細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

旧日野医院

2015-08-02 16:05:49 | 散歩・旅  九州


旧日野医院 本館・病棟・離れ       国指定重要文化財
 この指定重要文化財は明治27年(1894)日野医家第三代、日野要の建立によるもので本館と病棟からなる擬洋風の貴重な建築遺構である。
 本館は、木造二階建、寄棟造、桟瓦葺で、県内の現存洋風建物のうち最古と思われる。もっとも洋風らしい外観を持つものは玄関ポーチで、一階は柱頭に飾りを入れ、欄間の輪郭をアーチに似せている。
 病棟も、木造二階建、寄棟造、桟瓦葺で、建築年代についての記録はないが、明治32年(1899)の開業前と考えられる。この当時の個人病院で和風病舎を併設する病院は、極めて少なく貴重である。
 離れは、桁行五間、梁行二間、屋根は寄棟造、桟瓦葺の建物である。この座敷及び縁はオンドル式の床暖房が施されている。
 当日野家は、初代天民・二代精記・三代要・四代俊子(県下二番目の女医で国際女医学会賞も受賞)・五代副之介・六代修一郎と江戸時代から続く医家である。
 建築後百年、老朽化のため、所有者が大分県・湯布院町の補助金を受けて、平成4年10月から三年間の工期を経て平成7年10月保存修理を完了した。  (説明文より)

   

    

 

湯布院の町を散策

  

 


慈恩の滝から日田へ向かいます

2015-07-30 15:03:04 | 散歩・旅  九州

慈恩の滝から日田へ向かう途中にあった『女子畑発電所』。

じょしはたけ?調べてみたら『おなごはた』と読むそうです。

日田市

中条河岸
この河岸には日田郡内の年貢米輸送のため二十六艘の川舟が用意され、竹田河岸からの通船とともに関村(夜明け)の蔵所まで舟運(当時の日田川通船)をしていました。
文政八年(1825)当時の西国筋郡代塩谷公の許可をうけた広瀬九兵衛や草野宗内らが中心となり、荷物積込みのため河岸が建設され、川幅は広く御米蔵所や御計屋(年貢米計測所)などが建ちならび、港として栄えていました。現在の港町の町名は、これに由来するものです (案内板より)

 

『霖雨』 著者 葉室燐 を読んで・・・この目で見たいなぁと思って来てしまいました、咸宜園。

暑い暑い咸宜園の向こうに見えるのは雨雲

国史跡 咸宜園
 江戸時代後期には日本全国で教育熱が高まり、各地で藩校や郷校といった学校のほか、個人による私塾が多く開設された。豊後日田の儒学者・広瀬淡窓(1782-1856)は豆田町の豪商広瀬家の長男として生まれたが、生来病弱のため家督を弟・久兵衛に譲り、自らは学問教授の道に進んだ。文化2年(1805)長福寺学寮を借りて開塾、その後「成章舎」、「桂林園」を経て、文化14年(1817)淡窓36歳の時に、自ら幼い頃に教育され、俳人として著名であった伯父月化の居宅・秋風庵の隣に塾を構え、「咸宜園」と呼んだ。咸宜園の「咸宜」とは『詩経』からとった言葉で、「ことごとくよろしい」という意味である。
 入門時に身分・年齢・学問を問わない「三奪法」、学力に基づき等級別に評価した「月旦評」、門下生に塾の運営に関わる役割を与えて社会性を身につけさせる「職任制」などの独自の教育手法が評判となり、全国から多くの門下生が集まった。現在も4,600名を越える「入門簿」が残されており、著名な人物に、大村益次郎、長三州、上野彦馬、清浦奎吾、横田国臣らがいる。このほかに淡窓の日記などに名前が記された門下生を加えると、咸宜園で学んだものは5,000名を超える。門下生の多くは咸宜園で学んだ後に、藩校の教授となったほか、自ら私塾を開いた。あるいは、明治学制発布後に学校の教師となり、近代教育の発展に貢献した。咸宜園は淡窓没後も弟や義子、門下生に引き継がれ、明治30年(1897)に閉熟するが、江戸時代の私塾としては最大の規模を有していた。
 咸宜園の建物は、門下生が増え、塾の規模が拡大するに従って増加した。発掘調査の成果や残された絵図等から、門下生の学びと生活の場や、塾主の居宅・書斎を含めた多くの建物が確認された。道を挟んで東側に講堂・東塾・秋風庵・遠思楼など、西側には考槃楼・西塾・南塾などがあったが、明治以降、次第に失われていった。その後、咸宜園蔵書を保管するための書蔵庫や淡窓図書館が敷地内に建設され、現在は東側に秋風庵・遠思楼・書蔵庫(移築後修理)・井戸屋形・外便所が残り、西側に井戸が現存している。       (説明文より)

