平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2011年10月16日 ろばに見えたもの

2012-02-20 00:04:12 | 2011年
民数記22章22~35節
      ろばに見えたもの

 バラクは、モアブの王でした。イスラエルの人々は、ヨルダン川の対岸にあるモアブの平野まで進み、そこに宿営をしておりました。モアブの人々は、「このおびただしい数の民に恐れを抱いていた。イスラエルの人々の前に気力もうせ」ていたと書かれています。モアブ王バラクは、気が気ではありません。そこで、占い師のバラクのところへ使者を送り、彼を招こうとして、次のように伝えさせました。
 「今ここに、エジプトから上って来た一つの民がいる。今や彼らは、地の面を覆い、わたしの前に住んでいる。この民はわたしよりも強大だ。今すぐに来て、わたしのためにこの民を呪ってもらいた。そうすれば、わたしはこれを撃ち破って、この国から追い出すことができるだろう。あなたが祝福する者は祝され、あなたが呪う者は呪われることを、わたしは知っている」と。
 バラムのところへ、使いの者たちは、占いの礼物を携えて行ったとありますから、バラムは、それで生業をしているプロの占い師であったことがわかります。そして、彼はかなり著名で、彼が祝福する者は祝され、呪う者は呪われるといった評判の高い男であったのでしょう。しかし、彼の意識の中には、あくまでも、「神様が告げられることを告げる」という信念がありました。その夜、神様は、バラムに、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」と言われました。
 それで、バラムは、モアブからの使者たちに、一緒に行けないことを伝えるのでした。ところが、モアブ王バラクは、今度は、前よりも位の高い者をバラムのところへ遣わし、あなたを大いに優遇するという条件も添えて、再度、イスラエルの民に呪いをかけるように、依頼してきました。
 そこで、バラムは、使者たちに今晩泊まるようにうながして、神様が、何と言われるか、確かめさせてください、と言うのでした。バラムは、再び、神様に尋ねました。しかし、神様は、このとき「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい」と、一緒に行くことを許可されました。そこで、バラムは、モアブ王バラクのところへでかけて行くのでした。
 そして、今日の先ほど読んでいただいた箇所になります。「ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった」。岩波訳では、「しかし、神の怒りが燃え上がった。彼が行こうとしていたからである」とその神様の怒りの理由を明確に訳しております。ということは、神様は、「行くがよい」と言いながら、ほんとうは、行くことには反対であったということです。
 今日のところは、私たちの信仰を考える上で、非常にチャレンジを受ける箇所です。つまり、神様がいいよと言われたからといって、果たして、そうなのかどうか、もう一度、考えてみる必要が場合によってはあるということです。それが、ほんとうに神様の本意であられるのかどうか、よく考えてみる必要が、場合によってはあります。
 例えば、祈って、自分の願っていたようにことが運んだ場合、これは神様の御旨だったのだ、と喜んでいいかどうか、場合によっては、再度吟味する必要があるということです。或いは、祈って状況が整えられたからといって、それがほんとうに神様の御旨なのかどかは、もう少し考える必要があるということでしょうか。
 ただし、この物語の場合、バラムの行為の中に、やはり、神様に従おうという気持ちが真実だったのかどうか、バラムの中に、モアブ王バラクの、優遇するという誘惑への心の動揺というものは、まったくなかったのか、微妙なところがあります。神様は、一度、きっぱりと「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」と述べられています。
 バラムが、真実に神様に従う者であるのならば、一度目のその答えで、十分であったはずです。二度目にバラクからの使いの者が来たときに、バラムは、「たとえ、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません。あなたがたも、今夜はここにとどまって、主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめてください」と言いました。
 このことについては、一度、前に神様の御心は、聞いたわけですから、それを根拠に断ることができたでしょうが、神様に再度尋ねるということは、彼自身の責任を回避する行為となるでしょうし、どこかで、神様からの違う答えをわずかでも期待しているのではないか、そうした彼の不誠実さとも受け取られかねません。
