細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

冠稲荷神社

2019-11-30 15:27:54 | 散歩・旅  群馬県

群馬県太田市細谷町にある神社です

日本七社の一つだそうです

 《太田市のHPより》

冠稲荷神社(かんむりいなりじんじゃ)は、天治2年(1125)、新田義重の父である源義国によって創建されたと伝えられる古社です。社伝によると、「承安4年(1174)、源義経は藤原秀衡を頼り奥州下向の途中、この神社に参籠した際、源氏ゆかりの神社と知り、冠の中に奉持してきた伏見稲荷大明神ほか2社の御分霊・神礼を社に納めた」という故事により、以後、神社は冠稲荷大明神と呼ばれるようになったとされています。  本殿は、間口1.5間、奥行1間の三間社流造正面千鳥破風向拝唐破風(ちどりはふごはいからはふ)付きという建築様式で、棟札から享保7年(1722)12月に上棟されたことがわかります。  聖天宮は境内の古墳墳頂に建てられており、四方入母屋造正面唐破風付きと呼ばれる形式で、間口1.5間、奥行2間です。昭和56年度に屋根の保存修理を行い、桟瓦葺(さんがわらぶき)であったものを本瓦葺(ほんがわらぶき)に改めました。棟札によると、安政4年(1857)佐波郡下渕名の宮大工棟梁弥勒寺河内藤原照房(弥勒寺音次郎)の製作です。天井と周囲の彫刻は音次郎の子音八らによるもので、常陸(茨城県)の雨引観音や笠間稲荷神社本殿などの建築に携わった名彫工の技の冴えを垣間見ることができます。

 

荘厳な三間社(さんげんしゃ)流れ造り建築は、元禄3年(1690)に再建され、随所に施された極彩色の彫刻とともに元禄文化の粋を集めた貴重な建造物です(紹介文より)

6月初めの頃に行ってきました

今の時期は紅葉が見れるそうです

 

 


津久田の赤城神社本殿

2019-06-18 15:36:10 | 散歩・旅  群馬県

 

渋川市指定重要文化財(平成19年1月26日)

 平成17年の大改修をする際、彫刻を外したところ裏面に「東上州上田沢村 彫物師 関口文次郎」「安永三年午ノ七月□□」「弟子 助次良 徳次良 善次良 傳次良 願主 佐次兵衛也」の墨書銘が見つかり、本殿彫刻の時期と彫刻師が特定されました。

 

関口文次郎   享保16(1731)年~文化4(1807)年

彫刻師。勢多郡上田沢村沢入(黒保振村)に生まれる。隣村花輪村に住む石原吟八郎の門人となり、武州妻沼聖天宮の造営に当たって師匠を手伝う。1752(宝暦2)年、妻沼聖天宮本殿の完成は弟子の立場であったが師匠の片腕としてなるほどに技術を高めた。師匠から独立して在郷の彫工を育てることに努め、上田沢村に彫刻師集団を創設した。文次郎を棟梁とする彫刻師集団は郷の遠近にすばらしい作品を現代に残している。幕府より武江公儀彫刻師の名を許され、日光東照宮の修繕を命ぜられる。代表的なものとして妻沼聖天宮の本殿・幣殿・拝殿、秩父大滝三峰十一面堂の本殿・拝殿、榛名町の岩井堂観音、伊那長谷村の熱田神社、高崎市の山名八幡宮、宮城村の金剛寺、箕郷町の不動寺、藤岡市の秋葉神社、箕郷町の赤城若獅子神社、桐生市の天満宮、黒保根村の栗生神社等があり榛名町の榛名神社は最後の作品である         (案内板より)

 


