バイオリンと私
菅野 浩
…バイオリンが喜ぶでしょう
私が初めてバイオリンを手にしたのは、かなり年配になってからです。それまでは、アウトドアの趣味が多く、天気のよい週末には、いつもゴルフ場に通っていました。しかし、50歳を迎えた頃から、何か芸術の香りのする趣味を持ちたいと思うようになりました。いろいろな趣味が頭に浮かんでは消えていきましたが、最後に浮かんだのが「音楽」でした。私は、学生時代、勉強もせずに、ウエスタンのバンドで演奏をしていましたが、社会人になってからは、いつの間にか慣れ親しんだギターも失い、音楽とはほど遠い生活を送っていました。そこで、もう一度、音楽を楽しんでみようと思いました。
楽器は、なんでもよかったのです。ただ、今まで全く縁のなかった、クラシックをやってみようと思いました。曲も殆ど知らないくせに、オーケストラの一員になるという夢まで思い描いていました。
職場で、そのようなことを話していたところ、部下の女性が「バイオリンをやりませんか」と言うのです。「数年前にバイオリンを始め、音楽教室に通っていたのですが、難しくて手に負えず、やめてしまい、楽器は、家の倉庫で埃をかぶっています」とのことでした。「もし、バイオリンを弾くのであれば、差し上げます。楽器も喜ぶと思います」と言われ、私はバイオリンを始めることにしました。家の近くに音楽教室があり、私は、そのバイオリンを片手に、教室の門を叩きました。
…練習をしないでください
私の担当になった先生は、学生かと見まがうほど若い女性でしたが、開口一番私に、「練習をしないでください」と言うのです。過去の経験から、上達の道は唯一つ、練習量にあると思っていた私が、呆気にとられているのに構わず、その先生は、「バイオリンは、弓の使い方が難しい。悪い癖が最初についてしまうと、なかなか直らない。だから、これが一定するまでは、練習は、週1回のレッスンの日だけにしてほしい。その方が、結局は上達が早い」と言うのです。私は、いささか肩透かしをくったような気持でしたが、先生の言葉に従うほかはありません。数か月の間楽器は、日曜日のレッスンの他は、ケースに封印されることとなりました。
やっと練習の許可が出た頃から、レッスンの進め方には、一つの形が作られていきました。教則本のある個所に先生がチェックをつける。音階練習の場合もあり、簡単な曲の場合もありますが、それが練習テーマとなるのです。1週間練習をして、次のレッスンの際に成果を披露する。合格点が出ると、チェックにマルがつけられ、次の個所にまたチェックがつく。マルがつかなければ、さらに1週間の宿題となる。当然のことながら、なかなかマルはつかず、その結果、教則本のページは、遅々として進まないこととなるのです。
…まあ一杯飲みなさい
私のデビューは、惨憺たるものでした。
始めてから1年ほどの冬に、「クリスマスパーティー」と銘打って、教室の発表会が行われ、私は、アンサンブルのメンバーとして、またソリストとして、参加することになりました。私は、よせばよいのに、酔った席で友人にこのことを言ってしまったのです。当日、友人は、家族を引き連れて私の初舞台を見にきました。
プログラムの最初がアンサンブルの演奏。小さな舞台に8人ほどのメンバーと並んだとき、私は「これはいけない」という気持になりました。弓が震え、満足に音が出ないのです。そのことに気を取られると音を間違えるという具合で、殆ど半分は弾いていないという、ていたらくでした。しかも、その少し後にはソロで演奏しなくてはならない。できれば、そのまま逃げ帰ってしまいたい気分でした。
終った後、友人が私に外に出るように合図をしました。外に出ると、何処からか買ってきたとみえて、私に缶ビールを差し出すのです。「まあ一杯飲んで落ち着け」というわけです。私は、一気に飲みました。外は寒かったのですが、私の体はかっかと燃えていて、冷たいビールが心地よく沁み込みました。
ソロでは、いくらかましになり、何か所か間違えただけで弾くことだけはできましたが、相変わらず、暴れる弓の制御ができず、おかげで、曲はぶつぶつと切れた、味も素っ気もないものとなりました。
あれほど練習を重ねて臨んだ舞台で、完敗に終り、打ちのめされた気分になりました。学生時代に臨んだ舞台とは、まったく一変した姿を自分でみて、バイオリンは自分には向かないのではないかという疑問が湧いて、仕方がありませんでした。
…ふりをすればいいんです
家の近所に、地元のオーケストラに参加している奥さんがいて、ある時、音楽談義になり、私にもその団に入れと言い始めました。そのオーケストラは、初心者歓迎で、団員を募集している、自分も習い始めて1年で参加したから大丈夫だ、と言うのです。しかし、私の腕前でそれが叶うとは、到底思えません。せっかくの好意はありがたいが、もう数年経ってからという私の言葉をさえぎって、それなら練習を見に来ないかと言うのです。私は、それには異存がなかったので、オーケストラの練習というものを初めて見に行きました。
