頼子百万里走単騎 "Riding Alone for Millions of Miles"

環境学者・地理学者 Jimmy Laai Jeun Ming(本名:一ノ瀬俊明)のエッセイ

2012年8月アイルランド・ダブリン(国際都市気候学会議)

2019-03-17 19:46:45 | 旅行

自由惑星同盟の首都星ハイネセンにて。建国の父、アーレ・ハイネセンの立像。(アニヲタにしか通じない?)



4日
 出発直前の数日、正直ヒマで、パッキングを含む他の小用を次々と片付けるも、肝心の12分のスライドの修正に手がつかない。やる気が出ない。講演前日の5日がまるまる空いているので、そこで片付けるとしよう。4日は安全に移動することに専心だ。
 つくばで売り切れていた「地球の歩き方」を成田で買う。ろくな情報が出ていない。アイルランドとはそんなところだろうか。指導学生(LY嬢:2019年現在は中国某大学の副教授)にあげてしまおう。
 Sueddeutschland Zeitung(南ドイツ新聞)を入り口でピックアップしたら、100%CAがドイツ語で話しかけてくることがわかった。となりの日本人も英語で話しかけてくる。やはり香港人に見えるのか。座席をかわってくれないかと言ってきたのは隣の日本人のBFらしき日本人男性。窓側だというので却下。通路側でないと、あれこれウザい。押し込められるのが嫌いな小生は、まったくお人よしではない。
 機中、テルマエ・ロマエ、バトルシップ、鴻門宴を一気に見てから少し寝る。仕事はしなかった。初日(6日)の講演が終われば、残りの4日間は気楽だ。ロンドンオリンピックの中継を堪能するとしよう。7月前半が忙しかったせいか、重要な国際投票の案内を見逃してしまった。小生が推薦している中国人が落選。まさか1票差ではあるまい。ごめんなさい。
 フランクフルトの両替所で、ヨーロッパを離れるのはいつかと聞かれた。再両替が一か月以内だと、手数料が必要だという。使い切るので再両替は不要だと申告する。トランジットカウンターで、本人かと疑われた。ドイツ語を話すので、顔のよく似た長期滞在の不法移民とでも思ったのだろうか。(昔は存在感がなく目立たなかったのですが、今はどうやら負のオーラが出まくりで、行く先々で怪しまれるみたいです。とうとうゴルゴ並みになったか?)
 フランクフルトからダブリンまでのフライト中、日本人も含め、知人が誰もいない。皆さん明日の移動なのか、あるいはほかの経由地なのか。となりのゲートはヒースロー行き。日本人の大学生だらけであった。女子マラソンの応援なのか。
 ダブリン空港の設備は古い。空港バスで都心に向かい、郊外電車に乗り換える。駅の入り口がわからず、珍しく迷走した。4km先のブータースタウン駅は無人化されていた。都心の南東の海岸(干潟公園の真ん中)にあり、とても磯臭い。ホテルまではそこから歩いて5分。荷物を引いての移動はつらい。ここは本当に3つ星か? 建付けが悪く、扉の開け閉めに毎度苦労した。しかも廊下がカメムシ臭い(最低)。





5日
 朝食は最悪、ブリティシュスタイルだ。トースト、焼いたトマト、キノコ、しょっぱいベーコンに、シリアル、ヨーグルト。浴室の排水も最悪だ。うっかりしていたら浴室から水があふれ出し、それから1時間タオルを絞りながらの排水工事に追われ、指の皮がむけた。悲惨。
 お昼前にようやくスライドの修正に手が付いた。明け方に引き潮だった海岸が満潮になっている。17時には完成し、そのまま郊外電車で都心に向かう。世界中から観光客が集まるという有名な飲み屋街を歩いていると、フィンランドに留学中の後輩に出会った。イラン料理の店で晩飯。近くにはギリシャ飯、トルコ飯、ブラジル飯も。夕食後、台湾のFB友達に遭遇。小生のオーラセンサーがさえていたようだ。20時過ぎに電車に乗ってホテルへ戻る。途中豪雨になり、空は明るいのだが、道路が水位30センチの河となって流れている。渡るに渡れない。インフラは途上国並みかもしれない。レインコートの小生は濡れ鼠。





