学生時代に関西にいたとき、大阪の天王寺でセールスマンをやってた時期があるんですよ。
売り物は、学○のマ○テ○ーゼミって商品。
いわゆる教育系の教材ってやつですか。
テレビに直結して使うと、クイズっぽいイエス・ノーの選択画面になって、それで楽々とひとり勉強ができちゃうっていう、当時にしてはまあ画期的な商品だったんですよ、これが。
ただ、これ、値段が超・高かった---たしか、十何万かしたんじゃないのかな?
いまみたいな不況の世の中じゃとても売れなさそうですが、僕がこのバイトをしてたのは、80年代中盤の、全盛のニッポンですからね。
訪ねていくと、話、聴いてくれるひともときどきいたんです。
ただ、飛びこみ営業じゃなくってね、会社から名簿と地図を渡されて、それで子供のいる家庭をまわるんです。
子供と両親がそろっていそうな夕方から宵にかけての3、4時間が勝負って感じでした。
会社的にいけば、学生バイトばっかり集めて「若者フェロモン大作戦」って意図だったんじゃないのかな? 若者の色気でもっておばちゃんの気を惹こうっていう---その作戦は、わるくなかった。
僕、結構話とか聴いてもらえましたもん。
タコ焼き、ごちそうになったことなんかもあった。
ただ、セールスマンですから、辛辣に拒否されるケースのほうが、そりゃあ圧倒的に多いわけですよ。
僕は、当時はまだ純情でしたから、そんなわけで---真剣に話を聴いてくれるひとの率が高い、下町のほうに活動領域がどんどん傾いていったんですね。
で、その宵も、僕は、着馴れない背広姿で、地図を片手に、天王寺の商店街界隈をうろついていたんです。
初夏で、背広姿で活動するには、やや蒸し暑い感じでした。
なんか、商店街のアーケードの道筋を外れて、ちょっと裏手の筋に入ると、肉じゃがの香りがぷうんとしたりして、いいなあ、なんて思ったりしたのを覚えてますね。
地図とにらめっこしつつ、天王寺のアーケード街を成りゆき的にどんどん下っていったんですが、そのうち、あ、まずい、このまま行ったら飛田のほうに突っこんじゃうぞ、と理性が働いたんです。
飛田ってどんな場所なのか、全国の皆さんは、ご存知でせうか?
飛田新地は、別名、日本最大の赤線地帯ともいいまして---街のブロックの一角が、まるごと巨大な売春地帯になっているような場所なんですわ。
ずーっとむかしから、そうした因縁をしょってきた土地柄というか。
有名なあいりん地区というのが近場にあるせいもあって、このあたりはガラが大変わるいのです。
地元の大阪人もあんまり近づかない感じ---あたり屋だとか、目の行っちゃってるやっちゃん崩れの親父とか、アルコール臭をぷんぷんさせて、誰彼かまわずガンを飛ばしまくっている浮浪者とかが、鼻息も荒く横行しているような、おっとろしい土地柄なんですよ。
でも、地図によると、その新地に行くまでの、○○の商店街から裏道筋に入ったところに、一軒、子供のいる家があるじゃないですか。
これは、ここまできてそこに寄らずに引き返すのはもったいない、と僕は思い、内心のテンションと警戒心とを上げながら、飛田方面に歩きつづけたんですね。
そしたら、裏道でちょっと迷ったけど、なんとか問題の家が見つかったわけ。
平屋の、あんま大きくない、下町の駄菓子屋みたいな家屋だったかな---到着したのは、午後の7時すぎ。
日がちょうど落ちたころでね、まわりのほかの商店はみんなまだ開いてるのに、なぜか、そのお店だけは雨戸がみんな閉まっていて。
あら? と思って四方をぐるりとまわってみた。
でも、どこも閉まってる---こりゃあ潰れちゃったか、夜逃げしたりかしちゃったのかなあ、と想像を巡らしたんですが、どうも分からない。
帰ろうかとも思ったんですが、せっかくきたんだから、という気持ちに押され、とにかくそこの雨戸をノックしてみたんです。
----すみませーん、学○のモノでーす! あのー、お子さんにお話があってまいりました…。
だあれもこない。いないのかな? 雨戸をもっと叩きます。
----もしもーし! どなたかいらっしゃいませんかー?
