主語のない、観念的談話で消し去ろうとした安倍首相の意図は

2015-08-14 10:57:58 | 日記

主語のない、

  観念的談話で消し去ろうとした安倍首相の意図は 

 

  当時、小泉内閣の副官房長官であった安倍氏は、小泉首相が発表した「小泉談話」について「これって、コピーでないか」と談じて以来、これを懸案の課題とし「有識者会議」なるものを立ち上げその答申を「神旗」として今日に至った。その談話発表の14日午後6時の記者会見、その中で述べられている内容を耳にした私が思い浮かべたのが次のことであった。

 【1970年代の労働運動は、70年安保闘争を経て国民春闘・年金スト、そして大幅賃上げと高揚期を迎えていた。そこに日経連の反撃が始まる。『大幅賃上げ行方研究会』の立ち上げ、労働現場に対する思想攻撃とあいまった小集団活動と合理化攻勢。まさに激突の時代であった。その中で争われた、ある民間会社の労働組合役員選挙がある。それは現執行部に対立する集団が採用した『守る会』の運動であった。「職制組合員」を軸に繰り広げられ、部下の組合員にバッチを渡し胸につけることを強要した。職場の中には動揺と混乱がはしり、そして分断という実態を生み出した。『守る』。この言葉はいかようにでも解釈できる。労働組合を守る・会社を守る・生活を守る・身分を守るなどなど。つまり「主語のないスローガン」である。組合員はそれぞれが自分の立場、あるいは関心事、自分の利益によって各々が異なる受け止め方をしていった。しかし、そこで貫かれたのは「守る会に入会する、しない」の意思表示の証としてバッチをつける『踏み絵』であり、結果して執行部は対立候補に敗れていった。そして3年後、この職場に3割を超える人員削減が提案される。その時も「守る会」は大きな役割を果たした。「黄門の印籠」ではないがバッチをかざし「守る会員」は生き残りのために走った】

 さて「安倍談話」である。それは主語のない言葉の一人歩きである。国民一人一人がいかようにでも解釈でき、どのようにも捉えることができる内容で貫かれていることを見落としてはならない。村山元総理は述べている。「何のためにおわびの言葉を使ったのか、矮小(わいしょう)化されて不明確になった。植民地支配や侵略などの言葉をできるだけ薄めたものだ。村山談話が継承されたという認識はない」と断じた。当然である。

 植民地支配と侵略にしても「西洋諸国の植民地支配下にあって、日本は外交・経済の行きづまりの中から進むべき進路を誤り、戦争への道を進んでしまった」と述べただけである。日本はどのような行為に及び、どのような犠牲を強いたのかは触れていない。そのことが「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも忘れてはならない」と慰安婦問題を「戦争の陰の部分」という一般的な捉え方で終わっていることをもっても明らかである。そして首相自らの歴史的認識は示さず、歴史家の議論にゆだねるべきとの持論はここでも生きている。それでいて「子や孫に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない。今を生きる者の責任だ」としている矛盾は問われなければならない。

 よくよく吟味をしてみる。主語のない、観念的な表現は「触れなければならないから触れてみました」という姑息な行為であり、情感に訴える巧みな言葉の羅列の中で、それさえも「消し去ろうとする安倍流の意図」がありありであった。今後、70年安倍談話をめぐりいろいろな解釈がとび出すだろう。侵略はしなかった。謝罪の理由は見当たらない。すべてが戦勝国による脚色であったなどなど。

 最後に村山談話作成にかかわった田中均元外務審議官の言葉を付け加えたい。「私たちが最も大事だと考えたのは、言葉のごまかしをしてはならない」ということである。


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