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ラグビーW杯 新日鉄釜石 神戸製鋼 松尾雄二 平尾誠二 ラグビー人気 絶頂

2019年10月23日 10時10分29秒 | ワールドカップ


絶頂ラグビー人気 新日本製鐵釜石と神戸製鋼 
ラグビーのリジェンド 松尾雄二と平尾誠二



成人の日の風物詩 ラグビー日本選手権
 社会人ラグビーと大学ラグビーの優勝者が対決して日本一を決める日本選手権は、1964年から秩父宮ラグビー場で開催されるようになった。毎年1月15日に開催、成人の日(当時)の風物詩のひとつとなった。( 1965年度、1968年度、1973年度は、花園ラグビー場で開催)
 1975年は、秩父宮ラグビー場が改修工事のため、国立霞ヶ丘陸上競技場(国立競技場)で代替開催されることになった。国立で開催された大会は、当時6万人収容だった国立競技場を満員で埋め尽くしたことで、以後しばらく、国立競技場での開催となった。
 この時代は新日本製鐵釜石(現・釜石シーウェイブス)や神戸製鋼(現・神戸製鋼コベルコスティーラーズ)がそれぞれ7連覇を達成し、松尾雄二や平尾誠二といったスター選手が現れ社会人ラグビー人気は高まった。一方、早稲田大学、明治大学、同志社大学の大学ラグビーの人気も絶大で、社会人と大学の優勝者で日本一を決める一騎打ちの日本選手権は、毎年、多くの観客を熱狂させた。ラグビー人気は絶頂期だった。
 しかし、昭和40年代までは拮抗していた社会人と大学のチーム力の差は、新日鐵釜石、神戸製鋼の7連覇の影響で一気に拡大した。神戸製鋼が7連覇を達成した1995年(1994年度)の試合では、大東文化大学が14-102と惨敗したため、もはや社会人 VS 大学によるワンマッチでは試合にならないという批判が出て、1997年(1996年度)2月11日に行なわれた一戦をもって、社会人 VS 大学によるワンマッチシステムは幕を閉じた。

「北の鉄人」 新日鉄釜石
 1959年に設立された富士製鐵(現・日本製鉄)釜石製鐵所の実業団チームがそのルーツである。釜石製鐵所は富士製鐵の主力工場、高炉の火は釜石のシンボルだった。
 実業団時代の1978年から84年にかけて日本選手権7連覇という偉業を達成し、その強さから「北の鉄人」と呼ばれ、日本ラグビー史に一時代を築いた。
  獲得した全国タイトルは、歴代最多の計26回(日本選手権8回・全国社会人大会9回・国体9回)を誇る。釜石を「ラグビーの町」として全国にその名を広めた。
 2001年の関東社会人リーグ1部への降格に前後して、新日本製鐵は、製鉄不況の中で、スポーツ事業運営の見直しを行い、2001年、新日鐵釜石ラグビー部を廃部とした。
 新日鐵釜石は、地域クラブチーム、「釜石シーウェイブスRFC」として再出発した。クラブチームの愛称、「シーウェイブス」は、『力強く押し寄せる海の波』を意味する。 
 「釜石シーウェイブスRFC」は、トップイーストリーグ・トップチャレンジリーグを主戦場としながらトップリーグ参入を目指している。
 1962年、全国社会人大会に初めて出場したが、1回戦で大阪府警察に敗れた。1969年、全国社会人大会準決勝でトヨタ自工に3年連続で敗れたものの日本選手権初出場を果たしたが、日本選手権では日本体育大学に敗れた。
 1970年、富士製鐵と八幡製鉄が合併して新日本製鐵が誕生、世界一の鉄鋼企業となった。チーム名も「新日鐵釜石ラグビー部」に変更した。この年、リコーと同点で全国社会人大会初優勝を果たし、抽選により日本選手権出場したが早稲田大学に敗れた。
 1976年、全国社会人大会決勝でトヨタ自工を破り、6年ぶり2回目の優勝を果たすと日本選手権でも早稲田大学を破り、初優勝を果たした。