そのとき、ふっと肩ごしにひとの視線を感じました。誰? とふりかえると、背後の別の民家の台所の窓の隙間から、そんな僕の背中を観察している誰かがいたんです。目を細めて、彼女(たぶん、おばさんだったと思う)の様子をうかがうと、ぱたぱたぱたと家の奥のほうに逃げちゃったけど。
なんだよ、失礼しちゃうな、と僕は再び雨戸叩きにもどります。
ここまできたら、もう逢わずに帰ったらセールスマン失格だ、みたいな変な心境になってました。
すると、雨戸を叩いているうち、表の斜めのとこの一枚が手で開けられることに気がついてね、えい、ままよって、そこ、半身分だけがらりと開けちゃいました。
----失礼しまーす! あのー、お子さんのお勉強の教材、紹介にあがった者ですけどー…。
しーん。
やっぱり、そこ、半分雑貨屋さんみたいな装いのお店屋さんでした。
ただし、まっくら---空気も澱んでいて、ここ最近店を開けたような気配はありません。
なぜか、酢コンブのにおいが、濃くたちこめています。
だめかなあ、帰ろうか、と半分諦めかけたそんなとき、いままでしんとしてた店の奥にひとの気配を感じました。
店の奥にある廊下の明かりがぱっと灯り、歩いてくる女性がいる。
あらあらあら、なんていいながら、ちょっと小走りするみたいな気配。
僕は、彼女の到来に笑顔のタイミングをあわせようとしたんですが、うまくいかなかった。
だって、にこやかに奥から出てきたその女のひと、鼻がなかった---。
顔の中央がつるんと平で、そのまんなかにハート型を逆さにした黒い穴が、ぽこんと開いてるの。
僕、凍りつきました。
自分のキ○タマが刹那のうちに下腹に引っこんだのが分かった。
痛い、これは痛いゾ。
----あらあらあら、これは気づきませんで失礼しましたねー…。
と、しかし、その鼻のないおばちゃんは、あくまで気さくに、しばらくひとと話してなかったみたいなノリで、前のめりに僕に話しかけてきます。
対する僕は、もう完全に腰が引けてる、というか、こんなふいの事態に完璧ビビってる。
----いやいや…、こっちこそこんな急に…。雨戸までこんな開けちゃって…。いや、僕はセールスをですね……
いうことは、もう支離滅裂---しかも、おばちゃんの顔の鼻の欠落部分から、どうしても目線が外せない。
----あらまあ、教育教材のお話なら、ぜひうかがいたいわあ…。ちょうど、そういうの要り用やなあって思ってた時期なんですよう…。
でも、僕、両手のひらでいやいやの動作をしながら、及び腰で後退するのがやっとでした。
----うわ、それは…偶然というかなんというか…。でも、ちょっといまは資料がですね…その、なんていうか……
----そんなこといわんと、まあお茶でも飲んでいってくださいよ…。
----いや、そうしたいのは山々なんですけど、その、資料がちょっと足りなくて…。あのー、すいません…また、きまーす……!
超しどろもどろ、まわれ右して、話そうとする彼女をよそに、あたふたともう逃げちゃった…。
一杯飲み屋がいっぱい並んだ、雑然とした商店街にもどったら、ようやくほっとしました。
気がついたら、僕の両脇は汗でびっしょり、あと、ちょっといただけだというのに、あの店のなかの酢コンブのにおいが、Yシャツの襟のあたりににじむように張りついてるの…。
ひとの容貌を見て逃げ出すなんて、結果的に大変失礼なふるまいをしでかしちゃったわけなんですけど、あんなに怖い思いをしたことはいままでにありませんでした。
僕は、刃物をもったチンピラに追いまわされた経験もあるんですが、それよりもこっちのほうが怖かった。
ただ、鼻がないってだけで、ひとの表情ってあんなにちがっちゃうんもんなんですねえ。
いまになってみると、ああ、あのときもっと彼女と話せばよかった、事情とかも聴いてやればよかった、とか思いはするんですが、あのときはあれが僕のめいっぱいのMaxでしたから、あれ以上はどうあがいてもむりだったでせう。
以上が夏の夜のイーダちゃんの実話怪談伽のお披露目です---あいお粗末---!m(_ _)m