謎めいた名をはじめて知ったのは、インディジョーンズ・シリーズ2作目「魔宮の伝説」のオープニング・プロローグでだった。
ヌルハチ(1559-1626)は、清朝太祖で中華から夷狄とされた「満洲」または満洲族と名乗った。[宋代は女真(じょしん)といった]
通説では、太祖ヌルハチ以前から文殊菩薩信仰がひろまっていて、かれらはみずからのことをマンジュといっていたことからはじまったという。
その清朝は中国史上、最大の伸張をし、外蒙古、青海、チベットを版図に加え、またビルマ、ベトナム、シャムを藩属国に加え、はるかにネパールまで遠征し、最大の帝国を形成した。
19世紀に西洋という夷狄があらわれたときに、中国の文明主義が動揺し、狄である西洋をやっつけろというよりも自分の朝廷に対し「満」という異民族呼称で呼び、はげしく排撃した。
1911年に清朝は滅びた。清朝が滅びることによって古来から継承されてきた中国式の王朝も滅びた。
翌年1月、孫文が南京で大総統就任を宣誓し、共和的な漢民族主義ともいうべき中華民国が誕生した。
中国のおもしろさは大昔ほど近代で、逆三角形のようにあとあとほど古代的なことである。春秋戦国の世(紀元前770-前221)の「史記」などを読むと、登場するひとびとは個性的で創意工夫に富みその人情は現代人と変わらない。
のち、漢が中国を大統一し、武帝(紀元前156-前87)のとき儒教を国教にして思想統一してからわずかずつ停頓しはじめた。
儒教は、孔子がはじめた思想で戦国のころは諸子百家の一つに過ぎなかった。それが、漢から清が倒れるまで中国歴朝の国家当時の大原理になった。国教としての儒教が災禍をもたらすのは、13世紀、朱子学の形として強制されるようになってからである。朱子学にとって論理性が精密になり、いわば結晶化をとげた。槍の穂のように攻撃能力をもつようになり、いいかえれば正義主義になった。問題は、国家が朱子学を官学にしたことである。より詳しくいえば、朱子以外の古典解釈は許さないという思想統一のことである。このドグマによる支配が、元、明、清と六百年もつづいた。世界的な大停滞が起こった。
. 「司馬遼太郎が考えたこと⑭」より
ヌルハチ(1559-1626)は、清朝太祖で中華から夷狄とされた「満洲」または満洲族と名乗った。[宋代は女真(じょしん)といった]
通説では、太祖ヌルハチ以前から文殊菩薩信仰がひろまっていて、かれらはみずからのことをマンジュといっていたことからはじまったという。

19世紀に西洋という夷狄があらわれたときに、中国の文明主義が動揺し、狄である西洋をやっつけろというよりも自分の朝廷に対し「満」という異民族呼称で呼び、はげしく排撃した。
1911年に清朝は滅びた。清朝が滅びることによって古来から継承されてきた中国式の王朝も滅びた。
翌年1月、孫文が南京で大総統就任を宣誓し、共和的な漢民族主義ともいうべき中華民国が誕生した。
中国のおもしろさは大昔ほど近代で、逆三角形のようにあとあとほど古代的なことである。春秋戦国の世(紀元前770-前221)の「史記」などを読むと、登場するひとびとは個性的で創意工夫に富みその人情は現代人と変わらない。
のち、漢が中国を大統一し、武帝(紀元前156-前87)のとき儒教を国教にして思想統一してからわずかずつ停頓しはじめた。
儒教は、孔子がはじめた思想で戦国のころは諸子百家の一つに過ぎなかった。それが、漢から清が倒れるまで中国歴朝の国家当時の大原理になった。国教としての儒教が災禍をもたらすのは、13世紀、朱子学の形として強制されるようになってからである。朱子学にとって論理性が精密になり、いわば結晶化をとげた。槍の穂のように攻撃能力をもつようになり、いいかえれば正義主義になった。問題は、国家が朱子学を官学にしたことである。より詳しくいえば、朱子以外の古典解釈は許さないという思想統一のことである。このドグマによる支配が、元、明、清と六百年もつづいた。世界的な大停滞が起こった。
. 「司馬遼太郎が考えたこと⑭」より

このブログ面白そうですね。
また遊びに来ます。
太祖ヌルハチの後のはなしですね。似たような話を聞いた気もします。
もっとも、日本映画では勇ましい男の裸シーンをよく観ますが、儒教ではありえない凡俗なのでしょうね。
中国も朝鮮も儒教を国教としたので、日本は単に学問のひとつに過ぎなかったのが幸いしたのでしょうか?