旧土岐邸洋館

2014-06-02 17:58:10 | 散歩・旅  群馬県

旧土岐邸洋館

平成9年11月5日 国の登録有形文化財に登録されている。

『生活史的特徴』

 明治以降の近代日本を形成する過程で特有の役割を果たした旧大名家の近代以降の生活を知る生きた資料です。

『建築史的価値』

 我が国に遺された大正末期の遺構は少なく、こられの中でも、とりわけ時代の特徴を示している貴重なものです。

『様式的特徴』

 大正末期から昭和初期にかけて特徴的にみられたドイツの郊外別荘風住宅。屋根窓(俗に「牛の目」窓と称される)は、1階のドイツ壁仕上げと合わせ、様式的特徴の精髄となっています。

『平面的特徴』

 玄関広間の最奥に設けられた両開扉を境に、接客空間と指摘空間が明快に分離されています。

 明治期の独立した洋館から、昭和初期の文化住宅(応接空間を小規模の西洋館として玄関脇に設置する)への過渡期を示す特徴を有し、部屋の間取りも土岐子爵の接客内容をよく伝えています。

   

    

    

【土岐氏について】

 土岐氏は、清和天皇を祖とする源氏の一族で、江戸時代になってからは、大阪城代・京都所司代・老中などを務めた名門です。

 土岐頼稔(よりとし)公が寛保2年(1742)、黒田氏の後を受けて沼田藩主となって以来127年間、12代藩主頼知(よりおき)公が、明治2年に版籍奉還するまで利根沼田地方の主要地域を治めていました。

 明治2年(1869)に沼田を離れ東京に転居した土岐氏は、明治新政府から子爵に叙されました。この洋館は、土岐章(あきら)子爵が関東大震災後の大正13年(1924)に東京の渋谷へ転居する際に、住宅の主要部分として建築されたものです。

 現当主の實光(さねみつ)氏より、ゆかりの深い本市が寄贈をうけ、平成2年8月に沼田公園へ移築しました。                            (パンフレットより)

    

    

  

 

土岐家に身を寄せていた象牙師の玉明(ぎょくめい)作。
 竹林の七賢とは、中国の晋代(3世紀の半ば頃)に、戦乱や俗世間を避けて竹林に集まり、酒を飲み事を奏でて清談したという七人の賢人のことであるが、ここでは大正末期から昭和の初期にかけて活躍した政界などの有力者七人を七賢になぞらえている。
 中央の眼鏡をかけているのが浜口雄幸、右側の大きな顔が高橋是清、左端が東郷平八郎、そのほかは犬養毅、若槻礼次郎、渋沢栄一、尾崎行雄といわれている。
 額の大きさは154cm×213cmで、七人の顔と手や落款(印)等の部分には象牙が使われている。
 昭和3年(1928)より貴族院議員をつとめ、以後世界に生きた土岐章子爵らしい、興味深い作品である。  (説明文より)


かわいいなぁ・・・(^^)

2014-05-31 22:57:45 | 散歩・旅  群馬県

遠くから見えたんだけど・・・あんまりにも可愛くてそばまで行ってみた。

やっぱりかわいかった

 

上野国沼田城絵図(こうずけのくにぬまたじょうえず)

 この絵図は、江戸幕府3代将軍家光が正保しょうほう年間(1644~1647)に、全国の大名に城の防衛体制を絵図に描かせて提出させた、いわゆる正保城絵図の一つで、真田氏4代城主信政の時代の沼田城と城下町の様子がわかる非常に貴重な資料です。原図は国立公文書館内閣文庫に所蔵され、大きさは1.76m×2.34mもあります。
 絵図には、城を中心として石垣の高さ、堀や土塁の規模、堀中の流水の有無や城下町の道程等兵法上の秘密となるべき事柄が克明に記されています。真田氏が改易になる天和元年(1681)まで存在していた天守や櫓及び城門等の形態を知ることができます。

