いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

スティーブ・ジョブズ・・・本当に残念です。二人のスティーブとビルゲイツ、そして、日本の話を。

2011年10月06日 12時53分00秒 | 日記

 アップルのスティーブ・ジョブズ氏の訃報が伝えられま
した。ガンの手術をした後も、いまひとつ体調がよくない
ようでしたが、それにしても、突然、という思いがします。
 56歳でした。
 大変残念です。

 アップルといえばスティーブ・ジョブズ氏ですが、しか
し、アップルは、1976年、「二人のスティーブ」によ
って設立されたのです。
 ひとりは、もちろん、スティーブ・ジョブズ氏です。
 そして、もうひとりが、スティーブ・ウオズニアック氏
です。

この写真の左がスティーブ・ジョブズ、右がスティーブ・
ウオズニアックです。
 
 ふたりは、まだ大学生で、家のガレージを工場にしてパ
ソコンを作りました。
 このパソコンがAPPLEです。

 当時は、日本では、まだパソコンという言葉も広まって
いず、「マイコン」と呼ばれたりしています。もちろん、
いまのような「PC」などという言い方は存在さえしてい
なかったのです。

 そのころのパソコンは、基盤のキットのセットを買って
組み立てるもので、まだまだ、一般の人に普及するような
ものではありませんでした。
 ところが、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウオズ
ニアックの「二人のスティーブ」が作ったAPPLEⅡは、
すべてが完成した形になっていて、それだけでも、画期的
な製品でした。

 訃報を報じるテレビのニュースで、スティーブ・ジョブズ
の功績を、「安価なパソコンを発売し」と報じたものが
ありました。
 それは、取材不足もいいところで、大間違いです。
 APPLEⅡは、そうではなくて、ほとんど世界で初めて
のパソコンだったのです。

 当時、コンピューターというのは、人間の背丈より高い
ような超大型のマシンが何台も並び、オフィスのデスク
の上に、その端末(キーボード)が置いてあるーーという
イメージだったのです。
 その雄がIBMだったわけです。
 とても、個人のレベルで買ったり使ったりできすものでは
ありません。

 それを、個人でつまりパーソナルに使えるようにして
作ったコンピューターを、二人のスティーブが作ったの
です。
 それが、パーソナル・コンピュータであり、
 その輝く第一号が、APPLEⅡです。
  
 だれでも使えるようなコンピュータ初めて作った。
 それこそが、二人のスティーブの大きな大きな功績です。

  
 「安価なパソコンを出した」などと報じるのは、本当に
取材不足もいいところです。取材不足というより、何も
取材せずに書いたーーというしかないでしょう。
 そんなことを書くのは、二人のジョブズに対して、失礼
でしょう。 

 さて、このとき、APPLEⅡ用に開発されて、非常に人気
の出たソフトは、ゲームです。
 どんなゲームかというと、
1) 地下迷宮でモンスターと戦う「ウイザードリー」   
                  wizzardry
2) モンスターがうろつく世界を探検する「ウルチマ」   
                  ultima
です。
このふたつが、パソコンの本当に初期のころの、二大ゲーム
ですね。

 こういうIT系、もちろん、ITなどという言葉は最近
できた言葉で、その当時にあるはずもないのですが、まあ
いまの言葉でいえばIT系ですね、そのIT系のツールが
広く使われるようになる原動力は、だれがなんといっても
ゲームです。
 ウイザードリーをやりたいからAPPLEⅡを買うとい
う人が少なくなかったのです。

 ゲームを軽視する人は、IT系の世界では成功しません。
 人間は「ホモ・ルーデンス」であって、「遊ぶ人」なの
です。

 そもそも、ゲームって、動きが激しく、アイデアも要求
されるので、作るのが難しいのです。ビジネスソフトより、
ゲームソフトを作るほうが、技術的にははるかに高い水準
を求められます。
 だから、ゲームを作れるというのは、高い技術を持って
いるということにもなるのです。

 さて、二人のスティーブだけではありません。
 もうひとりの天才がアメリカで活動を開始します。
 それが、ビル・ゲイツ氏です。

 二人のスティーブのアップル社が、APPLEというハ
ードウエアそのものを作り、大革新をもたらしたの対し、
ビル・ゲイツは画期的なソフトウエアを作って、同じよう
に大革新をもたらしました。
 ビル・ゲイツの作った会社がマイクロソフトで、その画
期的なソフトウエアが「ウインドウズ」だったわけです。

 その後、スティーブ・ウオズニアックは静かに身を引き、
表舞台には出てこなくなりました。
 そのため、アップル社は、スティーブ・ジョブズ一人の
名前が有名になってしまいましたが、古くからのパソコン
マニアには、スティーブ・ウオズニアックの名前も忘れる
ことができません。ウオズニアック氏にも敬意を表したい
と思います。

 このころ、日本でも、同じように、有名になった若い企
業家がいました。
 アスキーを作った西和彦氏です。
 西氏は、神戸生まれで、二人のスティーブやビル・ゲイ
ツ氏とまったくの同年代です。
 西氏はとくにビル・ゲイツ氏と仲がよく、西氏のアスキ
ーと、ビル・ゲイツのマイクロソフトは、蜜月のような
関係にありました。
 しかし、その後、西氏は、メインバンクの銀行団と対立
し、アスキーから離れます。
 
