国難突破総選挙を前にして、私たちの責任を考える.

2017-10-21 11:05:01 | 日記

 国難突破総選挙を前にして、私たちの責任を考える.

 「今日は何の日」、NHKの朝のラジオ番組は「10・21雨の神宮外苑学徒出陣式」に触れていた。そして私には安倍首相が国会解散を強行した記者会見の場面と重なった。

 戦後生まれの政治家「安倍晋三氏は」祖父や父親の影響はあったであろうが、学業の中での日本近代史の講義の中で知り得たであろう「国難」という認識をどのように受け止めていたのであろうか。「この国の総理」が述べた「国難突破解散」という言葉に拒否感と恐ろしさを感じたのは私だけだろうか。

 今更述べるまでもなく「国難突破」という言葉がかつて使われた時代があった。それは1931(昭和6)年に満州事変が始まり、33年に日本が国際連盟を脱退して孤立を深めたころ、さかんに「国難」が強調されたということがあらゆる文献でも明らかなっている。そして新聞紙面上で「国難突破」がよく使われるようになったのが日中戦争の勃発した1937年ごろからであった。これは、「国家総動員法」(1938年)や、日独伊三国軍事同盟の成立(1940年)、さらには「大政翼賛会」の結成などを経て戦時体制が強化され、太平洋戦争(1941年)へと突き進んでいった時期と重なる。

 たとえば、日中戦争が勃発した2ヶ月ほどあとのことである。1937年9月10日の読売新聞夕刊1面に、次のような大きな見出しが踊る記事をネットで検索することができた。

 「国難突破に皇民一致せよ/正に挙国総動員の秋/事変の推移予断許さず」の横文字見出しの記事である

 そして3年8ケ月にわたる「太平洋戦争」に国民は巻き込まれ、300万を超える犠牲を生み、東京大空襲をはじめとした全国土焼き払いの空爆と大量の非戦闘員の死傷、広島、長崎への世界唯一の原爆投下と今なお傷跡を残している大戦である。

 戦況の敗北を色濃くした1943年(昭和18年)10月21日、文部省主催、陸海軍省等の後援で実施された。この「学徒出陣壮行会」の様子は社団法人日本放送協会(NHK)が2時間半にわたり実況中継。また映画「学徒出陣」が製作されるなど史上最大の劇場化され軍部の民衆扇動に使われた。秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々、それまで徴兵猶予されてきた大学生、中等学校(旧制)生徒、そして入場口の観覧席に陣取った多くの女学徒など計96校、約5万名が学校ごとに集められた。これも「国難克服」という四文字によって遂行された時の為政者による政策であり、それを受け入れていった国民の意識の結果であったと受け止めたい。

 いみじくも今日は「国難突破」と位置付けられた第48回衆議院選挙の前日である。そして台風の影響により全国各地で冷たい秋雨が降っている。歴史の中で語られた一つの言葉が、「どのような意味を持ち、どのような役割をもち、どのような結果を生んでいったのか」を学ぶことが大事であり、そのことを、かつて「軍国少国民」として生きてきた加害者の責任として発信をする一日にしたいものである。


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