「新日鐵釜石ラグビー部」の黄金時代を築いた松尾雄二
 新日鐵釜石ラグビー部の歴史は「元祖ミスター・ラグビー」、松尾雄二抜きには語れない。
 松尾雄二は東京都生まれ、目黒高校から明治大学に進み、新日本製鐵釜石ラグビー部(現・釜石シーウェイブス)で活躍した。
 明治大学では、大学選手権では1年生時、劇的な逆転トライを導くパスを通し、早稲田の公式戦連勝を36で止めた。3年時に当時監督の北島忠治の指示でスタンドオフに転向した。1975年、4年時に大学選手権優勝、日本選手権では、三菱自動車工業京都を37-12で破り、司令塔として明大ラグビー部を悲願の日本選手権初優勝に導いた。
 新日鉄釜石ラグビー部は、1978年から1984年まで主将の松尾雄治を筆頭に洞口孝治、千田美智仁、森重隆、小林日出夫らの主力選手を擁して、全国社会人大会及び日本選手権にて当時最多の7連覇を達成した。
 7連覇を牽引した主役は、伝説のスタンドオフとして活躍した松尾雄二、日本代表の不動の司令塔としてキャップ24を獲得した「元祖ミスター・ラグビー」である。
 精確なパントやキック、相手をかわす華麗なステップ、戦局を切り開く卓越した戦術眼は抜群の評価を受けていた。
 1985年、8連覇を狙った全国社会人大会準決勝で神戸製鋼に敗れた。
 その後、1992年を最後に全国社会人大会への出場が途切れ、2001年に関東社会人リーグ1部へ降格した。これに前後して新日本製鐵は、スポーツ事業運営の見直しを行い、2001年、新日鉄釜石ラグビー部を廃止した。

 戦後の日本の高度成長の牽引車となった鉄鋼産業、1970年には富士製鐵が八幡製鐵と合併して、新日本製鐵が誕生、世界第一位の鉄鋼企業となった。1980年にはアメリカの粗鋼生産量を上回り世界のトップに上り詰めた。まさに「鉄は国家なり」であった。しかし、1990年代になると、円高が進み輸出が後退して、粗鋼生産量は落ち込んだ。いわゆる「鉄冷え」が続いた。鉄鋼会社の経営問題が浮上し合理化が進められ、全国の高炉が相次いで閉鎖されていった。
 1998年には、釜石市のシンボル、釜石製鐵所の高炉の火も消えていた。1960年には8000人を超えた従業員は、高炉休止後の90年には約1300人、2000年には200人強にまで減っていた。「鉄の町」釜石は、そのシンボルを失って、勢いを無くした。
「新日鐵釜石ラグビー部」の黄金時代は、釜石の製鉄産業の栄華とともに築かれていたのである。

ラグビーW杯2019 釜石で開催
 東日本大震災の津波で大きな被害を受けた釜石市では、震災復興のシンボルとして「釜石鵜住居復興スタジアム」を建設し、ラグビーW杯2019日本大会を誘致した。9月25日、ウェールズvsジョージア戦が行われ、スタジアムは1万4000人の観客で埋まった。試合前には、釜石市内の小中学生約2千人が歌声を響かせた。復興支援への感謝を伝えようと子どもたちが思いをつづった歌で、満場スタンドから拍手が起こった。地元の要望を受ける形で震災犠牲者への黙祷も行われた。
 東日本大震災の被災地初の試合で、ウルグアイが格上のフィジーを倒す熱戦に、被災者たちは自らの復興の姿や夢を重ねた。
 10月13日にもナミビアvsカナダ戦が行われる予定だったが、史上最高クラスの台風19号の直撃を受け、開催は急遽中止された。
 W杯の開催で、釜石を訪れた多くの外国人と国際交流を進め、震災復興をアピールしていった。新日鉄釜石ラグビーの偉業は、W杯の開催に受け継がれ、被災者に大きな夢と勇気をもたらした。

新日鉄釜石にとって代わった神戸製鋼
 1984年度の全国社会人大会で神戸製鋼は、チームは結成以来、初の決勝進出を果たした。対戦相手は6年連続日本一の新日鉄釜石。結果は、伝説の「13人つなぎのトライ」を許すなど、0-22と完敗。新日鉄釜石は、1月15日に行われた日本選手権も制し、両大会の7連覇を達成した。
 この新日鉄釜石との敗戦がきっかけとなって神戸製鋼は黄金時代への第一歩を踏み出したとされている。
 翌1985年度、前年度まで同志社の主力選手だった大八木淳史が加入し、弱点だったフォワードに厚みが増した。そして近鉄花園ラグビー場で行われた社会人大会準決勝で、8連覇を目指す新日鉄釜石と再び対戦することになった。終盤まで一進一退の攻防戦が続いたが、ノーサイド直前に勝ち越して勝利。ついに釜石の8連覇を阻止した。しかし、決勝では強力FWを擁するトヨタに敗戦した。

