イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その109☆誰がためにオムツ換え?☆

2012-06-18 11:45:52 | 身辺雑記
                 
                          <副題:介護現場におけるオムツ交換の哲学的考察>


 えーと、このブログをちょくちょく訪ねてくれる方ならもうご承知かと思いますが、イーダちゃんは、いま、介護系のお仕事に就ているんですが、こっち系の世界に入ってからまだそんなに日は経ってないんです。
 新米というか、ヒヨッコというか、ま、はっきりいって素人に毛の生えた程度。
 とーっても、ひとさまに報告できるようなレベルじゃないのです。
 前の記事に登場した僕の古い連れ---彼は、僕とちがって4分の1世紀のキャリアがある、ベテラン職員さんなのですが---にいわせると、介護系の仕事のキモは、ともかく排泄介助!---老人介護の世界でも、障害者介護の世界でも、その点においてはまったく変わりがないの、いいかい、1に排泄介助、2に排泄介助、3、4がなくて5に排泄介助なんだからな、と繰りかえしいうんですよ。
 僕みたいな新米じゃない、ベテラン職員のMがいうんだから、これは拝聴せねばなあ、と思います。
 で、ちょっと抽象的方向から自分なりに考えてみました。
 たしかーに! たしかに、排泄は、ニンゲン生活の大事な礎のひとつです。
 これは、はっきりいって、名誉だとか富よりも重要な一事かもしれません。
 だって、これができなきゃ、名誉も富もどうもできませんもん。
 助平心で美女を抱こうにも、自分が糞詰まりだったら、抱きたくたって物理的にもう抱けない。(肛門フリーのピーピー下痢状態でも事態はいっしょです)
 超高級レストランで配下の者に威張りちらしながら、美食を堪能しようにも、肝心の自分が糞詰まり(繰りかえしになりますが、慢性の下痢でも事態は同様です)状態じゃ、得意のハッタリ演説も思った通りにゃクルクルまわらないし、数々のグルメ体験で結果的に肥えまくった舌も、絶不調体調に引きずられてあんまり機能してくれず、ウンチクだってペラペラやれない。
 うん、要するに、日頃の排泄がうまくゆくかゆかないかで、我々の生活って大きく装いを変えてしまうのでありますよ。
 喩えはわるいですが、日々の努力が認められ、貴方の昇進のパーティーを会社が催してくれた、とします。
 で、いよいよ貴方が、栄えある就任演説をする瞬間がやってきた。
 そのとき!---超・下卑た喩えで申し訳ないのですが---もしも、貴方が、その祝いの席上で突然脱糞しちゃったらどうします?
 これは、はっきりいって昇進だとかいうレベルの問題じゃないですね。
 そんなことになれば、まず、間違いなく貴方の昇進はフイになるでせう。
 それで済めばまだいい、場合によっちゃ、会社にいられなくなる率のほうがもっと高いかと思います。
 心療内科、精神病院といったレベルの、激ヤバ角度からの突っこみも当然入ってくるでせうし、下手したらその業界内で抹殺される、なんて事態にもなりかねない。
 かようなまでに---一般社会の通念において、「脱糞」というのはタブー的存在となっているんです---。
 ねえ、ご自分の体験をよく思いだしてみてください---かつての小学校時、授業中、教室でウンコを漏らした少年が、その後クラスメートからどんな渾名で呼ばれたか?
