西武鉄道 昭和40年代の池袋駅発行券売機券

1965(昭和40)年9月に西武鉄道池袋線池袋駅で発行された、同駅から20円区間ゆきの片道乗車券です。まだ等級制のあった時代のもので、「30円2等」の表記があります。


   

黄色せいぶてつどう自社地紋のA型地図式券売機券で、スミインク式券になります。
券面を見ますと、当時の池袋から30円区間は、富士見台から石神井公園間と練馬から分岐する豊島線であることが判ります。
当時はまだ池袋駅には硬券式の券売機も現役稼働しており、硬券と軟券が混在していた可能性があります。


   

2枚目の券は、1枚目の券が発売されてから約5年が経過したころのもので、1970(昭和40)年9月に発売された池袋から60円区間の金額式券になります。
この頃になると地図式の券売機券は姿を消し、金額式券と高額券については矢印式券が存在したと記憶しています。


本日2020年8月31日、地図式券にあります豊島線の終点、豊島園駅に隣接の「としまえん」が閉園します。としまえんは管理人が幼い頃から住んでいる家の近くにありますので、回転木馬「カルーセルエルドラド」や流れるプール、夏場の毎週土曜日に開催される花火大会など、子供の頃の思い出がたくさんあります。閉園は大変残念です。

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西武鉄道 西武秩父駅発行普通入場券

戴き物ですが、1969(昭和44)年12月に西武鉄道秩父線の西武秩父駅で発行された普通入場券です。


   

白色無地紋のB型千切り半硬券の大人専用券で、駅名記入式となっており、ゴム印にて捺印されています。


   

裏面です。発行駅名欄も記入式となっており、ゴム印で捺印されています。


同駅は同年10月14日に開業した新駅で、御紹介の券は開業から2か月弱が経った頃の発売となっていますが、同駅が開業した時には駅名の印刷された硬券の普通入場券が設備されていましたので、発注枚数の見込み違いから欠札となり、応急処置的に設備されたものかも知れません。
同社の普通入場券は駅名が印刷されたものが基本であり、駅名記入式の普通入場券は「非常用」として設備されていた可能性が高いと思われます。

同社の自社完結乗車券類は昭和40年代中頃まで半硬券が主流であり、硬券は硬券式券売機で発売される自社完結乗車券や他社線との連絡乗車券・普通入場券等の限られたものにしか採用していませんでしたが、秩父線が開業した時期になると軟券式の券売機の普及によって自社完結の乗車券が券売機での発売に移行され、半硬券は次第に姿を消していったように記憶しています。

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京王電鉄 新宿駅東口出札発行券売機券の変遷

前回の記事で、新宿駅東口出札で発行された、京王電鉄新宿から140円区間ゆき片道乗車券を御紹介いたしました。
御紹介いたしました券は発売末期の様式でしたが、数十年に亘り、機会あれば同出札の京王電鉄乗車券を購入して参っておりましたので、今回はその様式の変遷を御紹介したいと思います。


まずは1枚目です。こちらは国鉄時代の1985(昭和60)年12月に購入したものです。


   

桃色PJRてつどう地紋の券で、まだ印版式の時代のものです。普通、京王電鉄(当時は京王帝都電鉄)の印版式時代の券売機券は京王帝都自社地紋の券紙にスミインクが使用されていたのに対し、この券はPJRてつどう地紋の券紙を使用し、インクもキレート式でした。券売機器が国鉄の券売機と同じ型のものが使用されており、京王の自社地紋券紙が短辺つなぎの細長いロール紙であったのに対し、国鉄の券売機は長辺つなぎの太いロール紙であったことと、インクを国鉄のものに合わせたほうがメンテナンスがし易いことが関係していたのではないかと思われます。


   

左上の「(京王帝都電鉄)」という社名の横に「〇西」という国鉄東京西鉄道管理局の符号が入れられていました。


2枚目は1986(昭和61)年2月に購入した券です。


   

1枚目の券を購入してから程なく券売機が更新されたので購入したものです。こんどは京王帝都自社地紋のサーマル式券となっていますが、様式的には国鉄の券売機の様式を踏襲しており、京王帝都自社で発売されているサーマル式券とは全く様式が異なっていました。


