細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

機龍警察暗黒市場  著者 月村了衛

2015-07-31 10:22:00 | 読書メモ 

《内容》

警視庁との契約を解除されたユーリ・オズノフ元警部は、旧知のロシアン・マフィアと組んで武器密売に手を染めた。一方、沖津特捜部長は、市場に流通した新型機甲兵装が「龍機兵」の同型機ではないかとの疑念を抱き…。   (紹介文より)


慈恩の滝から日田へ向かいます

2015-07-30 15:03:04 | 散歩・旅  九州

慈恩の滝から日田へ向かう途中にあった『女子畑発電所』。

じょしはたけ?調べてみたら『おなごはた』と読むそうです。

日田市

中条河岸
この河岸には日田郡内の年貢米輸送のため二十六艘の川舟が用意され、竹田河岸からの通船とともに関村(夜明け)の蔵所まで舟運(当時の日田川通船)をしていました。
文政八年(1825)当時の西国筋郡代塩谷公の許可をうけた広瀬九兵衛や草野宗内らが中心となり、荷物積込みのため河岸が建設され、川幅は広く御米蔵所や御計屋(年貢米計測所)などが建ちならび、港として栄えていました。現在の港町の町名は、これに由来するものです (案内板より)

 

『霖雨』 著者 葉室燐 を読んで・・・この目で見たいなぁと思って来てしまいました、咸宜園。

暑い暑い咸宜園の向こうに見えるのは雨雲

国史跡 咸宜園
 江戸時代後期には日本全国で教育熱が高まり、各地で藩校や郷校といった学校のほか、個人による私塾が多く開設された。豊後日田の儒学者・広瀬淡窓(1782-1856)は豆田町の豪商広瀬家の長男として生まれたが、生来病弱のため家督を弟・久兵衛に譲り、自らは学問教授の道に進んだ。文化2年(1805)長福寺学寮を借りて開塾、その後「成章舎」、「桂林園」を経て、文化14年(1817)淡窓36歳の時に、自ら幼い頃に教育され、俳人として著名であった伯父月化の居宅・秋風庵の隣に塾を構え、「咸宜園」と呼んだ。咸宜園の「咸宜」とは『詩経』からとった言葉で、「ことごとくよろしい」という意味である。
 入門時に身分・年齢・学問を問わない「三奪法」、学力に基づき等級別に評価した「月旦評」、門下生に塾の運営に関わる役割を与えて社会性を身につけさせる「職任制」などの独自の教育手法が評判となり、全国から多くの門下生が集まった。現在も4,600名を越える「入門簿」が残されており、著名な人物に、大村益次郎、長三州、上野彦馬、清浦奎吾、横田国臣らがいる。このほかに淡窓の日記などに名前が記された門下生を加えると、咸宜園で学んだものは5,000名を超える。門下生の多くは咸宜園で学んだ後に、藩校の教授となったほか、自ら私塾を開いた。あるいは、明治学制発布後に学校の教師となり、近代教育の発展に貢献した。咸宜園は淡窓没後も弟や義子、門下生に引き継がれ、明治30年(1897)に閉熟するが、江戸時代の私塾としては最大の規模を有していた。
 咸宜園の建物は、門下生が増え、塾の規模が拡大するに従って増加した。発掘調査の成果や残された絵図等から、門下生の学びと生活の場や、塾主の居宅・書斎を含めた多くの建物が確認された。道を挟んで東側に講堂・東塾・秋風庵・遠思楼など、西側には考槃楼・西塾・南塾などがあったが、明治以降、次第に失われていった。その後、咸宜園蔵書を保管するための書蔵庫や淡窓図書館が敷地内に建設され、現在は東側に秋風庵・遠思楼・書蔵庫(移築後修理)・井戸屋形・外便所が残り、西側に井戸が現存している。       (説明文より)

豆田町を散策

暑いよ~お昼は蕎麦です。

 薫長酒造資料館

 岩尾薬局

 広瀬資料館 お休みでした

やはり・・・・雨が降ってきました。雨男です。

 


スカイツリーを見ながらぶらぶら・・・

2015-07-29 15:37:45 | 散歩・旅

  柳橋

 柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡し舟で往き来していましたが、不便なので元禄十年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
 その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、“柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
 明治二十年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には先導の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる。工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを取り入れ、昭和四年(1929)に完成しました。
 完成から七十余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代土木遺産として平成三年に整備し、同十一年に区民有形文化財に登録されています。

 

両国広小路

明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵下総両国の境界をなしていた。また延焼防止のため橋に向かう沿道一帯えお火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研掘町若松町があったが、昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ。維新後百年を経た今日まちの近代化はめざましく広小路や両国の名も過去のものとして忘れられようとしているが、300年前火除け地が設定され これが広小路に発展して行った事跡のなかには先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため町会の総意によりこの碑を建てた。     昭和44年11月3日

  

 

 御幸記念碑

  

厩橋と厩橋の公衆トイレ

  

伊藤宗印屋敷跡
 明治12年(1879)に十一世名人を襲位した八代伊藤宗印がここに屋敷を構えていました。将棋でいう名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号です。江戸時代には大橋家本家、大橋家分家、伊藤家の三家が持ち回りで世襲していました。  (案内板より)

  

岡田商事

 

 


都留市商家資料館(旧仁科家住宅) 

2015-07-24 16:34:08 | 散歩・旅  山梨県

山梨県都留市にある商家資料館。大正中期に絹問屋として建てられた商家だそうです。

ここはかつて甲斐絹とよばれる絹織物の産地として栄えたところだそうで、外国との取引もあったので洋室を作ったそうです。

なかなか車の往来が多くて、斜めからしか撮れません。

 

    

都留市商家資料館

開館時間    午前10時~午後4時

休館日      月・水・金曜日  12月28日~1月4日

駐車場      あり

   

   

痛みがひどいので・・・ちょっとかわいそう

  

仏間も洋間です   

  仏間と応接間を挟むようにストーブがあります。