趣味で蒐集した「きっぷ」を見て考えたこと、とか…
JR直営の印刷場名は国鉄時代の印刷場名を使用します。
古紙蒐集雑記帖
京浜急行電鉄 特別急行列車座席券
昭和55年8月に京浜急行電鉄三浦海岸駅で発行された、特別急行列車座席券です。
水色JPRてつどう地紋のA型券で、山口証券印刷で調製されたものと思われます。
京浜急行電鉄の特急は特別料金が不要となっていますが、夏の海水浴シーズンになると夕方の上り特急が海水浴帰りの旅客で混雑するため、座席確保の保障をする座席券というものが発行されていました。
特に、三崎口駅が開業した昭和50年の夏以降、三浦海岸駅からの帰宅客が三崎口駅まで行って戻り乗車することを防ぐため、三崎口駅では1番線を降車専用ホーム、2番線を乗車専用ホームとして完全に分け、1番線に到着した列車からは全乗客を改札出口に案内し、列車を1番線から2番線へ入れ換えて乗車させるということをしていました。そのため、三浦海岸駅では三崎口駅発の特急列車の座席が埋まってしまっていることもあり得るため、座席券の需要がかなりあったようです。
座席券とは聞き慣れない名称ですが、現在でも夕方の下り快速特急ウィング号において着席整理券というものを発行しており、その前身のようなものであると思われます。
同社の三浦海岸への海水浴客輸送は大変な混雑を生じ、夏ダイヤでは海水浴客のための海水浴特急列車を運転し、その運用は大変ユニークなものでした。
たとえば、海水浴特急となる列車を終点の手前(朝の上りは京浜川崎、夕方の下りは金沢文庫)で営業をうち切り、窓を閉めて回送列車として始発駅に向かわせていたようです。
特に、朝の品川駅では1番線に到着した上り列車を泉岳寺寄りの引き上げ線に入れ、他の下り列車とはホームを区別するため、通常であれば上り列車が到着するはずの2番線に入線させ、わずかな時間で即発車させるという芸当をしていました。
さらには、途中の横浜駅では1面2線しかない構内であったにも拘わらず、先行する普通列車を渡り線で上り線に退避させたうえで抜くということまでしています。
三浦海岸駅では夕方の帰宅客の混雑をスムースに捌くため、2番線を三浦海岸始発の海水浴特急専用乗り場として三崎口発の上り列車を入線させず、下り1番線ホームの方を中程で2つに区切って、下り列車はホームの津久井浜方の半分、上り列車は三崎口方の半分に停車させ、上りと下りの特急列車をどちらも1番線から発着させることもしています。
それだけ、かつての京浜急行電鉄にとって、三浦海岸への海水浴客輸送は相当な混雑であり、大変重要な輸送業務であったことが伺えます。
帝都高速度交通営団 営団成増から営団赤塚ゆき 特別補充券
平成16年3月31日、それまで「営団地下鉄」として昭和16年より63年間親しまれてきた帝都高速度交通営団が東京地下鉄株式会社(=東京メトロ)に改組されました。
営団地下鉄から東京メトロに改組する際、どうしても駅名を改称しなければならなかった駅が2駅ありました。それが現在の地下鉄成増駅と地下鉄赤塚駅でした。
営団地下鉄の最終日に、現在の地下鉄成増駅で発行された、現在の地下鉄赤塚駅までの特別補充券です。緑色JPRてつどう地紋の軟券で、山口証券印刷にて調製されたのではないかと思われます。
営団地下鉄では補充券等の軟券類や硬券乗車券については緑色JPRてつどう地紋が使用されていましたが、券売機券で発券された乗車券や印発機で発行された定期券および常備回数券、軟券の乗車票などは自社地紋が使用されていました。
営団地下鉄の特別補充券には指定欄を記入するところは無く、JRの出札補充券のような感じですが、事由欄が全くの記入式であったり、券番の記載方法が2ケタの冊番と2ケタの券番となっていたり、平成券となった末期の様式でも古めかしさがありました。しかもカーボン紙を挟んで記入する様式となっていましたので尚更古めかしさを感じます。
版も昭和時代のものをそのまま引き継いだ活版印刷のものに、発行日欄のみ平成になって差し替えていますので、何となくバランスの良いものではありませんでした。
営団地下鉄時代、地下鉄成増駅は「営団成増」、地下鉄赤塚駅は「営団赤塚」という駅でした。これは近隣にある東武東上線の成増駅と赤塚駅と区別するためと言われており、正式な駅名として「営団」の名を冠しているのはこの2駅のみとなります。
しかし、営団地下鉄を改組するにあたり、「営団」のままでは具合が悪いため、東京メトロに移管された翌4月1日より「地下鉄成増」と「地下鉄赤塚」に改称されています。
良く、JRとの接続駅をマルス端末で表示すると「地下鉄〇〇」という表記になるのを見かけますが、これはあくまでもJRの駅と東京メトロの駅を区別するために表記しているだけのことで、正式な駅名ではありません。そのため、これらの駅は営団時代から「地下鉄〇〇」というように表記されていました。
