細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

深谷商業高校記念館

2015-03-29 20:58:23 | 散歩・旅  埼玉県

埼玉県深谷市にある深谷高校記念館を見学してきました。

深谷商業高等学校記念館  国登録有形文化財

平成12年に、フレンチルネッサンス様式を基調とした、大正時代の建築技術の粋を集めて建設された貴重な建物として、国の登録有形文化財の指定を受けました。
 中央部分には尖塔、左右対称の構成、玄関は重々しい車寄せ、階段の彫刻風の手摺りや広い踊り場、錘を利用した上下開閉式の窓、屋根には洋風なドーマー窓(ドーム型)、土台には、渋沢栄一が関わった日本煉瓦製造会社の上敷免レンガが使われています。外壁は幾何学模様の張り板等、明治後期から大正期にかけての学校建築の特色がよく現れた木造瓦葺二階建てのモダンな洋風校舎です。
 しかし、長年風雨にさらされ、ペンキが剥げ、雨漏りや、壁や柱などの痛みも目立ち痛ましい姿をさらす状態となりました。また耐震性の問題もあることも判明し、阪神・淡路大震災後は、鍵が掛けられ使用されなくなり、取り壊し論が幾度となく浮上しました。「二層楼がなくなったら深商は深商でなくなる」と多くの卒業生が危機感を募らせました。この学舎の危機に、全国の文化財ファンから存続を求める声も数多く寄せられました。
 このたび、県当局より、創建当時の姿をとどめた学校建築の貴重な県民の財産として、全面的な手厚い保存措置を講じていただきました。改修工事は、およそ2年の長期に渡り、この間、学校法人ものつくり大学の技術指導、社団法人埼玉建築設計管理協会の技術協力、丸和工業株式会社の建築施工をはじめ、業界第一線級プロの皆様のご尽力により執り行われました。修復にあたっては「可能な限り当初の姿を伝える」ことが重視されました。
 修復前の二層楼は、過去の工事で外壁が塗り直されており、白色系の外観をしていましたが、この度、ものつくり大学横山研究所によるコンピュータ解析の結果、創建当時は、外壁は萌黄色、窓枠は鮮やかな緑色、尖塔や屋根窓は深緑であることが判明いたしました。
 高橋同窓会長の、「開港に尽力した渋沢栄一翁が見たのも萌黄色、開港に尽力した町の人達の魂がこもった校舎だからこそ、創建当時の色に復元することに意義がある」との英断により、見事に復元され蘇りました。    (パンフレットより)

開館日  毎週日曜日

開館時間  午前10時~12時

        午後1時~3時

駐車場  あります

    

   

    

 

創建当時の掛け時計

 地元の経済人グループ「深谷茶話会」から寄贈されたもの。時計の裏には「大正10年5月」という文字と、本校創立功労者、後に初代深谷市長になる安部彦平さん、深谷茶話会会長の大谷藤豊さんら40数名の名前が書かれている。
 「精工舎製 常規時計」と呼ばれるもので、二層楼の1階に掛かっていた。高さは約170センチ。文字盤経約46センチと大きなもの。時計の形式やロゴマークから、大正期に作られたものと見られ、大商店や銀行などによく置かれたタイプの掛け時計。昭和2年と同54年に修理をした記録が記されている。  (説明文より)

棟札(むなふだ)の発見  大正期の建築記録 鮮明に

 平成22年8月19日、建物保存に向けた県の現地調査で、請負業者が発見した。
 棟札は、縦120センチ、幅25センチの木札で、二階中央にある尖塔内部の梁に、二枚重ねて打ち付けてあった。墨書きされた面が中央になっていたため傷みが少なく、きれいに読める状態。
「奉上棟 大正十一年一月十八日 深谷町立商業学校新築工事」とあり、設計者は埼玉県技師濱名源吉、工事監督は埼玉県技手亀井正文、大工棟梁は入山和孝などと記されている。
 もう一枚の墨書には「建築委員長 深谷町長坂本輿惣治郎」「補助主任 深谷町助役大澤芳次郎」、さらには、工事費10万5357円のうち、3万円を寄付した大谷藤三郎(大谷藤富の父)ら24人の名前が並んでいる。  (説明文より)

 


 

 