 そして、その渾名は、何歳になるまで彼のあとをついて回ったか?
 小学校時代、「ウンコたれ」の罪を犯した気の毒な児童に対して、小学生の我々がいかに冷たいまなざしを向け、残酷な差別の目で見つづけたか?
 これは、超ビターな過去ですけど、たぶん、どなたにも経験のある、共通トラウマ的過去の一事であるかと存じます。
 ええ、我々は、この種の罪には、ひどく冷酷な目を向けるのが常なんです。
 ある意味、それは「不倫」や「脱税」といった一般通念上の罪よりも重い罪状を付けられた「時別の罪」として、我々自身の心に刻印されているのかもしれません。
 密かにたしなんできた「不倫」や「脱税」の罪が公になれば、そりゃあ、我々だってハブられる。
 しかし、「不倫」にしても「脱税」にしても、ある意味、「脱糞」の罪ほど白けた目で見られることはない、と僕は思うんです。
 「不倫」はイカン---しかし、不倫者の横顔には、私は夫(妻)以外の異性からも求められる、いわゆるいい女(あるいは男)なのよぅ、といった得意のにんまりが、ほほのあたりに必ず付着しています。
 「脱税」も然り---俺サマの稼ぎは、俺の器量の賜物だ。だったら、なんだって無能な国なんかに収めなきゃならない? 俺は、それを拒否しただけだ。社会的な悪を特に実践したわけじゃない---といった開きなおりのにんまりが、やっぱり、両唇のはしに、ほんのり、薄ーく香ってる…。
 要するに、心の底からの罪悪とは、あまり思っとらんのですよ、どっちとも。
 社会通念上わるいとされてることをやったわけだから、まあ、謝罪の弁くらいは述べとかなくてはなるまいなあ。でも、自分は、殺人とか窃盗とか、そのような明白な悪を犯したわけじゃないんだから。
 だから、ツマンナイ非難をあんまりゴチャゴチャいうなよ、ただの平凡人のくせしてよぉー---みたいな傲慢ささえ、彼等のまなざしから雫としてこぼれ見えるようなときもままあります。
 なるほど、彼等は悔いているのかもしれない。
 だけど、100パーセント悔いまくり、というのとはちとちがう。
 ある部分では、浮気を自分の器量として得意になってる面もあるし、現実世界の掟を鬱陶しく窮屈なモノとしてとらえ、自己を受難者みたいに意識してるナルシスティクな面もちょいとある。
 しかるに「脱糞」だきゃあ、いつまでたっても駄目駄目罪のままのようですなあ。
 小学生のむかしから、この罪は、世人にどうも軽蔑と苦笑以外の念を呼び起こせないようなのです。
 そう、「不倫者」も「脱税者」も、世間的罰は受けても、人間の尊厳まで奪われるわけじゃない。
 しかし、「脱糞者」はちがう---これをやると、子供も大人も、いわゆる人間の尊厳というやつを一気に奪われてしまうのです。
 ある意味、一般人類としての資格を剥奪され、どことも知れない恥の王国に蹴落とされてしまう。
 要するに、大宰さん流にいえば、「脱糞」とは、いわゆる究極の「人間・失格」行為にあたるわけ。
 これは、おっとろしいことですよ、皆さん!
 大宰さんは、心中未遂して「人間・失格」なんてホザイてましたがね---本当は、人間失格という大層な大看板の背後で、こっそり舌をだして笑っていたのです。
 たしかに、俺は、心中相手の女を殺した悪者かもしれん、でも、それも仕方がない、こんなにモテるように俺を創造したのはあくまで天であって、俺の罪じゃないんだからな---なーんてね。
 