 オリンピック中継、解説は往年の名選手たち。コリン・ジャクソンやマイケル・ジョンソン。さすがBBC。

6日
 朝食堂に降りてみると、小生の上海でのボスであるS先生(華東師範大学)がいた。一緒にいたのが香港大学のL先生。小生を見るなり広東語で挨拶してきた。「二年前に北京でお会いしましたね。」 いかん、すっかり忘れていた。科学院と名古屋大の合同シンポで会っていた人だ。小生が広東語を話せることまで覚えておられた。
 8時にホテルを出発。S先生と二人でアングロサクソン文化(ここはケルト圏)の悪口を言いながら、何もない住宅街を延々と1.5kmほど歩く。「鬼地方?」 人っ子一人会うことがなかった。店も閉まっている。地図もあいまいなので、記憶している距離と方角だけが頼み。ランドマークも見えない。コンパス付高級腕時計(5万円)が大活躍。20分後、広大な緑地とともに、大学の正門が突然現れた。ものすごく辺鄙なところだ。キャンパスに入っても、ときおり指さしを見失ったりして、5分近く遠回りしながらようやく目的の建物に到着。まだ参加者はほとんど来ていない。
 徐々に人が増えてきた。ヨーロッパの参加者がパラパラと声をかけてくる。「トシ、元気か。」 いかん、覚えていない。名札を見る。スウェーデン(L先生)。「あ、Hejsan。」 やっと思い出した。みんな私を知っているのに、記憶力自慢だった小生が皆さんを忘れている。夜のレセプションでもそんなことばっかり。オープニングセレモニーのころには300人以上になっていた。突然、韓国からの参加者が現れる。参加者リストを眺めていると、あの忌まわしい名前が。一度も話したことはないが、2006年にメールで無礼な対応を重ね、当方のプロジェクトを存亡の危機に直面させた張本人K某。そうだ、こちらがあの研究を完成させなければ、まだ「戦争」は終わらないのだ。ああ、気分が悪くなった。
 午前中のセッションは、南京の先生たちによるシミュレーション中心のもの。みんな10年以上前に小生が書いた論文のデータと方法論を使っている。しかし、そのキーポイントを聞かれても答えられない状態。計算機などの道具は進歩したが、哲学が後退しているのではないか。質疑は全般に低調だ。
 お昼の基調講演。サボろうと思っていたが、成り行きで出ることに。最前列しか席が空いていない。演者が紹介された。あれ、1年前の7月に、小生の研究室を含め、日本を行脚していたマンチェスター大学の2人(ハンガリー出身)だ。再会を祝してごあいさつ。どういう経緯で彼らが選ばれたのか。現会長のM先生(アイルランド人)と交流があるらしい。彼らはこの分野の専門家ではない。業界人ならば誰でも知っている古典の紹介の後で、ドイツと日本の学術的交流から政策への応用、米国における「都市と気候変化」研究に対する批判、、、これって、1年前の訪問時に小生が語った内容そのものじゃないか。と、突然、資料の図面を広げた小生の写真が大写しになる。あの時の写真だ。ある意味、日本の思いを世界中の専門家の前で彼らが代弁してくれたという予想外の結果になった。うちの学生曰く「びっくりしました。」 サボろうと思っていた講演で、主役級の扱いだったとは。
 今日は休日で学食も閉まっているので、参加者にはランチパックが配られた。サンドイッチ、バナナ、ポテトチップ、飲み物。悲惨すぎて泣けてくる。(実はその後毎日配られた、涙。)
 朝、S先生からBFタイプのアダプターをお借りできたので、午後一のセッションをサボって充電しながら自分の講演の練習。前日に大きく編集しているので、12分に収まるようスピーチを試行錯誤する。朝気分を害したり、お昼に想定外の高揚(基調講演にて演者から「主役」級の紹介を受けた)を感じたり、前の日に根詰めてスライドを修正したりと疲れ気味。セッション本番。一番大きな会場なれど、ややマイナーなテーマなので空席が目立つ感じ。前後をフランスやドイツの若手に挟まれたゴールデンタイムの設定だ。彼らのスライドは美しいが、字が小さく、英語もキレがなくて要領を得ない感じの講演だ。時間にもルーズ。教授クラスの小生は、こんな時に模範を示す必要があるだろう。とにかく、わかりやすくシャープに、を心がけ、ほぼイメージ通りの「演出」ができた。しかしここでも質疑は低調だ。
 夕方、学内でレセプション。ハンガリー風ビーフシチュー、タイ風チキンのおかゆなど。ドイツの友人たちと世間話、9月の広島2国間会議の打ち合わせ。今回は中国系の参加者が恐ろしく増えている。その半分近くは日本で学んだ人たちだ。「頼教授、久仰大名。」と何人かの若手がやってきた。なんか小生の知らないところで、名前だけが独り歩きしている。宴たけなわのころ、演目が始まる。アイルランドといえばリバーダンスだ。ケルトの文化と誇りが詰まったこのパフォーマンス。少女たちは民族衣装に身を包み、アイリッシュパブとかでの商業化された表演とは違ったイメージの、奥ゆかしいダンスであった。
 再びS先生と歩いて戻る。やはり「鬼地方」のままだった。9時前に就寝。オリンピックは中休みなのか、放送がなかった。明日からオリンピックを楽しむとしよう。

