いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

東日本大震災・・・あの日から1か月たちました。神戸からも16年です。

2011年04月11日 16時02分19秒 | 日記

・・・ 震災から1か月 ・・・・・・・

 きょう4月11日は、東日本大震災が起きてちょうど
1か月にあたります。地震が起きたのは3月11日の金
曜日、午後2時46分でした。
 福島原発の事故がなければ、被災地の支援、復興に
もっと力を注げただろうにと、それが残念です。

 私は神戸生まれで、実家が1995年の阪神大震災で
被災しました。阪神大震災は95年1月17日の午前5
時46分に起きました。不思議なもので同じ「46分」
です。阪神大震災が起きて、毎年1月17日の未明、
同じ時間には、神戸で追悼集会が開かれます。
 気がつけば、2011年の今年、もう16回目の1月
17日を迎えました。神戸の街は、その間に、ずいぶん
立ち直りました。

 東日本大震災で被災した地域も、被災された方々も、
いつか、
   「あんなことがあったなあ」
と振り返ることができるような日がきっと来ます。

 あのとき、神戸の人は、
  「がんばれ」
 といわれるのがつらかったのです。
 それをいわれると、神戸の人は、
  「いまでも、もう十分がんばっているのに」
 という思いがしました。
 だからいまは、東日本で被災した方を、そっと応援し
ていたいと思います。

 きょうは、阪神大震災のことを思い出し、あのころの
ことを書こうと思います。

・・・ 阪神大震災の日 ・・・・・・・

 阪神大震災のときは、東京に勤務しており、横浜に住
んでいました。あの日は、横浜でもわずかに揺れ、震度
1だったのです。なんとなく気になって目がさめ、テレ
ビをつけました。
  
 NHKをつけると、大阪放送局から中継をしていました。
実はこのとき、神戸放送局は地震の直後で、放送のでき
るような状況ではなかったのです。そこで大阪放送局か
らの映像を流したのですが、大阪は、ほとんど何も被害
を受けていません。
  NHKのアナウンサーは、その映像を見ながら、「神
戸で大きな地震があったようですが、大阪は、ご覧のよ
うに、いまのところ大きな被害は出ていません」と話し
てしまいました。
  私は、それでひと安心し、もう一度寝たのです。
  7時すぎに起きて、テレビをつけると、神戸からの
映像が入ってきて、とんでもない光景が広がっていました。

  阪神大震災は、ピンポイントで神戸とその周辺だけ
が、揺れたのです。それが阪神大震災の特徴で、直下型
の表層地震でした。だから、被害の地域は極めて限られ
ていました。
 NHK大阪のアナウンサーが、大阪だけを見て「い
まのところ被害は」といったのは、そういう事情です。
 神戸と大阪は、すぐとなりです。罪作りな放送でした
が、あの地震は、そのぐらい、狭いエリアに集中したの
です。
 その狭いエリアが、神戸という大都市だったことが、
悲劇でした。なんでまた、わざわざ神戸という大都市を
選んだのかと思います。どこか、太平洋の陸地からはる
か離れた沖合いだったら、あのぐらいの地震なら津波も
起きなかったでしょうし、なにも被害はなかったのにと
思います。

 あれは火曜日でしたが、水曜日には、家族が全員無事
にいることがわかり、安心しました。
 そして、その週末、神戸に戻りました。

・・・ 神戸へ ・・・・・・・

 東海道新幹線で、京都をすぎ、大阪が近づくと、緊張
しました。いったいどんなことになっているのだろう。
  ところが、大阪の駅に下り、梅田の地下街に入る
と、呆然としました。若い女性たちが、なにごともな
かったかのように、笑いさんざめきながら、歩いている
のです。
 ビルも倒れていないし、けがした人もいません。
 キツネにつままれたような気分でした。

 阪神電車に乗って、実家のある駅に向かいます。窓か
ら外をながめても、なにということもありません。
  なんなんだろう、これは。

 ところが、武庫川を越え、尼崎に入ると、いきなり風景
が変わりました。家倒壊した家が出てきました。

 まもなく甲子園の駅です。 阪神電車は、甲子園から先
は止まっていました。甲子園からは国道43号線沿いに、
神戸・東灘区の実家まで3時間ほどかけて歩いて帰りまし
た。
 その国道43号線の上に、大阪から神戸まで、高架で
走っているのが、阪神高速です。この高架が、地震で横倒
しになったのです。
 43号線に出ると、なんだか、大きなビルがどーんとあります。
 なんだろう、これは。
 こんなもの、こんなところにあっただろうか。
 そう思ってよくみると、それは、横倒しになった高速道
路だったのです。これには驚きました。

・・・ 実家で ・・・・・・・

 東灘区は、地震がもっとも激しかったのですが、実家は、
ドアが曲がったりしたものの、奇跡のように、立ち残って
いました。
  やれやれよかったと、実家に入ると、家の中には、ご
近所さんがたくさんいました。つぶれなかった実家に、家
が倒壊した近所の方が、避難してきていたのです。