 そうして、神様の本意を読み取ることができず、そのまま、出発したバラムでした。そのとき、主の御使いが彼を妨げる者となって、進もうとしている道にふさがったのです。その御使いは、抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっていました。つまり、いつでも、バラムを切り殺すことのできる状態で構えていたということです。その存在にバラムは気づきませんでした。
 ところが、バラムが乗っていたろばには、その姿が見えたのです。それで、ろばは、道をそれて畑に踏み込みました。バラムは、杖でろばを打ち、道に戻そうとしました。今度は、ぶどう畑の間の狭い道に、その御使いは立っておりました。その道は、両側が、石垣となっておりました。それで、ろばは、片側の石垣に体を寄せて、その御使いをかわそうとしましたら、その石垣で乗っているバラムの足も押し付けられ、はさまれるようになったのでしょう、思わず、バラムは、ろばをまたたたくことになりました。
 それから、今度は、その御使いは、右にも左にもその御使いをよける余地のない狭い場所に立ちふさがりました。ろばも、どうすることもできません。それで、ろばは、バラムをのせたままうずくまってしまいました。それで、また、バラムは、ろばを打つことになります。
 「バラムは、怒りを燃え上がらせ、ろばを杖で打った」とあるとおりです。そこで、神様は、ろばの口を開かれたので、ろばが、言うのです。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは」そこで、バラムが答えます。「お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう」。そのとき、ろばは、これまであなたが私に乗っていて、一度でもこのようなことがあったでしょうか、と問うて、バラムが、「いや、なかった」と答えたところで、ろばとバラムの会話は終わります。
 そのあと、神様がバラムの目を開かれたので、バラムは、抜き身の剣をもった御使いが道に立ちふさがっているのを見ることができました。そして、御使いは、バラムに、ろばを三度打ったことを責めました。それから、自分は、バラムが進もうとしているこの道が、神様の意に反する、危険なものだったから、それを妨げるために出て来たと告げました。もし、ろばが、御使いを避けていなかったならば、今頃は、ろばは生かしておいても、バラムを殺していただろうと言うのでした。
 さて、これらの物語は、非常に示唆にとんでいるように思うのですが、何がメセージになっているのか、なかなかつかみにくい箇所でと言えます。
 私は、抜き身の剣をもった御使いは、目に見えない神様のご意志をさしていると考えました。今にも、バラムを滅ぼそうと、怒りに燃える神様の御姿のようにさえ、思われます。このご意志にバラムは気づかなかったのです。しかし、その神様の怒りは、すさまじいものでありました。それに気づくことがありませんでした。
 神様は、はっきりとご自身の立場を述べられました。にもかかわらず、バラムは、その神様のご意志をわかっているにもかかわらず、再び尋ねるような愚かなことを致しました。そこには、断る場合でも、頼みに来た者たちへ、直接神様の言葉を聞かせることで、納得してもらうという、そうすれば自分自身が責任を負わなくてもすむという逃げがあったかもしれません。
 しかし、一緒に行くということは、依頼主モアブ王バラクの要請に答えるというものでなくて、いったい何でしょうか。バラクは、イスラエルを呪って欲しい、それだけのために、占い師バラムに仕事をお願いしたのですから。モアブ王バラクには、神様の言葉をそのまま、謙虚に受けようなどといった考えはありませんでした。バラクの目的は、迫り来るイスラエルを呪ってもらって、その上で、攻撃するならば、彼らを打ち負かすことができるだろう、そういう考えでした。そのためのバラムへの依頼だったのです。
 ですから、連れてきたバラムが、イスラエルを呪うどころか、三度も祝福したというので、激怒いたしました。「バラクは、バラムに対して激しく怒り、手を打ち鳴らしながら、バラムに言った。敵に呪いをかけるために招いたのに、見よ、お前は三度も祝福した」。(民数記24:10)。痛烈な皮肉な結果となってしまいました。
 バラムは、抜き身の剣を持った御使いから、ことの次第を告げられたとき、「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します」と答えました。そうしましたら、「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」と言われました。行くな、と言われたあと、行ってもよいと言われたので、行ったらしかられて、それじゃ、引き返しますと言うと、行け、と言われるということで、何が何だかわからない、いったいどちらなのですか、という感じも致します。しかし、これらのことのなかには、やはり、神様の秩序だったメッセージがあるのだと、思われます。