親族を大事に思う思想は、良くも悪くも骨の髄まで徹底しているそうですね。
チャイコフスキー マニアさんへ
ヌルハチを題材にする方が、いるものなのですね。
iinaは朱子学の中国について、話をひろげましたが、映画でも観た「西太后」まですすめられたのですね。
悪い面ばかりでなく、国を西洋から守るためおずかながら清を延命させた評もあります。
実は、映画は前-後編のTV放映をビデオで録ったものの、ラスト近くでテープが終わっていて、いまだに気になっているiinaでした。
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/4a9c0d9a3660810eb3278107ed61b44d
『エベレスト挑戦・マロリーの悲劇』g00showa2さんへ
『ダライ・ラマ』とは清の太祖ヌルハチがその指導者に与えた称号でしたか。
『神々の山嶺』著:夢枕獏がマロリーを扱っています。
あるいは、エベレストに登頂したのではないか、発見されていないカメラに証拠写真が写っているのではとストーリー展開されます。ご存知だったでしょうか?
遺体が75 年振りに発見されたけど、登頂は否定的なのでしたか。
小説は、遺体発見前に発表したので、実にタイムリーだったと、夢枕獏講演会で本人が回想しました。
http://blog.goo.ne.jp/g00showa2/e/bad951a66efa1062024f6bb8d2397f63
『大帝』三月うさぎさんへ
>康熙帝は、清が興ってヌルハチから数えて4代目で、康熙大帝とか聖祖とか言われていて、まるでここから清の歴史が始まったかのような別格の扱いを受けている。
⇔清は中国からみれば夷狄の満洲にもかかわらず、いかにも中華的でどの時代よりも素晴らしい皇帝をもったと、司馬遼太郎が褒めていました。
ただ、国教を儒教のみに限定したことが、大いなる停滞を招いたと指摘しています。
http://blog.goo.ne.jp/ark0125/e/f14951befa02fea7b291bfc395853f8f
tommy0158さんへ
中国は、三国志をはじめ群雄割拠はなはだしく面白いですね。
それを一系列でまとめたならたのしいでしょうね、期待です。
ただ、
このごろ思うのは、大いなる歴史をもち広大な領土をもつそれらの英雄にいだく夢ははたして、本当のところどんなものなのかなと、疑いをもちはじめましたよ。
たかだか領土的には小さなイギリスに攻められて負け、夷狄とする日本に敗れ、いままた社会主義が風前のともしびでいながら、相変わらずみずからを華としてえばっている態度を不可解に思えます。
もっとも、時代背景があるし朱子学を通じて官が汚職等々で腐食していったことを割り引く必要はあるでしょうが・・・
http://blog.goo.ne.jp/tommy0158/e/67f629ac54c56ffd4f020c14dd9197d0
人口比で漢人に対して100分の1にも満たない民族が300年も支配するのですから、彼らの力は並大抵ではありませんね。建国当時はその独自の軍組織が、
力をハッキしたらしいですね。ちなみに、麻布にある現在の在日中国大使館はかつて日本が太祖(対ソ)の基点にしようとした満州(帝)国の在日大使館だったところです。
そこからほど近い麻布十番商店街祭(神輿などは出ずに露店だけですが)が、今年もこの金土日の三日間、盛大に行われました。
チャイコフスキー マニアより
『山岳本 』
ご投稿感謝。
小生のブログ「クタビレ爺イの山日記」のなかでENTRY ARCHIVEの7月投稿の最後に6/30付け投稿として夢枕獏他の本の紹介をしております。(爺イより)
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/d/20050701
コメント有難う御座いました。
該当コンテンツの更新が何時に成るかは定かでは有りませんが、
気長に更新を楽しみにして下さい。
ちなみに、筆者は(我が国との繋がりが深いので)歴史は好きですが、あの国自体(近現代のあの国)は余り好意的では有りません。
あの国(の歴史)に対する自論を展開しても良いですが、長く成りそうなので、控えさせて頂きます。(tommy0158より)
宮中ふかく皇帝たちと生活するので、女性に手をつけられるように去勢した男性を側にはべらせたのですよね。
日本は去勢の発想がなかったようでもあり、当然その方法についても技能が発達しなかったとか。幕末-維新のころにおとずれた西洋諸国の者が、日本の馬をみて驚いたらしいです。あんな荒くれ馬をよく乗りこなせるものだといったそうです。
荒くれ馬を去勢させれば、自然におとなしくなるものをしなかった日本をおもう必要があるようです。
武士道を誇る日本では、痛い思いをしてまで、男の魂を売るような思想は育たなかったのでは、、、 iinaより
コメント、ありがとうございます (mugi)
初めまして、iinaさん。
司馬遼太郎の「韃靼疾風録」を読んでますが、この本でヌルハチを奴児哈赤と中国人が書いてることが紹介されてます。すごい字ですね。
いかにも中華思想丸出しというか。
隋の時代、中国で宮刑(去勢)が廃止されたので、遣唐使は唐の法からこれを学ばなかったのでは、と三田村教授は書いてました。さらに仏教の影響もあるだろうとも。
作家・陳舜臣氏は宦官とは別の話で、日本に遊牧文化がなかったのを指摘してましたが、確かにこれも影響があるかもしれませんね