   

こんどは、一番下の「下車前途無効」の横に東京西局の符号が入れられています。


3枚目はJRとなってからの1993(平成5)年5月に購入したものです。


   

機器は国鉄時代と変化ありませんでしたが、券紙がJRE地紋のJR仕様となっています。様式的には2枚目のものと変わりませんが、国鉄東京西局の符号は当然なくなり、自動券売機券であることを示す「自」の文字だけが残されています。
また、日付の下に「109」という券売機番号が印字されるようになっています。


4枚目は1998(平成10)年に京王帝都電鉄から京王電鉄に社名が改称されてからの2003(平成15)年7月に購入したものです。


   

こちらも機器や券紙に変更はありませんでしたが、左上の「(京王帝都電鉄)」という社名が「(京王電鉄)」に修正され、同時にJR東日本が発売したことを示す「ロ東」の符号が付けられています。また、この頃から発売時刻が印字されています。
また、「京王帝都線○○○円区間」という表記が「京王線○○○円区間」に修正されています。


   


5枚目は2007(平成19)年12月に購入したものです。


   

券売機が傾斜型の機器に変更になったため、購入してみました。やはりJRE地紋のJR券紙が使用されていますが、フォントが大幅に変更されたことと、「発売当日限り有効 下車前途無効」の文言が1行に纏められたため、趣きが異なります。


   

こちらも左上の「(京王電鉄)」という社名と「ロ東」の符号があります。


   

そして再掲になりますが、6枚目の券が最終形態の券になります。券紙がPJRてつどう地紋の券紙になり、これは33年前の印版式時代に逆戻りしたことになります。また、様式も京王の様式となり、この点についても逆戻りしています。
どのような理由で小田急の乗車券のようなJR様式の券にならなくなったのかは不明ですが、恐らく乗車券発売に関する委託契約の違いによるものと思われます。

それにしても、この記事を作成していて気付いたことですが、33年間も同じことをし続けてきた自分の馬鹿さ加減に、改めて呆れてしまった次第です。

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京王電鉄 新宿駅東口出札発行 140円区間ゆき片道乗車券

前回エントリーでJR新宿駅東口出札口で発行された小田急電鉄の130円区間ゆき片道乗車券を御紹介いたしましたが、同出札では小田急電鉄と同様の理由によって京王電鉄の乗車券も発売されていましたので御紹介致しましょう。


   

2018(平成30)年8月にJR新宿駅東口出札で発行された、京王電鉄の140円区間ゆき片道乗車券です。
こちらも小田急電鉄のものと同様に発売されていましたが、小田急電鉄のものと異なり桃色PJRてつどう地紋の券紙が使用され、フォントもJR券売機のものとは違い、京王の様式になっています。
京王電鉄の駅で発行されたものとの違いはなく、「072」という券売機の番号で見分けるしかありません。


小田急と京王の両事業者は同じ事情によってJRへ出改札業務を委託していたわけですが、発券される券の体裁が異なっている理由は定かではありませんが、券売機器や券紙の供出等、駅共同使用規程のなかでも協議を行うことによって規程にかかわらず内容を変更することが可能であるため、その違いに拠るものであったと推測されます。

京王電鉄の乗車券についても、小田急電鉄同様、同駅の東西自由通路の完成に伴って廃止されてしまっています。

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小田急電鉄 新宿駅東口出札発行 130円区間ゆき片道乗車券

2018(平成30)年8月に、小田急電鉄新宿駅で発行された130円区間ゆきの片道乗車券です。


   

橙色JRE地紋の金額式券売機券となっています。
当時、小田急電鉄の新宿駅東口出札では、国鉄時代よりJRの構内を通過するルートがのりばへの最短ルートであったため、東口での出改札業務はJRに委託しており、JRの券売機で発券されていました。JRの券売機と券紙が使用され、左上の「(小田急電鉄)」の表記の前にJR東日本が発券したことを示す「ロ東」の符号が付けられていました。これは、同社の駅共同使用規程のなかで定められており、それに準拠していたものと思われます。
新宿駅東口で小田急電鉄の乗車券が発売されていたのは、東口から小田急線ののりばのある西口への自由通路がかなり迂回しなければならない場所にあるため、恐らく「特例」として中央東改札からのみ、小田急電鉄と同じく西口をのりばとする京王電鉄の乗車券で入場して通り抜けをすることが可能であったことに拠ります。

