先週、急須の仕入れのついで(?)・・・土木展のついでに急須の仕入れ(?)
・・・に、行ってきました。
《西村 浩 ディレクション 土木展》
快適で良質な毎日の生活を支えるため、街全体をデザインする基礎となる土木。道路や鉄道などの交通網、携帯電話やインターネットなどの通信技術、上下水道、災害に対する備えなど、日常生活に必要不可欠なその存在を、私たちが実感する機会は多くありません。本展では、全国の駅舎や棟梁の設計、景観やまちづくりなどのデザインを手がける西村 浩を展覧会ディレクターに、土木のエキスパートたちによる企画チームと参加作家のデザイナーやアーティストが、土木を楽しく、わかりやすく伝えます。会場には、暮らしの中の土木を見つめるプロジェクションやドローイング、高度経済成長期から現代にいたる土木の歴史とその迫力を、音と映像で体感できる空間「土木オーケストラ」が登場。また、「ほる」「ためる」「つむ」「ささえる」といった行為から土木を分析し、表現したインスタレーション作品や参加型作品を通じて、土木をより身近に感じていただける展覧会です。 (パンフレットより)
をしまっていたら受付の方が写真を撮っても平気ですということだったので撮らせていただきました。
土木を愛する
土木には実物を見に行くことはもちろん、他にも様々な楽しみ方があります。
土木について語る。土木を造る人の想いを知る。土木に見立てた料理を味わう。土木からインスパイアされた作品を創造する。土木好きの方々はマガジン、漫画、食とあらゆる角度から土木を愛でているのです。
専門家には思いもよらない視点から土木を愛する彼らの見方からは、また違った角度での土木の魅力が見えてきます。土木をもっと楽しむヒントがつまったセクションです。
渋谷駅構内模型
ダムカレー が・・・・
おなかが空いてきました
六本木から都営大江戸線で両国へ
このあとはぶらぶらしながら都営線の飯田橋駅へ
ここから新宿へ
もちろん飲んで帰りました。
勝沼公会堂 昭和初期の建物だそうです。現在も使用されているそうできれいです。
勝沼公会堂の隣、勝沼山乗願寺
涼しげに見えますが・・・暑かった
なんだろうと思ったら、プルトップ(?)で作成?
すごい!
今日の目的地である津雲邸に向かいます。
昭和初期、青梅市住江町の700坪にわたる広大な敷地に、当時の代議士、津雲國利氏が建造した大邸宅です。外観は純和風入母屋造り、内部は玄関・居間・書院・水屋等、随所に「粋・贅・巧」の技が駆使された造りです。京都の宮大工が青梅に呼ばれ施工した木造建築としては、日本庭園を含めて青梅市随一の名建築と評価されています(紹介文より)
青梅の町を歩くには暑いので武蔵境に向かうことにしました
ちょっと・・・・飲むには早い時間なので武蔵境駅からバスに乗り国立天文台まで行きました。
暑いし蚊はいるし雨が降ってきたので・・・・(出かけるとよく降るなぁ)
帰ることに。
この日もが美味しかった
。
柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡し舟で往き来していましたが、不便なので元禄十年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、“柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
明治二十年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には先導の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる。工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを取り入れ、昭和四年(1929)に完成しました。
完成から七十余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代土木遺産として平成三年に整備し、同十一年に区民有形文化財に登録されています。
明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵下総両国の境界をなしていた。また延焼防止のため橋に向かう沿道一帯えお火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研掘町若松町があったが、昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ。維新後百年を経た今日まちの近代化はめざましく広小路や両国の名も過去のものとして忘れられようとしているが、300年前火除け地が設定され これが広小路に発展して行った事跡のなかには先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため町会の総意によりこの碑を建てた。 昭和44年11月3日
厩橋と厩橋の公衆トイレ
伊藤宗印屋敷跡
