JR西日本 宮島さん橋営業所発行 宮島から宮島口ゆき 片道乗車券 ~その2

前回エントリーでJR西日本の宮島さん橋営業所で発行された、宮島(営業所)から宮島口(さん橋)ゆきの片道乗車券を御紹介いたしました。同営業所の出札窓口には券売機も設備されており、宮島口までの旅客の殆どが券売機を利用して乗車券を購入していました。


   

1988(昭和63)年9月に宮島営業所の券売機で発行された、宮島(営業所)から宮島口(さん橋)ゆきの片道乗車券です。桃色JRW地紋のA型金額式券で、キレート式券時代のものです。
硬券乗車券同様、やはり「下車前途無効」の文言があり、しかも見慣れた金額式になっており、鉄道の乗車券と何ら違いがありません。


前回エントリーで御紹介いたしました同区間の硬券乗車券も再掲いたします。


   

様式は全く異なっておりますが、有効区間等の効力は同じです。ただし、発売日が1日異なっておりますが、購入したのは同じ日であり、なぜか券売機の日付が1日遅れた状態で発売されてしまっており、硬券の日付が本当の購入日になります。
宮島営業所では、乗船改札の際に宮島口ゆきの乗車券は回収してしまいますので、日付が1日違っていても、気づかれなければ問題は無かったのでしょう。

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JR西日本 宮島さん橋営業所発行 宮島から宮島口ゆき 片道乗車券 ~その1

1988(昭和63)年9月に宮島航路(現・JR西日本宮島フェリー)宮島営業所(現・宮島駅)で発行された、宮島(営業所)から宮島口(さん橋)までの片道乗車券です。


   

桃色JRW地紋のB型一般式大人・小児用券で、広島印刷場で調製されたものです。

国鉄からJR西日本に継承された当時の宮島航路は、乗切り制の運賃体系ではありましたが鉄道運賃と規定上は同じであり、船舶に乗るのであれ、「乗船券」ではなく「乗車券」が発売されており、「下車前途無効」の文言も印刷されていました。
もっとも、宮島航路は宮島(営業所)~宮島口(さん橋)間の折り返し運用で、途中に寄港するところはありませんので「途中下車」をすることは不可能ですが、国鉄時代から引き継がれた鉄道の乗車券制度に準じた様式が使用されていたものと思われます。

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JRバス関東 館山駅発行 小塚大師ゆき片道乗車券

2015(平成27)年の1月にJRバス関東館山支店管内の ◯自 館山駅(館山駅高速バスきっぷうりば)で発行された、館山駅から小塚大師ゆきの往復乗車券です。


   

桃色JRB地紋のD型大人専用券で、関東交通印刷で調製されたものと思われます。
スタイル的には一般的な硬券式の往復乗車券のような感じですが、往路用と復路用の双方に「発売当日限り有効 下車前途無効」の文言と発行箇所名、片道運賃の記載があり、かなり独特な様式になっています。


   

裏面です。裏面をみると分かるように、表面には往路用と復路用の間に切取用の波線が入れられていますが、券紙には切り取り用の点線は入れられておらず、実使用の際に往路用を乗務員が回収するために切り取ることは難しいです。

この券は関東厄除三大師随一の霊場である、館山市内にある小塚大師さまの開創1200年記念大祭のため、ジェイアールバス関東では臨時バスの運行をした際に「小塚大師の開創1200年記念乗車券」として発売されたもので、通常発売の乗車券ではありません。

もともと、小塚大師さまへ参拝に交通機関で行くには、JR内房線の館山駅でジェイアールバス関東南房州本線のバスに乗換えて25分のところにあります犬石停留所から徒歩30分という道のりで、交通の便は良くありませんが、毎年1月21日の「初大師」の日のみ、小塚大師直通の臨時バスが運行されています。

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(旧)西武鉄道 田無駅発行 新大久保・代々木間ゆき 片道連絡乗車券

1939(昭和14)年7月に(旧)西武鉄道(現在の西武鉄道の前身)村山(現・新宿)線田無駅で発行された、高田馬場接続、鐵道省(現・JR東日本)山手線の新大久保・代々木間ゆきの片道連絡乗車券です。


   

桃色てつだう地紋のB型矢印式大人・小児用券になっています。
乗車経路は、田無~(村山線)~高田馬場~(山手線)~新大久保・代々木間というもので、着駅の新大久保・代々木間には途中駅の新宿駅が含まれています。
当時の西武鉄道村山線は高田馬場駅が起点になっており、その先の高田馬場~西武新宿間は未開業でありましたため、接続駅である高田馬場駅で山手線に乗換えることは必然のことでした。

   

裏面です。券番と社名および発行駅名が記載され、そのほかに「省線内下車前途無效(効)」の文言がありますので、通用発売日共2日間ではありますが、高田馬場以降の省線内では途中下車はできなかったことになります。