しかしながら本年(2020年)7月、東口および西口の改札口を移動させて東西を結ぶ自由通路が出来たため、この取扱いは廃止されています。


   

かつて、中央東口改札にあった案内看板です。「小田急線・京王線からのお客様・・・」という表示があります。


   

東西自由通路が開通し、JRの構内を小田急電鉄の乗車券では通り抜けが出来なくなることを告知するポスターです。


   

8月現在の新宿駅東西自由通路の様子です。天井にある丸いみどり色の造作が、かつて東口改札があった痕跡です。


   

こちらは反対側、西口改札跡です。かつて改札口の上にあったLEDの発車案内板が取り残されています。


   

東西自由通路の中程です。新しい出改札がここに新設されています。通路は広く、今まで駅構内の通路であった頃の面影はありません。


   

かつて改札口があった場所の床面は、自動改札機のあった場所がゴムシートで覆われており、案内窓口のあったブースが塞がれています。


   

JRの券売機があったところは塞がれたままになっています。


   

そして、小田急電鉄と京王電鉄の券売機があった場所も塞がれており、中央東口改札のある左側には✖印の案内が掲示され、「右手方向の東西自由通路をご利用下さい」とあります。

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〇委 川岸駅発行 元善光寺ゆき片道乗車券

前回エントリーで中央東線川岸駅で発行された辰野から乗車分の急行券を御紹介いたしました。今回はその時に同時に使用した乗車券を御紹介致しましょう。


   

1983(昭和58)年6月に川岸駅で発行された、飯田線元善光寺駅までの片道乗車券です。桃色こくてつ地紋のA型準常備式券です。

準常備式券は発売する金額の部分で切り取って発売する様式で、正式には準常備片道乗車券(準片)と呼ばれるものです。この券は着駅が最下段となっている着駅準常備と呼ばれる様式ですが、他に発駅を最下段として着駅は1駅に固定した発駅準常備というものもあります。

御紹介の券は元善光寺駅までの870円区間ゆきとして発売されていますが、もし伊那大島駅までであれば、伊那大島と元善光寺の間で鋏を入れることになります。
切り取られてしまうともともとのサイズがA型かD型か分からなくなってしまいますが、この券が発券されるときに切り取られる前の姿を見ていますのでA型で間違いありません。


   

裏面です。急行券と同時に使用しており、こちらの券も市田駅で裏に無効印を捺印のうえ戴いております。切り取られた側に赤鉛筆チェックの一部が残っており、原型がA型券であったことが判ります。

無効印が逆さまですが、これは御愛嬌です。

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〇委 川岸駅発行 辰野から100kmまでの急行券

1983(昭和58)年6月に、中央東線の川岸駅で発行された、辰野から100kmまでの急行券です。


   

桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用の記急①様式で、新潟印刷場で調製されたものです。
「記急①」は発駅を記入するために空欄となっている100kmまでの急行券で、全国どの駅からの券にもできるように設備されています。
「①」は100kmまでの券という意味で、50kmまでであれば「〇05」、150kmまでであれば⑮、200kmまでであれば②、201km以上であれば③というように数字が割り当てられていました。50km刻みの区間ができたのが国鉄末期であったため、「05」だの「15」だのという数字が割り当てられたものと思われます。


この券は辰野駅から急行こまがね号で飯田線の市田駅へ向かうために購入したもので、川岸駅から辰野駅まで中央東線の普通列車に乗車し、辰野駅から実際に使用しております。
辰野駅では接続時間があまりなく、同じホームからの発車であったことから、改札鋏は入れられておりません。


   