 でもね、年とって、認知が入ってくると、このような「脱糞」が、なんと、日常的な行為になっちゃうんですよ。
 尊敬すべき年配者としての「社会的仮面-ペルソナ-」が剥がれ落ちて、そこから見たくもない、不出来な動物としての本能が、モロ顕現してくるの。
 それが実の親だったりしたら、もう子の立場的にはちょっとたまんない---親のほうにしても事情はきっといっしょでせう---気がついたら、また、ズボンのなかに脱糞してる。
 あれ? 恥ずかしい。気持ちわるい。どうしていいのか分からない。
 とりあえず、手近な箪笥の引き出しのなかに、汚れた下着を丸めて隠してみた。
 けど、匂いで気づかれそうで不安だな。関心を別のとこに散らすために、いっそ不機嫌なフリでもしてみるか…。
 これが1日だけの話なら、ま、辛抱できないこともない、笑おうと思ったら、いくらかは笑えるかもしんない。
 けど、これが連日の日常になっちゃったら?
 笑えませんよね---ええ、まったく笑えない。
 それは、一種の悪夢であり、まごうかたなき悲(喜?)劇です---。

 で、そのような悲(喜?)劇が集まっている場所が、いわゆる現代の老人介護施設だったりするわけなんです。
 ここでは、仕事は、排泄にはじまり排泄に終わります。
 朝から晩まで、利用者の脱糞現象と闘うのが、ケア・スタッフの使命なんです。
 ただね、敵はあまりにも強く、しかも、自然的な現象なので、なんだか闘っていても雨を相手に闘ってるようで、到底勝てる気がしないんですよ。
 僕は、人間社会の良識派の担い手として、大自然の排泄現象を、人間社会の綺麗事の型にむりやり嵌めようとする。
 それが、我々の武器である、トイレとか紙オムツだとかいう鋳型です。
 ただね、向こうさんは、そんなこっちの意思なんか歯芽にもかけてくんない。
 あくまで自然現象ですからね---やりたくなったら時間も場所も選ばない---ヒリたくなったらヒルし、出したくなったら出すまでなんです。
 僕等が人間界の意識の代表選手なら、彼等は、人間の無意識側のいわば使徒。
 意識と無意識が闘えば、そりゃあ、無意識のほうが強いに決まってるじゃないですか。
 こりゃあ、海辺の波を相手にしてるみたいで、分がわるいですな、どう見ても。
 たとえば---休憩時に仲間同士で飯食ってるとしますよね---そんなとき、施設の老人さんが廊下のトイレ近辺でうろうろしているのをカメラの画像で見つけたとします---そうすると、おっ、アレ、何々さんじゃないの? ヤバ、またトイレなんじゃないの?
 と、飯食ってる最中だろうがなんだろうが出ていって、その方のお下を、まあトイレかどっかで見してもらうわけです。
 ただし、すんなりソレをさせてくれるとは限らず、ときには大変な抵抗に逢う例もあり---「やだ、私になにするの?」とか「警察を呼んで」とか、ひどいときには絶叫まじりの「助けてー!」とかね(笑)---まあそんなケースでは、残念ながら、十中八九やってます。
 そのようなとき、僕等は、ポケットの医療用ビニール手袋をおもむろに両手に装着して、彼等の汚物まみれの下半身をすばやく洗い、清潔なオムツ、もしくはリハビリパンツに履きかえさせてあげるわけ---で、それが済んだら、すぐさま自分たちの食事にもどるって寸法ですか。

----ふざけるな、ウンコのにおいを嗅ぎながら食事なんてできるか!
 
 と、ここで憤られる方は、うーむ、こっち系世界にはなるたけ近寄らないのが賢明かもね。


                          
       ▲はーい、左上がいわゆる大人用紙オムツ、右上のがそのなかに仕込む紙パット、使い方は良い子の皆さんならお分かりですよね!


 とにかく、排泄はあたりまえの日常であり、このような施設では、事故防止のためケアスタッフ室のすぐ前に、ご老人のためのトイレがあるのが常なんです。
 だから、まあ否応なしに「におい」は、入ってきますよね。
 まあ、でも、ニンゲン、そのような環境にはすぐ慣れちゃうんですよ。
 なに? 飯中断しての排泄介助、その後の飯再開だって? ぜんぜんオッケー。
 ただ、慣れにくいのはアレですね---薄手の医療用ビニール手袋越しに感じられる、利用者さんの生々しい便の手触り…。
 こればっかりは、いまだにウームの感じです。
 特に、夜勤に入って、際限のないオムツ交換がはじまったときなんか、仕事とちゅうの多量便のにょろーっとした指先の感触にハッと我にかえり、

----あれ? 俺、こんなとこでなにやってんだろ?

 なんて白茶けた感慨に襲われることも、ときどきありますねえ…。


                     ×            ×              ×

 でも、いまのところ、この仕事を辞める気はないんだよなあ。
 なんというか、しっかりしたやり甲斐みたいなもんがあるんですよ、個人的に。
 僕、むかしっからおばあちゃんっ子でして、お年寄りに好かれるとこがわりにあるんですね。
 それに、いつも一緒にいて世話を焼いたり話したりしてると、なんといっても仲良くなるし、自然、情も移ってくる。
 あと、僕がこの仕事と関わることになった動機には、自分なりの「贖罪」めいた思いもあったんです。
 これは、あまり面白くない、ごく個人的な告白なんですが、まあちょろりと触りだけ---
 うんとね、内容開示は下品なんであえて避けますが、僕は、非常に罪深いニンゲンでして、いろんなひとを傷つけてきた過去生がまああるわけなんです。
 いかんいかんと思いつつ、ストリート・ファイトなんか40代のいまでもときどきやりますし(ただし、これはあんまわるいこととは思っていない)、まえの会社にいたときの末期には、もう反体制の超・問題児、歩くミスター・トラブルみたいな存在になっちゃってましたから。
 とても温和なイーダちゃんをそんな方面に追いやってしまった会社自体に本質的な問題はあったんだと思うのですが、直接的に迷惑を被ったのは、そんな年がら年中憤懣ためこみ状態になった、ボンバー・イーダちゃんを引き受ける器にならざるをえなかった現場の連中---。
 いまになってみると、わるいことしたなあって思います。
 ま、こーゆーことは、本来いってもしようがないことなんだけど…。

