おはようございます。アドラー心理に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリングを行う ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。
昨日(5月19日)は、宮本秀明講師による「愛と勇気づけの親子関係セミナー(SMILE)」の初日で、冒頭の挨拶をいたしました。
ヒューマン・ギルドに一番遠くからお見えの方を確認したら、フランスからという方がいました。
フランスでアドラー心理学の灯を点す意気込みをお持ちの方でした。
さて、昨日のブログでアメリカンフットボールの関西学院大学との試合(5月6日)で日本大学の選手が無防備な関学大の選手に背後から激しいタックルを浴びせ負傷させた事件がこのところずっとマスコミをにぎわしていることについて、次の2つの点から論じました。
1.危機管理上の責任を負っているか?
2.目的を忘れた目標追及になっていないか?
昨日の報道では、事件から約2週間後の記者会見で日大・内田監督が辞任を表明したことが伝えられていました。
<参考>サンケイスポーツ 2018/05/19 16:06
日大・内田監督、反則指示したか「文書で関学大に回答する」 大阪空港で辞任表明/アメフット
ところで、日経ビジネスonline 2018年5月19日(土)で青島健太氏が
日大アメフト部の蛮行、スポーツへの背信行為だ ― 対戦相手にリスペクトなし、悲しすぎる
のタイトルで「スポーツ界にとって、万死に値する『愚行』『蛮行』と言わざるを得ない。日本大学
アメリカンフットボール部の悪質なタックルについてだ」と書き始め、
日大のサイドに立って、今回のプレーの意味を考えてみよう。
・ライバル校の有望な若手を早い時期に叩いておく
・ラフプレーを通じて、相手に苦手意識や恐怖感を抱かせる
・次戦に向けて、相手に報復の念を抱かせる(冷静さを奪う)
・どんなことをしても勝つんだというチーム内の意識を高める
・チーム全体の闘争心を煽る
として目標から始まる手段に走ることが効果があったとしてもその代償は大きすぎることを憂え、スポーツを本来の目的から考え直すことを書いています。
明治26年(1893年)に福澤諭吉が当時の新聞に「体育の目的を忘るゝ勿れ」という評論を寄せている。その内容を要約すれば「スポーツは手段であって目的ではない」と主張している。
・健康になるため
・仲間を作るため
・気分を爽快にして勉強をするため
・颯爽と仕事をするため
・丈夫な身体を持って社会に貢献するため
あくまでもスポーツは私たちの日常を豊かにするための手段であって、何かを実現するために極めて有効なものだ…と、福澤は明治時代にもうすでにスポーツの機能を賛美している。そして学業を疎かにしスポーツだけに没頭する勝利至上主義を嘆いている。
つまり大学時代で言えば、社会でも通用するスポーツマンシップを学ぶための手段としてスポーツに取り組んでいるはずなのに、勝つことを目的に手段を選ばない行為をやってしまったら、それはもはやスポーツとは言えない。
とし、最後は次の言葉で結んでいます。
今回の日大の一件が悲しすぎるのは、アメリカンフットボールというスポーツにも、相手に対しても、リスペクトがないからだ。
私はアメリカンフットボールで青春を謳歌した息子の父親の立場から、スポーツはスポーツマンシップを身につけることが目的で、それは「仲間(ライバルを含めて)と信頼・協力しながら正々堂々とプレイする喜びを味わいながら切磋琢磨することによって人間的な成長を図ること」だと、アドラー心理学の立場から改めて主張いたします。
<お目休めコーナー>5月の花(20)
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