その日は、市民会館のような建物の中で、いくつかの部屋に分かれてパート練習が行われており、私が連れて行かれたのは、第二バイオリンの集団の中でした。全体的に若い人が多く、「運命」を練習していましたが、その中の一人が私に、「オーケストラに入るなら、早い方がよい。始めはできなくても、すぐにできるようになる」という意味のことを言います。そして、何か月か後の「運命」の演奏に加われと言うのです。私は、「お言葉はありがたいが」と婉曲に断ると、驚くなかれ別の一人が、私にこう言ったのです。「なに、弾けないところは、弾いているふりをすればいいんです」
一瞬、私は言葉を失いました。しかし、魅力のある勧めでもありました。「オーケストラの一員になる」という、なんとなく私の思い描いていた夢が実現してしまうのです。私は、「運命」を演奏する自分の姿を想像しました。しかし、やはり、弾いているふりをしながら演奏をすることは、どう考えても耐えられそうにありませんでした。私は、「自信がついたら、参加したい。ただ、それにはまだ年数がかかるだろう」というようなことを言って、練習会場を後にしました。
その半年後、千葉のホールで演奏会が行われ、私は聴衆の一人として出掛けました。私に入れ入れと勧めた人達も、近所の奥さんも、必死で演奏をしていました。出来の良し悪しは、私には判断がつきませんでしたが、まばらな観客席から、私は、精一杯の拍手を彼らに送りました。
…アメリカに行ってきます
その後、何回か発表会とか演奏会を経験しましたが、満足の得られる結果からはほど遠く、レッスンを続けても、残業のない夜と、ゴルフのない週末だけの練習では、殆ど進歩がないように思われる状態が続きました。やめようか続けようかと迷いながら、かろうじて音楽教室には通っていました。続けるにはどうしたらよいか。上達して、どこに出ても恥ずかしくないほどになれば、やめようとは思わなくなるのでしょうが、そのような状態になるには、途方もない時間が必要に思えます。ある時私の心に、一つの考えが生まれました。それは、「自分の腕前に不相応なほどのバイオリンを買ってしまえば、やめられなくなるのではないか」ということです。
その頃、妻が、テキサスで留学している姪を訪ねるために、姪の母親と一緒にアメリカに行くことになりました。2か月ほどの間、私は一人残されることになり、妻は、生活費として、預金通帳とカードを置いていきました。そして、そろそろ帰ってくるという時期に、音楽教室で、数社の楽器店によるバイオリンの展示会が開かれることになったのです。私は、これを、千載一遇のチャンスと捉えました。その展示会で、バイオリンを買おうと思ったのです。どうせ、どの楽器がよいかなどの眼識が私にあるはずもありません。業者の説明を聞き、推薦をされ、値切ったうえで、あるバイオリンを買いました。バイオリンの良し悪しよりも、私の目的は、「不相応なバイオリンを買う」ことでした。預金通帳の残りの全てを注ぎ込み、足りない分は、自分のへそくりを充てました。妻の驚く顔が目に浮かびましたが、気にしないことにしました。こういうことは、「早いもの勝ち」なのです。
私の思惑は、当たりました。その後私は、バイオリンをやめようとは思わなくなりました。今から考えればそれほど大したものではないのですが、そのバイオリンの購入は、私がバイオリンを続けるための、何よりも強いインセンティブになり、当時は、心なしか、上達も早くなったような気がしたものです。
…おわりに
私がバイオリンを初めて手にしてから、20年近い歳月が経ちました。始め週1回受けていたレッスンは、その後2週に1回となり、現在では、1月に1回になってしまいました。先生も途中で変わりました。それほど上達したとは思えないのですが、家の本棚には、弾き終えたり練習中の数々の教則本、多くの曲の楽譜が並んでいます。仕事をリタイアしてから、私は、思い切って、音楽教室の外に出て、バイオリンを弾こうと思い、現在、市原シニアアンサンブル等で、音楽を楽しんでいます。いろいろ紆余曲折はありましたが、バイオリンを続けてきてよかったと、心から思っています。私の人生で、今が一番楽しい時ではないかとさえ思えます。この楽しい時間を、少しでも長く続けさせてほしいというのが、現在の私の、ささやかな、最大の願いなのです。
おもろいな~ KenM
やめられなくなる近道は高~い楽器を買っちゃうことだったんですね
帰国した時の奥様のお顔が浮かんで、笑ってしまいました
人生を豊かにしてくれる最高のお買い物だったと思います
62才からVnを始めて10年経った私ですが、お世話になった「こすもす」を卒業し、とあるオケに入団し早3年。大きな顔して楽しんでいます。
菅野さまも健康に留意されて音楽を楽しんでください。