フォリア』を元にした作品を書いていますが、サリエリもそのひとりでした。
サリエリの『ラ・フォリア』は管弦楽作品ですが、当時の作品として聴くとかなり斬新な音楽ともいえるものです。冒頭こそ型通りに始まりますが変奏を重ねる毎に様々に変化して行き、中にはトロンボーンのアンサンブルやコンサートマスターのヴァイオリン独奏、果てはハープ独奏まで登場して
『これは本当に古典派の音楽なの?!』
と思わされるような斬新さを秘めています。
そんなわけで、アントニオ・サリエリの誕生日である今日は《『スペインのラ・フォリア』による26の変奏曲 ニ短調》をお聴きいただきたいと思います。ヴァイオリニストとしても活躍したラインハルト・ゲーベルの指揮による演奏で、謂れなき中傷を受けたサリエリの音楽世界にふれてみてください。
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