ランニングをするようになって、天気のことがやたらと気になるようになってしまった。晴れているときに走るのが好きなので、一日に何度もネットで天気予報をチェックしては、晴れの予報に笑顔を輝かせ、曇りの予報に表情を曇らせる。雨の予報に涙を流し、霰の予報に落胆し、「あられ」をつまみにやけ酒を飲む(なんて)。
今では人並み以上に天気のことが気になっている僕なのだが、実は若い頃はまったく天気に興味のない人間だった。テレビを見ていて天気予報が始まると、急速にそれまでのテンションがゆるんだ。「予報したってしなくたって、天気なんてなるようにしかならないじゃないか」と考えていたのだ。天気予報のキャスターが「日本全国の視聴者のみなさん、お待たせしました」みたいな顔をして登場し、さもこれは重大事項であるかように高気圧がどうしたのモンスーンがどうしたのと専門用語を連発して熱弁をふるう。本当にこんなことにみんな興味を持っているのだろうか? 「雨のち曇り」だろうが、「曇りのち晴れ」だろうが、どうせ明日になればみんな学校にいったり会社にいったりしなければならないのに――そんなことを思った。
当時の僕が天気によって影響を受けるのは「出かけるときに、雨が降っていれば傘をさす」ということだけだった。そもそも傘をさすのが嫌いなので、小雨ならそのまま歩いた。ちょっと濡れて学校や職場についても、全然気にならなかった。周りからは、「水も滴るいい男」と言われていた(なんて)。天気予報によって得られる情報は、実際のところ本当に僕にとってあまり価値がなかったのである。だからよく、帰る間際になって外はザーザー降り、周りはみんな準備よく傘を持ってるのに、僕だけ傘がない、みたいなことがよくあった。自業自得である。だけどまあ、そういうハプニングも決して嫌いではなかった。激しく雨に打たれてずぶ濡れになるのも、結構、気持ちのいいものだと考えていたのだ。なんだか妙にドラマチックな気分になったりもした。
季節の変化にも鈍感だった。挨拶の時に「暑いですね」とか「雨で参りましたね」とか、そういう天気の話題をされても、「そういえばそうだな」くらいにしか思わなかった。天気の話題をする人は、本心からそんなことを話題にしているのではなく、単にそういう慣習に従っているだけじゃないかという気がした。そういうことをすらっと言える人が、なんだか妙に大人に見えた。今にして思えば、なんとも風情も味気もない奴だったのである。まあ、一般的に若い男子というものは天気のことを特別気にしたりしないのかもしれないけど、とりわけ僕は、何か他のことを考えるので精一杯で、天気のことを考える余裕がなかったということなのかもしれない。
それが今や、すっかり天気・季節に過敏な野郎である。明日晴れるか雨が降るかどうかは、今の僕にとってかなり大きな問題だ。晴れたら外に出てかなり長い時間走る。雨が強ければずっと家にいる。その結果、体の疲れ具合とか、食欲とか、気持ちの面とかもかなり影響を受ける。一日の過ごし方もがらっと変わってしまう。天気によってこれほど自分の心身が大きく変化するものだとは思っていなかった。メールの書き出しにも、思わず天気のことを書いてしまうことが多い。
一昔前は、天気予報は当たらないものだと思われている節があったけど、今では科学の進歩によって以前に比べれば格段にその精度は上がったのではないかと思う。だけど、こまめに予報をチェックしていると、今日明日の天気はともかく、数日先の予報はかなりの変動性を持っているということがわかるようになった。現在の最新科学を持ってしても、天気予報というものはかくも難しいものなのである(ちなみに、tenki.jpのサイトでは、予報の信頼度がA~Cで表示されている。素直というか気が利いているというか、なんだか実に好感が持てる。オススメです)。
そもそも、何かを予測するということほど、難しいことはない。大学のとき、心理学の先生が「人の心を予測することはできない。起きたことを説明することは可能かも知れないけど」と言っていたのを思い出す。気象予報士も同じかもしれない。「気象予報士とは、翌日の天気を予報し、外れた理由を次の日に説明できる人だ」というジョークもあるらしい。
以前は、気象予報士という職業にあまり関心がなかった。むしろ、気象予報士が一時期ブームになったとき、失礼ながら、なんでそんな「マイナーなもの」にみんな関心を持つのだろう? とすら思った。それが今や、もし生まれ変わったら気象関係の仕事をするのもいいな~なんて夢想しているのだから現金なものである(だって、自分が予報できたら、明日のランニングの予定が立てやすくなるじゃないですか。僕が予報したら外れまくる気もしますが)。
ところで、世間一般の人が「翻訳の仕事」に対して抱いている物珍しさって、僕がかつて気象予報士に対して持っていたものと同じようなものなのかな、と思う。調べてみると、気象予報士の資格保有者は全国で7000人弱くらい。専業の翻訳者もおそらく、これと同じくらいの数しかいないはずだ。僕は、気象予報士の人と一度も会ったことがない。同じように、生身の翻訳者に会ったことが無い人も世の中にはたくさんいると思う。
