さて、前回ご紹介しました『紅一点論』、出版されて十年以上経つこのフェミニストによる粗雑な著作は、しかし高校の教科書(正確には副読本ですか)として採用されてしまったがため、現代に蘇ってしまいました。
この副読本を入手したので、ちょっとご紹介することにしましょう。
ここに引用されているのは『紅一点論』でもクライマックス部分。男親がどうのこうの、アニメにはフェミニストが登場しないから許せぬの、クインビー症候群だのバタフライ症候群だの、斎藤師匠の痛い主張が十全に堪能できる部分です。
またここでは、女児向けアニメが「ロリコンアニメの俗称で大人の男に愛好されている」という数少ないオタクへの言及がなされている部分も引用されています。このテキストを授業で使用したことでクラスのオタク少年がいじめられることになりはしないかと、ついつい心配になってしまいます(しかし女児向けアニメを「ロリコンアニメ」なんて言ったりしないよなあ?)。
この副読本には『紅一点論』の主旨を図式化したものがあり、それがネットに流れたため、ネットでは「あの図が悪い、あれは『紅一点論』を誤読して作られた図だ」といった類の擁護意見も囁かれましたが、少なくともぼくが見る限りこの図は『紅一点論』の主旨を極めて的確にまとめています。
「図には具体的なアニメのタイトルがなく、それで『紅一点論』の意図を伝え切れていないのでは」といった意見もどこかで読んだように記憶しますが、そもそも斎藤師匠の論自体が極めて大雑把でいい加減なものなのですから、その擁護も当たっていないでしょう。
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ちなみにご覧の通り、図は「〈アニメの国の30年〉」「〈90年代のアニメの国〉」といった妙な分類がされており、わざわざ図式化した割にはちょっとわかりにくいものになっています。
例えばですが、
70年代:マジンガーZ:極めて単純な勧善懲悪の時代
80年代:ガンダム:勧善懲悪への懐疑の時代
90年代:エヴァンゲリオン:「戦い」という価値そのものの揺らぎの時代
とでもしてしまえば大雑把ながらわかりやすいし、これは恐らくこの三十年間の時代の経緯、アニメの歩みの分析として、ごく一般的なものではないかと思います。
しかし斎藤師匠の本では70年代~80年代の分析が極めて粗雑で曖昧なため、図にもそのようにまとめることができなかった。これは恐らく斎藤師匠の仕事の粗さが原因ではあるのですが、しかしそればかりではないような気がします。
というのは上の簡単な表に準えて、女児向きのアニメの歩みを考えてみると、
70年代:魔法使いサリー:子供社会の全肯定の時代
80年代:ミンキーモモ/クリィミーマミ:キャリアウーマンの時代/恋愛至上主義の時代
90年代:セーラームーン:女性性全肯定の時代
といったことになるように、ぼくには思えるからなのです。
(ぶっちゃけ『サリー』ちゃんとかはぼくもほとんど知らないのでアレですが……)。
斎藤師匠にとって女児向けアニメはひたすら男に媚びる女を量産する悪しき存在なのですが、考えると「魔法少女」が恋愛にうつつを抜かすようになるのは明らかに80年代の『マミ』以降です。それ以前にも『マコちゃん』は『人魚姫』モチーフで恋愛要素が出て来ましたが、その一方では社会派ストーリーが展開された異色作だし(事実、その次の『チャッピー』では従来の路線に戻る*)『メグちゃん』も意識的に主人公が大人びて描かれてはいたけれど、他は概ね恋愛沙汰は描かれなかったはずです。