7日
 ドイツの友人たちがあと2年でみな退官すると知り愕然。もうそんな時代になってしまったのか。そろそろ世代交代だとは思っていたが。夜、市庁舎での歓迎会。むかつく韓国のK某をなるべく視界に入れないよう、ほぼ中心のテーブルでドイツの友人たちと談笑。その後香港の女子学生らと話し込む。彼女たちは東京の名所について熱く語ってくれた。カナッペだけでは足りないので、終了後アラブ料理へ。





8日
 粗末な「給食」に耐えかね、お昼は早めにサラダとスープの学内カフェへ。10ユーロで満腹。新鮮な野菜がうれしい。午後はスケジュールが空いたので中華街の探検へ。指導学生が前日四川料理を食べたというのはこのあたりか。世界どこの街でも小生の勘をもってすれば、1時間歩くだけでディープゾーンの構造をあぶり出す自信がついた。これが本当の都市工学者なのだろう。
 入ってみた中華のオーナー夫人は瀋陽出身。やはり小生を台湾人だと思い込んでいた。ほかに客もなく、一緒に飯を食う。娘が今回の会場であるUCDの学部生だという。アイルランド人なら25万円程度(小生の時代の国立大レベル)の学費であるが、外国人の場合75万円(英米よりは安い)。持ち込んだ中国のモトローラをローミングしようとしたが、よくわからない。上海のS先生も携帯が不調だと言っていた。こちらでSIMカードを買ってみようかと思ったが、どうせ遊びにしか使わないのでやめておく。

9日
 講演がつまらない。前回から3年が経過し、サイエンスは進歩しているはずなのに。道具やデータは最新、しかし地名が変わっただけで、発想の原点が昔と変わっていない研究のなんと多いことか。自分の研究の面白みを訴えることの下手な人が世界的に増えている。60ユーロの晩餐会に行こうか行くまいか直前まで迷った。上海のS先生は「チケット買って損した。」などとのたまう。日本人メンバーからの要請で、小生も参加することにした。大学の近くの英国風貴族庭園レストラン。思い思いのドリンクを楽しみ、90分後にようやくテーブルへ。前菜からステーキ、山盛りのチョコムース(S先生は糖尿病を恐れていた)まで3時間。間隔が空きすぎだ。日付も変わろうとしている。中国人台湾人数名とコーヒーの後に「脱走」。30分以上夜道を歩いてホテルへ。アメリカの宴会とさして変わらない。がっかり。