豆田町を散策

暑いよ~お昼は蕎麦です。

 薫長酒造資料館

 岩尾薬局

 広瀬資料館 お休みでした

やはり・・・・雨が降ってきました。雨男です。

 


旧豊後森機関庫・機関庫転車台

2015-04-26 16:54:08 | 散歩・旅  九州

旧豊後森機関庫・機関庫転車台を見学に行きます。前もって玖珠町役場に連絡をして見学許可証を発行してもらいます。ヘルメットを借りてようやく見学ができます。

玖珠町役場に行って申し込み用紙に住所を書き込んでいたら『えっーーー』って職員の方が。なんと何年か前まで西東京市に住んでいて、そして住所も近いもぉびっくりです。

『なんで玖珠町に来たんですか?』って言われたので『旧豊後森機関庫が見たくて』って言ったら喜んでくれました。知らない町で知らない人なのに近くに住んでいたっていうだけで親近感がわくってすばらしいね

『ここから近い慈恩の滝もいいですよ』と教えてくれたので日田に向かう途中に寄ることにしました。

 

旧豊後森機関庫・機関庫転車台

物言わぬ歴史の証人として、JR豊後森駅のそばに建つ扇形の豊後森機関庫及び転車台。現存する機関庫としては九州唯一のもので、2009年に経済産業省の「近代化産業遺産」に認定され、2012年に国の登録有形文化財に指定された。天井に残るSLの煤煙の跡や壁面の機銃掃射の弾痕が当時の状態のまま残されている。

 

見たかったんです!

豊後森駅  2013年に改修工事があったみたいです。

ホームに鳥居があるんですがなんででしょう?

    

  

慈恩の滝に向かいます。

 

慈恩の滝の由来

 今からおよそ千数百年の昔、この滝壺の中に大蛇が住んでいた。或る年の麦の実る頃、夜中にこの大蛇が滝壺より這い出して麦畑の中でのた打ち回り農民の汗による麦を荒らしてしまいわずか一夜で近郷の麦畑はほとんど全滅に近い被害を受けその年の秋の実りの田もこの大蛇に荒され其の後数年間、田畑を荒され続けた。
 このため農民はホトホト困り八方手を尽くし何とか大蛇を鎮めんものと、或る時は、加持祈祷に、また或る時は、滝つぼに竹網を張るなどしたがその甲斐もなく大蛇に荒され農民は食べる物も無く困窮の果て、先祖より受け継いだ田畑を捨て、家を捨てるものが続出しこの地域を離れていったのである。
 こんな年の‥‥夏の夕暮れ時、地域を通りかかった旅僧がこの有様を聞き、及ばずながら経の攻力により大蛇を鎮めてみようと、その夜折から登る月光の下滝飛沫のかかるあたりに座して一身に読経を続けておりますと、やがて急に滝壺に逆渦巻が起り、波の中からすさまじい形相の大蛇が姿を現したのである。
 これを見た旅僧はそのような浅ましい姿では経を聞くことは出来まい。「心を和らげ、姿を変えて現れよ」と、諭した。すると大蛇は、ザブンと水中に身を沈め、しばらくして今度は頭だけ大きく胴体は筆の軸くらいに痩せ細り長さは二丈(7m)あまり見るもあられな姿で水の上に現れた。
 旅僧は大蛇に向かい法を説きながら、「何故に田畑を荒すのか」と問いただすと、大蛇は頭を胴の方に向けて曲げ舌の先で体中を舐め始めたので、旅僧は大蛇に近づき、よく見ると、鱗の間に全身虫が規制しているのを発見した旅僧はこの大蛇を哀れに思い、その胴体の上を経文で撫でさすると、大蛇は目を細め旅僧のなすままに静かにしていて、病気もよくなりその後は一度も田畑を荒すことなく稲や麦も実り農民の喜びは大変なものであった。
 農民はこの旅僧のために一つの寺を建立し慈恩寺と名付け寄進した。しかし慈恩寺は戦国の騒乱でで大分府内の領主大友宗麟の軍により滅失したのである。(説明板より)