東映という会社製作の「魔女っ子」シリーズがいったん途絶えた後、異色な魔女っ子である『ミンキーモモ』が放映され、しかしその続編は作られず、ぴえろという別会社が製作した『マミ』がその後釜となった(事実、当時のファンは「真似だ」と騒いでいました)というのが80年代魔女っ子の流れでした。
しかし『モモ』と『マミ』には明確な違いがあります。
『モモ』は魔界のプリンセスであり、「地球人に夢を取り戻させる」という明確な使命を帯び、毎回様々なキャリアウーマンへと変身し、事件を解決していくというお話で恋愛要素は希薄でしたが、『マミ』のドラマの中心はアイドル歌手としての生活、そして男の子との恋愛でした。
結果的に『マミ』の路線はシリーズ化され、毎回ヒロインにはボーイフレンドが振り当てられるようになります。即ち、『モモ』『マミ』は80年代の少女たちに与えられた二種類の『ガンダム』であり、しかし少なくともシリーズ化したのは『マミ』の方であった。
90年代の『セーラームーン』は戦いはすれど、それは斎藤師匠も言う通り、セックスのメタファであり、ヒロインの頭を占めているのは専ら恋愛。また、当初のセーラームーンには様々なキャリアウーマンに変身できるアイテム「変装ペン」が与えられていましたが、これはほとんど使用されずじまいでした(90年代には『モモ』もリメイクされていますが、これもキャリアウーマンへの変身は番組中盤からなされないことが多くなってしまいました)。
むろん、「キャリアウーマンへの変身」は現実のものとなったがため、アニメでは描かれなくなったとの解釈も可能ですが、それは同時に斎藤師匠が切望する「キャリアウーマンの嘆き」をアニメに取り入れることなど、少なくとも視聴者の少女たちは望んでいなかったのだ、ということでもあります。それより、女の子たちはやはり「恋愛」を望んでいたわけです。
しかし、斎藤師匠の目的は「恋愛至上主義」、「地球ナショナリズム」といった両者の価値観を敢えていっしょに論じることで、「その両者共が実は悪しき男性支配社会の価値観なのだ」と強弁するところにありました。斎藤師匠、いやフェミニストにとっては男児アニメも女児アニメも「悪の秘密結社・男」が作り上げた悪しきものでなくてはなりませんでした。
そのためには80年代、『ガンダム』によって男の子たちが正義への懐疑に目覚めた頃、女の子たちが『マミ』によって恋愛へと目覚めたのだ、というデータは「不都合な真実」だったのです。
いえ、これはあくまでも推定であり、単に斎藤師匠の分析が簡単な時代区分をしないほどに粗雑なものであっただけ、という可能性も大いにあるのですが。
*すみません! ブログをアップした後日、気づいたのですが、『マコちゃん』の後番組は『さるとびエッちゃん』、その次が『チャッピー』でした! 『エッちゃん』は『エッちゃん』で異色作とは言え、ヒロインの年齢層は従来通りの小学生に戻っているので、論旨自体に間違いはないのですが。
さて、ぼくは前回斎藤師匠の仕事について、オタク文化に詳しくなかったため、「オタクのツッコミにあってフェミニストの嘘がバレてしまった」と書きました。
事実、前回リンクしたニュースサイト(というか、ニュー速の書き込み)を見れば、師匠の百倍くらい鋭いツッコミが、オタクたちによってなされています。
では、ブログ界隈では?
