細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

骸骨ビルの庭 (下)  宮本輝

2013-07-13 14:18:45 | 読書メモ 

《内容》

育ての親、阿部轍正は、子供たちの一人、桐田夏美への性的暴行の汚名を着たまま、苦悩のうちに死んだ。真相を求めて、八木沢は夏美の行方を追う。過去の謎が謎を呼び、秘密は深まる。一方、八木沢はビルにもう一度畑を甦らせようと一人耕し始める。そして、小さな命が蕾をつけるとき、骸骨ビルの本当の意味が明らかになる。自分は何のために、そして、誰のために、生きているのか?心の奥底から溢れ出す人間への讃歌。すべての生きとし生けるものへ贈る感動の長篇小説。    (紹介文より)


骸骨ビルの庭 (上)   宮本輝

2013-07-12 13:16:51 | 読書メモ 

《内容》

住人たちを立ち退かせるため、八木沢省三郎は管理人として骸骨ビルに着任する。そこは、戦後、二人の青年が子供たちを育てた場所だった。食料にも事欠き、庭で野菜を作りながら、彼らは命を賭して子供たちと生きた。成人してもなおビルに住み続けるかつての子供たちと、老いた育ての親、それぞれの人生の軌跡と断ち切れぬ絆が八木沢の心を動かす。すべての日本人が忘れられない記憶。現代人が失った純粋な生き方が、今、鮮やかに甦る。 (紹介文より)


KABUKU〜へんと 煎茶 和敬

2013-07-11 15:39:11 | 美味しいもの

K子さんからいただきました、パティスリーSAKURAの KABUKU〜へん。

ちょっと・・・切るのがもったいなかったのですが・・・

食べちゃいました。

もちろん最初の一口は母から・・・・・

『美味しい!』

 

 

一緒に飲んだお茶は 煎茶 和敬。

ほどよい渋味とまろやかなコク、清らかなの水色、さわやかな青葉香。

 


館林市をレンタサイクルで・・・・  

2013-07-06 15:14:22 | 散歩・旅  群馬県

館林市役所でレンタサイクルを借りまして、茂林寺へ向かいました。

館林市は無料のレンタサイクルがあります。

たぬきの ちゃがまの おかげで
たくさんの お金が はいりました。
おしょうさんは そのお金で
村のために 橋をつくったり
堤防をつくったり しました。
そして おしょうさんは、
“みんなに 福が分けられた”と
このたぬきのちゃがまを
『分福茶釜』と、なづけました。

むかし むかしの ものがたり。
今では この茶釜、お寺で
しずかに ねむっています。
でも、たまに夜中に 手足を
だして、あたりを ちょこちょこ
あるくそうですよ。

    

  

 『分福茶釜』です 

茂林寺

 童話「分福茶釜」で有名な、応永33年(1426)開山の曹洞宗の古寺。山門をくぐると杉の大木がうっそうと茂った境内で23体の狸が出迎えてくれます。寺内には寺宝の大きな分福茶釜や、さまざまな表情の狸コレクションがあり、一見の価値があります。 (紹介文より)

 

製粉記念館

1900年(明治33)竣工

    

    

 

館林駅

  

館林駅は花がいっぱいって感じでした。

 

駅近くのおうどんやさんでお昼を食べました

毛塚記念館   国登録有形文化財

 本建物は、江戸時代に建築された「分福酒造」の店舗である。分福酒造は、江戸時代に創業し、かつて「丸木屋本店」を名乗った造り酒屋である。
 建物の正確な建築年代は、棟札が残っていないため不明だが、地籍図等から江戸時代末期と推定される。一階は帳場として開放的に造られ、二階は、外の光を室内に取り入れるために格子が建てこまれるなど、いずれも町屋の特徴をよく残している。(紹介文より)

 

武鷹館 (旧館林藩士住宅)

    

この建物は、旧館林城の侍町の一つである「外伴木」(現在の尾曳町)に現存した館林藩の中級武士の住宅で、秋元藩時代には、藩士「伊王野惣七郎」の居宅として、廃藩後は、旧藩士の「山田家」の住宅として今日まで受け継がれてきました。

