甲子園を目指す夏の高校野球の県大会が始まりました。
今年も、沖縄県がトップバッターです。
「夏」という感じで、いつも、わくわくします。
ところが、その開会式で、また、嫌な表現が出てきました。
「勇気を与える」
「感動を与える」
です。
開会式の選手宣誓は、次のような内容でした。
「これまで支えてくれたすべての方々や感謝の気持ちを
忘れず、最高の仲間とともに全身全霊をかけて、最高のプ
レーを表現し、勇気、希望、感動を与える唯一無二の試合
を目指すことを誓います」。
ご覧のように、
「勇気、希望、感動を与える試合を目指します」
となっています。
高校野球をしている選手たちに聞きたい。
君たちは、
マウンドで打者に向かうとき、「勇気を与えよう」と思
って、球を投げるのだろうか?
バッターボックスで投手の投げた球を打つとき、「希望
を与えよう」と思って、バットを振るのだろうか?
守備位置でバッターの打った球を追うとき、「感動を与
えよう」と思って、グローブを差し出すのだろうか?
違うだろう。
マウンドで打者に向かうときは、「ショートゴロを打た
してやろう」とか「三振させてやろう」と思って、球を投
げるはずだ。
バッターボックスに入るときは、なんとかヒットを打ち
たいと思ってバットを振るはずだ。
守備位置で打球を追うときは、なんとかして捕ってやろ
うと思ってグローブを差し出すはずだ。
そう。
野球の試合をするとき、だれひとりとして、
「勇気を与えよう」
「希望を与えよう」
「感動を与えよう」
などと思ってプレーする選手はいないのです。
9回裏2アウトから逆転サヨナラヒットを打った打者が
いるとします。こんなうれしいことはない。
その打者が、試合後、インタビューを受けて、
「はい、ぼくは、あのとき、感動を与えようと思って打
席に入りました」
と答えるということはありえないでしょう。
サヨナラヒットを打った打者は、インタビューで
「夢中でバットを振りました」とか、
「いやもう、最高です!」とか、
「信じられません」とか、
「夢みたいです」
というようなことを答えるはずです。
そうです。
私たちは、選手が夢中でプレーする姿を見て、感動する
のです。
感動を与えようとしてプレーするのを見て、感動するわ
けではないのです。
どうして、それが分からないのでしょう。
それに、なによりも、「与える」とは何なのでしょう。
こんな傲慢な言葉はないでしょう。
いわゆる上から目線の言葉です。
与えるというのは、上の地位や場所にいる人が、下にい
る人に、なにかをあげる言葉です。
「与える」を「ほどこす」と言い換えると、この言葉が
いかにおかしいか、よく分かります。
「勇気をほどこす」
「感動をほどこす」
おかしいでしょう。
高校生の君たちが、試合を見に来た人に、
「勇気を与える」
「感動を与える」
というのは、おかしいと思わないだろうか。
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しかし、実のところ、高校生を責めるのは気の毒です。
選手宣誓は、自分たちで一生懸命考えて文章を作ったの
でしょう。
高校生のころを思い出してみると、いつも、気負ってい
ました。
しかも、開会式の選手宣誓です。
気負うなというほうが無理です。
文章も気負ったものになる。
だから、高校生を責めてはいけないのです。
責められるべきは、うまくリードしてやれない大人たち
です。
野球部の監督、部長、あるいは、学校の教頭、そういう
大人たちです。
選手宣誓の文章は、事前に大人たちが見ているはずです。
そのとき、どうして、
「おい、勇気を与えるというのは、おかしいぞ」
「感動を与えるだなんて、えらそうな言葉だと思わない
か?」
「君たち、打席で、感動を与えようと思ってバットを振
ってんのか? 本当か?」
と言ってやらないのでしょう。
これは、大人に責任があります。
主催する高野連にも責任があります。
少し前、3、4年前までは、高校野球で、こんな表現は
なかったと思います。
もしかすると、去年の東北大震災を機に、被災者を励ま
そうという意識で、つい、使うようになったのかもしれま
せん。
しかし、「感動を与えよう」などと思ってする試合があ
るとすれば、そんな試合は、見ている人たちは、しらける
ばかりです。
勘違いをしてはいけません。
私は野球が大好きです。
夏の甲子園は、とくに好きです。
でも、
「感動を与える」
という言葉を聞くと、それだけで、がっかりしてしまい
ます。
高校野球の監督さん、部長さん。
どなたか、
「感動を与えるプレーをするなんて言うのは、おかしい」
と気づいてくれませんか。