清風亭

2015-03-29 18:55:04 | 散歩・旅  埼玉県

清風亭(せいふうてい)   埼玉県指定有形文化財

 清風亭は、大正15年(1926)、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助(ささき ゆうのすけ)の古希を記念して、誠之堂と並べて建てられた。建築資金は、誠之堂と同じくすべて第一銀行行員たちの出資によるものである。
 佐々木は、若干28歳での第一国立銀行本店支配人就任をはじめとして、同行の数々の役員を歴任し、大正5年、栄一を継いで第一銀行第二代頭取に就任した。勤勉精励、謹厳方正な性格で知られ、終始栄一を補佐した。栄一の精力的な活躍も佐々木の手腕と人格によるところが大きかったと考えられる。
 清風亭は、当初、佐々木の雅号をとって「茗香記念館」等と称されたが、後に「清風亭」と呼ばれるようになった。
 設計者は、銀行建築の第一人者の西村好時(にしむら よしとき)。
 建築面積168㎡で、鉄筋コンクリート造平屋建、外壁は人造石掻落し仕上げの白壁に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦がアクセントをつけている。屋根のスパニッシュ瓦、ベランダのアーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、西村自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していたスペイン風の様式が採られている。
 大正12年(1923)の関東大震災を契機に、建築構造は、レンガ造りから鉄筋コンクリート造に主流が変わったが、その初期の建築物としても建築史上貴重なものである。
 平成16年3月23日、埼玉県指定有形文化財に指定。     (パンフレットより)

  

 左右対称ではないのは飽きがこないようにだそうです。

   

   

ガイドのO川さんの説明がとても勉強になりました。ありがとうございました。

見学時間  午前9時~午後5時

駐車場   あります


誠之堂

2015-03-28 15:32:41 | 散歩・旅  埼玉県

誠之堂(せいしどう)    (国 重要文化財)

 誠之堂は、大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿を記念して第一銀行行員たちの出資により建築された。
 渋沢栄一は、現在の深谷市に生まれ、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ二本の近代経済社会の基礎を築いたが、その拠点としたのが第一国立銀行であり、明治29年(1896)に同行が第一銀行となってからはその初代頭取を務めた。
 栄一は、喜寿を迎えるのを機に、第一銀行頭取を辞任したが、誠之堂の建築には栄一が同行の行員たちから深く敬愛されていたことが伺われる。
 「誠之堂」の命名は、栄一自身によるもので、儒教の代表的な経典の一つ「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」にちなんだものである。
 設計者は、当時の建築会の第一人者であった田辺淳吉(たなべ じゅんきち)。誠之堂の設計にあたっては、条件とされた「西洋風の田舎屋」で「建坪30坪前後」を守りつつ、独自の発想を凝縮してこの建物を造り上げた。
 建築面積112㎡、煉瓦造平屋建、外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本などの東洋的な意匠を取り入れるなど、さまざまな要素が盛り込まれ、それらがバランスよくまとめられている。
 平成15年5月30日、国の重要文化財に指定。    (パンフレットより)

    

   

    

見学時間 午前9時~午後5時

 

   

ガイドをしていただいたO川さん作。写真でわかりづらいかな。ご本人は『下手なんですよ。』って言ってましたが上手です 

 


妻沼聖天山歓喜院

2015-03-19 13:53:55 | 散歩・旅  埼玉県

埼玉県熊谷市にある 妻沼聖天山歓喜院 に行ってきました。

平成24年7月9日正式に国宝に指定されたそうです。埼玉県で建造物としては第一号、県内の国宝としては第5番目の指定だそうです。

拝観入場料  700円

拝観受付時間  午前10時より午後4時まで

国宝 御本殿(登録名称「歓喜院聖天堂」)

 御本殿は、奥殿(34㎡)、相の間(27㎡)、拝殿(127㎡)よりなる廟型式権現造りで、奥殿は八棟造りである。建造物の各部材、各壁面を総て彫刻で装飾し、華麗な色彩が施されている。江戸中期の貴重な文化遺構である。
 この御本殿の建築は、幕府作事方棟梁として活躍した平内正信(へいのうち まさのぶ)の子孫で、妻沼の工匠・林兵庫正清の設計によって施工され、細工はじめから44年の歳月をついやし、その子・正信に引き継がれ宝暦十年(1760)に仮屋根・安永八年(1779)に完成したものである。
 平成十五年より平成二十三年の八年間を要して保存修理工事が施され、外壁は壮健頭書の華麗な色彩が復元された。  (パンフレットより)

 

  

貴惣門(国指定重要文化財)
 当山の総門である『貴惣門』は、山口県吉川藩の作事方奉行・長谷川重右衛門の秘伝を受け、林門左衛門正道の手により、弘化四年(1847)に起工し、嘉永四年(1851)に竣工した。
 妻側から見た破風の形が三つのΛを組み合わせた三つ鱗状となっているのが特色である。様式の定型化する江戸末期にあって、奇抜な意匠を採用したことは貴重なこととされ、関東地方には唯一の建物である。