 

 このあと日田の咸宜園に向かいます。

 


京都大学 地球熱学研究施設から別府駅へ

2015-04-11 21:48:46 | 散歩・旅  九州

京都大学 地球熱学研究施設  

国の登録有形文化財に指定されている

 

ここに上って見よう!ということになって・・・

のぼって見ました!ビーコンプラザのタワー展望台からの眺めです。雨が降っていなくてよかった

正面から見たら左右対称かと思っていたら、上から見たら右側が後ろに長いんですね。

別府の駅前

雨が降ってきまして『あぁ~やっぱり』って感じで、どしゃ降りになってしまいました。

 

 


的山荘(旧成清家日出別邸)  

2015-04-04 11:25:41 | 散歩・旅  九州

的山荘(旧成清家日出別邸)

平成26年に国の重要文化財に指定

的山荘(てきざんそう)は、馬上金山(現・杵築市山香町)の採掘で巨額の富を築いた成清博愛(なりきよひろえ)が築いた旧邸宅で、別府湾を一望する広大な敷地に近代和風建築の粋を凝らした豪華な家屋、そして別府湾や高崎山を借景とした見事な庭園が広がります。大正3年3月に着工、大正4年1月に落成し、総工費は25万円(現在の価値でおよそ7~8億円)と記録されています。

「的山」とは成清博愛の雅号で、波瀾万丈の人生を生きた彼の願いが込められています。数々の炭坑や金山の採掘事業に失敗し、最後の望みとしてたどり着いた馬上金山で「山をあ(的)てたい」と名付けたといわれます。のちにこの邸宅は、彼の偉業を讃え「的山荘」と名付けられました。

現在は日出町の指定管理施設として、城下かれい・日出の鱧をはじめ、関アジ・関サバ、ふぐ、豊後牛など地産地消を志した割烹料理をご賞味いただけます。

 3,670坪の敷地に伝統的な和風建築方法を継承する約300坪の邸宅。政財界の社交場でもあった的山荘は、3代目の信輔の時、城下かれい料理を提供する料亭として全国にその名が知られ、皇室をはじめ多くの著名人も訪れるようになりました。

 平成3年には「的山荘(附日本庭園)」として日出町の有形文化財に指定され、また、平成26年には「旧成清家日出別邸」として国の重要文化財に指定されるなど、建築以来約1世紀、的山荘は現在も日出町の近代史のシンボルとして存在しています。  (ひじナビより)

    

 ランチを予約しておきました。

 


出津文化村  (長崎県)

2014-07-17 21:45:40 | 散歩・旅  九州

重要文化的景観の範囲は、長崎市西出津町、東出津町の全域及び新牧野町の一部の面積約456.1ヘクタールです。この範囲には、「単位景観」という8つの景観のまとまりがあり、石積集落の特徴をよく表しています。   (パンフレットより)

重要文化的景観

長崎市外海の石積集落景観

外海地域は角力灘(すもうなだ)に面した西彼杵半島の中心部に位置しており、標高400m内外の起伏のある山地の間を流れる出津川によって作られた谷地形が発達しています。

