いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

東日本大震災から2年・・・被災地に入った取材メモを振り返ります。第1回目は、福島県です。

2013年03月11日 01時45分59秒 | 日記

2013年3月11日の月曜日は、東日本大震災からちょうど
2周年にあたります。
 もう2年かという気がします。

 当ブログは、被災地を定期的に取材してきました。
 取材した時と場所を並べると、
 2011年4月  福島県 小名浜港、いわき市、原発20キロ
 2011年7月  宮城県 仙台市、石巻市
 2012年4月  福島県 小名浜港、いわき市、原発20キロ
 2012年12月 岩手県 陸前高田市
 ・・・となります。

 この間、復興が進んだかといえば、遅々として進んでいない
というのが取材の実感です。

 2周年にあたり、被災地は実際にどうだったのか、取材メモ
を振り返ります。

 まず、第1回目は、震災直後、2011年4月末の福島県です。
 福島県の浜通りを、小名浜港から、いわき市に入り、福島原発
の20キロ圏の検問所まで行きました。
 そのときの様子を、写真とともに振り返ります。
 
 このとき、東京から首都高を経て常磐道に入り、福島県の
小名浜で降り、小名浜港に行きました。
 震災から1か月半後のことで、まだ震災直後といっていい
ような時期です。
 港に入り、目に飛び込んできたのは、船がごろごろと
打ち上げられている光景でした。
 写真をご覧ください。

 陸上に船が打ち上げられ、壊れています。
 右手には、水没した船が見えています。

 少し、右側に回ってみました。

 船が横倒しになって、転がっているのがよく分かります。

 次の写真は、船が一隻、まるまる、港の岸壁の上に
乗り上げてしまっています。

 津波があったことを知っていても、いったい、どうして
こんなことになったのかと驚くばかりでした。

 
 港には、観光協会の建物がありました。
 どなたかいらっしゃるかと思って行ってみると、
とても、そんな状態ではありません。

 外壁はかろうじて残っているのですが、建物の中は、
津波でごそっと持っていかれてしまいました。
 津波の被災地では、こういう状態の建物を、至る所で
目にします。

 港から少し離れて、小名浜の住宅街に入ってみました。
 すると、こんな状況です。

 住宅街でも、2階に達するぐらいの津波に襲われ、
家の中が破壊されました。
 写真は、その後片付けをしている様子です。

 小名浜から海岸沿いに北上し、いわき市を目指します。
 すると、途中に、津波で破壊された街がありました。
 とよま地区というようです。

 写真をご覧ください。

 私たちは、写真の真ん中の道を車で通ってきたのですが、
あまりの状況に、車を降りました。
 道路の両側には、住宅街があったのですが、写真で
分かるように、すべて、破壊されています。
 とよま地区は、海沿いの街でした。
 この写真でいえば、右手が、すぐ海岸線です。
 そのため、あの日、津波によって、なすすべもなく、
街が破壊されてしまったのです。


 後片付けをしている住民の方が、ひとり、ふたりと
いらっしゃいました。後片付けをしようにも、なにをする
こともできず、呆然として、座り込んでいらっしゃいました。


 車が何台も、壊れたまま転がっています。
 津波でここまで運ばれてきたのでしょう。


 破壊されたあとを見ていると、人々の生活が
あったことが、はっきりと分かります。
 せつなくなってきます。


 一軒、二軒と、かろうじて立っている家があります。
 歩いて近寄ってみましょう。
 すると、こんな感じです。

 さきほどの観光案内所と同じで、外壁は残っている
ように見えても、家の中は、破壊しつくされています。
 津波で、ごそっと、すべてを持っていかれたのでしょう。

 これを復興するのは、大変です。
 なによりも、この住宅街は、海辺にありました。
 すぐ目の前が海です。
 では、再建するにしても、また、同じ所に家を建てると
再び津波が来たら、同じことになる。
 しかし、移転するとなると、街ぐるみの集団移転を
するしかないでしょう。
 そうなると、個人の力ではどうしようもありません。
 こういうときこそ、政治と行政が出てこなければなり
ません。
 こういうときの政治でしょう。

 とよま地区をあとにして、いわき市に入りました。
いわき市は、福島を代表する中核都市ですが、福島原発
から30キロとか40キロ程度の距離しかありません。
 原発は20キロ圏内が立入禁止の規制区域になって
います。
 もし、いわきが立入禁止になっていたら、収拾が
つかなくなっていたかもしれません。住民の避難という
ことになれば、人口が違いすぎます。
 この日のいわきは、震災からまだ1か月半という
時期で、街中には、人通りがありません。


 原発に近く、住民の方は、家の中でじっとして
いらっしゃるのでしょうか。


 幸い、何軒かのレストランが営業していて、そこで
昼食を取ることが出来ました。

 いわきからさらに北上します。
 福島原発に、どこまで近づけるでしょう。
 原発から20キロ以内は立入禁止となっているので、
20キロ地点で、検問所があるはずです。
 すると、やはり、ありました。
 検問所です。


 近寄ってみると、警察の車両が何台か並んでいるだけです。
 警官も、別に防護服を着るわけでもなく、普通の格好
をしています。
 何も知らなければ、スピード違反の検問をしている
ぐらいに思えてしまいます。
 拍子抜けしましたが、考えてみれば、原発に向かって
検問を突破して突っ込んで行く人がいるわけもなく、
この程度の検問でいいのかもしれません。


 検問所のすぐ右隣りは、実は、サッカーのJビレッジ
です。ここで、日本代表が合宿をしたりしていたのです。
 大きな看板があります。

 

 検問所の警官に、「Jビレッジに入ってもいいですか」と
尋ねると、あっさり、「どうぞ、けっこうです」との返事が
返ってきました。


 
 Jビレッジは、20キロ規制のすぐ外側にあります。
 一歩向こうは、20キロ圏内です。
 もしかすると、政策的に、Jビレッジを、20キロ圏の
外側ということにしたのかもしれません。
 というのも、Jビレッジは、原発の作業に向かう人たち
の拠点になっているからです。宿舎もあるし、広い駐車場
もあるし、広いグラウンドもある。事故を起こした原発
に対応するとき、Jビレッジは、非常に便利なのです。

 Jビレッジは、あと何年も、原発での作業の拠点になり
続けるでしょう。
 とても、サッカーなど、出来ません。
 
 Jビレッジで、サッカーに日本代表がまた合宿をする
日が来れば、そのときこそ、復興が進んだ記念の日になる
のかもしれません。
 しかし、その日はまだ先のことのように見えます。