沼田城天守

 沼田城の天守は、真田氏初代藩主となった信之(幸)が慶長年間(1596~1614)に建造したと伝えられ、城絵図や古文書から規模は柱間で9間×10間(推定18m四方)の5重であったとされています。天守は、この右奥に位置していたと考えられますが、幕府に提出したこの絵図によると、天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、屋根には千鳥破風(ちどりはふ:三角形の屋根)が多くみられ、最上階には高欄が巡っていた様子が分かります。関東における5重の天守は江戸城以外は沼田城だけであったことや、天守付近から金箔瓦(金箔を張った瓦)も見つかっていることから、関東において沼田城は特別な城であったと考えられます。
 この名城も、残念ながら5代伊賀守が天和元年(1681)に改易となった後に、幕府によってすべて破却されて、以後、天守や櫓は再建されることはありませんでした。

  

 沼田大天狗


旧生方家住宅

2014-05-04 17:16:38 | 散歩・旅  群馬県

旧生方家住宅 

 旧生方家住宅は、妻入・板葺の町家で、その様式・技法から見て十七世紀末頃に建築されたものと考えられますが、元治元年(1864年)の大修理をはじめとして幾回かの改築・増築を経て現代に至りました。東日本では最も古い町家造りの建築物であることから昭和45年6月17日付けで国の重要文化財に指定されましたが、沼田市の繁華街の中心(上之町199番地)に在ったため保存に困難をきたし、生方家もこの住宅をこのままの状態で維持管理することが至難であるとの理由から沼田市が譲り受け保存することになり、文化庁の指導のもとに沼田公園内に移築する計画が進められ、昭和47年2月1日に移築工事に着手しました      (パンフレットより)

   

 

大戸 くぐり戸 

屋根看板 「かどふぢ」  

鬼板・・・ 棟の端につける装飾で、鬼の面を彫った瓦は「鬼瓦」、木又は銅版などで作ったものは鬼の面がなくても「鬼板」といい略して 「鬼」と呼ぶ

 

ぬりごめ壁    ちょっとこわい感じがする壁です。天井も高いし・・・。 

隣に生方記念資料館があります。


館林市をレンタサイクルで・・・・  

2013-07-06 15:14:22 | 散歩・旅  群馬県

館林市役所でレンタサイクルを借りまして、茂林寺へ向かいました。

館林市は無料のレンタサイクルがあります。

たぬきの ちゃがまの おかげで
たくさんの お金が はいりました。
おしょうさんは そのお金で
村のために 橋をつくったり
堤防をつくったり しました。
そして おしょうさんは、
“みんなに 福が分けられた”と
このたぬきのちゃがまを
『分福茶釜』と、なづけました。

むかし むかしの ものがたり。
今では この茶釜、お寺で
しずかに ねむっています。
でも、たまに夜中に 手足を
だして、あたりを ちょこちょこ
あるくそうですよ。

    

  

 『分福茶釜』です 

茂林寺

 童話「分福茶釜」で有名な、応永33年(1426)開山の曹洞宗の古寺。山門をくぐると杉の大木がうっそうと茂った境内で23体の狸が出迎えてくれます。寺内には寺宝の大きな分福茶釜や、さまざまな表情の狸コレクションがあり、一見の価値があります。 (紹介文より)

 

製粉記念館

1900年(明治33)竣工

    

    

 

館林駅

  

館林駅は花がいっぱいって感じでした。

 

駅近くのおうどんやさんでお昼を食べました

毛塚記念館   国登録有形文化財

 本建物は、江戸時代に建築された「分福酒造」の店舗である。分福酒造は、江戸時代に創業し、かつて「丸木屋本店」を名乗った造り酒屋である。
 建物の正確な建築年代は、棟札が残っていないため不明だが、地籍図等から江戸時代末期と推定される。一階は帳場として開放的に造られ、二階は、外の光を室内に取り入れるために格子が建てこまれるなど、いずれも町屋の特徴をよく残している。(紹介文より)

 

武鷹館 (旧館林藩士住宅)

    

