イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

ついてない日々の面白み

2009年10月24日 21時19分36秒 | Weblog
思い立って、たまりにたまった「借り」を返しにある場所に行った。いつまでも借りを残しておくのは、人としての道から外れることになる。モヤモヤとした気持ちのままで生きていくのはよくない。普段は温厚な性格に見られることが多い俺だけど、けじめだけはきっちりつけておかなければ気が済まない。根底のところでは、自分でも驚くほどとても頑固な性格なのだ。

いったいいくつの借りがあるのか、自分でも把握していなかった。だから思い切って相手に電話をした。はっきり相手の口から、この俺に何の「貸し」があるのか言ってもらおうじゃないかと思ったのだ。こういうことは、グジグジしていたって始まらない。胆を据えて話し合うことが必要だ。いざ電話するとなると少々緊張する。借りを作ってしまった自分が恥ずかしくもある。落ち着いて冷静に話をするために、深呼吸し、丹田に意識を集中して受話器を取った。「あなたのところにいったいいくつの借りがあるのか、わからないんです」と俺は切り出した。はやる俺の心をいさめるかのように、相手は冷静に、まずはIDと名前を告げてください、と言った。事務的な対応がやけに白々しいじゃないか。

「14冊借りられていますね」

やっぱりそうか。普段は10冊単位で借りているのに、このときは慌てていたから適当な冊数を借りてしまった。だから把握できなくなってしまっていたのだ。

「返却期限をかなり過ぎていますね。早急にお返しください」電話口の司書が言った。

「わかりました。お忙しいところお手数をおかけしました。ありがとうございました。さっそく返却いたします」恐縮して受話器を置いた。トイレやら書斎やら寝室やらから本をかき集め、14冊あることを確認して、図書館に向かった。ウォーキングも兼ねて、片道20分の道のりを往く。

「かえすところ」にどさっと本を置いて、司書の人に「ありがとうございました」と伏し目がちに伝えると、足早に本棚に向かった。申し訳ない、と心のなかでつぶやいた。だがその瞬間、俺はもう自由だった。もう、後ろめたさを感じる必要はない。もう、借りは返したのだ。もう、過去を振り返る必要はないのだ。現金なもので、そう思ったらすっかり気持ちが切り替わった。閉館まであと30分ちょっとしかない。今日の俺の五感は冴えている。こういうときは、いい本を見つけられるチャンスなのだ。目標は20冊――少なくとも15冊は選びたい。限られた時間のなかで、俺は自らに課したタスクを達成するための戦いを開始した。

図書館にきたときにはいつも、ほとんどすべての棚をチェックし、大量の背表紙を眺めて、アンテナにひっかかったものをできるだけ多く手に取るようにしている。心理学のコーナーでラカンの専門書を手に取りパラパラとめくる。棚に戻して自己啓発本を脇に抱えた。スポーツ生理学の分厚い専門書をしばらく眺めて棚に戻し、とあるプロレスラーの自伝を「借り」に加えた。おかしい、普段は本は厚ければ厚いほどいい、専門的であればあるほどいいと思っているはずなのに、軟派な本ばかりが増えていく。こんな日もあるさ。俺は苦笑した。だが実は、分厚い本を意気込んで借りても読み終える可能性が低いことは、過去のデータが明白に示している。俺は無意識に、その経験則に従っていたのかもしれない。関川夏央の「汽車放浪記」これは「借り」だ。その他にもいい本がいくつも見つかった。やはり予感は当たった。今日は大漁だ。「まもなく図書館は閉館します」哀しげなクラッシックの音楽とともに、アナウンスが場内に流れた。

「かりるところ」に選びたてのホヤホヤの15冊を持って行き、あふれる充実感を相手に悟られないようにして、ポーカーフェイスでカウンターに置いた。「ピッ」と俺のカードのバーコードを機械に当てた司書が、「1冊返却が残っていますね。貸し出しはできません」と言ってこっちを見た。

そんなバナナ。俺はついさきほど「延滞人」の身から釈放されたばかりだという自分のことを棚に上げて、激しい憤りを感じた。「え? そうですか。さきほど14冊、確かに返却したのですが...」

閉館間際のカウンターは本を借りる人がたくさんいて、司書の人も慌ただしくしている。「そうですか、では少々お待ちください」そう言って、彼女は返却されてまだ棚に戻されていない本が入った箱を調べた。ちょっとだけ箱をみると、「やっぱりありませんね、よしもとばななの『ついてない日々の面白み』という本がありません。お家に帰ってしらべていただけますか?」と言って、俺にはもう用済みだという顔を向け、後ろに並んでいた次の人に目で「カモン」と小さく合図をした。

以前にもこういうことはあった。機械の読み取りが失敗して、返したはずの本が未返却だと言われてしまったのだ。俺は間違いなく今回もそうに違いないと思ったが、時間も時間だし、列に並んでいる人たちを待たせてまでもうちょっと調べてくれませんか、とも言えないので、「わかりました」と小さく呟いて、一線を退いた。俺はものすごく小心者なのだ。俺の戦いはこうして終わった。本を選んでいた間の夢のような30分間は、あっけなく無へと帰した。

まあいい、ついてない日というのはあるものだ。俺は予想外の「戦利品ゼロ」という結果になかば驚きながら、空気のように軽いリュックサックを背負って20分の道のりを戻った。不思議と気落ちはしない。人間この年にもなると、それまでに様々な辛い出来事を経験しているから、少々のことではショックを感じない体になっているのかもしれない。これが大人になるということなのだろうか。

