市原シニアアンサンブルこすもす(ISE)

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です。

私とサックス By Miyamoto

2020-03-13 20:06:22 | 日記

 

私がサックスを見たのは小学校5年生の時だったと思います。

その時は、中学校野球部の練習を見に行ったのですが、学校の教室から音楽が聞こえたので中をのぞいたら、目の前に銀色をしたかっこいい楽器があり、持っていた人に聞いたらアルトサックスだと教えてもらいました。

その時、よし、中学生になったらこれをやろうと思ったのを覚えています。 でも、中学校ではクラリネットをやることになってしまいました。

やっとサックスを吹けるようになったのは高校に入ってからです。 高校3年間は“高校では1番のサックス吹きになりたい”との思いで、猛練習の毎日でした。

卒業してからはしばらくサックスを吹いていなかったが、会社を定年になりブラブラしている時にシニアバンドのことを知り、

練習をのぞいたのが運のつき、後はみなさんの知っているとおり。

最近になってわかってきたことは、今まではかっこよさアルトやソプラノサックスを吹いていたが、それはうわべだけのことで、底辺の音楽は別にあるのではないかと思いバリトンサックスに変更して、そのとおりだと思えたことが67才にしての収穫かな?

Miyamoto

Miyamotoさんはサックス全種類を演奏しますが、本文にあるように、今はバリトンサックスで音楽の深層を追及。高校では吹奏楽の全国コンクールで優勝金賞銀賞などに輝く銚子商業高校(写真)吹奏楽部に所属しレベルアップ!、ニックネームは釣り天狗釣り船からひたすら大物を狙います。オウチではメダカを大事に大事に育てておられます。 KenM

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「お母さんのダボハゼ始まった」私の音楽歴 By Okuda

2020-03-08 22:57:22 | 日記
 
コスモスでフルートを担当しています。
Matsunaga さんから、今、暇でしょう?と記事を頼まれ、うっかり安請け合い、OKですと即答
実のトコロ、フルート演奏の経験は長くはないのです。
以下の話は音楽歴というタイトルが泣くんじゃない!?といわれるかも。

3年前、フルートを(初めて)手にした時の娘の言葉、
「お母さんのダボハゼ始まったね」
ダボハゼ🐡イメージしてみてください。
飲み込んでは、はき出す……
 
フルートにチャレンジしたダボハゼ~
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私と音楽、by Mitsuko

2020-03-06 23:53:43 | 日記
 
中学3年の冬、船橋市の吹奏楽団の演奏会を聴きに行った時に、何の理由もなくこの楽団に入ろうと勝手に決めて、

高校受験の翌日に入団させていただきました。
ホルンとバリトンしか余った楽器がなかったので、ホルンを選び最初は楽器倉庫で数ヶ月ひたすら音出し練習をしました。

  
その後はこっそり皆さんの中に紛れて演奏していました。難しいところは小さな音でこそこそ吹いていました。

当時コピー機はなかったので、楽譜は五線紙に全部写譜して使ったものです。

楽器倉庫でのひたすら音出し練習で2年経ちました。「いい音になったね」初めて指揮者に言われたときの嬉しかったこと。
アルトサックスを買ってこっそり練習したこと。良い思い出ばかりの5年間でした。

その後、ハワイアンとダンスを始めて自然に楽器は遠ざかり・・・・数年のブランク。
 
20代後半、エレクトーンのレッスンで楽器復活。
同時期になぜか器楽合奏がしたくなって、リコーダーのサークルを結成して公民館活動開始。
更に
ママさんコーラス指揮のまねごと。

その流れのまま30代半ばからフルートレッスン。
・・・と、楽器歴だけで言うともう50年になります。長くなりましたね~~~。

ギターとの合奏レッスンは10年も受けていましたが、あまり役に立ってないかな?・・・。

他にもいくつかの楽器をやって、いくつかのグループ活動も経験しました。

仕事を辞めたときに人間関係を断捨離して、少しの仲間だけでゆったりする予定でしたが 長い間の習性は直しようもなく、

結局今のグループに入れていただき細々と参加しております。 

フルート演奏とコスモスでのミュージックライフはハッピーです。

Mitsuko

Mitsukoさんが実践された楽器歴にピンクカラーを付けてみるとすごい!高1スタートで<ホルン、アルトサックス、エレクトーン、
リコーダー、コーラス、指揮、フルート、他にも幾つか
>とあります。音楽は麻薬だ~ KenM

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故 松本洋二さんのお別れ会 2020年2月22日(土) 京急メモリアルホール金沢文庫斎場

2020-03-05 23:52:34 | 日記

シニアアンサンブル楽団のために演奏し易い楽譜を多く編曲下さった松本洋二さんのお別れ会に、全シ連の岡村斉能さんと参列してきました。

お別れ会は、音楽葬とでも言うのでしょうか、親族の方々による演奏や歌に加えて、ヤマハOB会のシニアアンサンブルによる楽器を持ち込んでの演奏もありました。
このような音楽に包まれたお別れ会はとても素敵で、感銘をうけました。

ご夫婦で参列されていた生駒先生の弔辞で、松本先生は、戦後の子供たちのために教育のなかで楽器に触れる機会を得られるようにしたり、ヤマハ音楽教室やエレクトーン教室を創出され、日本のみならず、それを世界に広めた貢献者であることを知ることができました。また、これまで、先生が編曲された曲は、600曲以上とのことでした。

出棺を待つ一時に、岡村さん、OB会のKさんとともに、奥さまに先生の残された楽譜についてお願いをさせていただきました。

以下に少し詳しく紹介します。

式の始まる前から、式場で流れていた曲は、すべて、息子さんの晃彦さんの作曲されたものでした。なお、晃彦さんは、日本を代表する作曲家の一人であることWikipediaで紹介されています。

献奏では、最初に、OB会のシニアアンサンブルの団員、十数人による映画音楽の「追憶」、「黒い瞳」の2曲の演奏がありました。
 

ついで、先生が昨年11月のヤマハOB会シニアアンサンブル第5回定期演奏会で指揮をされている先生のお姿を写したビデオが上映されました。

その後、娘さんたちによるピアノ伴奏による独唱があり、さらに、奥さまの、シャンソン「枯れ木の上に」の独唱がありました。奥さまの切なく気持が込められたシャンソンは、素晴らしく聴いていて感情がこみ上げてきました。

 

松本先生は、昨年11月にステージ4の肺がんと診断されて、たったの40日間の入院で95歳でお亡くなりになりました。
はからずも、笹森先生のことを思いだしました。シニアアンサンブルにとっても、お二人はかけがえのない編曲者で、大変残念なおもいです。

岡村さんによれば、松本先生は編曲された楽譜はシニアアンサンブルで自由に活用しても良いと、生前にお話し下さっていたそうです。

全シ連の楽譜プロジェクトで、松本洋二先生のライブラリーとして整理し、活用出来るようにしていきたいと思います。

因みに、私が知っている松本先生の曲では「サントワマミー」が好きですが、「一晩中踊り明かそう」も良いですね。

ご冥福をお祈りいたします。

つね

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