細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

西本願寺

2012-09-17 22:05:06 | 散歩・旅  京都府

西本願寺    

浄土真宗を開いた親鸞ゆかりの寺。親鸞の死後、門徒たちがたてた大谷廟堂から発展し、1591(天正19)年、現在の場所にうつされました。

国宝・重要文化財の伽羅が建ち並ぶ浄土真宗本願寺派の本山で、世界遺産に登録されている。

   

唐門

境内南端に建つ桧皮葦の四脚門。伏見城から移したと伝わり、随所に豪華な彫刻と飾り金具が施されている。丹念に見ていると日が暮れるのを忘れることから、日暮門ともいう。

    

  

1272(文永9)年、親鸞聖人の末娘覚信尼が聖人の遺骨を祀ってたてた大谷廟堂。室町時代に発展を遂げ、戦国時代には一大勢力を誇ったが、対立する比叡山や日蓮宗徒、織田信長らによって焼かれ、越前・山科・大坂石山などを転々とした。1591(天正19)年に豊臣秀吉が寄進した現在地へ移り、1602(慶長7)年の本願寺分立以降はその所在地から西本願寺と呼ばれ、現在に至っている。

飛雲閣  ここは事前の申し込みがないと入れなく、見学できず残念でした。

いつものようにです。

 

 

 


二条城

2012-09-15 22:34:21 | 散歩・旅  京都府

   

二条城は、1603(慶長8)年、徳川家康が、京都御所の守護と自身の宿泊所を目的としてつくり、三代将軍家光によって完成されたものです。1994年にはユネスコの世界遺産に登録されています。

徳川家康が豊臣秀頼を謁見し、幕末には徳川慶喜が大政奉還を発表するなど、数々の歴史の舞台となった城。

16800平方メートルある本丸の中には、五層の天守閣や15代将軍慶喜の住居としてたてられた本丸御殿などがありました。天守閣は焼失してしまい、現在の本丸御殿は、京都御所今出川御門の中にあった旧桂宮邸の御殿を、1893~94(明治26~27)年にかけて本丸内にうつしたものです。

二の丸御殿は武家風書院造りの代表的なもので、車寄せにつづいて遠侍の間、式台の間、大広間などとよばれる、6棟が東西から南北にかけて立ち並んでいます。建物面積は約3300平方メートル、部屋数は33あり、畳は800畳あまりもしかれています。唐門を入ると、豪華に装飾された車寄せがみえます。とくに欄間の彫刻はすばらしく、表と裏とでデザインが変えられています。牛車で中にはいれるような構造にもなっています。

   

やっぱり夜は 京都のライオンに行ってみました。


六波羅蜜寺~丸久小山園

2012-09-13 14:37:01 | 散歩・旅  京都府

『空也上人がいた』山田太一著 を読んで来たかったところ。

六波羅蜜寺は空也上人の創建になる。 平安時代中期のことである。

寺伝によれば空也上人は醍醐天皇(在位897~930)の第二皇子として生まれたが、これにも諸説があり、また上人は父母のことも郷里のこともいっさい口にしなかったというから、確かなことは分からない。ただ若いころから優婆塞として諸国をめぐって苦修錬行しながら、道を直し、川に橋をかけ、野に捨てられた屍があれば阿弥陀仏を称名して供養するという生活をしていたらしい。21歳のころ、尾張国分寺にて出家し、この時以来、『沙弥空也』と自ら名乗り、生涯変わることがなかった。

出家の後も奥州や四国などで自らの修行と民の教化を重ねた空也上人は、天慶元年(938)、京に上った。ここでもまた、道を修復し、橋を造り、井戸を掘りながら、病人や貧者に施しをなし、さらに都の市に立って称名念仏を説いた。その姿は、粗末な衣を身にまとい、左手を鹿角をかぶせた杖を持ち、右手に撞木を持って、胸に下げた鉦を打ちながら阿弥陀仏の名号を唱える空也上人立像に、見事に写し出されている。これもまた、踊躍念仏のありさまを伝えてもいる。都人は、そんな空也上人を『市聖』とか『阿弥陀聖』と呼んで敬慕したという。

空也上人が市の門に書き付けたという歌が「拾遺和歌集」に残されている。

   ひとたびも南無阿弥陀仏といふ人の蓮の上にのぼらぬはなし

  