黄金時代を築いた「ミスターラグビー」平尾誠二
 平尾誠二は、京都市出身、伏見工業高校、同志社大学に進んだ。
 伏見工業高校への入学のきっかけは監督の山口良治の熱心な誘いだった。3年生の時、主将となりチームを率いて全国大会で初優勝した。
 1981年に関西の大学ラグビーの雄、同志社大学に入学、1982年には史上最年少(19歳4ヶ月)で日本代表に選出された。ラグビー部在籍時代には、CTBとして活躍し、チームメートには林敏之や大八木淳史がいた。
 史上初の大学選手権3連覇(1982年~1984年度)を成し遂げた。しかし日本選手権では、松尾雄治が率いた新日鐵釜石に3連敗を喫し、新日鐵釜石の7連覇を阻止できなかった。
 1985年、同志社大学を卒業したが、当時は野球やサッカーのように、プロチームがなく、ラグビーを続けるには、企業に入社して実業団チームに参加しなければならなかった。
 しかし、実業団チームを選ばず、平尾誠二はラグビーは大学で引退することを決意、外国で事業の起業をすることなどを目指してロンドンにデザインを学ぶため留学した。
 ロンドンでは、郊外にあるラグビーチーム、リッチモンドクラブ (Richmond Football Club) に所属して試合に出場しながら、デザイン学校の入学試験準備や受験勉強に取り組む毎日だった。
 しかし、その年に「ファッション雑誌モデル事件」が発生、日本のファッション雑誌にモデルとして出演し、写真や記事が掲載されたことに対し、日本ラグビー協会は、「競技で獲得した名声を利用して広告に出演した」として協会のアマチュア規定に違反したと認定した。そしてアマチュア資格の停止して、日本代表のフランス遠征メンバーから外すという処分を行った。
 リッチモンドクラブでの活動もできなくなり、急遽日本での所属チーム探しに追われた。それがきっかけで日本のラグビー界に復帰することになる。
 事件後は、多くの企業からあったオファーも消滅していたが、神戸製鋼は平尾誠二を誘った。
 こうして英国留学から帰国した平尾誠二は神戸製鋼に入社、1986年度の全国社会人大会準決勝で新日鉄釜石と対戦。一進一退の攻防戦が続き、結果は9-9の引き分け。抽選の結果、新日鉄釜石が決勝へと進出した。
 翌1987年度の全国社会人大会では、1回戦で、東芝府中と対戦。終盤までリードしながら、ノーサイド直前に逆転トライ&コンバージョンを許し、1点差で逆転負けした。
 この頃の神戸製鋼は、「力はあるけど勝ちきれないチーム」と言われていた。
 1988年、主将となった平尾は、当時弱かったFWに固執せず、BK(バックス)を重視する大学のラグビーの「オープンラグビー」(展開ラグビー)にプレースタイルを改めて大会に臨んだ。
 しかし、関西社会人リーグでは、近鉄、ワールドといった強力なFW力を持つチームに敗れ、平尾のチーム作りは成果を上げられなかった。
 ところが全国社会人大会に入って、ようやくオープンラグビーが開花した。準決勝では優勝候補の三洋電機に競り勝ち、決勝では東芝府中に対して横の展開からBKのトライを次々に決めて快勝、初の社会人大会優勝を果たした。
 そして1989年1月15日に行われた日本選手権(国立競技場)では、大東文化大学を後半圧倒。初のラグビー日本一の座を手中にしたが、この優勝が7年連続日本一の第一歩となるのである。

無敵 大西主将時代
 1991年度、主将は平尾から大西一平にバトンタッチされた。大西はFWの選手である立場もあってか、平尾主将時代にはともすれば軽視されがちだったコンタクトプレーの徹底など、ハード面を重視した。
 また、当時現役の日本代表で、1年から早稲田大学のSHとして活躍した堀越正巳、青山学院出身のWTB冨岡剛が加入し、BK陣は当時の日本代表レベルに匹敵する陣容に強化した。全国社会人大会(花園)決勝で前年に引き続き三洋電機と対戦したが快勝し4連覇。1992年1月15日に行われた日本選手権では、これまた前年に引き続き明治大学との対戦となったが、ここでも快勝し、4連覇を達成した。
新旧交代でとまどい揺らいだ王者
 1994年度、新日鉄釜石と並ぶ全国社会人大会と日本選手権7連覇に挑むシーズンとなった当チームに、当時の強豪大学チームの中心選手が続々と入社。しかしスター選手が一斉に同一年度に加入したことにより、これまで培ってきたチームカラーが大きく変化することになり、一時は「7連覇危うし」と言われた原因を作ることにもなった。
 1994年、神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で関西社会人ラグビーリーグ戦最終日が行われ、当チームは同リーグ6連覇と、公式戦通算72連勝をかけてワールドと対戦することになった。
 この試合には新加入選手が中軸となり、大西や平尾などのベテラン選手が外れて試合に臨んだが、結果、24-25でワールドにまさかの敗戦、公式戦の連勝記録は71でストップ、1点差の敗戦だったが試合のペースは終始ワールドに奪われていた。全国社会人大会を迎えるにあたって、チームは最悪の状態だったとされた。