海岸付近は急傾斜の断崖が多く、平地はごくわずかであるため、集落は1か所にまとまっておらず、河川流域部のわずかな平地や、北西の季節風を避け、水脈に沿って造られた斜面地などに点在しています。

幕末に作られた絵図には、住居や畑地、墓地などを一つの単位として点在する集落の姿が描かれており、現在もなお、こうした集落構造が継承されていることも外海の特徴です。

ド・ロ神父記念館

    

 ド・ロ神父記念館は、昭和43年11月に開館しました。

 深い人類愛の精神と素晴らしいフロンティア精神をもって、外海地方の産業・社会福祉・土木・建築・医療・移住開拓・教育文化などに奉仕したフランス人宣教師マルコ・マリ・ド・ロ神父の遺品を一堂に収めて、偉業・道徳を顕彰することを目的として記念館を設置しました。記念館は明治18年(1885)にド・ロ神父が鰯網工場として用いるために自ら設計・施行した建物で、翌年からは保育所として使用されました。昭和42年2月に長崎県の史跡に指定され、平成15年12月に旧出津救助院の一部として、国の重要文化財に指定されました。建物は、木骨煉瓦造、平屋建で、上屋にキングポストトラス(三角形をつくって構造を構成するトラスのうち、中央に真束と呼ばれる支柱の立っている形式)を架けた明治時代の洋風建造物として特異な建物で、平成14年3月に創建時を偲ばせる明治中頃から昭和初期の姿に修復されました。

 ド・ロ神父は1840年にフランス・ノルマンディー地方のヴォスロール村に生まれました。バイユの神学校を卒業後、パリ外国宣教会に入会、1868年(慶応4年)宣教師としてだけではなく石版印刷の技術を伝えるために28歳で来日しました。74歳で亡くなるまでの46年間を日本で過ごし、そのうち33年間を神と外海の人々に仕えようと意を尽くし、貧しく厳しい生活を強いられている人々の魂と肉体を救うため、社会福祉や産業開発などに力を尽くしました。

 ド・ロ神父は、建築技術にも造詣が深く、明治8年完成の旧羅典神学校(国指定重要文化財)をはじめ、教会や各種施設の建築を手掛けています。ド・ロ神父の建築は、風土に密着した洋風建築で、堅牢で実用的なところに特色があります。

 旧羅典神学校、出津協会、大野協会、旧出津救助院は世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産に選ばれています。

 

旧出津救助院 

 国の重要文化財に指定されている旧出津救助院は、ド・ロ神父が村人の窮状を救うために資材を投じて設立した授産・福祉施設で、後に修道会に発展します。明治16年(1883)に授産場が竣工、その東側にマカロニ工場を配し、道路に面する一部は、神父の独自の工法で築かれた「ド・ロ堀」があります。続いて、鰯網工場(現ド・ロ神父記念館)が明治18年に竣工しました。授産場は、木造及び石造二階建寄棟造りで一階をマカロニ・ソーメン製造・染色・搾油作業場、二回を機織工場や修道女の生活の場、礼拝堂として用いられ、使用された機械器具はド・ロ神父がヨーロッパ諸国から購入したものでした。この3棟の建物は、明治初期の授産、福祉施設という他に例をみない貴重な遺構です。また、我が国近代における西欧建築技術受容の一端を知るうえで重要で、歴史的価値が高く、顕著な地方的特色を有する文化財です。

 出津教会は明治15年(1882)、ド・ロ神父の設計・施行により建てられた教会で、住民の心のよりどころとなっています。創建時から2回の増築を経て現在の形になりました。ド・ロ神父はこの教会を建てる時にも、台風の被害を避けるために屋根を低くしたり、視線を祭壇に向けさせるために平天井にするなど独自の工夫を凝らしています。

外海歴史民俗資料館

 