明治12年(1879)に十一世名人を襲位した八代伊藤宗印がここに屋敷を構えていました。将棋でいう名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号です。江戸時代には大橋家本家、大橋家分家、伊藤家の三家が持ち回りで世襲していました。 (案内板より)
岡田商事
明治生命保険相互会社本社本館
文化財指定名称『明治生命保険相互会社本社本』、通称『明治生命館』は、東京美術学校(現東京芸術大学)教授岡田信一郎の設計により、3年7ヶ月の歳月を経て昭和9年(1934)3月に完成しました。その後、東京大空襲をくぐり抜け、終戦後は、米軍の極東空軍司令部として使用するためにGHQ(連合国軍最高司令官総司令本部)に接取され、2階会議室では対日理事会が開催されるなど、昭和の激動を乗り越えてきた明治生命館には、その隅々まで時代の記憶が刻印されています。また、現在も明治安田生命保険相互会社のオフィスビルとして使用し続けられています。
明治・大正の時代に建てられた建物が姿を消しつつある現在、明治生命館は創建時の姿をそのままに残した古典主義様式の最高傑作として高く評価されています。
この建物の中で特に芸術的価値が高く評価されているのは、建物の西側・南側のエンタシスを持つ両外壁構成と1階の営業店頭室・2階吹き抜け回廊の空間です。
また、7・8階の行動と2回の会議室・役員食堂の内装についても、それに準じた高い評価がなされています。 (パンフレットより)
明治生命館の建築 [外観]
明治生命館の主要な意匠は、古代ギリシア・ローマを源流とする古典主義様式でまとめられています。中でも一際印象的なのは、お堀端に面したその外観。5層分を貫く巨大なコリント式の列柱が立ち並び、西洋の古典主義建築にも引けを取らない圧倒的な力感をみせています。
列柱は、エンタシスと呼ばれる、視覚矯正のための微妙なふくらみが付けられ、上部へ行くほど細くなっています。建物全体は3つの層に分かれ、下層に重厚な粗石積みの基壇階<グランドフロア>を築き、その上に列柱からなる主階<ピアノノービレ>を置き、更にその上層に星階<アティックストーリー>を軽やかに乗せており、古典主義建築の伝統的な壁面分割<三層構成>が踏襲されています。
明治生命館の建築 [内観]
[1階店頭営業室(丸の内お客さまご相談センター)]
大空間に柱が林立する店頭営業室(丸の内お客さまご相談センター)廻りは、館内で最も荘厳な雰囲気の漂う空間です。
外観と同様に古典主義の意匠で構成されていますが、イタリア産ボティチーノクラシコをはじめとする各種の大理石が用いられており、外部とはまた違った趣を醸し出しています。
漆喰と石膏彫刻による天井も精緻であり、中央部はガラス部屋のトップライトから柔らかな光が降り注ぎ、周辺部は八角形の窪み<コファリング>と丸い花形飾り<ロゼット>?で華麗に演出されています。
[2階回廊・諸室]
回廊は1階と同様、壁、柱、柱型に大理石が用いられ、1階店頭営業室廻りと一体となった吹き抜け空間を構成しています。
一方、応接室、執務室、会議室、食堂、また7階の講堂では、石ではなく木材が主役を演じています。外国産のチーク材やウォルナット材を多用しつつ、落ち着いた雰囲気でまとめられ、一部にはスパニッシュ様式などを取り入れた演出も行われており、設計者の多彩な表現力を見ることができます。
南西隅応接室
スタッコの壁(凹凸のある白塗りの壁)、ステンドグラス、ビーム(梁)天井など、昭和初期に流行したスパニッシュ様式で構成されている。家具は、家具デザイナー梶田恵の作。
執務室
南側には執務室が5部屋並び、すべてパーケットフロア、木製パネルによる内装が施されている。
会議室
終戦後、明治生命館はアメリカ極東軍司令部(FEAF)として接取されたが、接取期間中、米・英・中・ソの4カ国代表による対日理事会(ACJ)の会場として使用された。その会場となったのがこの会議室である。
食堂
天井や梁に施された石膏レリーフには、ぶどうと蔦がデザインされている。
見学のあとは、ぶらぶらと歩いて市ヶ谷に向かうつもりでした。
寄り道~
東京都指定有形文化財(建造物) 日本水準原点標庫
日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治二十四年(1891)五月に水準原点が創立されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建設されたものである。設計者は工部大学校第一期生の佐立七次郎(1856~1922)。建物は石造りで平屋建。建築面積は14.93㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフの装飾で特徴づけられる。
日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。 (説明文より)
国会議事堂
平河天満宮
ぶらぶら歩いていたら四ッ谷駅に着いてしまいました。