明日あらためてまた図書館に電話をしてみよう。「実は昨日、未返却の本があると言われて家を探してみたのですが、やはり見あたりません。そちらに『ついてない日々の面白み』はないでしょうか?」

司書は受話器を置き、しばらく調べた後で、慌ててこう言うはずだ「たいへんすみませんでした、こちらに『ついてない日々の面白み』はありました。こちらの手違いでございました。誠に申し訳ございません」

俺はこういうことに腹を立てたりする人間ではない。自分でも不思議なくらい寛容なのだ。悪意を持って何か攻撃的な言動をとられたりしないかぎり、まあそういうこともあるか、と気にしないでいられる。問題の多い人間ではあるが、こういうところは自分でもわりと気に入っている。

俺は家に着いた。ついてない日というのはあるものだ。そう思って仕事を再開した。しばらくして、デスクの足下に積まれた本のなかに、一冊の本を見つけた。よしもとばなな著『ついてない日々の面白み』とある。

「ひやっとする病気、ものすごく悲しい別れ。本当についてない年だったけど、気づけば、同じように生きていく仲間がいた。(略)――作家として、ひとりの人間として、考えつづける日々の記録」と、裏表紙に記載されている。面白そうだ。

俺は窓をあけ、ベランダに立って夕日をしばらく見つめた。

俺はいったい、何をしているのだろう? 神から与えられた貴重な時間を、なぜこんなに無駄に浪費してしまっているのだろう? なぜなんだ――?

でもまあいい。考えてみたら、この本は借りたがいいが、未読だった。せっかくセレクトした15冊を持ち帰ることはできなかったけど、おそらくは「この本を読め」と天が俺に命じているのにちがいない。そう思い直して、さっそく読み始めた。彼女の気負わない日常。そしてその裏に見え隠れする重たい出来事と悲しみ。彼女がオススメの本や映画のタイトルにも興味をそそられた。ひょっとしたら、この本のなかに、俺にとってとても重要なメッセージやヒントが隠されているのかもしれない。そんな気すらする。そうでなければ、公私ともにミスの少ないことで知られるこの完璧人間の俺が、返すべき本の冊数を間違えるわけはないではないか。

この本を読み終えたら、俺はまた明日、図書館にいくつもりだ。今日、借りられなかった15冊の記憶がまだ新しいうちに。明日、返すべき本はたったの1冊しかない。もう、同じ過ちは繰り返さない。

***

ところで、俺はたしかに今日、14冊を返したつもりだった。1冊返し忘れていたということは、返す必要のなかった1冊が紛れ込んでいたのではないのか? それとも、13冊しか持っていっていなかったのだろうか? 真相は、闇の中である。






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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
明日こそは (たら)
2009-10-25 21:32:44
私も今延滞してしまっている本があります。20日の火曜が返却期限でした。その日からあと2週間、電話一本で延長してもらえるのですが、夜になると「あ!電話するん忘れてたっ!」となるのです。そして懲りずに今日も今思い出しました。
明日こそ電話を!と思って利用カードを見ると月曜日は休館日。火曜に延長のお願いをできる可能性、さぁ何パーセンツだ??
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2ぱーくらい? (ゆみ)
2009-10-25 22:03:29
あたしんとこの図書館も機械のミスで同じようなことがあったよ。心配なのは・・・他の図書館の本をまちがえてかえしてしまったとかだなー。しかし、ついてたんかもしれないですぜ。
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本当の勝負はここから始まる (いわし)
2009-10-25 22:29:14
たらさん

「図書館の本は、返却期限を過ぎると読みたくなる」というマーフィーの法則があります(自作)。

次に借りるものとして、確率論の本、用事を忘れないようにするための本、そしてよしもとばななのエッセイをオススメします 笑。

ゆみさん
機械はけっこうアテにならないものが多いよね。だからてっきり機械のミスだと思い込んじゃったんだ。でもまあ、それ以上にアテにならないのが僕の頭なんだけどね。次回は、頭が良くなる本を借りることにするよ。
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きになる (はらぺこのうさぎ)
2009-10-26 22:24:13
アメリカン・ハードボイルドな文章に、ほんのりとしたユーモアのエッセンスが効いてますね。起き抜けのブラック・コーヒーのような、すっきりとした読後感。
ところで、わたしにも気になっている本があります。…しかし、それが…高校生時代、表向きは「試験勉強のため」に通っていた「荒川図書館で、読みふけっていた本たちの中の一冊ということしかわからないのです。今となっては。夜空の星などを描いた素朴な絵と、黙示録的なシンプルな文章だったような記憶もあるのですが…。
ただ、読んだときの幸福感と浮遊感だけは体がしっかり覚えているのです。よほど無為な少年の心にヒットしたんでしょうね。
なんちって。
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青春に消えた一冊 (iwashi)
2009-10-27 08:03:15
マリオさんの高校時代の甘酸っぱい思い出をお裾分けしていただいたような気分です。タイトルは思い出せないんだけど、内容が忘れられない本ってありますよね~。再会できるたら嬉しいし、できなくてもずっと美しい記憶として残ってくれそうです。しかし当時から本がお好きだったんですね。さすがです!
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