外海のキリシタン

 1549年、フランシスコ・ザビエルが、鹿児島に渡りキリスト教の布教を始めてから、西彼杵(にしそのぎ)半島は長崎県平戸に次いで、早くからキリスト教が栄えたところである。当時村人たちのくらしは貧しく、交通も不便で恵まれない環境の中にありながらも、自然の幽玄な美しさがあり、そこに住む村人たちの精神活動は極めて旺盛であったと伝えられる。
 なかんずくここ外海(そとめ)は、宣教時代、迫害時代、そして明治六年(1873)キリシタン禁止高札撤去までの約250年間、長い険しい苦難の歴史に彩られている。
 藩主大村純忠が、1562年、トーレス神父に内海の横瀬浦を開港して翌年に授洗(この時、日本初のキリシタン大名となる)した。純忠に続いて家臣たちもキリスト教に改宗した。間もなく後藤貴明のクーデターで横瀬浦が焼打ちされ、宣教師たちの普及活動も挫折した。
 二年後、宣教師たちは福田港を根拠地として、長崎外海地方にキリスト教を広めていった。
 1592年、外海では神浦(こうのうら)の教会が中心となり、城主神浦正信、その子息正房もキリスト教になった。その頃は大村領全域がキリスト教化していた。
 1614年、徳川家康の迫害によって多くの宣教師は投獄、火刑、斬首、熱湯責め、穴吊りなどの激しい拷問を受けて殺された。
 1630年には外海の池島、出津、黒崎、永田のキリシタンが捕らえられ、火刑や斬首の刑を受けた。幕府は1636年から西彼杵半島の海岸に小番所を設けて、外国船の取り締まりとキリシタンの動きを監視した。
 キリシタンは潜伏し、あるいは殉教する中で、絵踏みや間引きによる幼児殺しまで強要された。そのため多くのキリシタンは財産を捨て、信仰と自由の安住の地を求めて、五島、平戸へと逃散した。
 西彼杵半島を布教した最後の宣教師は、金鍔次兵衛(きんつば じひょうえ。修道名:パードレ・トマス・デ・サン・アウグスチン)といわれる。
 その後宣教師は日本にいなくなった。キリシタンたちは指導者を失い、ひそかにコンチリサン(キリシタン用語で、痛悔の祈り)を唱え、バスチャン暦を大切に守り、バスチャンの予言を信じながら、肉体と精神的非道な拷問に耐えてひたすら信仰を守り続けた。1868年、太政官のキリシタン禁令が公布され再び弾圧が始まった。肥前佐賀藩に属する外海のキリシタンは、高島炭鉱、深堀の堤防工事など強制労働にかり出されたり、算木責め、吊り責め、たたき責めなどのむごたらしい拷問にかけられた。
 1871年、岩倉具視一行のヨーロッパ使節団に向けられた諸外国の人道上の問責と道理の説得に反省し、1873年やっと日本にキリスト教禁止の高札がおろされたのである。
 外海はキリシタンの母郷といわれ、迫害に耐えたキリシタンの子孫たちが、宣教師の到来を待ちうけて、自由に明るい信仰の灯火を灯し続けて今日に至っている。
 ここに展示するキリシタン資料は、外海キリシタンたちの永い苦難の時代の貴重な遺品である。

 

外海から長崎に向かう途中で入った回転すしやさんで食べた美味しかった貝・・・なんだったかなぁ・・・

 


平戸   松浦史料博物館から海上自衛隊佐世保史料館へ(長崎県)

2014-07-15 07:44:33 | 散歩・旅  九州

 松浦史料博物館は、昭和30年(1955)10月西海国立公園の指定と前後し、松浦家39代 陞(すすむ)氏により資料等を寄贈され設立されました。建物は鶴ヶ峰邸と称して明治26年(1893)に建てられた当主の私邸であったものです(県指定有形文化財)。

 博物館敷地周辺は、鎌倉時代の平戸松浦氏の本拠地です。またオランダ・イギリス貿易時代は藩主の邸宅が置かれており、ウィリアム・アダムズをはじめ各国の要人が出入りした歴史ある場所です。       (パンフレットより)

 

 天保2年(1831年)丹波篠山城主青山家の息女イサ姫が、平戸藩主松浦(まつら)家に輿入れの際の婚礼道具のひとつ。

 

