平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2015年9月27日 進んで心から

2016-01-17 17:38:21 | 2015年
出エジプト記35章4~29節
進んで心から

 モーセは、イスラエルの共同体全体に告げました。出エジプト記の35章の4節「これは主が命じられた言葉である。あなたたちの持ち物のうちから、主のもとに献納物を持って来なさい。すべて進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい」。神様は、荒野において、彼らが神様に礼拝をささげるために幕屋の建造を示し、その材料をささげることを求められました。
 しかし、このことは24章の8節、25章の1節2節で既に述べられていることでした。「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。」そして、その幕屋建設ための材料たるや広範囲に及んでおりました。金属、繊維、毛皮、宝石、油などです。それから、木材や石などもありました。彼らは、エジプトでは、奴隷としての生活をしていたので、高価なものはもちろん、家財道具もそんなには持っていなかったはずです。また、エジプトを脱出するときにも、急いでいたために酵母を入れないパン菓子を持っていったくらいでしたから、いわば、着の身着のままで、住んでいたところをあとにしておりました。急なことでしたので、それまでの家財道具なども持っていくことはできませんでしたでしょう。もし、持っていくことができたとしても、わずかな衣類や食料ぐらいなものだったにちがいありません。
 ですから、神様が、幕屋建設の材料として求めておられるようなものを持っていたとは、とても思えません。強いて言えば、エジプトを脱出するときに、イスラエルの民が、エジプト人からもらった品々です。それらは金銀の装飾品や衣類などでありました。聖書には、それらの品々は、イスラエルの人々が、脱出の際に、エジプト人から略奪したものだというようなことは書かれておりません。逆に、エジプト人が、脱出するイスラエルの人々に好意を示すように神様がなされたことだったと書いてあります。そこらのことは、出エジプト記の12章33節から36節に書いてあります。「エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。
 そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。民(イスラエルの民)は、酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ。イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした」とあります。ですから、多少の宝石の類や衣類などを持っていた可能性はあります。
 それでも、もう何年ものあいだ、荒野の放浪の旅をしているのですから、使い果たしたものもあったでしょうし、紛失したものもあったはずであります。そのような状況でありましたから、何か持っていたとすれば、それは、その家の家宝、その人にとって、最高に大切な品であったのではないでしょうか。
 イスラエルの人々は、この幕屋建設の話、それにともなって必要とされる材料の話をモーセから聞いて、一旦家々に戻りました。そして、21節ですが「心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えてきた。進んで心からする者は皆、男も女も次々と襟止め、耳輪、指輪、首飾り、およびすべての金の飾りを携えてきて、みな金の献納物として主にささげた」とあります。その他、数々の献納物を男も女も持ってきました。
 そして、29節には、「モーセを通じて主が行うようにお命じになったすべての仕事のために、進んで心からするイスラエルの人々は、男も女も皆、随意の献げ物を主に携えて来た」のでした。この人々のなかには、幕屋建設のための品々を持ってきた人々や、その幕屋のいろいろな道具や建物を作るために、自分の力を用いてもらうためにやってきた人々もおりました。10節からのところに、「また、あなたたちのうちの、心に知恵のある者をすべて集め、主が命じられた物をことごとく作らせなさい。すなわち、幕屋、天幕、覆い、留め金、壁板、横木、柱、台座、」と作る祭具や建物に用いるものなどですが、こうした、作るという作業に従事する形で、神様に仕えるという者も必要とされ、それに名乗り出た者たちもおりました。
 幕屋ですから、そこにずっとあるものではありません。移動できるものです。移動できる簡易式のものを作られました。神様は、目に見えるお方ではありませんが、ずっと共におられることを表す安心材料を、このまだ未熟な信仰のイスラエルの民のために、幕屋を作ることをお考えになられたのだと思います。それから、歴史がくだり、ダビデの子ソロモン王のときに、イスラエルは、神殿を造ることになります。これもまた、周辺諸国と競合しければならない当時の時代状況にあっては、他の国の宗教との区別をしっかりとつけなければならない事情の中で、自然の成り行きであったのかもしれません。
