作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

「私と叔父の関係その12」「私の歌の再生回数表その22」その他。

2013-03-05 10:53:24 | Weblog
 さて、診療所で正規職員として入所した訳ですが、確か基本給は7万円そこそこだったと思います。それに交通費が付いていました。
当時私は、大阪の西成に住んでおり、そこから通っていました。勿論交通費は全額支給されるわけではなく、給与と認定されない範囲で支給されていました。後は皆勤すれば3000円、当直手当が幾らだったか忘れましたが付いていました。
勤務は2交代制で、午前中に出勤する者は「早出勤」、午後から出勤する者は「遅出勤」と呼ばれていました。早出勤は8時から17時、遅出勤は13時から20時30分だった様に思います。診療時間帯は、午前中は9時から11;45分、午後は18時から20時30分だったように思います。勿論現在のように週休2日制ではなく、毎週月曜日から土曜日の夜まで朝、晩診療していました。週に1度は深夜診療も有り、急患や、往診の依頼があれば出動していました。当時はそれが当たり前で、私もなんの疑問も感じませんでした。
ただ、現在は当時の記憶が曖昧で良く思い出せないのですが、私は水、土、日は実家に帰っていて、それ以外の曜日は、多分診療所の真横に隣接していた民家があったのですが、勿論医療法人京都共和会の所有の家屋で、同じ歳の従兄弟と同居していて、そこから通っていたと思います。当時医療法人名義の一軒家、寄宿舎が、診療所以外に3軒在りました。主に医師用として使用していた様で、それらの所在地は遠くても、診療所から5分以内の所に在りました。
私が正職員に成った当時は、ドクターは4人位いたように思います。ドクターは1単位(午前中及び午後の2時間30分を1単位と称していた)、2万円だったか3万円だったか明確には思い出せませんが、かなりの高給だったので驚愕したのと羨望を覚えた事を思い出します。でもこの事、給与の実態の事は後になって分かったことですが。
(私のこのブログは、なるべく時間の経過(現在の言葉で言えばタイムラインと言うんでしょうか)を遡って忠実に描写しようと思っていますが、時には時間が前後していて、非常に錯綜している部分がありますが、ご容赦下さい)
当時所長は、代診の先生が診察している間は、京大の第3内科の研究棟で、河合教授?の下で、ラットを使ってレニン活性の研究をしていました。レニンと言う物質は高血圧(昇圧作用があることはその時既に判明していた)に関係があるのじゃないかと、研究等の一室で研究を重ねていたのです。当時は現在の様な美しくて立派なコンクリート作りの研究等ではなく、古びた木造立ての研究室で地下にあったのだが、部屋に入ると何か得体の知れぬ動物の臭いがしていた。用事があって何十回とその研究棟を訪ねたのだが、最後までその臭気には馴染むことが出来なかった。
当時の所長の住まいは、嵐山にあり、嵐伝の嵯峨駅か嵐山駅付近に在った。勿論自身の持家ではなくて、S病院の所有物であった。所長は来訪者が好きだったのか、本当に良く泊まらせて頂いた。
結婚した当初は、所長は修学院に現在で言うマンションを借りて、住んでいたのだが、無職だった私はそこにも呼ばれて泊まりに言った事がある。
終の住まいとなったのは、京都市東山の五条であった。
さて、話はまた逸れてしまいましたが、今回はこれ位にしておきましょう(次回に続く)

ごく最近の事であるが、少しまた娘のところにでも行ってみようかなと思い、以前にもお世話になった事のある大手旅行斡旋代理会社に、PCで予約を取ってみたところ、最後のクレジット番号?(実際は何が原因か分からない)のところで引っかかり、10回以上試みたが入力できず、疲労困憊の果てに断念した。半日くらいは悪戦苦闘したであろうか。
しかし、安倍のミクスの影響か、日を、時を追うごとに円安傾向が強まっていくので、一刻も早く手続きをしたかったので、その超大手旅行斡旋代理会社の窓口となる電話番号を探してみたが、いくらPCで検索しても分からないので、104で尋ねたところ東京本社の電話番号しか分からないと言うので、その番号にかけ、応対に出た女性に旅行部門の電話番号を尋ねたところ、こちらから電話をさせて頂くとの回答を得、早急にお返事して下さるようにと受話器を置いた。ところがいっかな返事が来ない。たまらず104に電話して再び本社に電話を掛けたところ、次には男性が出てきたので、調べましてお電話くださるということだったので、待っていたところ、今度は直ぐに電話が掛かってきましたが、記録を調べたところ、連休の日にその様な記録は残っていなかったとの回答でして来たので、すったもんだの挙句、語気荒く今後の対応策を要求して電話を切ったと言うような事がありましたが、今から思いますと、もう少し口調も柔らかく、紳士的に対応しておけばよかったなと、後悔と反省をしております。遅くなりましたが本当に申し訳ありませんでした。さぞ御気分を害された事でしょう。でも私がお願いしました改善策の検討もよろしくお願いします。特にエラーの内容を表示下されば有難く思います。それと緊急の場合の連絡先をも。どうか宜しくお願いいたします。
 また、上記の様な出来事があったころからなのですが、「非通知」の電話が2,3回掛かって来ました。受話器を取ると、既に切れています。
 またこの2年間、YouTube様に掲載させて頂いていますどの楽曲にも高評価、低評価の数字に変動は無かったのですが、気が付いたのは、やはり上記の様な出来事があったころからなのですが、韓国語で唄っている「愛別釜山港」と言う楽曲2種類に、それぞれ低評価が1回ずつ、同じ曲名の同じ歌手の日本語で唄っているバージョンには、貼り付けさせて頂いてから評価無しだったのに、いっぺんに高評価が3に成っているのです。繰り返し言いますが2年間全く変動が無かった楽曲にですよ。単なる偶然でしょうか。不思議といえば不思議です。

 さて私はある時、父方の叔母に言われた事があります。「おまえの作る歌は、何か物悲しいな」と。でも過去に作曲した歌の中には、結構明るい歌や、ロック調の楽しい歌もあるんですよ。現在は20年以上も楽器は弾いたことが無いのでご紹介できるかどうか自信はありませんが。
 第22回の歌の再生表を、謹んでご紹介させて頂きます。再生して下さる各位には、心より感謝の言葉を申し述べさせて頂きます。本当に有難うございます。引き続きご支援、ご配慮賜りますよう宜しくお願い申し上げます。
 また近々ギターシリーズ第2作目と、「野ばらおまえたち」の韓国語バージョンをご披露させて頂きますので、併せてご支援、ご配慮賜りますよう宜しくお願い申し上げます。恐らく発表名は「顕市趙」となるかと思います。
 尚、3月5日、10時40分現在、私の歌の再生回数は32950回に上っています。謹んでお礼を申し上げます。有難うございました。

 
 
 

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