 あと、付きあっていた女性に対してとかもね…(額をおさえて黙りこむ)…。

 そのあたりの罪悪表を自己採点していけば、もう、モロ罪人なんですよ、僕ってニンゲンは---。
 だもんで、贖罪の機会は、常にそれとなく探していたんです。
 むろん、介護イコール贖罪だ、なんて甘い考えはもっちゃいません。
 第一、そんなロマンティックな夢想だけじゃ、厳しいこの業界、続けていけっこなんかないもの。
 どこの世界でも最前線の現場は、忙しくってキュウキュウです---慢性的な人手不足、スタッフ同士の感情のギスギス食いちがい、やれ給料がどうの、シフトがどうの、あのひとのとこにはケア行きたくないの、とか…。
 ただ、オムツ交換を1万個やったら、過去の罪はどのくらい軽くなるんだろう? みたいなキューティーな質問は、いまでも自分に問いかけてみること、わりかしありますね。

 ああ、それに、あの詩人のリルケがね、かつて「マルテの手記」のなかで、こんな風にいっているの。
 
----ひとは、ただ闇雲に神を信じるわけではない。自分の小さな経験のひとつひとつを根気よく積み重ねて、ひとはそれを材料に、一生をかけて、自らの神をつくるのだ…。

 僕は、いまのとこ神さまを信じちゃいませんが、将来的には信じれたらいいなあ、と思ってる人間なんです、たぶん。
 で、リルケのいうように、ひとが自らの経験で神をつくっていけるものならば、僕は、自分の神さま作りの材料には、たくさんのオムツ交換のときに触れた、利用者さんたちのあまたの糞便を使いたい、なんて風に思ってるんです。
 だって、僕が、いままでの生涯で触れえた、いちばんのリアルってこれですから---これだけなんですから。

 ふん、綺麗事ばっか、だって? クレイジーですって? そうかなあ…。

 個人的な幻想でもなんでもいいけど、僕的には、これのリアルさっていうのは、得難いほど貴重なものなんですよ。
 いま、TVのスイッチを入れると、それとは正反対の、マジカルな嘘話がどどーっと雪崩れこんできます。
 いわく、20年以上行方不明だったオームの指名手配犯らが、ほんの1月足らずのうちにばたばたと突然捕まる---とか、
 政府、消費税増税案、21日までに決行。日本中がみんな反対してるののに、英国と読売新聞だけその行為を絶賛---とか、
 全停止していた原発を再び強引に再稼働させちゃう、とか----
 まるで躁病ドリフのハチャメチャ・コント…。
 さもなくば、キレかけの筒井康隆さながらのバブリー状態ではないですか…。

 もう、アタマの先から爪の先まで Too Much Monkey Business、ゴミみたいな超・うそばっか…。(ToT>

 聖徳太子がいっていた「世間虚仮」っていうのは、まさにいまのような世のことでせう。
 マスコミ経由で響いてくるのは、金と権力によってグニャグニャにねじ曲げられた、恣意的でコマーシャルな嘘情報オンリーで。
 こーんな凶悪でデタラメな一座の芝居には、いい加減付きあっちゃいれませんってば!
 僕は、僕なりのリアルを手がかりに、彼等一座の悪夢のようなファンタジーに対しようと思う。
 ささやかですけど、僕にできることってせいぜいそんなことぐらいですから。
 この闘いが、最終的にどんな局面をむかえるか、そんなことはまるで分かりません。
 世の中を汚しぬいているうそのほうが、強いかもわからない。
 イーダちゃんは自分が闘っている糞便とコミで、ひょっとして下水に流されちゃうかもしんない。
 でもね---それならそれでいいんですよ、僕あ---。
 それよりも僕は、自らの本能が告げるリアルの、清らかな感触のほうに殉じたい。
 かくして、イーダちゃんは、にかっと笑い、自らの仕事場へ、あくことのない糞尿とのバトルに今日も赴くのでありました---。(^.^;>