平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2011年10月2日 主のための安息、私たちのためのヨベルの年

2012-02-19 15:04:33 | 2011年
レビ記25章1~12節
 主のための安息、私たちのためのヨベルの年

 私たちには、休息が必要です。私たち人間の体は、休息しなければ、ボロボロになってしまいます。休みもとらずに、ずっと働くこと自体は、結果として能率が上がらず、いろいろなトラブルの原因ともなり、返って、よい仕事ができないことになるという方もおられます。私たち人間だけでなく、生物はどこかで定期的に休息をとるように造られています。
 いったい、休息がなくてもよいものがあるでしょうか。機械とても定期的な点検が必要です。生物ではない機械でさえも長時間使っていますと劣化して、故障を起し、大事故につながったりします。そうは言いながらも、休息をとることのできない職種や事情もありますから、ほんとうにそういう方々のために、私たちは、祈りたいと思います。
 そして、精神的にも、心配事などで不安定な状態が続いていますと、眠れず、これまた休息をとることができないということになりますから、このような方々のことも含めて、私たちは、お祈りをさせていただきたいと思います。
 土地にも安息を与えなさい、と聖書は語ります。イスラエルの民が、荒野の放浪の旅を40年したあと、カナンという約束の地に入っていくことになるのですが、土地に入った年から数えて7年目に、土地に安息を与えなさいということが書かれています。それは、主のための安息であって、7年目を全き安息の年として、土地を休ませるということでした。「主のための安息」、これが休息をとることの根拠だと聖書は述べています。
 土地が、ずっと使い続けてしまうと痩せてしまうから、一年は休ませなさい、と言っているのではありません。実際問題として、ずっと使い続けることは土地を痩せさせてしまうことになるのは事実です。ですから、土地にまた、命を生み出す力を再び持たせるために、何も作物を造らなければ、土地そのものがもっている力を回復させてあげることになるのは確かでしょう。しかし、それが土地に安息をという第一の理由にはなっておりません。
 あくまでも、「主のための安息」を土地にも与えるということでした。主のための安息を土地にも及ぼすということです。6年間土地を使い続けて、7年目は安息の年として、種を蒔かない、ブドウ畑の手入れをしない、など、具体的にどうするかが、書かれています。また、7年目の休ませている間にできた穀物、これはおそらく種を蒔かないで毎年できる何かの穀物なのでしょうか、或いは、7年目に手入れをしない畑になったぶどう、これらのものを収穫したり、実を集めたりしてはならないということでありました。
 ただし、休ませている畑にできたもの、自然に生え出たもの、例えば、前の年の収穫の際にこぼれておちた種によってできた穀物などが考えられますが、それは食べてもよいということでした。それは、畑の所有者であるあなた、あなたの男女の奴隷、雇い人、あなたのもとに宿っている滞在者、さらには家畜や野生の動物など、すべてのもののための食物と畑だけでなく、地の産物(野山の草花、くだものなどもあったことでしょうが)すべてが、そうなるというものでした。ただし、それだけはもちろん十分ではありません。
 それで、25章の20節からのところにはこう書かれています。「7年目に種も蒔いてはならない、収穫もしてはならないとすれば、どうして食べていけるだろうか、とあなたたちは言うか。わたしは6年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。あなたたちは、8年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、9年目には新しい収穫を得るまでそれに頼ることができる」と書かれています。
 ですから、なんと3年分の食料が6年目の収穫時に与えられるから、7年目は安心して、安息を土地に与えなさいということでした。しかし、よくこのことを考えますと、それで、安息を得られるのは、いったい誰なのか、ということになりますと、それは民衆の一人一人であるということになるのです。神様が土地にも主のための安息を与えなさいということを人々が実行するとき、それは自ずと、自分たちの安息につながることになるのでした。
 順番があります。私たちが健康に生活を続けていくために、休息をとるのではありません。それは、主のための安息なのです。それを守るときに、私たちにも安息が与えられるのです。安息日というのも、神様が、この世界を6日間かけて創造され、7日目に安息された、その神様の創造の業を想い起し、感謝を捧げる時なのです。
 ですから、私たちは、神様の創造の秩序をおぼえ、それを守るために、休息をとるのです。私たちに与えられた創造の秩序を大事にすることが、私たちの命を大事にすることにつながり、それが、神様に従い神様を拝することになります。確かに、土地は、ずっと使い続けていくと痩せてしまいます。しかし、聖書はそのような理由から土地にも安息をと、言っているのではありません。「主のための安息」だと、語ります。
 ところで、8節からのところには、ヨベルの年についての説明がでてまいります。これは、安息の年を7回重ねたあとの翌年が、そのヨベルの年だといいます。ヨベルとは、元来「雄羊」を意味し、おそらくはこの年の到来を告げるために雄羊の角笛が吹き鳴らされることに由来していたものと思われます。このヨベルの年については、「あなたのために」そうしなさいと書かれています。「あなたたちにとって」聖なるヨベルの年だから、と述べられています。
 それは、7年目の土地に安息を与えるそのことを7回繰り返したあとの、次の年50年目の年をヨベルの年として定め、その年には、「全住民に解放の宣言をする」とあります。奴隷であった者は、奴隷の身分を解かれて、先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰ることができるというものです。後の時代になって、50年間忍べば、何とかなる、そう思えることは、土地を手放さなければならなかった者、奴隷として過酷な状況の中におかれていた者たちにとって、大きな希望だったはずです。