部屋を横一列に配置する武家住宅特有の間取りが特徴で、長年住宅として使われてきたことで、間取りなどに変化はありましたが、調査により、建築当初は間口約8間半、奥行はお勝手を入れて4間半、建坪は28坪(92.56㎡)であることがわかりました。棟札が発見できなかったため、建築年は明確にできませんが、柱間の長さや間取り、柱配りなどから、江戸時代後期に造られたものと考えられています。

群馬県内においても、現存する数少ない武家住宅の一つで、江戸時代の建築様式や武士のくらしを伝える歴史的価値の高い建造物として、平成11年に館林市指定重要文化財に指定され、平成12~13年にこの場所に移築復元しました。   (紹介文より)

 

旧上毛モスリン事務所

 この建物は、明治41(1908)年から43(1910)年にかけて建てられた上毛モスリン株式会社の本館事務所です。

 上毛モスリン株式会社は明治中頃館林周辺の技術的伝統である機業を生かして設立された会社で、近代産業の一つとして町の発展に大きな影響を与えました。

 この建物の特徴は、洋風建築発達当時の技法が取り入れられていることです。日本建築の伝統である尺貫法と入母屋造りを用いる一方、内部構造は洋小屋の要素を取り入れている建物で、洋風的要素としてシンメトリー式(左右対称)の外観、張り出しの浅い屋根、上下開閉式の窓、柱・階段の手すり・天井等に見られる意匠から当時の建築技法の発展がうかがわれます。設計者、施工者とも不明です。昭和54(1979)年市役所庁舎の建設に伴って、第二資料館内に曳き移転されました。 (パンフレットより)

   

 

    

 上毛モスリン会社使用の書類箱

   

  

 

田山花袋旧居

  

  

 この建物は、田山花袋[1871~1930]が7歳から14歳までのおよそ8年間を過した家です。木造平屋建て、玄関の土間に続いて三畳、左手に八畳二間、右手に四畳、裏に三畳の板の間と土間の合わせて5つの部屋があります。

 明治4(1871)年に旧舘林藩士の子として館林に生まれた花袋は、14歳で上京。やがて小説家を目指し、明治40(1907)年『蒲団』の発表により日本の自然主義文学を確立しました。ふるさと館林と花袋のつながりは深く、特にこの家は、花袋が館林の思い出を書き綴った作品『ふる郷』(明治32年刊)に“なつかしきこの家”と記されており、花袋にとっては思い出多い家であったことがうかがえます。また、この建物は江戸時代の武家屋敷の一つでもあります。昭和56(1981)年に市内城町より第二資料館内に解体移築されました。 (パンフレットより)       

 

秋元家別邸

  

  

 この建物は明治時代後期に建てられた旧館林藩主秋元家別邸として建てられました。木造平屋建て、入母屋、瓦葺き、庭園側がほぼ全面ガラスの引き戸で構成されています。廊下部分が主構造部から張りだし上部が銅板葺きの下屋が下がっている為、若干むくりの附いた瓦葺きの大屋根と対象的であるのと同時に水平線を強調した日本建築らしい品位のある印象を受けます。離れは逆に外壁が白く塗られた下見板張りで、出窓の軒下を赤く塗り、縦長の連想窓を採用するなど洋風建築の要素を取り入れた構成で主屋とは対象的な建物になっています。      (紹介文より)

市役所に戻ってを返却。ありがとうございました。

館林市はまだまだたくさん見所があります。『世界一こいのぼりの里まつり』の頃に一度来てみたいですね。

 

 


富士山倶楽部と煎茶 聚楽

2013-07-05 15:30:12 | 美味しいもの

 Mちゃんのお土産『富士山倶楽部』

おいしいクッキーです。一緒に飲んだお茶は煎茶 聚楽。ほどよい甘みとこくなのにさわやかな味わいのお茶です。 100g入り 1260円(税込)です。

 

6月22日に富士山は世界文化遺産になりました。西東京市からも富士山は見えますが、いったいどのくらい離れたところから見えるのでしょう

 


諏訪を散歩   伏見屋邸から

2013-07-04 14:37:58 | 散歩・旅  長野県

   