僕は翻訳関係の人たちとの付き合いが多いので、自分が特殊な職業についているという自覚はあまりないのだけど、普通に生きていたら、翻訳者と出会うことはほとんどないと思う。実際、翻訳の仕事をしているというと、「生まれて初めて翻訳の仕事をしている人と会った」と言われることも結構ある。「翻訳なんて珍しい仕事をしている人と会うのは、これが私の人生、最初で最後」というような含みを感じることもある。つまり、それほど翻訳という仕事(特に翻訳者という生身の存在)はマイナーなのである。
だけど、天気予報というかつての自分からはマイナーに見えた世界でも、興味をもってよくよく見てみれば、そこにはものすごく豊かで奥の深い世界が広がっていることがわかる。この広い地球で、「天気」が存在しない場所など無い。いつ、どこであっても天気は人間の生活に大きな影響を与えているのだ。「天気予報の人」になって世の中を眺めてみれば、森羅万象が天気と結びついているという気がしてくる。着るもの、食べるもの、心理状態、風景、建築、などなど、人間の文化は、天気・天候と切っても切れない関係にある。
僕のいる翻訳の世界も同じで、世間からみたらものすごくマイナーなことをやっているように思われるのかもしれないけれど、実はその内側に入れば、もう「世の中のすべては翻訳である」と言ってしまいたくなるほど翻訳が世界と深く結びついていると感じてしまう。
同じように、世の中には僕が知らない無数のマイナーな世界があり、その世界に生きる人たちにとっては、世の中は「それ」抜きでは回らない、と思えるほどの大きな存在なのだと思う。缶コーヒーと作っている人も、マヨネーズを作っている人も、段ボールを作っている人も、みんな自分が関わる対象を通して世界を眺めているのだ。
翻訳の世界も水商売なので、「数日後はどうなっているかはわからない」という当たりは天気予報とよく似ている。3日後、余裕で晴れるかな~、と思っているとカミナリが落ちたりする。これから数日は雨が続くみたいだ。走れないから残念だけど、部屋掃除したり仕事を頑張ったりすることにしよう。なんだか支離滅裂な文章ですみません。皆様、風邪をひかないように気をつけてくださいませ。
今では人並み以上に天気のことが気になっている僕なのだが、実は若い頃はまったく天気に興味のない人間だった。テレビを見ていて天気予報が始まると、急速にそれまでのテンションがゆるんだ。「予報したってしなくたって、天気なんてなるようにしかならないじゃないか」と考えていたのだ。天気予報のキャスターが「日本全国の視聴者のみなさん、お待たせしました」みたいな顔をして登場し、さもこれは重大事項であるかように高気圧がどうしたのモンスーンがどうしたのと専門用語を連発して熱弁をふるう。本当にこんなことにみんな興味を持っているのだろうか? 「雨のち曇り」だろうが、「曇りのち晴れ」だろうが、どうせ明日になればみんな学校にいったり会社にいったりしなければならないのに――そんなことを思った。
当時の僕が天気によって影響を受けるのは「出かけるときに、雨が降っていれば傘をさす」ということだけだった。そもそも傘をさすのが嫌いなので、小雨ならそのまま歩いた。ちょっと濡れて学校や職場についても、全然気にならなかった。周りからは、「水も滴るいい男」と言われていた(なんて)。天気予報によって得られる情報は、実際のところ本当に僕にとってあまり価値がなかったのである。だからよく、帰る間際になって外はザーザー降り、周りはみんな準備よく傘を持ってるのに、僕だけ傘がない、みたいなことがよくあった。自業自得である。だけどまあ、そういうハプニングも決して嫌いではなかった。激しく雨に打たれてずぶ濡れになるのも、結構、気持ちのいいものだと考えていたのだ。なんだか妙にドラマチックな気分になったりもした。
季節の変化にも鈍感だった。挨拶の時に「暑いですね」とか「雨で参りましたね」とか、そういう天気の話題をされても、「そういえばそうだな」くらいにしか思わなかった。天気の話題をする人は、本心からそんなことを話題にしているのではなく、単にそういう慣習に従っているだけじゃないかという気がした。そういうことをすらっと言える人が、なんだか妙に大人に見えた。今にして思えば、なんとも風情も味気もない奴だったのである。まあ、一般的に若い男子というものは天気のことを特別気にしたりしないのかもしれないけど、とりわけ僕は、何か他のことを考えるので精一杯で、天気のことを考える余裕がなかったということなのかもしれない。
それが今や、すっかり天気・季節に過敏な野郎である。明日晴れるか雨が降るかどうかは、今の僕にとってかなり大きな問題だ。晴れたら外に出てかなり長い時間走る。雨が強ければずっと家にいる。その結果、体の疲れ具合とか、食欲とか、気持ちの面とかもかなり影響を受ける。一日の過ごし方もがらっと変わってしまう。天気によってこれほど自分の心身が大きく変化するものだとは思っていなかった。メールの書き出しにも、思わず天気のことを書いてしまうことが多い。