裏面です。新潟印刷場の券は券番が5ケタになっています。

当時の国鉄では現在のように使用済の乗車券類の管理が厳しく、持ち帰ることができるかは改札掛員の裁量次第でしたが、市田駅では裏面に無効印を捺印のうえ、頂くことが出来ました。掛員によっては無効印は表面でなければダメだとか、表面左右に2か所も捺すとか、いろいろなパターンがありましたが、当時としてはかなり緩かったです。


発行駅である川岸駅は中央東線の駅で、「大八廻り」と呼ばれる区間にある駅で、現在の岡谷~塩尻間の塩嶺トンネルをくぐる「塩嶺ルート」とは異なる、大きく南へ迂回して辰野駅を経由する旧線にあります。大八廻りは当時の鉄道局長で帝国議会議員でもあった「伊藤大八」が伊那谷出身で、鉄道を伊那谷の入り口を通そうと画策し、塩尻峠ではなく辰野を迂回するルートに変更させたのが由来で、伊藤大八の名前をとって「大八廻り」と呼ばれるようになったという話を聞いたことがあります。

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東武鉄道 赤城駅発行1160円区間ゆき片道乗車券

2009(平成21)年8月に東武鉄道桐生線赤城駅で発行された1160円区間ゆきの片道乗車券です。


   

黄褐色TRCとぶてつ自社地紋のA型地図式券売機券となっています。
全国的に見ても希少となりつつある地図式券売機券としては恐らく末期のもので、現在では存在しない様式と思われます。また、同社では券売機券の券紙をPJRてつどう地紋の汎用券紙に切替えを行っていた時期に発行されており、自社地紋の券売機券としても末期のものになります。

券面の地図を見ますと伊勢崎線(スカイツリーライン)は竹ノ塚~浅草間が、押上線押上まで、亀戸線は亀戸まで、大師線大師前まで、野田線(アーバンパークライン)が初石~鎌ヶ谷間まで、日光線が藤岡~栃木間が着駅であることが一目瞭然です。

この券は実際に特急りょうもう号に乗車のうえ浅草駅まで使用したものですが、浅草駅の改札口で持ち帰りたい旨を申告いたしましたところ、せっかくの地図式券であったため、改札駅員氏のご厚意によって、磁気で真っ黒であるにもかかわらず、無効印を裏面に捺していただきました。


赤城駅は桐生線の終着駅で、もともと上毛電気鉄道が開業していた赤城駅に乗り入れした関係からでしょうか、現在でも上毛電気鉄道が出改札業務を行う駅となっています。PASMO、SuicaなどのICカードも使用できますが、上毛電気鉄道は使用できないため、東武鉄道のみ使用することとなり、簡易改札機のみ設置されています。

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仙台駅発行 頸城鉄道浦川原ゆき 片道連絡乗車券

本日は75回目の終戦の日です。75年前の今日に当たる1945(昭和20)年8月15日の正午(午後12時)、ラジオから天皇陛下の肉声(玉音)による「大東亜戦争終結の詔書」が音読放送された、いわゆる「玉音放送」が流れ、以後の日本は平和への歩みを始めました。今でこそ日本の平和は当たり前のことのように感じられてしまいますが、そこに至るまでの先人の努力や犠牲はすさまじいものがあったものと想像します。
これからも日本が、そして全世界が平和になれるよう祈りつつ、本年も戦争に関連する券を御紹介したいと思います。


   

今回御紹介致します券は、1945(昭和20)年3月に仙臺(台)駅で発行された、頸城鉄道自動車(➔頸城鉄道➔頚城自動車。昭和43年区間廃止。昭和46年全線廃止)浦川原ゆきの片道連絡乗車券です。

この券が発券された時代は国鉄の前身である運輸通信省時代のものですが、桃色GJRてつだうしやう地紋の券紙が使用された硬券式の補充片道乗車券となっています。

仙台駅は、運輸通信省となってからの仙台・福島・盛岡・青森を管轄する仙台鉄道局の管轄で、発駅名の右側にある「〇仙」は仙台鉄道局管内で発行されたことを示すものと思われます。
経由欄があまりに達筆過ぎて読めませんが、「(若新)」と記入されているのではないでしょうか、会津若松駅と新津駅が経由となっているものと思われます。それが正しいならば、乗車経路は、仙台~(東北本線)~郡山~(磐越西線)~新津~(信越本線)~黒井(新黒井)~頸城鉄道線)~浦川原という経路になります。