この建物は、旧館林城の侍町の一つである「外伴木」(現在の尾曳町)に現存した館林藩の中級武士の住宅で、秋元藩時代には、藩士「伊王野惣七郎」の居宅として、廃藩後は、旧藩士の「山田家」の住宅として今日まで受け継がれてきました。

部屋を横一列に配置する武家住宅特有の間取りが特徴で、長年住宅として使われてきたことで、間取りなどに変化はありましたが、調査により、建築当初は間口約8間半、奥行はお勝手を入れて4間半、建坪は28坪(92.56㎡)であることがわかりました。棟札が発見できなかったため、建築年は明確にできませんが、柱間の長さや間取り、柱配りなどから、江戸時代後期に造られたものと考えられています。

群馬県内においても、現存する数少ない武家住宅の一つで、江戸時代の建築様式や武士のくらしを伝える歴史的価値の高い建造物として、平成11年に館林市指定重要文化財に指定され、平成12~13年にこの場所に移築復元しました。   (紹介文より)

 

旧上毛モスリン事務所

 この建物は、明治41(1908)年から43(1910)年にかけて建てられた上毛モスリン株式会社の本館事務所です。

 上毛モスリン株式会社は明治中頃館林周辺の技術的伝統である機業を生かして設立された会社で、近代産業の一つとして町の発展に大きな影響を与えました。

 この建物の特徴は、洋風建築発達当時の技法が取り入れられていることです。日本建築の伝統である尺貫法と入母屋造りを用いる一方、内部構造は洋小屋の要素を取り入れている建物で、洋風的要素としてシンメトリー式(左右対称)の外観、張り出しの浅い屋根、上下開閉式の窓、柱・階段の手すり・天井等に見られる意匠から当時の建築技法の発展がうかがわれます。設計者、施工者とも不明です。昭和54(1979)年市役所庁舎の建設に伴って、第二資料館内に曳き移転されました。 (パンフレットより)

   

 

    

 上毛モスリン会社使用の書類箱

   

  

 

田山花袋旧居

  

  

 この建物は、田山花袋[1871~1930]が7歳から14歳までのおよそ8年間を過した家です。木造平屋建て、玄関の土間に続いて三畳、左手に八畳二間、右手に四畳、裏に三畳の板の間と土間の合わせて5つの部屋があります。

 明治4(1871)年に旧舘林藩士の子として館林に生まれた花袋は、14歳で上京。やがて小説家を目指し、明治40(1907)年『蒲団』の発表により日本の自然主義文学を確立しました。ふるさと館林と花袋のつながりは深く、特にこの家は、花袋が館林の思い出を書き綴った作品『ふる郷』(明治32年刊)に“なつかしきこの家”と記されており、花袋にとっては思い出多い家であったことがうかがえます。また、この建物は江戸時代の武家屋敷の一つでもあります。昭和56(1981)年に市内城町より第二資料館内に解体移築されました。 (パンフレットより)       

 

秋元家別邸

  

  

 この建物は明治時代後期に建てられた旧館林藩主秋元家別邸として建てられました。木造平屋建て、入母屋、瓦葺き、庭園側がほぼ全面ガラスの引き戸で構成されています。廊下部分が主構造部から張りだし上部が銅板葺きの下屋が下がっている為、若干むくりの附いた瓦葺きの大屋根と対象的であるのと同時に水平線を強調した日本建築らしい品位のある印象を受けます。離れは逆に外壁が白く塗られた下見板張りで、出窓の軒下を赤く塗り、縦長の連想窓を採用するなど洋風建築の要素を取り入れた構成で主屋とは対象的な建物になっています。      (紹介文より)

市役所に戻ってを返却。ありがとうございました。

館林市はまだまだたくさん見所があります。『世界一こいのぼりの里まつり』の頃に一度来てみたいですね。

 

 


気が付けば・・・いつも雨

2012-11-24 21:50:13 | 散歩・旅  群馬県

  