さぞかし『紅一点論』に反論するレビューが並んでいるんだろうな……とちょっと見てみたのですが、残念ながらさにあらず。
「非常におもしろく、刺激的な本」、「誰も知らなかったヒロインの姿を鮮やかに看破する」、「あのころ『紅一点論』や『妊娠小説』があったら、わたしもだいぶ楽だったのに」と絶賛の嵐。ムツカシイご本をいっぱい読んでいらっしゃる頭のよさそうな方々が、一体どうしたことかどういうわけか、女性のご本となると極めて粗雑で安易なものでも絶賛する、というのはリアル系ロボット物の主人公が戦争に巻き込まれてロボットに偶然乗り込んじゃう導入部並に見飽きた光景です。
批判的なサイトは
「不完全ブックレビュウ(http://blue.ribbon.to/~hotapyon/sa-so/sa-minako-saitou.html)」、
「ゴリラ団極東支部/「紅一点論」の奇妙な論理(http://www.geocities.jp/virginfleet/colum_old.html)」
などでしょうか。
前者は本書の研究の杜撰さに鋭く切り込みつつも、根底に流れるフェミニズム的価値観には一定の「理解」を示そうとしています。
そう、本書についてはオタク側からも「確かにアニメについての分析には荒さが残るが、そこに家父長制の罠を見て取ろうとした視点は正しい」的な擁護がなされているはずです(藤本由香里師匠辺り、そういうことを言ってるでしょう、知らんけど)。
しかし、残念ですが、それは違うのです。
後者のサイトは研究の杜撰さに極めて細かく突っ込む*と同時に、フェミニズムのイデオロギーに対してはフラットに接している(つまり殊更肯定も否定もしない)ように思います。ですが、しかし、この子細な分析のおかげで、ぼくも上に書いた師匠の詐術に気づいたわけです。
師匠は魔法少女たちの変身について
それが常に看護婦さんやスチュワーデスであり、アイドル歌手に収斂されていったのは、大人の怠慢以外のなにものでもなかろう。
などと言っていますが、後者のサイトでは「ミンキーモモなどは毎回いろんな職業に変身していたではないか」とのツッコミがなされていました。ぼくもそれを見て「そういえば」と気づき、それを今回、指摘したわけです。
アニメという膨大なデータベースから恣意的に自分好みのデータを抜き出したら、何でも言えてしまう。しかしそれに対するオタク的なツッコミは、そうした「恣意性」の背後に潜む論者の願望を、暴き立てる機能をも持っているのですね。
*このサイトでは斎藤師匠が男児向けアニメのヒーローを「親方日の丸が多い」、女児向けアニメのヒロインを「お姫さまが多い」と称しているのも過ちであるとしっかり指摘されています。ここでも師匠がいかなる願望を持ってアニメを見ていたかがバレてしまっているわけです。
また、アスカについての考証にも瑕疵があることを指摘して、
斎藤氏はそれが気に食わないのか (というか、どうもその設定自体知らないようです)、上掲文後半のようにネルフに対して文句をタラタラと述べ、あげくにアスカの註釈欄でも不満をぶちまけています。いやもう、作品の設定に文句つけても仕方ないじゃないですかと思うんですけど、斎藤氏には受け入れがたいんでしょうね。
などとも指摘、「親方日の丸」論のウソを暴いた部分では
となると斎藤氏は、事実を知っていながら自らの論に反するからと意図的に記述を無視したのか、資料として挙げていながら中身を読んでいないのか、それとも文字が読めないのか。いずれにしても、著述家としては問題だろう。
と切り捨てるなど、とにかくツッコミの切れ味は抜群です。
前回、ぼくはフェミニズムという名の「悪の女王」による独裁国家は伝説の戦士プリキュアによって倒されるのだ、と予言しました。
しかしぼくのそうした「予言」は本になる予定がないのですが、藤本由香里師匠のような、オタクの中でフェミニズム寄りの人々はきっと既に自著の中で以下のようなことを言っていると思います。
即ち、
「プリキュアたちは恋愛を至上としない。また、パンチラをしない。更に、肉弾戦で敵と戦う。これ即ち、少女たちの男性化の現れである。女性たちは男性の遙か及ばない地平にまで到達しているのだ」。
フェミニストのドヤ顔が浮かんできます(肉弾戦の下りは斎藤師匠にとっては不快でしょうが)。