 ただし、この7年目の安息、また、ヨベルの年の規定が、実際に行わされたかどうかについては、確かな証拠となるようなものが見当たらないということです。実際は、一度も行われなかった可能性もあります。しかし、このことは、まだ約束の地に足を踏み入れる前に述べられた夢のような神様の約束でした。
 このカナンの土地に入ってから7年目の土地の安息、50年目のヨベルの年に共通していることは何でしょうか。土地に与えられる7年目の主のための安息は、主のための安息を土地にも与えることなのですから、これは、神様の創造の業をおぼえ、感謝し、自分たちもその恵に与ることでした。ヨベルの年は、解放とか権利が回復されるとか、そういうことがテーマになっておりました。神様は、ヨベルの年は、実にあなたがたのめの、ということを強調されました。
 二つの事柄に共通していることは何でしょうか。それは、リセットという点ではないでしょうか。セットしなおす。もう一度、一からやり直すということです。白紙に戻して、最初から、そういうことであります。パソコンをいじっておりまして、ぐちゃぐちゃになって、うまくいかなくなったときには、リセットします。
 私の場合は、電源を切るのですが、それはあまりうまい方法ではなさそうです。仮にそれしかないとして、電源を切るにしても順序正しく、それをやらないで、突然にコンセントを抜くというようなやり方をしていますと、壊れてしまいます。リセットのやり方があって、その方法で正しくすると、機械にも負担をかけずに行われます。ところが、私のように、よく分らない者の方法は、とにかく電源を切ることなのです。これが簡単で便利なために、私などは、すぐにそうします。ああうまくいかない、電源を切ります。それでも、とにかく電源を切る、そういうやり方を繰り返していると、機械が壊れてしまう、そう忠告してくださる方もおられます。リセットにも方法があるのです。
 今日のこの7年目の主のための安息を土地にも与えるということと、ヨベルの年の守り方は、その方法が明記されています。それに従って、実行に移すときに意味があります。
 さて、リセットする、安息をとる、白紙に戻す、そういう作業は、私たちに力をもたらしてくれます。
 まず、神様のための安息を守ることは、神様の創造の秩序を守ることになるという理解を私たちはもっておきたいと思います。もともと、安息日は、土曜日です。しかし、今、キリスト者たちは、主の日を安息日と、そのように考えておられる方々もいるでしょう。主日は、イエス・キリストが復活なさった日ですから、それは創造の秩序をおぼえての安息日とは異なります。
 キリスト者たちにとっては、この復活された日のほうがより深く大きな意味がありますので、この主の日の朝に、まさに、イエス様が復活なさった朝に、礼拝を守っております。しかし、土日が休日となっている今の時代にあっては、土曜日を安息日としておぼえて安息し、日曜日を主の日として、礼拝を守る、そして、この日は主のために使われる一日というように、捉え直してよいのもしれません。
 安息ということでは、マタイによる福音書の11章の28節で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という御言葉があります。これは、明らかに、イエス様が与えてくださる安息であることがわかります。創造の秩序を守ることで与えられる安息というよりも、もっと簡単です。イエス様のところに来る、それだけで与えられる安息です。
 それに、「疲れた者、重荷を負う者は」というように、まさに安息を必要としている者に与えられるものです。イエス様のところへ行くだけでよいのです。そして、これも29節からのところを読みますと、そのイエス様のところに来るというのが、イエス様とつながることであることが、わかります。
 イエス様のところへ来て、イエス様とつながって安らぎを得るということになります。イエス様とつながることを抜きには、この安らぎは得られないことがわかります。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 くびき、それは、二頭の牛をつなぐ道具です。二頭の牛の首につけます。ですから、二頭が、そろって動かないとだめなのです。イエス様は、ご自分を柔和で謙遜だとあえて、ここで言っている意味は、イエス様の方が、私たちに合わせてくださるということではないでしょうか。イエス様が、強引に乱暴に、ひっぱっていくようなことをなされば、私たちは、引きずられて怪我をすることにもなりかねません。
 しかし、イエス様はそのようなお方ではありません。柔和で謙遜であられますから、私たちが自由に動きやすいように、してくださいます。そして、むしろ、安らぎをえられるようにしてくださいます。また、この方と一緒に運ぶ荷は、どういうわけか、とても軽いのです。一つの荷物を二人で担ぐと、一人で担ぐよりも随分と軽くなります。しかし、おそらく、イエス様が多くの部分を担いでくださるので、その荷が、半分の重さではなく、一人で担ぐ分よりもさらに軽くなるということでしょう。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 私たちは、自分らしさに自信を見出すときに、いろいろな苦しみから解放されます。それをしてくださるのが、イエス様です。それは、ヨベルの年に奴隷の身が解放される、失われた土地が戻される、そういった内容と重なるのではありませんか。本来の自分を取り戻すことができることですから。イエス様とつながるときに、それが可能となります。
 今日の箇所で、二重に私たちは安息をいただくことができることがわかります。一つは、神様の創造の秩序に従うことで得られる安息です。それは肉体の癒しを主にいただくことになるでしょう。そして、もう一つは、イエス様に私たちは、つながって生きるときに、得られる安息です。
 それは、私たちは、自分が担ぐべき荷をイエス様がかついでくださるゆえに、軽くさせられる荷物です。それは、主に、精神的な心の癒しです。この二つの安息が私たちには、必要です。肉体と心の安らぎです。神様の創造の秩序に従い、イエス様につながることでそれが得られます。


平良師

最新の画像もっと見る