旧松本高等学校本館及び講堂
国重要文化財
自由な校風、斬新なデザインの木造洋風校舎
校章にこめられた「九高」への思い
旧制松本高等学校は大正8年(1919)に、旧制松本中学校東校舎を仮校舎として開校し、翌年に校舎が現在の地に開校して移りました。開校にあたっては、それまで国立の高等学校の8校が第一から第八までの、いわゆるナンバースクールであったので、八高に次ぐ九高として開校したいとの地元の強い願いがありました。しかし、国の方針により地名が冠された松本高等学校という校名となりました。旧制松本高等学校の校章には、9本の放射状の線があしらわれており、ここにも当時の人々のナンバースクールへの強い思いがうかがえます。
大正時代の洋風建築の代表例
本館・講堂の建設工事は、本館が大正9年(1920)、講堂が大正11年(1922)に竣工しました。本館・講堂は、明治時代中期における旧ナンバースクール高等学校建設の後を受けて、大正時代前期に高等学校が飛躍的に増設された時期の建築様式の代表例です。これは西洋建築様式を簡略化して木造建築に応用したもので、日本の公共建築に多く用いられました。大正時代前期の木造洋風建築例としては規模も大きく、保存も良好です。学校教育史及び学校建築史の上でも、大正時代前期の旧制高等学校の状況を良好に伝えています。
キャンパスから市民の学びの場へ
戦後の学制改革で旧制松本高等学校は信州大学となり、昭和48年(1973)3月まで使用されました。昭和52年(1977)には松本市がこの校舎を購入しましたが、当初は南校舎部分を解体する予定でした。しかし市民団体からこの校舎が貴重な財産であり、社会教育面での活用をはかってほしいとの要望がありました。これをうけて松本市は校舎を公民館・図書館・博物館(旧制松本高等学校記念館)を含んだ「あがたの森文化会館」として保存・活用することとしました。平成5年(1993)には校舎に隣接して新たに旧制高等学校記念館が開館しました。旧制松本高等学校をはじめ全国の旧制高等学校に関連した資料が展示されており、当時の自由な校風をうかがうことができます。
現在では、あがたの森文化会館として生まれ変わった校舎は市民の生涯学習活動の拠点となっています。かつてのキャンパスは、「あがたの森」の通称で親しまれ、市民の憩いの場となっています。 (松本市文化財ホームページより)
深志神社
松本はかり資料館
竹内度量衡店は、度量衡専門店として約80年、中南地方の需要を一手に引き受け圏内随一の営業実績を上げました。
昭和61年に営業をやめたのを機に、資料と建物を松本市が譲り受け、はかり資料館として平成元年(1989年)に開館しました。 (紹介文より)
立石 清重
旧三松屋蔵座敷を手がけた、立石清重(文政十二年~明治二十七年、1829~1894)です。清重は、松本市北深志(現松本市城東)の地で、擬洋風建築の棟梁として活躍した人物です、代々、松本の大工棟梁を務めていた立石家の生まれで、人々の信望が厚く、とても腕のいい棟梁であったといわれています。
清重は、旧開智学校や長野県中学校松本支校(旧松本中学校)を始めとする県内の学校や、松本裁判所、長野県県会議事堂といった数々の大建築を手がけています。当時、先進的であった擬洋風建築の手法を学びに、東京の開成学校や東京医学校(ともに東京大学の前身)を見に行くなど、進取の気性に富んだ人物でした。また、自らが手がけた建物に関しての詳しい記録を残したほか、全国各地で見聞した建物のスケッチを残すなど、研究熱心な面も垣間見ることができます。こうした工事記録やスケッチは、現在では当時の建築を知る貴重な資料群となっています。
清重の建物は現存しているものが少なく、その中でも個人所有の建物はさらに珍しいものといえます。ギヤマンやトタンといったまだ高級であった部材を使うなど、細部にまでこだわりを持って作られたこの建物は、清重の意匠を存分に味わうことができます。 (紹介文より)
松本市時計博物館
懐中時計から柱時計まで、和洋の古時計を集めた博物館です。
昭和49年(1974年)、本田親蔵氏は生涯かけて収集した貴重な和洋の古時計コレクションを、人々に永く親しんでいただきたいと願い、松本市に寄贈しました。(紹介文より)
蓄音機でSPレコードのミニコンサートを聴きました。
このあと・・・・
とってもいい天気だったのが・・・大雨やっぱり雨男なんですかね
松本市には無料レンタサイクルがあるというので、松本城を見学してから借りることにしました。
国宝 松本城
江戸時代中期の松本城の様子
本丸と二の丸からなるこの中枢部である。
本丸には、面積約2730平方メートルの本丸御殿(政庁)と五重の天守閣がそびえていた。
二の丸には、東から面積約2330平方メートルの二の丸御殿(藩庁)、面積約700平方メートルの古山地御殿(城主私邸)、藩の籾蔵、幕府の八千俵蔵(備蓄米2000石貯蔵)、焔硝蔵が並び、また、外敵に備えて五棟の隅櫓がおかれていた。
