《内容》
太平洋戦争中、零戦に乗り、特攻に散った日系アメリカ人・松藤大治。運命に翻弄されながらも毅然と生きたその生涯から、日本人とは何かを問う歴史ノンフィクション。 (紹介文より)
《内容》
16歳の平凡な少年、百鬼悠太は亡父の実家へ帰省した翌日、ひょんなことから1979年にタイムスリップ、父の剛志郎として高校へ通うはめになる。しかしそこはリーゼントとパンチパーマの巣窟。ヤンキーがすべてを支配する恐怖の世界だった。 (紹介文より)
14日の日曜日、ちょっと寄り道して根津神社に行ってきました。
白山駅から徒歩で10分くらいです。隣は日本医大病院、10年くらい前でしょうか何回かお見舞いで行きました。ひさしぶりの根津神社です。
どうしたらこんな二色の花ができるんだろう?
弥生正緑館(文化庁登録有形文化財)
輸入生地商を営む初代当主渋谷正吉氏によってたてられたもので、当時大倉喜八郎・渋沢栄一等の実業家がしばしば訪れています。内部は一階が高い格天井を持つ三十畳ほどの風格のある洋間、二階は床の間を設えた純和風の造りで当時流行した和洋折衷の洋館です。
東名足柄サービスエリアの DONQ のきん太くん
可愛い
でも食べちゃった。
痛そう・・・・な感じ。
一緒に飲んだお茶は抹茶入りくき茶 たなしのE。
可愛いパンだったので味を忘れてしまいました。
《内容》
思い通りの写真が撮れず苛立つ沢原の前に、捜し求めていた被写体が現れる。鏡越しに出会った男。その悲しい目を見たときに“こいつだ”と直感した沢原は、男を追いかけシャッターを切るのだが…。鮫島、佐久間公、ジョーカーが勢揃いの傑作小説集。 (紹介文より)
《内容》
参拝客で賑わう浅草寺。群衆にまぎれ竜吉は、密かにご本尊を奪うことを考えていた。それも、いま開帳されている前立本尊ではなく、絶対秘仏とされる黄金の観音像を。その企みを見透かした大物盗人の銀蔵が、竜吉に先んじて本堂に忍び込む。だが、翌日銀蔵は何者かに斬られてしまう。黄金観音の行方は!?切れ者の同心・尾上源蔵が辣腕を振るって、謎を解き明かす。 (紹介文より)
双柿舎は坪内逍遥の別荘として建てられました。すべて逍遥自身の設計です。
東館
双柿舎は坪内逍遥(つぼうち しょうよう)の別荘として建てられました。逍遥は、早稲田大学の創立の功労者、文学部の開設者であると共に、明治・大正・昭和の三代にわたる、文豪・劇壇の偉大な開拓者であり指導者でもありました。
文学では「小説神髄」「当世書生気質」を著わして、わが国の近代小説の端緒をつくり、演劇では「桐一葉」「沓手鳥孤城落月」等をもって歌舞伎に新風を吹き込み、あるいはシェークスピアに傾倒して、その全訳『シェークスピヤ全集』四十巻を完成しました。
逍遥は早くから熱海の風土を好み、明治44(1911)年には荒宿の地に小さな別荘を営みました。しかし熱海町の発展につれ、そのあたりは繁華な街となったため静けさを求めて、大正9(1920)年に山の手の水口村(水口町)に居を移しました。この地は、後ろに四季折々その趣をかえる山々を背負い、眼下には熱海の海と市街が広がる景勝の地でした。敷地には、二百余年を経たかと思われる二本の老柿があり、逍遥はこれに因んで「雙柿舎(そうししゃ)」と命名し、以来ほとんどここに起き伏して著述や研究につとめ、ここで生涯を終えました。
双柿舎はすべて逍遥自身の設計です。建物はもちろんのこと、庭のたたずまい、泉石の配置、一木一草に至るまで、逍遥の細心の注意が行き届いており、さながら一つの創作作品を見るようです。逍遥書屋は昭和3(1928)年に建てられましたが、これも逍遥の苦心の作で、和漢洋を折衷した特異な景観をもち、塔上には、シェークスピアの句から思いついた鋳金の翡翠(かわせみ)の風見が掲げられています。 (パンフレットより)
たくさんの鳥がとまっているので、おもわず撮ってしまいました。
こちらも傾いている木が気になって
国文学者、万葉集研究の歌人として活躍した佐々木信綱は、昭和19年、72歳のとき肺炎を患い病後の静養地として、冬の寒さの余り厳しくない熱海に転居してきた。「凌寒荘」の名は友人の徳富蘇峰が中国の名文章家、王安石の詩の一節をとって名付けた。
6歳の時から父の指導で万葉集、山家集を暗誦し作歌を始め、27歳のとき万葉歌風の「心の華」を発刊する一方、多くの優れた門人を輩出した。明治36年、32歳で処女歌集「思草」を出している。
願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや(歌集「思草」より)
大正元年、第二歌集「新月」を刊行する。
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲(歌集「新月」より)
昭和23年、妻雪子に先立たれた悲しみは、歌集「山と水と」に次のように歌われている。
呼べど呼べど遠山彦のかそかなる声はこたへて人かへりこず
昭和38年12月2日この地で永眠された(享年92歳)
潤雪庵(谷崎潤一郎 旧居)
外観のみ
谷崎潤一郎は家族の避寒地として西山の別荘を購入し昭和17年よりこの自宅で「細雪」の執筆に専念した。翌18年に中央公論に第一回を発表し、第二回を発表すると陸軍省報道部から、この作品は時局にあわぬという理由で掲載禁止となった。しかし谷崎はそれに屈せず友人からの援助を受けて「細雪」を書き続け昭和19年に上巻200部を私版として発行した。これも警察にみつかり始末書を書かされる事になった。この頃時局も緊迫して家族も熱海に疎開してきたが収入がなくなり生活は困窮していた。