『阿うんの会』のボランティアさんの説明があったのでいろいろと勉強になりました。ありがとうございました。

 


旧石川組製糸西洋館

2015-01-30 14:39:05 | 散歩・旅  埼玉県

旧石川組製糸西洋館  (国登録有形文化財)

大正12年(1923)、石川製糸の迎賓館として建てられた西洋館。煉瓦で造られている外壁は、眺めていると、現代から大正時代にタイムスリップして様な感覚に陥るほど、威風堂々としています。            (説明文より)

石川組製糸と西洋館
 石川組製糸は、黒須出身の実業家・石川幾太郎が明治26年(1893)に起こした製糸会社です。創業当初は手工業でしたが、すぐに蒸気力を利用した機械を導入し、好景気にも支えられて、瞬く間に経営を拡大しました。昭和の始めには県内外を合わせると9つの工場を持つ、全国有数の会社に成長しています。
 石川組製糸では、石川一族がキリスト教の信者であったことから、経営方針だけでなく従業員の教育にもその影響を見ることができます。たとえば工女のために家庭夜学校や日曜学校を開設しています。また、旧豊岡小学校の雨天体操場や日本キリスト教団武蔵豊岡協会の教会堂の建設に当っても建設費等を寄付するなど、地域の文化の振興にも貢献していました。
 石川組製糸は、主に外国と取引していたため、商談で外国人商人を招く機会がありました。このため幾太郎は、外国人が来訪したときの迎賓館として西洋館を建設することにしました。
 西洋館は、設計を東京帝国大学(現在の東京大学)で西洋建築を学んだ室岡惣七が、建築を川越まつりの山車を製作したことのある宮大工の関根平蔵が、それぞれ担当しています。
 建物の構造は、本館・別館とも木造で、外観を化粧煉瓦(タイル)貼で統一しています。その一方で屋根は本館が複合ヒップゲーブル(半切妻造)で洋瓦葺、別館は寄棟造の桟瓦葺として変化をつけています。
 建築学的には、外観より内部が優れていると言われています。戦後に進駐軍に接取された際に大きく改造を受けていますが、全体的に当時の様子を今に残しています。館内の特徴としては、天井や床周りの寄木、照明器具が部屋ごとに違った意匠を持つことにあります。また、玄関ホールの大理石製暖炉、一木で作られた階段の手すり、絹を使った壁紙などは製糸業で蓄財した富の大きさを物語っています。
 石川組製糸は、関東大震災や昭和恐慌の影響等により経営不振に陥って、昭和12年に解散しました。       (説明文より)

 

   

   

この本棚の右側の文字は、中国の歴史書『書経』から取られています。右から『八音克諧 夢想奪倫 神人以和(はちおんこくかい むそうだつりん しんじんいわ)』と読み、『物事がよく調和し、互いに関係を乱さなければ、自然と人は一つになれる。』という意味があります。
 また、左側には本棚の由来が記されています。これによると、本棚は大正15年11月下旬、69歳の記念に製作されたもので、文字は東京の儒家・亀田英(かめだ あずさ)の筆になります。
 堅固な作りでありながら、桐の板材に文字を彫り残す(陽刻)などの精緻さも見られます。   (説明文より)

    

     

    

設計・建築   室岡惣七 ・ 関根平蔵

建築年月日  大正10年7月7日(上棟) ・大正11年~12年(竣工)

 

昨年の公開日に行って来ました。年に何回かの公開日があり今年の公開日はまだ決まっていないようですが入間市のHPに→ 

 

 

 

 

 


武蔵豊岡教会

2015-01-29 19:29:12 | 散歩・旅  埼玉県

武蔵豊岡教会
大正建築物の名残を残す武蔵豊岡協会は、明治28年(1895)7月2日に創立し、礼拝堂は大正12年(1923)5月7日に竣工しました。70年以上経た今でもその様式美は人々の目をひきつけます。  (説明文より)

武蔵豊岡教会を設計したのが、明治38年(1905)に来日したアメリカ人宣教師で建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズです。

W.M.ヴォーリズは、全国で教会や学校、ホテルなど1,600件にものぼる建物を設計しました。その活動分野は幅広く、建築から医療、教育、社会事業までおよびます。なお、当時アメリカの家庭薬として人気商品だったメンソレータムを日本に伝えたのもヴォーリズです。


少林寺

2012-01-24 14:41:48 | 散歩・旅  埼玉県

511年(永世8年)開山のお寺で羅漢山の麓にあります。釈迦仏をまつった裏山の頂上まで続く参道には5000体もの五百羅漢像が・・・・・

ちょっと分かりづらい入口で、迷ってしまいました。