1日の日曜日、駒込から王子まで散歩してきました
お昼は駒込駅近くの中華料理屋さん、料理が出てきてびっくり
量が多い
いつも食べる量の5倍くらい食べた気がする
懐かしく感じる・・銭湯
霜降商店街
霜降商店街でちょっとお買い物。いいものありました
交差点の反対側には旧古川庭園
北区滝野川図書館
図書館とはおもえない
防災センター 地震の科学館
少しだけ、地震対策の学習をしてきました
滝野川公園
【青淵文庫(せいえんぶんこ)】
竣工:1925年 国指定重要文化財
栄一の傘寿(80歳)と子爵に昇格したお祝を兼ねて、1925年に竜門社(現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)が贈呈しました。ステンドグラスや装飾タイルなどが書庫に彩りを与えています。書庫として建設されたことから全体的に堅牢で、鋼製の書棚など機能にも十二分にこだわった建築となっています。 (パンフレットより)
【晩香廬(ばんこうろ)】
落成:1917年 国指定重要文化財
1917年に栄一の喜寿(77歳)を祝って清水組(現・清水建設株式会社)より送られた洋風茶室です。渋沢邸を訪れた賓客をもてなすために利用されました。 (パンフレットより)
【渋沢資料館】
渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、1982年に開館しました。かつて渋沢栄一が住んでいた旧渋沢邸跡に建ち、公益財団法人渋沢栄一記念財団が運営しています。栄一の生涯と事業に関する資料を展示し、それにまつわるイベントなども随時開催しています。
【渋沢栄一ってどんな人?】
1840年、現在の埼玉県深谷市に生まれました。農業・商業を営む家業を手伝うかたわら、尊皇攘夷思想に傾倒しましたが、縁あって一橋慶喜(徳川慶喜)の知遇を得て家臣となりました。
1867年パリ万国博覧会の幕府使節団の一員として渡仏し、ヨーロッパの文明に触れ、感銘を受けました。帰国してからはその経験を活かし、民間の立場から約500社にのぼる株式会社、銀行などの設立、経営指導に尽力し、民間経済外交、社会公共事業に取り組み近代日本の経済社会の基礎を作りました。 (パンフレットより)
名主の滝公園
名主の滝
名主の滝は、王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまるもので、名称もそれに由来しています。この時期はさだかではありませんが、嘉永三年(1850)の安藤広重による『絵本江戸土産』に描かれた『女滝男滝』が名主の滝にあたると思われますので、それ以前のことと考えられます。
明治の中頃、畑野家から貿易商である板垣徳三郎の所有となり、氏は、好んでいた塩原(栃木県)の景に模して、庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。
昭和七年の文献に、開園期間は四月一日から十一月三十日まで、新緑と納涼と紅葉を生命としていると記されています。
昭和十三年、板垣家から株式会社精養軒へ所有が移ってその経営する一般利用の施設になり、プールが新たに設けられました。
昭和三十三年、東京都は、名主の滝を都市計画公園として計画決定し、翌年これを買収、堂三十五年十一月から都立公園として公開されるに至りました。
昭和五十年四月一日、東京都から北区に移管、北区立の公園となり、同六十一年十月から一年半、大規模な改修がなされました。 (説明文より)
王子駅から都電に乗って大塚駅で乗り換えて家に
このところ『流星ワゴン』を見るのが楽しみなので家飲みです
明日は天気予報では雪、当たらないといいけど。
都営地下鉄『冬のワンデーパス』(500円)を使って出かけてきました。
まず築地に向かいました。お寿司を食べるつもりが・・・おなかの調子が悪くなってお蕎麦かうどんを食べようと思ったら
お店が見つからないので・・・・・パスタのお店に入って一息入れました。
築地本願寺 (国重要文化財)
築地本願寺は、浄土真宗本願寺派の直轄寺院であり、首都圏における開教活動を担う関東最大の念仏道場です。 (パンフレットより)
大正12(1923)年、関東大震災により坊舎を消失し、東京大学工学部教授 伊東忠太博士の設計により昭和9(1934)年現在の本堂が落成しました。
湯島聖堂、東京都慰霊堂、復興記念館も伊東忠太博士の設計です。
パイプオルガン
左右に配置されたパイプは6つの山を描いていて、「南・無・阿・弥・陀・仏」の6つの文字を表しています。また、表面に並んだパイプの数は左右48本ずつ。浄土真宗の聖典にもある「四十八願(しじゅうはちがん)」を表しています。 (説明文より)
毎週金曜日にランチタイムコンサートを開いているそうです。
この後、小石川植物園に向かいました。
旧東京医学校 (国重要文化財)
広いです。田無にある東京大学農場も広いです。
トガリバサザンカ
茶の木に似てます
この日は万歩計が24783歩でした。
家に帰ってからです。