このような経緯から、現在の「地下鉄〇〇」という駅には、正式な駅名である「地下鉄成増」「地下鉄赤塚」と、その他の駅で、駅名の前に「地下鉄」を冠する意味合いが違っています。
あいの里教育大駅発行 硬券入場券
昭和61年11月、札沼線あいの里教育大駅で発行された硬券入場券です。
白色無地紋のB型券で、札幌印刷場にて調製されたものです。
「あいの里教育大」は7文字であり、それまでの札幌印刷場で調製された入場券の中では最も字数が多い部類になります。当然ながら7文字では特活を作成しなければすべての文字を駅名欄に挿入することはできません。しかし、当時の国鉄は民営化を控え、印刷場は民営化以後の乗車券をフル生産で印刷するために多忙であったことと、コスト削減のために特活をわざわざ作成するコスト的な余裕が無かったからなのでしょうか、ポイント数の小さいゴシック体の活字を合わせて無理やり挿入してしまっています。
あいの里教育大駅は昭和61年11月1日に開業した駅で、開業から5カ月後の昭和62年4月1日にはJR北海道の駅に継承されておりますので、国鉄駅として営業されたのはわずか5カ月間のみということになります。
荻窪駅発行 マルス発行入場券
昭和59年3月に荻窪駅のマルス端末で発券された入場券です。
緑色こくてつ地紋の共通券紙で、数字の字体や「普通入場券」の位置、地域によっては2時間制の文言のあるなしで
少々違いますが、基本フォームは現在のJRのマルス券に受け継がれています。
この券を購入したのはたまたま学校帰り、窓口にあった端末が入れ替えられ、機械の大きさに合わせて窓口の丸い通話窓が若干横移動していることに気づいて買い求めたもので、入場券の他に西荻窪までの乗車券の片道と往復も同時に購入しています。
ここで疑問が生じます。
これはマルス301という機種で発券されたものだと思われますが、資料を見るとマルス301は昭和60年3月から稼働開始したということであり、この券が発券された昭和59年3月では、辻褄が合いません。であればその前の機種なのかと考えますが、一世代前の機種となりますとドット印字のものとなりますので、それには該当しないと考えます。
1枚目の券を購入してから1年9か月後に同じ荻窪駅の窓口で購入した入場券です。
当時の券は「普通入場券」の文字が少々左寄りとなっていますが、数字の字体が現行のものと同じものとなり、2時間制導入前のJRの入場券とほぼ同じ様式となっています。
2枚目の券は時期的に間違いなくマルス301で発券されたものと思われますが、1枚目のものは一体何だったのでしょうか?
将来的にバージョンアップすることが可能な試作機であったのでしょうか?
東武鉄道 TJライナー着席整理券
平成21年8月に東武鉄道池袋駅専用券売機で発券された、TJライナー着席整理券です。
青色TJライナー専用地紋の縦A型券で、磁気情報のない券紙となっています。
「TJライナー」は、平成20年6月の東武東上線のダイヤ改正に合わせて運転開始された座席定員制列車で、夕方以降の時間帯に池袋発の下り列車として停車駅を限定して運転されており、着席整理券制度を採用した車両定員制となっています。
池袋駅では着席整理券を購入してTJライナー乗車専用改札に並び、発車時間間際になると乗車改札を経て列車に乗車することができます。
当時は改札口で着席整理券を係員に提示するだけでしたが、現在の券にはQRコードが印刷され、乗車改札の際に読取機に約1秒翳すシステムに変わっています。
券の裏面です。
磁気情報のない券紙となっておりますので、自動改札機に入れてはいけない旨の注意書きが印刷されています。
列車下車後の改札はありませんので、使用済みの着席整理券は確実に手元に残すことができます。
横浜市交通局 市営バス回数乗車券
横浜市交通局が発行している、市営バスの回数乗車券です。
10円券が3枚ほどになっていますが、これは消費税8%導入前の210円券の端数分として付いていたもので、他に小児用の110円券などの数種類が細々と発行されています。
券は3センチ幅程度の小さな券で券片は横に繋がっており、かつて発行されていたバス共通回数券のような大きさです。券紙も比較的厚めで、横浜市交通局の局紋をあしらった地紋が印刷されています。因みに、この局紋は横浜市の市章を象ったもので、ヨコハマの「ハマ」の字を組み合わせたものです。
下には横浜市営バスの他に「交通開発バス」とありますが、これは横浜市交通局全額出資で、一部路線および磯子および緑営業所の管理委託業務を行っている外郭団体であるため、定期券や回数券については市営バスと共通化されていることから記載されています。一般旅客にしてみれば「交通開発バス」とは何なのだという感じです。
東京や神奈川・千葉・埼玉のバス事業者では、以前存在したバス共通回数乗車券やバス共通カード時代を経て一部の事業者を除いてIC乗車券PASMOやSuicaの導入が完了しておりますが、現在でも紙製の回数乗車券を発行している事業者があります。