平尾が主将に復帰 7連覇達成
 さらに全国社会人大会1回戦のリコー戦(花園)で、主将の細川がアキレス腱を断裂、試合は圧勝したが、次の試合からは出場不能になった。チームは平尾が主将代行を務めることで一致、大西も復帰することになり団結力が回復した。
 2回戦のサントリー戦は予想以上に苦戦を強いられたが勝利、準決勝は三洋電機戦を下して決勝に進み、東芝府中との対戦となった。
 満場のファンで埋まった決勝戦は、これまでの不振を一掃する本来の神戸製鋼らしいゲーム展開となり、37-13で快勝。ついに新日鉄釜石と並ぶ全国社会人大会7連覇を達成した。
 1995年1月15日の日本選手権では、V1を果たしたときと同じ相手、大東文化大学だったが、史上初の100点ゲームとなる102-14で圧勝し、新日鉄釜石と並ぶ7連覇を達成した。
 ラグビーW杯には、第1回(1987年)、第2回(1991年)、第3回(1995年)に出場し、第2回大会では、対ジンバブエ戦で、日本の初勝利の原動力として活躍した。
 第4回(1999年)では監督として日本代表を率いた。
 1998年1月、現役を引退。その後神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーに就任した。
 2016年10月20日、京都市内の病院で死去した。享年53。
 ラグビーW杯2019の準々決勝、日本vs南アフリカ戦の行われた日は奇しくも平尾誠二の命日だった。




ラグビーW杯2019日本大会 日本代表初の決勝トーナメント進出
~試合結果 Topics 放送予定 選手情報~


ラグビーワールドカップ2019日本大会開催地

NHKは31試合 日本テレビは19試合放送 NHKBS4K・BS日テレ4Kでも放送 J Sportsは全48試合 HD/4Kで放送

日本vsスコットランド戦 今年最高の視聴率39.2% サモア戦 32・8% ロシア戦 18・3%

ラグビーワールドカップ大会ボランティア 「TEAM NO-SIDE」 1 万 3 千人

ラグビーの試合はこうして行われる 得点・反則・ペナルティ・プレー

初戦ロシア戦 苦しみながらも勝利で発進

日本、アイルランドに19-12で劇的勝利 世界ランキング2位の強豪を撃破 勝ち点4を獲得 決勝リーグ進出に大きく前進

ラグビーW杯 日本 サモア 38-19で三連勝 ボーナスポントも獲得

日本代表 スコットランド戦の登録メンバー発表 ゲームキャプテンはリーチマイケルが復帰 堀江翔太、トンプソンルーク、福岡堅樹、ウイリアムトゥポウ先発

日本戦「日程変更してでも」 スコットランド協会が訴え
開催国に圧倒的有利な日程に不満 中3日で対戦のスコットランド監督が思わず本音


日本、宿敵スコットランドを28-21で猛反撃を振り切り、全勝でA組を一位通過、念願の決勝トーナメント進出

記録的な大雨で冠水したスタジアム 開催を支えた懸命の復旧作業 横浜国際総合競技場

記録的な大雨と暴風 台風19号 ラグビーW杯を直撃 初の開催中止3試合 日本スコットランド戦は開催

ラグビーW杯 日本代表 登録メンバー 31名発表

日本チームをけん引するコーチ・選手は?

なぜラグビーでは外国人選手が多いのか?

森喜朗氏の悲願 ラグビーW杯日本大会開催

ラグビーワールドカップはこうして始まった

記録的な大観衆を集めたラグビー黄金期 早稲田・明治

絶頂ラグビー人気 新日本製鐵釜石と神戸製鋼 ラグビーのリジェンド 松尾雄二と平尾誠二





2018年10月1日
Copyright (C) 2018 IMSSR





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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
(IMSSR)
President
E-mail thiroya@r03.itscom.net  /  imssr@a09.itscom.net
URL http://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015
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