10日
 指導学生の講演無事終了。直前に会場を変更するお粗末な運営。お昼すぎ、逃げるように会場を後にし、S先生と指導学生を伴って郊外電車に乗る。ダブリンの北のはずれにあるホウス城へ向かった。山の上のゴルフ場を突っ切ってお城に到達。貴族の末裔が住んでいて、料理学校を営んでおり、観光客は立ち入り禁止。すぐそばに国立運輸博物館の看板が。休館日だったが、農家の庭に無造作に巨大なコンテナや戦車が打ち捨てられているだけの印象。S先生曰く「狗屁(F**K)」。国自体が「狗屁」に思えてきた。終着駅の周りは地元住民の海水浴場やマリーナとなっていて、週末を過ごす人出がすごい。S先生は中華のテイクアウトをご所望。店員は福建系の女のコ。ビキニの女子中学生たち(ケルト系)が入ってきて、目が合うと微笑みかけてくる。リアクションに困った。指導学生曰く「ここの文化ですね」。





 S先生が帰ってから、指導学生と中華街(川菜)へ。四川水煮魚がちょい甘。店員は東北なまり。「狗屁」だ。運河沿いに歩いてバス停へ。カモメの鳴き声が町中に響いている。

11日
 S先生と朝630にホテルを出発。45ユーロで申し込んでいた西海岸の断崖ツアーに向かう。バス停では乗車意思をオーバーアクションで運転手に伝えないと通過されてしまう。バンコクと同じシステムか。運行間隔がまだ長い時間帯なので、5分歩いて郊外電車の駅へ向かう。集合は740に都心なので、まだ余裕がある。720ころ到着。まだほとんど客が集まっておらず、バーガーキングで朝食。
 しばらくしてバス1台分の乗客がそろった。イタリア人が多い。英語はあまり聞こえてこない。当然、アジア人は我々2人だけだ。心配なのは、運転手が運転そっちのけで機関銃のようにガイドを続けていること。乗務員は彼1人だけだ。「Hey, Guy」をEveryoneの代わりに使っているのには違和感を覚える。化山さん(関越道?での帰化中国人ドライバー)の事故を思い出し、不安になる。
 走ること1時間。完全に西の郊外へ出た。最初のトイレ休憩15分。サービスエリアのビュッフェは思ったより充実している。ここで朝飯でもよかった。「お土産になりそうなものが何もない。」 S先生のクリティカルトーク全開。そのあと2時間同じような風景が続く。石垣で囲われた牧草地に転がるロール状のヘイ(Hay)と草を食む牛。野菜畑すら見えない。「太無聊。狗屁。我永遠不再来。」 さっきからS先生はそればっかり。小生も同感。最初から期待していなかった。2回目のトイレ休憩はコンビニ。ここでイチゴのドリンクと巨大なブラジリアンナッツ(大好き。マカダミアと似た味。)の袋を買い込んでおいて正解だった。
 午前中に西海岸の街に到達。ここからは海岸沿いのルートだ。お城や貴族の墓地を転々と見学。S先生はデジカメの充電を忘れ、小生が1日代理で撮影することに。小生の学生がこんなヘマをやらかしたら大目玉だ。アイルランドは溶岩の上に土壌が十分形成されていないので、農業には不向き。海藻を何世代にもわたって溶岩台地にばらまいて土壌を作り、ジャガイモを植えたという逸話は有名だ。ケネディ一家を含め新大陸へ渡った人が多いのもうなずける。今いるところは200年以上の昔、希望を抱いて人々が大西洋へと漕ぎ出していった場所なのだ。
 昼食ポイントには店が少なく、バーレストランのレジには長蛇の列。観光バス多すぎ。我々は最初からあきらめて売店のほうへ。ここにもろくな食べ物がない。S先生は甘ったるいブルーベリーケーキをつらそうに食べている。小生は5ユーロでアオカビのカマンベールチーズの塊をゲット。パンは売っていなかったが、先ほどブラジルナッツの袋を購入してあったので助かった。そこそこヨーロッパらしいランチになった。ここはツーリズム業界のレベルも低そうな国だと知った。小生も「狗屁」が口癖になってしまった。
 そして午後、ついに有名なMoher Cliffに到達。スケールもでかいが、人も多い。この海の先にあるのはアメリカだ。会議に来ていた香港の女子学生たちにも出会った。年賀状の写真はこれで決まりか。