横浜市交通局も回数乗車券を発売している事業者のひとつですが、ホームページを見ても回数乗車券の案内はほんの少しであり、案内所で聞けば出てくる程度です。
峠駅発行 120円区間ゆき矢印式乗車券
昭和49年1月に奥羽本線峠駅で発行された、120円区間ゆきの矢印式乗車券です。
青色こくてつ地紋のB型矢印式券で、仙台印刷場で調製されたものです。当時の仙台印刷場ではモノクラス化後も近距離乗車券が青色地紋で調製されていた時期がありましたため、他の印刷場であれば桃色地紋であるべきですがこの券は青色地紋となっています。
着駅である福島駅は大阪環状線にも同名の駅がありますので、「(北)福島」と線名略号が冠されており、略号だけが明朝体となっています。
もうひとつの着駅である糠ノ目(ぬかのめ)駅は現在の高畠駅で、平成3年に改称されています。
裏面です。
仙台印刷場では新潟や大阪のD型券同様に5ケタのナンバーリングが採用されていましたので、国鉄時代の硬券にあまり縁のない若いコレクター諸氏には少々異様に感じられるかも知れません。
峠駅と言えばスイッチバックとスノーシェルター、峠の力餅が有名で、列車が駅に停車すると、スイッチバックにより若干長めに取られた停車時間を利用した峠の力餅の立売りの声が響いた駅でしたが、国鉄末期の昭和59年に無人化され、また、山形新幹線の開通によってスイッチバックも無くなってしまい、同駅はかなりの変貌を遂げています。
しかし、現在でも普通列車が同駅に停車すると、峠の力餅の立売りは続けられており、山奥の小さな無人駅には「昭和」が健在です。
それにしても、「峠」という字は「山」を登り(上り)きって今度は降りる(下る)という感じが良く表されていて、すごくシンプルでいい字ですね。
東京都交通局 運賃着駅払証
平成12年12月、都営大江戸線勝どき駅で発行された、運賃着駅払証です。
青色とうきょうとこうつうきょく高速鉄道用地紋の千切り券で、発行の都度、ゴム印で発行日を捺印するようになっています。
これは、平成12年12月12日は都営地下鉄大江戸線が現在の変形ループの形となって全線開業した日の夕方、勝どき駅には地下鉄の開通を待ちに待っていた旅客が集中し、数台しか設備されていなかった自動券売機では旅客を捌ききれない状態となってしまったため、溢れかえった旅客をこの券で「取りあえず」改札を通し、着駅に分散させたうえで運賃を支払う形にして混雑を解消するために発行されたものです。
当時、たまたま勝どき駅近くに職場がありましたため、開通当日に見物がてら初乗車した際、偶然このような状況に出くわしたために戴いたものです。
この券は特に珍しいものではなく、混雑時や券売機の故障などの事情により、駅員の判断で発券されるものと思われます。
万座・鹿沢口駅発行 渋川ゆき相互式乗車券
昭和59年7月に万座・鹿沢口駅で発行された、渋川ゆきの片道硬券乗車券です。
桃色こくてつ地紋のB型相互式券で、東京印刷場で調製されたものです。
万座・鹿沢口駅は吾妻線の起点から最遠の有人駅です。群馬県嬬恋村の中心地で、万座温泉と鹿沢温泉双方の最寄駅であることから双方の名前が冠せられ、その間に「・(てん)」が入る、JRでは大変珍しい駅名となっています。
この券が発売された昭和59年当時、東京印刷場で調製された硬券乗車券は営業キロ50kmまでが金額式となっており、首都圏では51~60km帯から地図式券となることが一般的でしたが、この券は吾妻線の起点である渋川駅までとなっており、乗車経路が複数存在しないこともあってか地図式とはならず、相互式で作成されています。
しかし、営業キロ帯で見ると上越線の八木原駅や敷島駅もその範囲に含まれており、敢えて別口座を設備して地方交通線である吾妻線完結の利用実績を調査していたのかも知れません。
上信電鉄 馬庭から東京山手線内ゆき往復連絡乗車券
前回エントリーで上信電鉄の東京山手線内ゆき片道連絡硬券乗車券を御紹介いたしましたが、かつて同社には往復の乗車券の設備もありました。
昭和60年10月に馬庭駅で発行されたとされる東京山手線内ゆきの往復乗車券です。青色JPRてつどう地紋のD型券で、復路券については青色で染色をされている仕様になっています。往復ですので通用期間が片道の2倍となるため、発売日共4日間有効となっています。
馬庭駅は現在も委託駅として営業しておりますが、駅の近くに陸上自衛隊吉井分屯地や関東補給処吉井弾薬支処があることから自衛隊の東京への公務利用である「〇衛」後払いの需要が多いことから往復券が設備されていたものと思われます。
この券は廃札として同社より放出されたものでありますので、日付は後から入れられたものになります。そのため、実際に昭和60年10月にこの券が馬庭駅で発売されていたかどうかの真偽のほどは定かではありませんが、このような券が存在したという資料としてイベント会場で購入した次第です。
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