米従軍カメラマン・ジョー・オダネルの記録から・焼き場の前に立つ少年

2018-01-06 09:52:05 | 日記

 米従軍カメラマン・ジョー・オダネルの記録から・焼き場の前に立つ少年

 

   あらためて「焼き場の前にたつ少年」の写真を見入る。私がジョー・オダネルの存在を知ったのは2009年8月であった。「写真集『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』」を手にしたからである。

   そして今般、フランシスコ・ローマ法王は、原爆投下後の長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」の写真をカードに印刷し、「戦争が生み出したもの」との言葉を付けて広めるよう指示した。ローマ法王庁(バチカン)が1日までに発表した。法王はこれまでも核兵器廃絶を呼び掛けており、改めて平和を訴えたという記事を見た。(毎日新聞1月1日)

   そこで思い出し9年前の8月に書き込んだ私のファイルを開いた。そこにはジョー・オタネルが添えた次の文章が書きこまれていた。

  《焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で弟を見送ったのだ。私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?》

    

  そしてもう一つのファイルには「三人の兄弟」の写真と文章があったので紹介をしたい。「『三人の兄弟・長崎』・三人の兄弟らしい子供達が、粗末なつくりの荷車で遊んでいたのに行き当たった。私は身振り手振りで写真を撮らせて欲しいと言いフイルムにおさめた。お礼にとポケットを探ったがキャンデイは無かった。リンゴがあったので子供らに差し出すと年長の子がそれをひったくりがぶりと食らいついた。瞬きをする間もなく蠅の大群がその噛み跡を真っ黒に染めた。兄がそのリンゴを弟に渡すや否や、その子は蠅を追い払わずにがぶりついてしまった。そして次の下の子に渡った。私はもう正視できずに横を向いた。私は口の中に入った蠅のイメージを消し去ることは出来なかった。「飢えとは何か」。知っているつもりであった。しかし本当に飢えると言うことはどういうことなのか、私は何も知らなかったことに気付いた」

 

 



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