なお、現在二の丸御殿跡は平面復元されている。
松本城と城下町
松本城はもと深志城と呼ばれ、中世には小笠原氏の一支城であった。そのころすでに今の二の丸東側には市町が形成されていたが、西方一帯は沼地であった。本格的な近世城づくりが始まったのは1580年代で、城郭と城下町一体の都市計画を推進したのは豊臣大名としてこの地に入った石川氏である。天守を建てたのは二代康長の時で1593~94年と推定される。
三重の水堀と塁を巡らして郭の縄張りを行い、本丸と二の丸を内郭とし三の丸を外郭とした。この広さはおよそ39万平方メートルで、内郭には天守、御殿、蔵など城主と藩の施設を置き外郭は城主の親衛隊だある上級家臣の屋敷地とした。総延長3.5キロの塁上には透き間なくなく土塀をかけ、全面は完全囲繞(いにょう)の水堀で、厳重な城門を構える虎口(枡形と馬出し)だけが城内への通路である。
城外は南から北へ通る善光寺街道に沿って城下町を割り、その東側に寺社を配置した。城下の町筋は格子状のものより鍵の手がT字形交差が多い。居住区分は厳格で士と町人の混住はまったくなく、士屋敷地は木戸の内と外に分けて中級と軽輩の居住地とし、町人地は親町3町、枝町10町、24小路にランク付けして、身分と職業によって住まわせた。
レンタサイクルを借りまして旧開智学校へ向かいます。
旧開智学校
国の重要文化財
日本で最も古い小学校のひとつです。
ふしぎなドア
このドアは、開けても「向こう」がないドアです。
新築当初は、ここから教室棟へと続く廊下が右方向へ長くのびていました。当時はきっと、かけ算九九をそろって暗誦する子どもの声や、先生のこわーいカミナリがおちる音などが、この廊下に響いていたことでしょう。事務室で働く人たちも、活気あふれる教室の音をドア越しに聞きながら、色々な仕事をこなしていたことでしょう。
ここで地元の人オススメのお蕎麦屋さんへ向かいました。
オススメだけあって、とても美味しかったです。
このあと旧制松本高校へ向かいました。
《内容》
江戸参勤は実に行軍である。雪の和田峠越え、御殿様の急な病、行列のなかで進む御家乗っ取りの企み。着到遅れの危機せまるなか、一行は江戸まで歩みきることができるのか。江戸までの中山道で繰り広げられる悲喜こもごも。 (紹介文より)
《内容》
父の急死により家督を相続、交代寄合蒔坂家の御供頭として、江戸への参勤行列を差配することになった小野寺一路。家伝の「行軍録」を唯一の手がかりに、中山道を一路、江戸へ――。(紹介文より)
S苑の帰り道・・・
紫陽花がきれいでした。
きれいになった東京駅を見てきました
国の重要文化財
KITTEから見ている人が多いです。時間があるときに行ってみたいと思ってます。
銀行協会ビルヂング 歴史的建造物
大正5年に建てられた煉瓦造の二階建ての外壁のうち、2面を残し内側に新築のビルが建てられました。「ファサード保存」と呼ばれる保存形式の代表的な建築です。新築のビルは平成5年に建てられ、この前後、このような形での保存が全国各地に見られるようになりました。
煉瓦造の外壁から、丸の内界隈が「1丁ロンドン」と呼ばれた頃をうかがい知ることができます。 (紹介文より)
素敵ですね~
千代田区は歴史的建造物が多いです。
天気予報では雨だったのが、晴れてきたので寄り道をしました。
新江戸川公園
熊本藩主細川家の下屋敷で、1882年に細川家の本邸となった地です。起伏の変化を利用した回遊式泉水庭園で、素朴さの中に江戸時代の武家庭園の面影をとどめています。
東京カテドラル 聖マリア大聖堂
ドイツ・ケルン市の信者たちの寄進をもとに、1964年に丹下健三氏の設計で建造されました。ステンレス・スチール張りの外装で、内装には一本の柱もないというユニークでダイナミックな造りです。
椿山荘 庭園
江戸時代、上総久留里藩主・黒田豊前守の下屋敷で、明治に入り山縣有明邸宅となった地です。椿が多くあったことから椿山荘と呼ばれ、大正年間には藤田家の所有となりました。庭園の築造は19世紀末といわれています。
両国橋から見えるスカイツリー。
《内容》
平成版『砂の器』誕生! 警視庁捜査一課継続捜査班に勤務する田川信一は、発生から二年が経ち未解決となっている「中野駅前 居酒屋強盗殺人事件」の捜査を命じられる。初動捜査では、その手口から犯人を「金目当ての不良外国人」に絞り込んでいた。田川は事件現場周辺の目撃証言を徹底的に洗い直し、犯人が逃走する際ベンツに乗車したことを掴む。ベンツに乗れるような人間が、金ほしさにチェーンの居酒屋を襲うだろうか。偶然同時に殺害されたかに見える二人の被害者、仙台在住の獣医師と東京・大久保在住の産廃業者。田川は二人の繋がりを探るうち大手ショッピングセンターの地方進出、それに伴う地元商店街の苦境など、日本の構造変化が事件に大きく関連していることに気付く。これは、本当にフィクションなのか? 「地方」の現状を描くことであぶり出させる、日本の病巣! 衝撃のミステリーエンターテイメント大作! (紹介文より)