 この当時は、ソフトバンクの孫正義氏は、無名の存在で
した。
 ソフトバンクは、パソコン雑誌を出しており、どちらか
というと、パソコンの出版社という感じでした。

 1977年、二人のスティーブがアップル社を作ったこ
ろは、まさしく、パソコンの黎明期であり、新しい時代が
来るという明るい予感がありました。

 そうした黎明期からの立役者であったスティーブ・ジョブズが
思わぬ形で姿を消しました。

 初めてパソコンを買ったのが、きのうのことのようです。
 ジョブズ氏が姿を消したのは、本当に残念です。
 感謝と敬意を表します。

 次回以降、もう少し、続きを書きたいと思います。
 





こぼれ話・・・温暖化防止を決めた京都会議(COP3)は、寒かった。小雪が舞っていました。

2011年10月06日 10時51分08秒 | 日記

 ジャーナリストとして取材をするうちに、心に残った
話、思わず吹き出してしまった話というのがあります。
 それを、適宜、書いていきたいと思います。
 
 まず、温暖化防止の枠組みを決めた1997年の京都
会議、京都議定書から始めましょう。

 地球の温暖化を防ごうというので、気候変動枠組条約
という国際条約ができ、その会議が、定期的に開かれて
います。
 会議は、各国持ち回りで、もう何度も開かれています
が、これまででとくに重要だったのが1997年12月
に京都で開かれた京都会議です。
 よくCOP3というのがこれです。
 こっぷすりーと読みます。
 3回目の会議だったわけですね。

 京都会議では、温暖化の原因を二酸化炭素(CO2)
であると定め、その削減量を、具体的に決めたのです。
 日本はCO2を6%削減し、アメリカは7%削減、欧
州は8%削減するというのが目標です。アメリカは、そ
の後、この目標を不満として「離脱」を宣言しました。

 さて、この会議は、12月の初め、1週間という長丁
場で開かれました。場所は、京都市の北の郊外、北山杉
で有名な京都・北山の一角です。北山の山の上に、「京
都国際会議場」という大きな会議場があり、この会議場
が舞台になりました。会議場の真ん前にはプリンスホテ
ルがあり、参加した各国政府の代表は、このプリンスホ
テルに泊まっていました。
 プリンスは高いし、空室もないし、記者たちは、山の
ふもとにある京都市内のビジネスホテルに泊まってい
ました

 京都をご存じの方はぴんとくると思いますが、京都の
12月は寒いのです。京都は12月から2月にかけて、
底冷えします。

 しかも、郊外の北山の山の上の会議場です。
 そしてまた、舞台となった京都国際会議場は、なぜこ
んな建て方をしたのかと思うほど、コンクリート打ちっ
放しの、コンクリートがむき出しとなった建造物です。
 これを設計した建築家には申し訳ないけれど、建物自
体が、寒々としているのです。

 そうです。
 この会議は、とにかく、寒かった。
 寒い12月に、底冷えのする京都で、寒風の吹く山の
上で、コンクリート打ちっ放しの寒々とした国際会議場
で、この会議は開かれました。
 何の会議かというと、「温暖化防止会議」ですよ。

国際会議場の正面には大きな広場があり、各国の環境
団体がビラを配ったりして、参加者に働きかけています。
 ところが、なにしろ寒いので、「温暖化を防止しまし
ょう」というビラを配る手が寒さで震えています。
 ビラを受け取ろうにも、会議場に出入りする参加者は
コートから手が出ません。

 いやー、本当に寒かった。

それに、国際会議場の付近には、プリンスホテルがあ
るだけで、レストランもなにもないのです。
だから、会議場の外にいると、ただただ、むき出しの
山があるだけで、どうにもしようがありません。
それが寒さに拍車をかけます。

長丁場、一週間の会議をしているうちに、雪が降り始
めました。
12月の中旬、ようやく、京都会議は、各国のCO2
削減量を具体的に決めた合意を採択して、閉幕しました。
これが「京都議定書」と呼ぶもので、中身は、冒頭に
書いたように、CO2を、日本は6%、アメリカは7%、
欧州諸国は8%削減するというものです。
この数値をめぐって会議はもめにもめ、もしかすると
採択できずに終了するかという状況にもなりました。
はらはらしながら、ようやく採択したときは、深夜に
なっていました。

採択の瞬間、会場は大きな拍手に包まれました。
参加者も記者たちも、ほっとして、会議場の外に出ま
した。
すると、ひゆーっと寒風が吹きつけ、小雪が舞ってい
るのですね。
正面広場は、うっすらと雪化粧さえしています。
みんな、寒さに震えました。
各国から集まってきた記者たちも、「寒い、寒い」と
言いながら、取材しています。
みんなして、雪の中を移動し、寒さに震えながら、
「温暖化防止」
の原稿を書きました。

 温暖化防止?
 そんなこといわないで、早く暖かい所に入りたい。
 手が、かじかでしまって。
 これじゃ、風邪ひくよ。 

 地球って、こんなに寒い星なんだ。
 寒冷化防止の間違いじゃないですか。

 みんな、そんな感じでした。

 京都会議は、本当に寒い会議でした。
 あれは、なんというか、開催の時期、場所を選ぶの
に、ちょっと失敗したのではないでしょうかねえ。
 
 会議には、過激な環境団体も来ていましたが、小雪
が舞うなか、彼らも、苦笑しながら「温暖化防止」の
ビラを配っていましたね。
 
 まあ、そこまで考えて時期と場所を決めたとすれば、
それはそれで、恐るべき深慮遠謀というほかありません。
 ただ、現場にいた実感としては、たぶん、これは、何
も考えずに時期と場所を決めたな、こいつら、という感
じでした。