 ミュンヘンから来ていたカイゼルひげのおじいさんは、モデルのような若い女性を2人連れていた。(小生が留学した)フライブルクはいいところだと言っていた。写真を撮ってと頼んできた妙にフレンドリーなロシア人女性。30歳くらい。以前マカオに住んでいたという。マカオで出会えるロシア人女性といえば、そっち系の人しか思い浮かばないので、まさか、と思った。「老妓女。」 S先生の毒舌再び。バスに戻ると、小生たちのいた座席が埋まっている。困っていると、前方に2つ空きが。その隣は非常に肥った女性が座っていて、おそらく圧力を嫌がって席を移ったのだろう。言葉が通じないのをいいことに、「肉蒲団」と悪口する我々。こういうのって、明らかにアジア人に対するイジメに違いない。
 夜8時、集合地点で解散。そのまま我々は四川料理へ。

12日
 朝4時にチェックアウトし、24時間走っている便利な空港バスで5時前に空港チェックイン。チェックインカウンターで、ビジネスクラスへアップがわかり、気をよくしてお土産を買い込む。搭乗口で指導学生と合流。前夜はダブリン在住の日本人女性とサッカーバーに行き、2時間しか寝ていないという。時差調整の一環としては正解と思う。
 フランクフルトで乗り継ぎ3時間強。カフェでシュツットガルト名物の岩塩付ブレッツェルが売っていたので指導学生に体験してもらう。小生は免税で、リッタースポーツのチョコとミュンヘンの白ソーセージ、アイスワインなどをどっさり買い込む。そのあとビジネスラウンジで男子マラソン中継の最初を観戦。ラウンジにいたアジア人風の女性スタッフとドイツ語でおしゃべりしていたら、タイ中部の出身だという。美人だが、背が高く声が低い。なんと、ルフトハンザの地上スタッフにも泰国人妖(LB)が働いていたとは。タイ語にスイッチ。昨年の洪水後について新たな情報を聞く。
 まもなく搭乗開始。と、突然搭乗ゲートの変更。ひどい話だ。早めにチェックインした人々はみなこちらのゲートに来ている。エコノミーの搭乗口は人が大勢。本日は満席だろう。エレベーターで上の階に上がり、ビジネス専用搭乗口(ラウンジの中にある)へ。ルフトハンザのサービスはこんなところに力を入れているようだ。
 A380は2階席がすべてビジネスクラス。キャパはそこそこ大きい。先ほど購入した大量のお土産で、小生の頭上の収納はいっぱいに。あとから入ってきた窓側隣席のおにいちゃんの荷物が入らず、ごめんなさい。と、カメラを持った日本人乗客がやってきて、日本人CAにカメラを渡し、そのおにいちゃんに声をかける。「Kさん、一緒に撮ってもらっていいですか。」 最初会社の同僚かなと思ったが、よく見たら毎日テレビで見る彼ではないか。当然そういうのはお断り。肖像ビジネス上、スポンサーへの配慮も当然だ。小生「これからしばらくは日本ですか?」 Kさん「はい、日本代表の試合があるので帰国します。」 以前、ソウルから戻るビジネスクラスで有名な宗教学者の中沢新一先生が隣だったことがある。その時も、浮足立ってサインを求めたり、ということはしなかった。小生もいっぱしの有識者という自覚があったし、著名人のみなさんが行く先々で一般人にからまれたのでは身が持たないだろうという配慮もあった。ちら見した所持品から、彼の持病や趣味などがわかってしまったりしたけれど。今回も小生は、わざと関心のないふりをした。帰国後驚愕したのだが、Kさんは中1日で試合に臨んでいる。同じ条件で移動した小生がまだ時差ボケでふらふらしていた時に。さすがはプロだ。小生の配慮のおかげで、彼はしっかり休養できたに違いない。これこそが偶然臨席した者に課せられた責務であろう。もし小生ではなくて中途半端なサポーターだったりしたら、彼は大変だったかもしれない。