  父や母の元気な顔を見て、安心しました。
  すぐに、家のうちそとの復旧を手伝い始めたのですが、
なにしろ、家の外は、ほとんどの家が倒壊しています。子
供のころから見慣れた町並みが、崩壊しています。
  二階家が多かったのですが、多くの家が、二階建ての
ままぐしゃっと上から押しつぶされたようになっていま
す。押しつぶされて、平屋のようになってしまっているの
です。不幸にして一階で寝ていた方は、下敷きになってし
まっただろうなあと、すぐ分かりました。

  当日は、この状態のところへ、何時間かたってから、
火が出たのです。これではどうしようもありません。

 家の中で、困ったのは、割れたガラスの後始末です。
 いまの家の中は、ガラスだらけです。窓ガラスは割れ
ずにすんだのですが、掛け時計、絵や賞状を飾る額、コッ
プ、飾りだなと、たくさんあります。
 こうしたガラス製品が、床に落ちて割れています。
 その破片が問題です。
 こういう作業のとき、軍手をはめるのが普通ですが、ガ
ラスの破片は、軍手を突き抜けて、指に刺さるのです。軍
手が役に立ちません。

 1時間、2時間と、作業を続け、ひといきいれようと
いうことになって、洗面所で手を洗おうとしました。ところが、蛇口をひねっても水が出ません。
 ああそうか、断水したままなんだ。
 泥まみれ、ほこりまみれになっていても、手が洗えないんだ。
 もちろん、お風呂に入れるはずもありません。
 これは大変だと、つくづく思いました。

 父の話によると、地震で、電気、水道、ガス、電話と、
すべてがとまった。電気が止まっているのが、なさけない。
1月17日は真冬ですから、日の落ちるのが早い。夕方5
時すぎにはもう暗くなってくるのですが、電気がつかない。
本当のまっくらになるから、片付けようとか、なにかしよ
うと思っても、何も出来ないのです。
 日が落ちると、本当に真っ暗で、何もできない。
 それが一番つらかったそうです。

 地震から、三日目か四日目の夜に、電気が通じました。
 日が暮れて、まっくらになり、家族やご近所さんと一緒
に集まって、ぼそぼそとおにぎりを食べていたら、天井の
蛍光灯が、いきなり、ぱっとついたそうです。
 父や、その場にいたみんなは、思わず、
  「ばんざーい」
 と叫んだそうです。

 神戸は関西電力で、東京電力ではありません。
 しかし、電力は電力です。
 曽野綾子さんは、よく
  「電気は民主主義の経済的基盤」
 と指摘します。
 その通りだと思います。
 いま、東電が責められています。しかし、ただ、東電を
責めればいいというものではないとも思います。
  
・・・ 東日本大震災と阪神大震災 ・・・・・・・
  
 仕事がありますので、何日か神戸にいて、また東京に戻
りました。その後は、週末ごとに神戸に入りました。

 神戸から、新幹線に乗るために、大阪に出ると、大阪の
街は、ほとんど何の被害も受けていません。若い女性や家
族連れが、笑いさんざめきながら、梅田でショッピングを
したり、食事をしたりしています。
 このギャップはいったい何なのだろう。
 本当に、キツネにつままれているというのは、このこと
でしょう。

 このギャップが生まれた原因は、阪神大震災が、極めて
限られて地域を襲った直下型地震だったということです。
 今回の東日本大震災は、プレートとプレートの境目で生
まれたひすみが原因でした。しかし、阪神は、プレートが
どうのという話ではなく、どこでも、いつでも起きる可能
性のある地震だったのです。それが、たまたま神戸という
大都市の直下で発生したということです。
 阪神大震災型の地震なら、全国、どこででも起きうると
いうことです。
 逆にいえば、だから、あのとき、神戸のすぐ隣りにある
大阪や京都は、無事だったのです。さらにいえば、名古屋
も東京も無事だったのです。
 だから、神戸には、無事だった近隣の都市から、支援の
手がすぐに入りました。

 しかし、東日本大震災は、被災の範囲が非常に広い。阪
神大震災とは比べものになりません。
 しかも、阪神大震災では、二階家が押しつぶされて平屋
になった、あるいは、マンションがぐしゃっとおしつぶさ
れたという被害が多かったのですが、幸か不幸か、人と物
は、被災したその現場にいたのです。
 それに対して、東日本大震災は、すぐあとに津波が襲った
ため、人も物も、さらっていきました。人と物が、もと
いた場に残っていないのです。

 だから、東日本大震災の復興には、阪神大震災とは比較
にならないぐらい、時間も人手もかかると思います。
  
 阪神大震災のときも、被災地に立ち、
 「これはいったいどうすればいいんだろう」
 と思いました。
 でも、16年たち、神戸の街は生き返りました。
 東北の街も、そうあってほしいと願わずにはいられませ
ん。