 

  

在長崎日蘭貿易絵巻   (長崎県指定文化財) 平戸オランダ商館は、1641年に 長崎出島に移転した。出島のオランダ商館の様子を描いている。

平戸の海外交流関係年表


1498年 ヴァスコ・ダ・ガマ、インドに達する
1534年 イエズス会、設立
1542年 中国人海商・王直、この頃平戸に本拠を置く
1543年 ポルトガル人、種子島漂着、鉄砲の伝来
1549年 フランシスコ・ザビエル、鹿児島に来る
1550年 ポルトガル船、初めて平戸に入港、ザビエル平戸に来る
1557年 王直、明で捕まる
1558年 1568年まで、倭寇、明沿岸、東南アジア各地に猛威を振るう
1561年 平戸港で宮ノ前事件発生、ポルトガル人多数殺害される
1565年 ポルトガル船、福田港(大村領)入港、平戸の兵船、福田港を襲撃する
1587年 豊臣秀吉、伴天連追放令を発令
1600年 リーフデ号、豊後に漂着。イギリス、東インド会社設立
1602年 連合オランダ東インド会社(V・O・C)設立
1605年 リーフデ号船員を平戸より帰還させる
1609年 オランダ船、平戸入港、商館を設置する
1613年 イギリス船、平戸入港、商館を設置する
1616年 オランダ・イギリス貿易を平戸と長崎に限定される
1619年 平戸のオランダ・イギリス同盟設立
1620年 リーフデ号生存者ウィリアム・アダムズ(日本名 三浦按針)平戸で没
1623年 イギリス商館、閉鎖
1624年 鄭成功(ていせいこう)、平戸に生まれる
1635年 唐船貿易を長崎のみに限定される
1636年 長崎出島完成、ポルトガル人収容
1637年 島原の乱起こる
1639年 ポルトガル人、日本追放。オランダ人及びイギリス人との混血子女とその母親をバタヴィア(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)に追放
1640年 平戸オランダ商館の破壊を幕府に命じられる
1641年 平戸オランダ商館の長崎出島への移転を命じられる
1648年 鄭成功、江戸幕府に明朝回復の援助を求める
1662年 鄭成功、台湾のオランダ軍排除、同年没
1715年 近松門左衛門「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」著す
1782年 平戸オランダ商館時代のオランダ船錨、海中より引き揚げられる

 

 狩野探幽 筆   江戸時代

 

生月鯨太左衛門(1827.4.16~1850.7.3)

 肥前国松浦郡(現在の長崎県平戸市生月町)出身の江戸時代の力士。身長227cm、体重169kg。(ちなみに横綱白鵬関は192cm・158kg。映画スター・ウォーズのチューバッカは約230cm)

またまた坂を・・・・・今度は下りまして

平戸港に

   観光客の人と写真を撮ってくれるそうです。暑いのに長袖!

佐世保に向かいます。 

このあたりからずーーーっと歌う声が聞こえてくるのです。

 途中でみかけた家  まだまだ聞こえています

 信号で止まった時に声がよりいっそう大きく聞こえました

 後ろを走っている男の人が歌っているすでに一時間くらい

佐世保に着く少し前に左へ曲がって行ってしまいましたが、すごい声量でした。

 

 

 海上自衛隊佐世保史料館   愛称 セイルタワー

海上自衛隊及び大日本帝国海軍に関する史料館です。内容は充実しています。無料で見学ができます。 

 

 

 


平戸  ザビエル記念教会   (長崎県)

2014-07-11 15:58:31 | 散歩・旅  九州

 寺院と教会の見える風景

階段と坂を上ると見えてきました 平戸ザビエル記念教会

 

     

モスグリーンの美しい建築が平戸の青い海と空にとてもあっています。

石段、坂をまたまた歩きます

 

樹齢400年(推定)の蘇鉄   豪商の庭に植えられていたといわれる。

 

平戸の六角井戸     長崎県指定文化財   明(中国)の商人たちが使っていたといわれる。

 

 暑さでへとへと。。。。。。それとも歳のせい?