現在の本堂は1969(昭和44)年に解体修理されたもので、その時には、創建当時のものとおもわれる梵字などが書かれている瓦や、『今昔物語集』などにもしるされている多数の泥塔などが出土しました。

六波羅蜜寺は、源平両氏の興亡、北条・足利とつづく時代に、戦争による火災によって、本堂以外は焼けてしまった。

貴重な文化財も多く、平安・鎌倉期の美術品の宝庫ともいわれています。重要文化財に指定されている空也上人立像は運慶の四男、康勝の作です。左手に鹿の角のつえをつき、念仏をとなえる口からは、六体の阿弥陀仏が姿をあらわしています。

空也上人立像の足の指に感動しましたが、清盛座像の玉眼をはめた目に圧倒されます。なんで重要文化財にならないのかと思ってしまうほどです。

 

丸久 小山園  西洞院店

当店が丸久 小山園さんの抹茶を販売しているので、ここのお店に行ってみたかったんです。

   

 

夜はやっぱり  一日のうちで一番うれしい時間です。

 

 

 

 


桂離宮

2012-09-08 17:54:16 | 散歩・旅  京都府

桂離宮 

後陽成天皇の弟・智仁親王に始まる八条宮家の別荘。

 

   

   

   

   

   

    

瓜の産地として古くから知られていた下桂の里は、平安時代には洛外一の月の名所として別荘がさかんに造られた地であった。現在桂離宮があるあたりは、その昔、藤原道長の所領で、道長の山荘があったとつたえられているところだ。

その後、この地は鎌倉時代に近衛家の所領となり、以後いくつかの変遷を経て、17世紀初頭八条宮家の所領となった。以来、江戸時代を通じて八条宮家の別荘地であったが、八条宮家は1881(明治14年)、第十一代淑子内親王の薨去により、後継者のないまま絶えた。桂の別荘もこれにともない1883(明治16)年、宮内省(現在の宮内庁)の管轄下に置かれ『桂離宮』として、今日に至っている。

桂離宮の敷地は周辺の農地を含めると約二万坪余りあり、かつて桂川から水を引き入れた池を中心に、西側には『古書院』『中書院』『新御殿』などからなる御殿群が並び、周りに『松琴亭』をはじめとする『笑意軒』『賞花亭』『月波楼』の茶屋、また『御腰掛』や持仏堂である『園林堂』などが点在する。

1993(昭和8)年5月4日、ドイツの著名な建築家ブルーノ・タウトが桂離宮を訪れた。彼は日記に、桂離宮の建物や庭について「泣きたいほど美しい印象だ」と記している。江戸時代、公家や文人たちによって高い評価を得ていた桂の別荘は、当時から見学希望者が絶えなかったが、タウトの著書により、その名声は世界的なものになったのである。

わが国を代表する文化財である桂離宮も創建以来三百有余年を経て、そこここに痛みが目立ち始め、1976(昭和51)年から15年をかけて大修理が行われた。現代に生きている伝統の技を駆使し、もてる限りの新技術を投入して、桂離宮は、今、すがすがしく蘇っている。    『京の離宮と御所』より                               

   

春、秋、冬にも訪ねて行きたいところです。

帰りに駅のそばの蕎麦屋さんで蕎麦を食べました。

桂離宮・京都御所・仙洞御所・修学院離宮は事前の参観申し込みが必要です。インターネットからもできます。


京都御所

2012-08-31 16:35:34 | 散歩・旅  京都府

 

 

蛤御門     江戸時代末期の元治元年、この門の周辺で長州藩と、御所の護衛に当っていた会津・薩摩・桑名との間で激戦が行われました。この戦いが「禁門の変(蛤御門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っています。この門は新在家門といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。

 

諸大夫の間  格式の高低で部屋が違うそうです

 

新御車寄(しんみくるまよせ)    1915年(大正4年) 大正天皇の即位礼に際して、天皇皇后両陛下のための玄関として建てられたものである。

左近の桜  右近の橘

 

   

   

  

どんどん雲行きがあやしくなってきて。。。どしゃ降りの雨になってしまい、あわてておみやげ屋さんに入ってお昼ご飯を食べました。