現在では西武村山線は1952(昭和27)年に現在より高田馬場寄りにあった西武新宿駅まで延伸開業し、将来国鉄の新宿駅東口への乗り入れのための仮駅として営業していました。それと同時に村山線から新宿線となっています。1965(昭和40)年に同社は東口への乗り入れを断念し、仮駅から先の新宿駅寄りにあった乗り入れ予定のための敷地を買い取り、そこに西武新宿駅の駅ビルが建設されています。

西武新宿駅を起点としている西武新宿線ですが、新宿駅との間が0.6km(徒歩で約9分)離れているため、現在でも新宿駅を目的地としている旅客を含め、旅客の殆どが高田馬場駅でJR山手線に乗換えているのが実態です。

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京都から120円区間ゆき 片道乗車券

1985(昭和60)年9月に東海道本線「◯特D 京都」駅で発行された、京都から120円区間ゆきの片道乗車券です。


   

桃色こくてつ地紋のB型金額式大人・小児用券で、大阪印刷場で調製されたものです。

当時の京都駅は通常の出札口には近距離の硬券は設備されていなかったと記憶しておりますが、この券が発売されていた「◯特D 京都」という窓口では近距離乗車券も発売していました。
この窓口が現在の京都駅のどの辺にあったかという記憶が曖昧ですが、改札内にある「小屋」のような窓口で、恐らく精算業務を主としていたと思われますが、京都~山科間の復路専用乗車券などの硬券式改札補充券等もありました。
御紹介の券は一般的な様式の金額式券ですが、恐らく、定期券や企画乗車券などの原券を所持した打ち切り精算の旅客に対し、京都駅からの近距離区間用として設備されていたものと思われます。

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日立運輸東京モノレール モノレール浜松町から新平和島ゆき 片道乗車券 

1971(昭和46)年7月に日立運輸東京モノレール(現・東京モノレール)のモノレール浜松町駅で発行された、新平和島(現・流通センター)駅ゆき片道乗車券です。


   

緑色TMR東京モノレール自社地紋のB型相互式大人・小児用券で、山口証券印刷で調製されたものと思われます。
着駅の「新平和島」の「平」の文字は何と表現したら良いか分かりませんが、斜めの点がカタカナの「ハ」の字になっている旧字体の漢字ですが、小児断片にあります「平」は現在の字体になっています。

前回エントリーで御紹介いたしましたが、同社は東京モノレールとして開業し、1967(昭和42)年に「日立運輸東京モノレール」という社名になった後、再び1981(昭和56)年に東京モノレールという社名になっており、御紹介の券は日立運輸東京モノレール時代の券になります。

着駅の新平和島駅は同線の途中駅として1969(昭和44)年12月に開業した大田区平和島地区の倉庫群の中にある駅で、近隣には後に同駅の駅名にもなる東京流通センターが、御紹介の券が発行された年の9月に竣工したことに伴い、1972(昭和47)年1月に流通センター駅に駅名が改称されています。

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東京モノレール モノレール浜松町から羽田ゆき 片道乗車券

1967(昭和42)年1月に羽田空港内にある案内カウンター「◯委 羽田駅」で発行された、モノレール浜松町から羽田(廃止駅)ゆきの片道乗車券です。


   

若草色TMR東京モノレール自社地紋のB型相互式大人・小児用券で、山口証券印刷で調製されたものと思われます。
同社では硬券末期まで自社完結の乗車券については相互式券が多用されており、様式的には一貫性を貫いていました。
いつまでであったか定かではありませんが、初期の乗車券には航空機のイラストが入っており、同線が空港アクセスのための路線であるということが窺えます。


   

裏面です。券番の他、発行箇所名である「◯委 羽田駅発行」という記載があります。
羽田駅の業務委託駅というのも変な感じですが、同駅内にありました空港案内カウンターは羽田空港ビルディングという羽田空港のターミナルビルを運営している会社が案内業務を行っておりますため、東京モノレールから同社に対し、乗車券の発売業務を委託しているという意味で「◯委」の符号が付けられているものと思われます。


東京モノレールは1964(昭和39)年の開業時には途中駅が全くない状態で、モノレール浜松町~羽田間をノンストップで運転していましたが、1966(昭和41)年に競馬開催日のみ営業する臨時駅として大井競馬場前駅が初の途中駅として開業し、この券が発行された1967年には現在の日立物流の前身である日立運輸および西部日立運輸と合併し、「日立運輸東京モノレール」という社名に変更され、日立製作所が株式の81%を所有する同社の子会社になっていますが、1981(昭和56)年には再び「東京モノレール」という社名に変更されています。

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夕張鉄道 野幌駅発行 角田ゆき片道乗車券

廃札券ですが、夕張鉄道野幌駅で発行された、角田ゆきの片道乗車券です。


   