 機内食の前菜とデザートはカット(栄養管理)、ひたすら寝る(体調管理)。彼の姿勢には大いに学ぶものがあった。外見こそ、そこらにいる普通の学部生という印象なのだが。身長も170ないくらい。オランダ選手とかに当たられたら吹っ飛んでしまいそうだ。しかし彼は間違いなく、今現在もっとも信頼できる日本人プレイヤーなのだ。Mの選手がマネージャーもつけず、ビジネスで一人移動とは。最近ファーストクラスが廃止されたことにも関係しているようだ。
 行きの便と同じドイツ人CAたちが乗務していて、みな小生を覚えていてくれた。小生は一貫してCAとドイツ語でやり取りしているが、Kさんは英語だった。新聞で、Mの監督の言葉がわからんとこぼしていたが、となりで聞いていた小生が感じる範囲では、英語ができないという意味ではなく、英国地方英語のなまりに慣れていないということだろう。エコノミークラスにBLの若手ドイツ人審判が乗っていて、名刺をCAに持たせてきたようだ。
 二人とも熟睡して成田に到着。無関心と思われても困るので、最後に「長旅お疲れ様でした。V戦での活躍に期待しています。」「ありがとうございます。」 これで彼はすっきりした気分で戦地に向かえるだろう。入国審査までのルートで、写メを構えた若造たちが、「かわいい」とか言いながら集団で追っかけている。彼は必死で顔を隠している。マネージャーの姿はなく、先ほど名刺を届けたドイツ人審判らしき男性がそばにいるだけ。入国審査場でも非常識な彼女らは撮りまくり。係員が血相変えて飛んできた。「今すぐ写真を削除しなさい!」 当然だ。これは重大な法令違反。スター選手は大変だ。15日の試合を見た限り、彼のパフォーマンスは十分でていたと思いたい。

番外
 2008年の冬、ニューヨークでS先生と数日ご一緒したおり、中華街の80ドルのホテルをアレンジしてさしあげたことがあった。小生は翌日帰国したのだが、S先生も1泊しただけで160ドルのホテルに移っていたことがわかった。
 あの80ドルホテルはシャワー共同、ベニヤ板で仕切ったような印象のところだった。その日の夕方S先生がくつろいでいると、隣の部屋から猛獣のような叫び声が。「Wooaao! Wooaao!」 アメコミの吹き出し風に書くとこんな感じだろうか。その声は20分以上継続して止まった。そのあとトイレに立ったS先生は、廊下でバスタオルを腰に巻いただけの黒人男性と、胸から下にタオルを巻いた女性(アジア系?)2名とすれ違ったという。「黒社会、野生動物、猿。」 びっくりしたS先生は翌朝速やかにチェックアウトしたのだそうな。

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2012年8月13日(アイルランドにて)

2019-03-17 19:40:52 | 日記
英語3:中国語3:ドイツ語2:日本語2。この1週間でしゃべっていたであろう時間の比率。なぜかアイルランドにはイタリア人の旅行者、短期留学が多い。しかもろくな英語がしゃべれない。こっちも伊、西、仏ごっちゃまぜで対応してあげるのだが、コミュニケーション上最大の問題は言語ではなくて、彼女らの思考体系かもしれない。
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2012年8月14日(五感六感)

2019-03-17 19:38:39 | 日記
最近妙に五感六感が冴えている。この人にはこちらが不愉快にさせられるという相手は、会って数秒話すとわかってしまう。先入観ではない。こちらも寛大なつもりなのだが、不思議なものです。
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2012年8月15日(女装?)

