アメリカで生活を始めて 悩んだことは
たくさんあるんだけど
その中のひとつが インテリア
子供の頃住んでいた家は 母屋の離れで
その昔 物置として建てられたという
4畳半の2階建て
水道のないキッチンは 外にあり
井戸水を使っていた。
今考えると いくら高知と言っても
冬はそれなりに寒い
外での食器洗いとか いったい どんな思いで
祖母はしていたんだろう。
井戸では 紐で縛った スイカなどを
冷やしていた。
ちなみに その頃使っていた 冷蔵庫は 氷で冷やす奴だった。
と 言っても 私は決して 大正生まれなどではないですよ~~ 笑
そんな我が家にも 高度成長期にのって
小型の冷蔵庫や 13インチの白黒テレビ
コタツなどの電化製品がやって来た。
確か 叔父夫婦が買ってくれたんだったと思う。
そうそう インテリアの話 なんだ
その4畳半の部屋には
床の間もなく 壁を飾っていたのは
押入れの ふすまの絵柄 ぐらい だった 笑
成人して 関東で 一人暮らし をしていた頃も
贅沢品でもある 家具などに
興味を持つこともなかったように思う。
アメリカでの最初の2年ぐらいは アパート暮らし
3件のアパートをバッキーと 点々とした
アパートのインテリアは 家具の配置から壁を飾る絵画ほか
バッキーが すべてした。
バッキーが海軍時代に 東南アジアやアフリカ などから
持って帰って来たものに
部屋の中は囲まれていたなあ~~。
4件目は離婚した友人との共同生活。
光熱費も入れ 月々200ドルで
1歳だった長女と3人で
ひとつの寝室 をシェアーして暮した。
友人との 共同生活は 1年も続かず
その時に出来た貯蓄で
2万6千ドルの家を買った。
貯蓄と言っても この頃はバッキーが
家計のやりくり をしていた。
そうだ 私は彼から 月40ドル のお小遣いをもらって
それで 徒歩で行ける セカンドショップで 洋服を買っていたっけ、、、。
建って100年以上経つその家に 引っ越すや
家族 親戚の人たちに助けられ
2階にあった マスターベッドルームの修繕をした。
その町に住む 数人の叔父さん夫婦がうちにやって来て
ペイントをしたり 板を張ったりし始め
小さな家族で 育った私は そんな光景に驚き
結びつきの強いこの家族が なにやら 素敵に見えた。
日本で 壁の ペンキ塗り なんて
した事も 見た事もなかった私
バッキーは それに 感ずいたのか
私に小さなクロゼットの中のペンキ塗りをさせた。
で、、、
それさえ うまく行かず バッキーの叔父さんが
塗りなおしたっけ、、、。
部屋の修繕や ペンキ塗りなど
何でも 自分たちでやってしまうアメリカ人の生活は
この国に来たばかりの私には
とても ものめずらしい物 として映った。
お鍋もヤカンも見られない ピカピカの キッチンや
写真や絵画で飾られた壁、
枕やベッドカバーにベッドスカートなどのおそろいの寝具、
それぞれ色のある部屋、、、などなど、、、
そういえば 義理妹は
狭い部屋の壁 一杯に
鏡をはったりしていた。(80年代ですが、、)
そんな人々の生活を目にしながら、
バッキーからのきつい言葉もあり、
私もインテリアに 興味を 示すようになった。
、、、、、、(なんとなく、、、) 続く 笑
また 余計なおしゃべりをしていたら
長くなってしまいました
明日は 早くから 皆で出かけますので
今晩は これで、、、
おやすみなさい
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今晩ケイズとテレビで放映されていたチャーリーブラウン を見ていたら
途中で 特別ニュースが始まり
歌手のウイットニー ヒューストンさんが48才で亡くなられたという
悲しい知らせがあり 驚いています。
心から ご冥福をお祈りいたします。
たくさんあるんだけど
その中のひとつが インテリア
子供の頃住んでいた家は 母屋の離れで
その昔 物置として建てられたという
4畳半の2階建て
水道のないキッチンは 外にあり
井戸水を使っていた。
今考えると いくら高知と言っても
冬はそれなりに寒い
外での食器洗いとか いったい どんな思いで
祖母はしていたんだろう。
井戸では 紐で縛った スイカなどを
冷やしていた。
ちなみに その頃使っていた 冷蔵庫は 氷で冷やす奴だった。
と 言っても 私は決して 大正生まれなどではないですよ~~ 笑
そんな我が家にも 高度成長期にのって
小型の冷蔵庫や 13インチの白黒テレビ
コタツなどの電化製品がやって来た。
確か 叔父夫婦が買ってくれたんだったと思う。
そうそう インテリアの話 なんだ
その4畳半の部屋には
床の間もなく 壁を飾っていたのは
押入れの ふすまの絵柄 ぐらい だった 笑
成人して 関東で 一人暮らし をしていた頃も
贅沢品でもある 家具などに
興味を持つこともなかったように思う。
アメリカでの最初の2年ぐらいは アパート暮らし
3件のアパートをバッキーと 点々とした
アパートのインテリアは 家具の配置から壁を飾る絵画ほか
バッキーが すべてした。
バッキーが海軍時代に 東南アジアやアフリカ などから
持って帰って来たものに
部屋の中は囲まれていたなあ~~。
4件目は離婚した友人との共同生活。
光熱費も入れ 月々200ドルで
1歳だった長女と3人で
ひとつの寝室 をシェアーして暮した。
友人との 共同生活は 1年も続かず
その時に出来た貯蓄で
2万6千ドルの家を買った。
貯蓄と言っても この頃はバッキーが
家計のやりくり をしていた。
そうだ 私は彼から 月40ドル のお小遣いをもらって
それで 徒歩で行ける セカンドショップで 洋服を買っていたっけ、、、。
建って100年以上経つその家に 引っ越すや
家族 親戚の人たちに助けられ
2階にあった マスターベッドルームの修繕をした。
その町に住む 数人の叔父さん夫婦がうちにやって来て
ペイントをしたり 板を張ったりし始め
小さな家族で 育った私は そんな光景に驚き
結びつきの強いこの家族が なにやら 素敵に見えた。
日本で 壁の ペンキ塗り なんて
した事も 見た事もなかった私
バッキーは それに 感ずいたのか
私に小さなクロゼットの中のペンキ塗りをさせた。
で、、、
それさえ うまく行かず バッキーの叔父さんが
塗りなおしたっけ、、、。
部屋の修繕や ペンキ塗りなど
何でも 自分たちでやってしまうアメリカ人の生活は
この国に来たばかりの私には
とても ものめずらしい物 として映った。
お鍋もヤカンも見られない ピカピカの キッチンや
写真や絵画で飾られた壁、
枕やベッドカバーにベッドスカートなどのおそろいの寝具、
それぞれ色のある部屋、、、などなど、、、
そういえば 義理妹は
狭い部屋の壁 一杯に
鏡をはったりしていた。(80年代ですが、、)
そんな人々の生活を目にしながら、
バッキーからのきつい言葉もあり、
私もインテリアに 興味を 示すようになった。
、、、、、、(なんとなく、、、) 続く 笑
また 余計なおしゃべりをしていたら
長くなってしまいました
明日は 早くから 皆で出かけますので
今晩は これで、、、
おやすみなさい
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今晩ケイズとテレビで放映されていたチャーリーブラウン を見ていたら
途中で 特別ニュースが始まり
歌手のウイットニー ヒューストンさんが48才で亡くなられたという
悲しい知らせがあり 驚いています。
心から ご冥福をお祈りいたします。