 最終的にバラムが行くことで、結局は、モアブ王バラクは、まことの神様がイスラエルを祝福しておられることを知るに至ります。しかし、そのとき、占い師バラムは、バラクの要求に従って、呪うことを課せられているのですから、その圧力を跳ね返すだけの意志が必要になります。占い師バラムは、モアブ王バラクの圧力に屈することのない力を得られるために、これら一連の出来事を経験することになったのではないでしょうか。
 その他にも、ろばを勝手なことをするからと、杖で叩いたバラムでしたが、神様もまた、一向に悟ることのないバラムに対して、抜き身の剣をもつ御使いを登場させて、彼を戒めようとされました。しかも、もし、手に剣があったなら、殺していたであろうとろばに言ったバラムでしたが、抜き身の剣をもった御使いも、「ろばが、わたしを避けていなかったなら、きっと今は、ろはを生かしておいても、あなたを殺していたであろう」と述べています。
 ろばを通して、神様のお気持ちを教え聡そうとされたのかもしれません。また、このろばによって、彼は、命拾いすることになりました。ろばは、言いました。「わたしはあなたのろばですし、あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか。今まで、あなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか」。
 いつもとは違うようすからして、神様のご意志を悟るべきではないか、そういうこともあったでしょう。ろばは平和の象徴のように聖書には取り扱われています。十字架を前にしてイエス様が、エルサレムへ入場するときに、子ろばに乗って行きました。危険な中に、その危険をかわしていくように、進んでいくのです。ろはは、馬に比べ、小さくやさしそうですが、一見、のろのろとして、愚かそうにも見えます。そのような存在にこそ、危険な中にあっても、平和を運ぶ力があるように思われます。
 また、このとき、このろばには、その危険の何たるかが見えました。日頃、神様の言われることを聞くという仕事をしているバラムには、それが見えなかったのでした。これもまた、示唆的です。バラムには、私は、神様の言われることを聞き分ける能力が備わっている、神様のことを見極める力がある、そういうおごり高ぶりがあったかもしれないのです。神様は、示そうとする者にご自身を示されるのであって、こちらの能力によってそのことが起こるというのではないことがわかります。
 この箇所からは、いろいろなことが示されるのですが、その道が滅びに通ずる道であるときには、何としてでもその道を行くことができないようにしてくださる、そういうことがあることを知らされます。ですから、何度チャレンジしても、だめな場合は、これはきっと安全で、もっと自分に合った道を神様は用意されているのだと、前向きにとらえることができるでしょう。
 あるいは、一度、きっぱりとだめだと言われたのにかかわらず、それでも行こうとするときに、神様は、それじゃ行っていいよ、と道を開いたかに見えることがあるけれども、それで、ああよかった、神様は私の思いをよしとしてくださったと考えるのも、時期尚早であるかもしれません。神様は、聞こうとしないわたしたちに愛想をつかされただけかもしれないからです。
 また、行っていいよ、否、やめなさい、否いいよ、など、いったいどちらかわからないときには、結局のところ、そこには、神様の目的があるのであって、その目的を達成するために、私を用いようとされているのだと、考えることも必要であるということでしょうか。バラムは、イスラエルを祝福するために用いられたということです。そこに神様の目的がありました。
 いずれにしても、私たちに求められていることを今日の箇所から一つ選び出すとすれば、「ただ、わたしがあなたに告げることだけを告げなさい」ということに尽きるでしょう。
 とりわけ、私たちにできることは、聖書にはこう書いてある、と述べるだけです。バラムも、そのことにだけには、忠実であろうと努めていました。神様の目からすると、それでも足りなかったわけですが、本人なりには、努めていたのでしょう。神様の告げることを告げる、その点で、私たちは神様に用いられるのです。
 私たちは、神様がこれまでいかに私を導いてくださったか、いかに恵みを賜ってくださったかを語る(これは証しですが、今、ここで働いてくださっている神様を語ることになるのです)と同時に、聖書にはこのように書いてあります(これは御言葉を語ることです)、そのことを告げることが求められています。


平良師

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