またまた・・・・雨でした   

榛名神社 に行ってきました。  

     

七福神・・・

      

あ~ぁ 雨だ・・・ぁ

    

    

榛名神社には重要文化財がたくさんあります。

榛名神社へ向かう道路でメロディが流れるところがあります。

知らないで走っていたので、なんだかウキウキしました。メロディラインというそうで『静かな湖畔』が流れているんです。帰りにも聞けるかと思ったら片方だけでした。

群馬県にはメロディラインが10か所あるそうです。

いつも思うんですけど、晴れた日に来たらさぞかしいいだろうなぁ、と。

 

伊香保温泉

   

   

    

  

  

 


群馬県庁から臨江閣へ

2012-08-02 14:47:39 | 散歩・旅  群馬県

 高速道路から見えた高いビル

群馬県庁でした。展望ホールに上れるというので行ってみました。

昭和庁舎です。うっとりしますね。県庁の受付の方がここから歩いて5分くらいで『臨江閣』まで行けます、と言ってくれたので行ってみました。すごい。見応えがあります。県庁から臨江閣まで歩いていく途中の駐車場の入口(?)に立っていた人も挨拶してくれて群馬県の人ってすごいなって思いました。『臨江閣』の道路の反対側に遊園地がありました。時間があまりなくて庭園は見ていないのですが、機会があれば晴れた日にまた来たいです。

 

 

 

 

臨江閣 

本館 (群馬県指定重要文化財)

当時の県令楫取素彦の提言により下村善四郎(初代前橋市長)を始めとする地元有志や銀行等の企業の寄付で建設された迎賓館です。   利根川の流れに面し、妙義、浅間の各山々を遠望する敷地のほぼ中央に建設されました。  明治26年の明治天皇の行幸の際に、行在所として使われたのを始め、明治35年と明治41年には大正天皇(当時は皇太子)が御滞在されるなど、多くの皇族方が御滞在されています。   昭和20年から同29年までは、市庁舎戦災により仮庁舎として使われ、その後は昭和56年まで市の公民館として利用されていました。     主屋部分は創建当時の面影をよく残していますが、玄関脇の留守居棟や奥の便所納戸棟などの附属屋は、その後増築されています。また、外周のガラス戸は後から取り付けられたもので、当時は雨戸であったと思われます。 

  

茶室 (群馬県指定重要文化財)

本館建設にあたり地元有志が惜しみない協力をしたことに対し、心を動かされた県令楫取素彦を始めとする県庁職員の募金により建設され、前橋市に寄付されたと言われています。この茶室の席名は創建当初はついていませんでしたが、平成20年全国都市緑化フェアに際して、県令楫取素彦の号である『畊堂』と命名されました。  建築は京都の茶室大工、今井源兵衛のてによるものです。  茶席は、京間四畳半・本勝手・下座に床の間を持つ形式で、わびに徹して草庵茶室を守った金森宗和の系譜に属するものと思われます。

 

別館 (前橋市指定重要文化財)

明治43年に前橋市で開催された、一府十四県連合共進会に先立ち、貴賓館として建設されました。 一階には、西洋室(板床大広間)一室のほか、日本間が7室あり、二階には、舞台を備えた150畳(舞台をふくめると180畳)の大広間が1室あります。  建築用材として、中山道安中宿の杉並木の巨木30本の払い下げを受けており、大広間周囲に柾目美しく並び、今も大屋根を支えています。  建築にあたっては、工期の短さから、経験豊かな請負人として、市内の小曾根甚八が選べれました。  共進会閉会後は、前橋市に引き渡され、近県にまれな大公会堂として利用されてきました。

                                                 (臨江閣パンフレットより)

 

 

ボランティアのかたが説明をしてくれます。 150畳広いです。寝転がってみたかった・・・。

 

 

臨江閣  

前橋市大手町3-15

見学時間 

午前9時から午後4時(入館は3時半まで)

入館料

無料