灰色HPRしてつ地紋のB型相互式大人・小児用券で、札幌交通印刷で調製されたものと思われます。
発行された野幌駅は国鉄函館本線との共同使用駅で、出改札業務は国鉄が行っており、列車も国鉄駅構内の片隅(といっても架線のあるホームですが)に発着していました。そのため、社名の右横には国鉄北海道総局(当時)で発行されたことを示す「①」の符号が表記されています。

有効区間の下には経由欄があり、「(上江別経由)」と記載されています。この券に経由が記載されているのは、着駅の1駅手前の栗山駅が国鉄室蘭本線との乗換駅になっていることから、野幌駅から函館本線を経由して岩見沢駅で室蘭本線に乗換えて栗山駅まで行くことが可能であるため、あえて夕張鉄道線内の野幌駅から栗山駅の間にあります上江別駅を経由として記載されているものと思われます。

夕張鉄道はかつて、江別市の函館本線野幌駅から夕張郡栗山町の室蘭本線栗山駅、夕張市の夕張線鹿ノ谷駅を経由して夕張本町駅までを結ぶ、北海道炭礦汽船が運営していた鉄道路線でしたが、1971(昭和46)年に合理化のため鹿ノ谷駅~夕張本町駅間の運輸営業と、栗山駅~鹿ノ谷駅間の旅客営業が廃止されています。
さらには1975(昭和50)年3月に野幌駅~栗山駅間の旅客営業が廃止されて貨物輸送の専業鉄道になり、翌4月に野幌駅~北海鋼機前間を北海鋼機に譲渡し、鹿ノ谷駅~若菜駅間を化成工業所専用鉄道に譲渡のうえ、野幌駅~鹿ノ谷駅間の貨物運輸営業も廃止となって鉄道線は全廃され、その後はバス事業者として現在に至っています。

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常陸太田駅発行 東京山手線内ゆき 乗車券・急行券連綴券

1977(昭和52)年1月に水郡線の常陸太田駅で発行された、東京山手線内ゆきの乗車券・急行券の連綴券です。


   

青色こくてつ地紋のA型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものです。

連綴券は乗車券と急行券類の2枚が同時に発券される機会が多い駅において、2枚を同時発券していちいち計算をする手間を省略するために1枚に纏めてしまったもので、全国各地に設備例がありました。
これらの連綴券は各印刷場ごとにスタイルが異なっており、東京印刷場のものはA型券となっており、表面の様式が何となく急行券類のスタイルに準じています。


   

裏面です。券番の他、経由表記などの乗車券に記載されているようなことは裏面に記載されています。


水郡線には今では優等列車の運転がありませんが、当時は上野駅から常磐線・水郡線を経由して常陸大子・郡山方面へ直通した急行列車の「奥久慈」が運転されていました。この列車は常磐線内では同じく急行列車の「ときわ」と併結になっていたため、「奥久慈」と併結されていた「ときわ」は気動車急行として運転されていました。


   

管理人が高校時代に常磐線の南柏駅で撮影した、「奥久慈」「ときわ」の併結列車です。上野口の気動車急行は非冷房車が多かったのですが、常磐線系統の「奥久慈」「ときわ」に使用された水戸機関区には冷房車の配置が多く、同じ上野口の気動車急行ではありましたが、東北線系統の「おが」「いいで」や「ざおう」といった急行列車は非冷房車が中心でしたので、かなり格差があったような気がします。
また、常磐線内では快速列車の間を駆け抜けることからスピードが求められていたためか、出力の大きなキハ58が多く編成に組み込まれていたように思います。
末期の「奥久慈」は常磐線内のみが急行で、水戸から先の水郡線内は普通列車という運転形態に変わり、昭和60年3月改正で廃止されてしまっています。

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松前駅発行 松前から180円区間ゆき片道乗車券

1986(昭和61)年9月に松前線松前駅で発行された、同駅から180円区間ゆきの片道乗車券です。


   

桃色こくてつ券売機用特殊地紋のA型金額式券で、キレート多能式券売機で発券されたものです。

御紹介の乗車券を購入した当時の松前駅は単式1面1線の松前線の終着駅でしたが、かつては海産物などの輸送のための貨物列車も運転されており、機廻し線や転車台や貨物側線もある駅で、函館駅~松前駅間を2時間8分で結ぶ急行「松前」が運転されていた時期もありました。
しかし並行する国道228号の整備が進むと貨客ともに輸送量が減少し、末期は普通列車7往復の列車のみで、途中駅での折返しはなく、全線通してのスタフ閉塞での運転になっていました。
さらには、松前線は1984(昭和59)年には第2次特定地方交通線として廃止が承認され、国鉄民営化によって北海道旅客鉄道(JR北海道)に承継された後、1988(昭和63)年2月に路線が廃止され、松前駅は同時に廃駅になっています。

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