   伏見屋邸は、中村家が明治時代に商いを営んだ家で、屋号を「伏見屋」といったことから伏見屋邸と呼ぶこととしました。 歴史的風致維持向上計画に基づき、歴史的風致形成建造物に指定したこの建物について、平成21年度に史実調査を行い、復元修理の設計を行いました。そして、平成22年度に復元修理工事を実施し、商いを営んでいた当時の面影を取り戻しました。 建物は、屋内に通り庭を設けた江戸時代の民家の形式を残し、上見世・下見世の商い空間を有した特徴があります。建築は、旧所有者が屋根を修理した際に出てきた棟札(滅失)と、代々の家人の言い伝えから元治元年(1864)の建築と推定されますが、近年まで生活していたことで各所が改変されていました。幸いに基本的な構造と、当時に使われていた建具類がかなり遺されていたことから、復元の手懸かりが多く残っていました。 中村家は系図によると、武田氏の流れを汲み武田信玄の諏訪統治とともに諏訪に移り住んだといわれます。そして、江戸時代は代々名主・年寄役をつとめていた家柄でこの地域でも旧家です。 伏見屋中村家は、幕末に中村尉右衛門の代に分家した中村平助が、明治6年下諏訪で最初の器械製糸を創業しました。 その子鎌治郎は生糸商をはじめ、呉服・太物・洋物・荒物・飲料・煙草・畳表などを扱う商売、質屋も営み屋号を「伏見屋」中村商店としました。明治10年ころのことです。その後岡谷にも支店を出すこともありましたが、商いは鎌治郎の代で終わりました。     (伏見屋邸の由来 より)

   

 欄干 立川富種 作

立川和四郎富昌の次男、専四郎富種。啄斉と号し、豊川稲荷奥の院本殿、拝殿を建築しました。父や兄富重と共同で他の建築にも従事しましたが、どちらかといえば彫刻専門でした。(紹介文より)

    

   

   

五間廊

      

   名水『水眼』の清流

  

 


諏訪を散歩   諏訪大社から

2013-07-03 15:32:17 | 散歩・旅  長野県

諏訪大社  下社秋宮

    

   

   

 

本陣  岩波家

高雅な京風の雰囲気が漂う中山道随一の名園

年代   江戸時代

 中山道と甲州街道が合流する、下諏訪宿の本陣を務めた岩波家。かつては大名たちの宿泊所として栄え、約2650平方メートルもの広大な敷地内には、京風の武家屋敷や茶屋、土蔵などが今も残り、当時の面影を偲ばせている。中でも、銘石を巧みに配した築庭式石庭園は、諏訪大社秋宮の自然林を借景としており、中山道随一の名園とも言われている。

   

    

  

和宮様の行列と準備

皇室と将軍とのご婚儀とあって
○江戸からのお迎え 15,000人
 京都からのお供  10,000人
 人馬合わせて   40,000人以上の大部隊
○下諏訪宿で用意する人足 10,000人
○人足小屋 友之町馬場へ9棟、八幡山へ4棟、青塚へ5棟
○馬小屋 馬場3棟、八幡山へ2棟、青塚3棟(長さ30間、幅2間4尺)
○道幅2間2尺以上、路面1尺掘り下げつめ土をして砂利を敷いた。所々に盛砂もした。側溝も作り縁には芝を植えた。道沿いの藪は7~8間から30間伐りはらった。

  鶺鴒(セキレイ)です。

 現代剣道の元となった一刀流(北辰一刀流)の攻め方に「鶺鴒セキレイの尾の如く」という教えがあります。初めて鶺鴒の尾の動きを見ました。

   

春宮

   

万治の石仏

高さ2mほどの半球状の自然石に頭が載ったユニークな石仏です。言い伝えによると、諏訪・高島藩主が諏訪大社下社春宮に大鳥居を奉納するため工事を依頼し、石工がこの地にあった巨石にノミを入れたところ、そこから血が流れ出しました。石工は驚いて石に阿弥陀如来をまつったと伝えられています。胴には万治3年(1660年)と刻まれており「万治の石仏」と名付けられました。画家の岡本太郎さんや作家の新田次郎さんが絶賛。最近はメディアにも取り上げられ、訪れる人がひっきりなしです。   (紹介文より)
 
まだまだ歩きました。 

収穫~((*´゜艸゜`*))

2013-07-02 15:23:35 | 母の。。

トマトが採れました。

綺麗なトマトです。

 

トマトと全然関係ないのですが、

私は最近・・・・

オノマト(ペ)という言葉を知りました。

全然知らなかったのですが、どうやら私は昔から使っていたようです。