一昔前は、天気予報は当たらないものだと思われている節があったけど、今では科学の進歩によって以前に比べれば格段にその精度は上がったのではないかと思う。だけど、こまめに予報をチェックしていると、今日明日の天気はともかく、数日先の予報はかなりの変動性を持っているということがわかるようになった。現在の最新科学を持ってしても、天気予報というものはかくも難しいものなのである(ちなみに、tenki.jpのサイトでは、予報の信頼度がA~Cで表示されている。素直というか気が利いているというか、なんだか実に好感が持てる。オススメです)。
そもそも、何かを予測するということほど、難しいことはない。大学のとき、心理学の先生が「人の心を予測することはできない。起きたことを説明することは可能かも知れないけど」と言っていたのを思い出す。気象予報士も同じかもしれない。「気象予報士とは、翌日の天気を予報し、外れた理由を次の日に説明できる人だ」というジョークもあるらしい。
以前は、気象予報士という職業にあまり関心がなかった。むしろ、気象予報士が一時期ブームになったとき、失礼ながら、なんでそんな「マイナーなもの」にみんな関心を持つのだろう? とすら思った。それが今や、もし生まれ変わったら気象関係の仕事をするのもいいな~なんて夢想しているのだから現金なものである(だって、自分が予報できたら、明日のランニングの予定が立てやすくなるじゃないですか。僕が予報したら外れまくる気もしますが)。
ところで、世間一般の人が「翻訳の仕事」に対して抱いている物珍しさって、僕がかつて気象予報士に対して持っていたものと同じようなものなのかな、と思う。調べてみると、気象予報士の資格保有者は全国で7000人弱くらい。専業の翻訳者もおそらく、これと同じくらいの数しかいないはずだ。僕は、気象予報士の人と一度も会ったことがない。同じように、生身の翻訳者に会ったことが無い人も世の中にはたくさんいると思う。
僕は翻訳関係の人たちとの付き合いが多いので、自分が特殊な職業についているという自覚はあまりないのだけど、普通に生きていたら、翻訳者と出会うことはほとんどないと思う。実際、翻訳の仕事をしているというと、「生まれて初めて翻訳の仕事をしている人と会った」と言われることも結構ある。「翻訳なんて珍しい仕事をしている人と会うのは、これが私の人生、最初で最後」というような含みを感じることもある。つまり、それほど翻訳という仕事(特に翻訳者という生身の存在)はマイナーなのである。
だけど、天気予報というかつての自分からはマイナーに見えた世界でも、興味をもってよくよく見てみれば、そこにはものすごく豊かで奥の深い世界が広がっていることがわかる。この広い地球で、「天気」が存在しない場所など無い。いつ、どこであっても天気は人間の生活に大きな影響を与えているのだ。「天気予報の人」になって世の中を眺めてみれば、森羅万象が天気と結びついているという気がしてくる。着るもの、食べるもの、心理状態、風景、建築、などなど、人間の文化は、天気・天候と切っても切れない関係にある。
僕のいる翻訳の世界も同じで、世間からみたらものすごくマイナーなことをやっているように思われるのかもしれないけれど、実はその内側に入れば、もう「世の中のすべては翻訳である」と言ってしまいたくなるほど翻訳が世界と深く結びついていると感じてしまう。
同じように、世の中には僕が知らない無数のマイナーな世界があり、その世界に生きる人たちにとっては、世の中は「それ」抜きでは回らない、と思えるほどの大きな存在なのだと思う。缶コーヒーと作っている人も、マヨネーズを作っている人も、段ボールを作っている人も、みんな自分が関わる対象を通して世界を眺めているのだ。
翻訳の世界も水商売なので、「数日後はどうなっているかはわからない」という当たりは天気予報とよく似ている。3日後、余裕で晴れるかな~、と思っているとカミナリが落ちたりする。これから数日は雨が続くみたいだ。走れないから残念だけど、部屋掃除したり仕事を頑張ったりすることにしよう。なんだか支離滅裂な文章ですみません。皆様、風邪をひかないように気をつけてくださいませ。
同じ事をおれも感じてた。まず、近所のおばちゃんが「今日は天気がいいねぇ」なんて軽く挨拶代わりに声を掛けてくるのに対して、「何故にそんな解りきった事を言ってるのかね?」なんて思ってたよ。ところが、次第に歳をとっておまけにゴルフなんて始めてしまったものだから、もう天気予報に釘付けな訳です。テレビでもPCでもまず天気!今では天気図でだいたい解ってしまうほどです。
天気が気になるのは健康的な証拠だとおれなりに感じております。
ちなみに今日の浜田は曇りで凄い強風!そんな中、職場の友人たちとゴルフだったおれは健康&お疲れです。