この券は頸城自動車様本社の書庫に眠っていたもので、着札として回収されたまま、何らかの事情でそのまま書庫に残されていたものを譲り受けたものです。「〇兵」のゴム印が捺印されていますので、旧日本軍の兵士用として発行されていたものと思われます。
発行された昭和20年3月18日は、その4日前の14日にアメリカ軍のB29が大阪を大空襲して13万戸が焼失し、前日の17日には硫黄島の守備隊が全滅して2万3000人が戦死するという悲惨な歴史のあった時期で、このような時にこの券を使用して旅行した理由としてどのような事情があったのだろうか、もしかすると仙台の出征地から故郷の浦川原にお帰りになられたのだろうか、興味のあるところです。


戦前・戦中・戦後の乗車券類を観察していると、運賃の脇に表示されている通行税が発行された時代の判断材料になります。そして必ず通行税には「戦争」の影が見えてきます。
御紹介の券には「特別運賃、税共」という表記がありますが、これは1944(昭和19)年4月1日から実施された戦時特別運賃の加算によって特別運賃が加算されたものです。また、日華事変特別法により、国策として運賃の中には通行税が含まれていましたので、そのことを表記しています。

通行税は鉄道又は汽船による国内での移動にかかる税で、もともとは日露戦争の戦費を賄うため、1905(明治38)年に制定された非常特別税法の中の税目の一つとして創設され、鉄道や船の運賃に課税されました。
その後、1910(明治43)年には通行税法の制定により恒久税化されましたが、交通を阻害するとの理由から1926(大正15)年の税制改正で通行税は一旦廃止されます。
しかし、日中戦争勃発に伴い、1938(昭和13)年に日華事変特別税法の中の税目の一つとして復活し、1940(昭和15)年には再び通行税法の制定により通行税が課税され、1989(平成元)年の消費税の導入に伴って廃止されるまで、グリーン車およびA寝台車などの料金や航空運賃に対して10~20%が課税され、料金に上乗せされた状態で存続していました。
なお、通行税は切符の購入時に乗客が負担し、運輸事業者は預り金として計上し、毎月国税として納付していたそうです。

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平車掌区乗務員発行 特殊区間式特別補充券

1979(昭和54)年8月に平車掌区(現・いわき運輸区)乗務員によって発行された特殊区間式特別補充券です。


   

黄褐色こくてつ地紋の特殊区間式券で、東京印刷場で調製されたものと思われます。
確か、土浦駅で筑波鉄道から乗り継いだ際に常磐線車内で精算した時のもので、急行「ときわ」に乗車したときのものであったと記憶しています。

首都圏の車掌区のものとは違い、平車掌区の券は仙台・郡山・水戸・宇都宮地区の路線が上部に描かれていました。この当時は東京山手線内にある駅と、中心駅である東京駅から片道の営業キロが51kmを超え200km以下の区間内にある駅との相互間の片道普通旅客運賃は東京駅を起点または終点とした営業キロによって計算することになっていたことから、平車掌区が受け持つ車内精算では「東京山手線内ゆき」もしくは「東京山手線内から」として発券することが多かったからでしょうか、首都圏の路線が下の方に詰め込まれており、都内在住の管理人にとっては大変新鮮に感じられました。


しかしながら、地図を見ていますと、一つ大変違和感を感じる部分がありました。


   

その部分を拡大してみました。
中央本線の新宿から先、三鷹駅から先については図版のスペースの関係からでしょうか、主要駅のみの記載になっているため、三鷹の次は国分寺となり、その次は西国分寺になっています。
問題はその次です。
図版の都合ですからその次の駅との間隔がえらく長いのは良いとして、なんと次の駅が新小平なのです。
中央本線から全く分岐をすることなく、ストレートに武蔵野線に入ってしまっているのです。
狭いスペースに無理やり路線図を押し込んだ感がアリアリで、決して間違いとは言い難いものがありますが、ここまで来ると「どうだかなぁ」という気がします。

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