2019-03-17 19:37:51 | 日記
翻訳をしていて気がついた。中国では「女装」は単なるレディースファッション。しかし日本ではこれとは違うニュアンスでしか使われない。
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2012年8月15日(石田衣良先生)

2019-03-17 19:36:05 | 日記
中国Twitter(新浪微博)のフォロワーに、いきなり著名日本人作家の石田衣良先生が実名で出現。上海を中国の拠点としていて小生を見つけたらしい。私信で先生の作品の感想(ドラマ泣けましたよ)を送ろうかと思っていたら、1時間後には消えていた。本当にご本人の操作でフォロワーになったのか、Twitter(微博)の事務局が勝手に著名人同士(小生が?)をくっつけようと操作しているのか、どっちだろう。
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2012年6月G空間Expoシンポジウム(横浜):2012年8月1日執筆

2019-03-17 11:18:53 | 日記

最後のパネル討論の直前までが非常に締まりのない進行で、バトンを受けたときはラスト15分。ここからが「神」司会の本領発揮。

I succeeded the general chairman in the latest part (panel discussion) but 15 minutes only to the end. A fruitful soft-landing was my mission.

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2012年8月3日(普通が一番?)

2019-03-17 11:16:13 | 日記
「普通が一番」 
はるか昔から幾度となく聞かされていたこのセリフ、小生はずっと嘘だと思ってきた。底なしの格差社会化が進行しているのであれば敢えて言う。「悔いを残さないよう、頑張れる時に頑張っておきなさい。不調の時だってあります。ですが上を目指す姿勢があれば、そのような時でも『普通』でおさまります。そんな時にこそ、こういってあげればよいのです。『よかったじゃないか。普通で済んで。』」
再度申し上げるが、結果としての「普通」はいいと思う。しかし目標としての「普通」は、「普通未満」になる危険をはらんでいる。
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2012年8月3日(人の褌)

2019-03-17 11:11:53 | 日記
ヴィクトル・サネイエフ(Виктор Данилович Санеев、Viktor Danilovich Saneyev)。オリンピックの三段跳びで60年代から70年代にかけて無敵を誇っていた彼の跳躍写真が、中学1年の時に近所の先輩(ヤンキー)からもらった基本5教科の参考書の表紙を飾っていた。陸上部員だった小生は、というわけではないですが、もらった時は真っ白だった参考書の中身が面白く感じられて、ぼろぼろになるまで使い込んだ。うちの親父は今でもいっているが、「お前は人の褌で相撲を取ったな。」 
この性格は変わっていない。偶然所有権が回ってきた資料や観測機材なども重用しているが、思わぬ成果につながったことも少なくない。
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1989年修士論文

2019-03-17 01:21:42 | 日記

東京湾上の仮想島からラグランジュ粒子を風に流したシミュレーションです。地上風のみを用いた二次元の計算ですが、現実とそうずれてはいません。何かを連想しませんか。そして、あの時「なんであんなに時間がかかるのだろうか」と思った次第です。この仕事は1989年の修士論文としてやりました。

一ノ瀬俊明・松尾友矩(1990):東京湾埋立計画の大気環境アセスメント ~出現風系の統計学的推定を用いて~.衛生工学研究論文集,26,79-90

My master thesis of UT in 1989. It looks like SPEEDI.

(published in JSCE; Ichinose and Matsuo, 1990)

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