ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

疲れました~_~;

2016-04-26 | 雑念
久しぶりに厳しかった。

高校生のグループ。
いわゆる集中力が持続しない。
そして学年も混合。定時制。

仲間づくりとはいえ、
なぜこのメンバーで仲良くせねばならんのだ?
僕が参加者なら考えてしまう。

そして何で学年も混合?
モチベーション上がらないべ?

と、ここまでが文句。
そもそもの学校側への不満。

しかしそこはプロフェショナル。
どんな条件であろうともグループを読み、
どんな状態であろうとも介入や指導を交え
グループを「あるべき姿」に持っていく。

特に学校側の要望は、結局そこだ。

仲間づくりのプログラムに金を払うわけだから、プロとしての仕事を見せてよ。が本音。

という意味では
本日の僕は満足いく結果は出せなかった。

午後には2人ドロップアウト。
残り9人のグループでも課題解決型のアクティビティに設定ミスが生じ、結果何の達成感も感じさせられずに1日が終わってしまった。

確実に失敗と言っていいかもしれない。

まずオープニングでひとりの大きな男子が列に並ばず保健の先生に甘えている。

結局、僕はその男子がグループを崩壊させたと考えているのだが。他人の失敗を責める。自分も太っていて運動神経も良くないのに指示し、エラそうで文句を言う。

他の生徒の方が大人である。笑って受け入れている。僕は恐らくその男子のワガママっぷりに感情的になったのだと思う。

調子者だった彼を上手く乗せてあげればグループは楽しく過ごせたのかもしれない。でも僕は彼の態度や言動があまりに酷いので、黙りこんでしまった。

彼のお調子発言にもほぼ無視で対応した。

あれはいただけなかった。

無視はイカン、無視は。

久しぶりに腹が立ってしまった。
グループのメンバーがあれだけ受け入れてくれているのに、なぜそれに気づかない?優しさにいつまでもいつまでも甘えている彼がどうしても許せなくなってしまった。

介入すべき事態もスルーしていたのだ。

後で指導者同士の振り返りでは、「彼みたいな人を僕が好きなのかと思った」と言われたが、確かに僕の好きなタイプだったのかもしれない。

しかし僕の指導のブランクが許容範囲を狭くしていたのかもしれない。

彼には悪いことをした。
そしてグループにも。
そして一度離れたファシリテーターとメンバーとの距離は昼食後も近づくはずもなく、アイスブレイクの不足は顕著であった。

最後まで取り返すことはできずに
1日が終了していた。

僕はまだまだ修行が足りない。

感情のコントロールでさえ上手くいっていない。
フリバリューでさえ。

参加者全員の価値を大切にできていたのか?

否!

僕は未熟だわ。
他人に偉そうに教えている場合じゃない。

辛いーっ。
久しぶりに辛い。

寝る(°_°)

僕はサムライ。武器は……

2016-04-26 | 雑念
日本死ねってブログが話題になっていたじゃないですか?

待機児童の問題は社会問題だと思います。
確かに政治家も考えてほしい。

でも根本的に僕は「言葉遣い」に悲しみを感じます。

いくらいいことを書いても「しね」と言ってしまう親が子育てをする事の悲しみを含んでいます。

そしてその乱暴な言葉遣いがどのような影響があるのかを無視して、「子供を持つ親の悲痛な叫び」だと絶賛している社会にも問題があるような気がします。

言葉は生命そのものだと思います。

伝えようとするときにその愛やパワーが宿るのです。

もし愛する子供のことを考えるのならば、社会への不満をもう少し丁寧な言葉遣いで訴えたほうがいいのではないでしょうか。

そんな汚い言葉遣いの親を見て、子供はどんな言葉遣いをするようになるのでしょうか。

子供はまた汚い言葉を振りかざしてデモをやるようになるのではないでしょうか。

訴えは正しくても美しくない言葉はすべての主張を打ち消し、そしてマイナスにしてしまう。

たしかに僕も他人を傷つけてしまう言葉遣いをすることがあります。

ただでさえ声が大きく、妙な説得力がある自分としては気をつけねばいけないのです。

汚い言葉には確かにインパクトがあります。そして広がりやすいというメリットがあるのかもしれません。

最近はテレビをみないんですが、「クソ」が「とても」「超」の代わりに使われていた時にとても悲しかったことを覚えています。

あの言葉だけは許せませんでした。

「しね」もどうしても許せません。
生命を産みだした母親の言葉だとしたらまた更に悲しかったのです。

僕はこれからも「言葉」を道具として、いや武器として戦いに向かいます。

その武器が錆びていないか、刃こぼれしていないか、そして武士として誠実な武器なのか。

そして極力その武器は使わず、相手に使わせるような仕事をしたい。

僕はいつも美しい武器を携えて。

昔、仲間のひとりに「子供の前で丁寧な言葉遣いをするよね」とフィードバックを貰ったことが嬉しかった記憶があります。

無意識だけど、それは僕のアイデンティティに変わった。

今でも意識はしていないけど、「汚い言葉は使うまい」とは意識する。

あぁ、僕は現代の武士道を追い求めているのかもしれない。コンビニで売っていた「武士道」の解説本でも買うかな。