松浦史料博物館に向かいます。

 

 


平戸へ   (長崎県)

2014-07-10 17:57:46 | 散歩・旅  九州

歴史とロマンの島 平戸

長崎県の北西に位置する平戸市は400年ほど前、日本で最初の西洋貿易港としてイギリスやオランダとの交流が始まった場所です

 

 オランダ街道ここに始まる

日本初の和蘭商館開設の地・平戸、その後200年をこえて和蘭商館が置かれた長崎・出島。オランダにとってゆかりの深い二つの地点を結ぶ道路を、蘭日交流400周年を記念してオランダ街道と命名されたことは、両国の歴史に新しいページを書き加えるものである。
この趣旨に心から賛同すると共に、蘭日両国の交流がさらに発展するよう記念して、この記念碑を建立する。     

2000年4月21日

オランダ王国 ウィレム・アレクサンダー皇太子殿下  

 

 

平戸に古くから伝わる豊年祈願の踊りの「平戸ジャンガラ」が、市内9地区で行われます。華やかに飾った簑笠を頭にかぶった踊り手と、腰に小太鼓を結びつけた囃子手の組が、笛や鉦、太鼓の音が響き渡る中を軽やかに踊り歩きます。国の重要無形民俗文化財に指定されています。    (紹介文より)

 

平戸に着いて、まさか「平戸じゃんがら」が見れるとは思っていなかったので、なんだか嬉しくなりました。

 

 平戸オランダ商館

 平戸オランダ商館は、1609年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸城主松浦隆信公の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点です。オランダ商館長日記などの記述によると、当初は土蔵の付属した住宅1軒を借りて始まり、その後、貿易が拡大するに従い、1612、1616、 1618、1623、1637、1639年に順次施設の拡大整備が行なわれました。特に、タイオワン事件(台湾での中国貿易をめぐるオランダ商館との紛争事件)によって1628年から5年間交易が途絶えた後の1637年と1639年に建設された倉庫は規模が大きく、充実した貿易の象徴でした。
しかし、1640年11月9日、将軍徳川家光の命を受けた大目付井上政重により、1639年建造の倉庫にキリスト生誕にちなむ西暦の年号が示されているとして、当時の禁教令の下、全ての建物の破壊が命じられました。
1641年5月には、商館は長崎出島へ移転。これによって、33年間の平戸オランダ商館の歴史に幕が下ろされました。以降、跡地は平戸の町人地となり、「御船手屋敷」(船を操る人たちの屋敷)が建ち並びました。 江戸時代の絵図をみると、井戸に「阿蘭陀川」、塀に「阿蘭陀塀」と書き込まれており、商館の遺構のいくつかは、江戸時代を通じてオランダの名を付して呼ばれていました。
1922年、跡地は「平戸和蘭商館跡」として国史跡の指定を受け、1987年からは本格的な発掘調査が開始されました。その結果、文献史料等から断片的にしか知ることのできなかった商館が、歴史的な事実として確かめられつつあります。
平戸の歴史と文化を考える上でも重要な史跡をよりわかりやすく見てもらおうと、現在、商館施設として充実した1640年頃のオランダ商館の建物復元、環境整備を進めています。この時代は、江戸時代初期の国際貿易、キリスト教の布教・禁教など、わが国の対外政策の歴史を考える上でも重要な時期にあたります。海の町・平戸の歴史を体験できる場として、また、平戸瀬戸をのぞむ景勝地の憩いの場として、「よみがえる平戸オランダ商館」にご期待ください。            (サイトより引用)

 

 平戸城

オランダ商館から見える平戸城

 

 

 

寺院と教会の見える風景

寺院に重なるように天主堂の尖塔が望まれる場所。港から見上げると光明寺。その下が瑞雲時。

異国情緒がたっぷり。

長崎県は坂が多いってほんとです。

まして暑いと・・・

 

 

 坂を上って行くのがけっこう大変です。10歳若ければ違うのかなぁ