確かに、プリキュアに恋愛要素は希薄ですし、お色気要素も慎重に抑えられています。また、セーラー戦士たちが何のかんの言って祈祷と遠距離攻撃(ビームを撃ってただけ)だったのに対して、こっちが手に汗握ってしまうほどの肉弾戦を展開します。
実はぼくにとっても、この肉弾戦という要素が受け容れられたことは意外でした。が、他の要素(日常性、ファンタジー性、「正義」よりは身近な人々の「愛」や「夢」などを守る、といったことを動因とした戦い)は斎藤師匠が指摘した、かつての女児向けアニメを踏襲していることがわかります。
恋愛とお色気がないことは単純に視聴者層を児童に絞り込んでいる、ということでしょう。言わば、70年代への回帰ですね(それが悪いと言っているわけではありません)。
つまり、『プリキュア』は「女性美」「女性性」を決して否定するものではなく、それを称揚するものであり、だからこそ素晴らしい作品であり、また女児たちの圧倒的支持を受けているということなのです。
OLのグチみたいなことが読みたければ、『働きマン』でも読んでいればよろしい。
相変わらず斎藤氏の研究手法のズボラぶりには、頭にくる限りでありますし、「これはオタクへの風評被害じゃ~!!」的兵頭先生の激情もわからなくもない。
ただ、今回の分析にも合点がいかないところもございまして、私は『マミ』に対する評価が若干甘いのではないかと思うのですね。
まず、女児向けアニメの歴史ですが、東映の魔法少女路線は昭和の時点だけでも『サリー』から『ララベル』まで実質15年の蓄積があります。これに対し、ぴえろの魔法少女路線は『マミ』以降『パステルユーミ』まで実質4年の歴史でしかない(その後は90年代に『ファンシーララ』をやっただけです)。もし『マミ』が成功だったならば、このジャンルでは現在まで、ぴえろが覇権を握っているはずではないのか。『マミ』の物語は“優れた能力を社会ではなくエゴのために還元する”、いわば「滅公奉私」の論理で成り立っています。90年代に東映は『セラムン』でこのジャンルに再参入しましたが、そこでは「悪者退治」のファクターを加えて、「滅私奉公」の成分が再強化されています。「恋愛」要素にしても、初代のころはうさぎ―衛―ベリルの前世をまたいだ三角関係に表れていましたが、『R』の時点でちびうさが登場したことで、「家族制度の護持」というこれまた滅私奉公のイデオロギーへとテーマが回収されているのです。結果、『セラムン』は同じ原作と設定で5年シリーズを持たせることができました。東映はその後も『おジャ魔女どれみ』で4年、『プリキュア』シリーズで15年、ジャンル内「盟主」となっておりますし、『セラムン』の本放送中は『レイアース』『ウェディングピーチ』など競合番組も生まれ、ジャンルそのものの活性化にもつながりました。となると、「『マミ』の反省があるから『セラムン』の登場につながったのだ」「ぴえろ撤退後はジャンルの一大停滞期だった」という斎藤氏の批評の方が的確だと思うのです。
残念ながら、私自身は、このトシになって高価なDVDボックスに投資するような、ディープなアニメ消費者ではありません。なので、アウトサイダーがアウトサイダーに向けて発信した『紅一点論』は、うっかり納得してしまう箇所が多い。文章家としても斎藤氏、物言いが分かりやすい方ですし・・・。
もっとも、「マネを生み出した初代」である『モモ』の方が人気作だという評も可能で、『マミ』の成功という言い方もまあ、本当の本当にあっているのかどうかはわかりませんが。
『セラムン』が再び「公」の世界に対するアプローチがなされだしたという指摘は大変面白いのですが、例えばちびうさの存在は「家族制度の護持」というよりは専ら「女の幸せ」でしょうし(これはまた、未来にうさぎが月の王国のプリンセスになるという設定が果たして「お姫さま」への憧れをくすぐるためのものか「公務」への興味かとの問いにも通じます)。
むろん『プリキュア』がそうであるように「私」の欲求充足と「公」のための戦いは、常にパラレルに描かれるものだし、それを言えば『マミ』も(もう忘れちゃいましたが)人助け回などもあるはずですが。
>「『マミ』の反省があるから『セラムン』の登場につながったのだ」「ぴえろ撤退後はジャンルの一大停滞期だった」という斎藤氏の批評の方が的確だと思うのです。
いや、そもそも斎藤師匠はそんなことを言っていないでしょうw
あの人は言うまでもなく『セラムン』全否定ですから。