 しかし、新約聖書において、パウロが、アテネの民衆に使徒言行録の17章24節からのところで言ったように、「世界とその中の万物とを造られた神が、そのお方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」。
 これが、本来の信仰ですので、先週申しましたように、見えない神様が共にいて、先だって導いてくださること、そのことを信じるのが、真の信仰です。そうは言っても、このときの旧約聖書における神様は、信仰がまだしっかりと成長していない未熟なイスラエルの民と共に歩まれている神様ですから、彼らの状況、信仰の段階に合わせておられたということは考えられます。それで、あえて、偶像を示したわけではありませんが、建造物をとおして、神様が伴ってくださっているというイメージ作りをお図りになられたものと思われます。
 今日のところで、注目したいことは、その材料を持ってきた者たちの姿勢です。21節「心動かされ、進んで心からする者」という言い方をしていることです。モーセの幕屋建設の話を聞いて心動かされたその内容は、25章の8節「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」という言葉であったのではないでしょうか。
 神様が、わたしたちのなかに住むといってくださっている、そのところを作るのですから、それは心が動いた、感動したことでしょう。本来でしたら、見えない、その神様を求め、共にいてくださることを信じつつ歩みをする、それが信仰する者の姿ですが、当初、イスラエルの民は、十戒をいただいたその直後からして、その一番大切な戒めを破ってしまうほどの、信仰の弱い民でした。そのことを痛いほどにご存じでしたから、神様は、彼らのために、留保なさって、このような幕屋建設を指示したのかもしれないのです。
 そして、そのとき、持参する献げ物は、「進んで心から」するものでなければ、だめでした。「進んで心から」ということが、大切なことであることは、何度も、献げるときの気持ちについて、わざわざ「進んで心から」という言葉を付け加えていることでわかります。この心の持ちようがないところでは、それを神様は受け取ってくださらないのではないか、と思うほどです。イスラエルの人々が、持ってきた物は、たくさんある中からのものではありませんでした。そういうことで言うならその反対です。おそらく、唯一残っていた宝のようなものを彼らは幕屋建設のために用いて欲しいと持ってきたことでしょう。
 新約聖書のあのレプタ二枚という有り金すべてを献げた女性のようなものです。レプタ二枚というのは、実にわずかな金額でしかありませんでしたが、そのときの彼女にとっては全財産でした。イエス様は、この女性の献げる姿勢をお褒めになりました。他の者たちは、あるものの中から行ったが、この女性は、すべてを献げたと言われてお褒めになられました。すべてを献げれば明日からはどうやって生活をしていけばよいかということになります。
 つまり、それは、すべてを神様にお委ね致しますということです。神様が何とかしてくださる、という信仰に基づいております。献金というのは、その額というよりも割合の問題なのでしょうが、その人が、持てるものの多くの割合を神様に献げるというのは、その分、その割合だけ、神様に寄り頼むことを表しております。それもしぶしぶといった気持ちからではなく、「進んで心から」するところに意味があります。そのような心のありようを神様は喜ばれ、祝福もしてくださるのです。
 神様は、イエス様をとおして、惜しみなく与えられることを私たちに教えてくださっておられます。パウロもローマの信徒への手紙の12章の8節で「勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」と述べています。惜しまずする、快く行う、そういう積極的な姿勢を神様は、喜ばれます。
 確かに、ここには、今日の私たちの献金姿勢が問われているでしょう。「進んで心から」なのです。しかし、その人が、「進んで心から」なのかどうか、心の持ちようは、神様しか知りません。礼拝には、神様と自分の真実な関係が求められます。そこで、献げられる物にも、真実な思いが込められていなければ意味がないのでしょう。しかし、繰り返しますが、献げ物に真実な思いが込められているのか、いないのかは、神様しかわからず、誰にもわからないのです。使徒言行録の5章にアナ二アとサフィラの夫婦のお話を思い起こします。
 二人は、自分たちの土地を売って、その代金をごまかして、その一部を使徒たちのところへ持ってきました。つまり、土地を売ったお金のすべてが、これこれですと、偽りを言って使徒たちのところへおいたということのようです。何が罪であったかというと、偽りを述べたことでした。売った代金は、彼らのものですから、彼らがどのように使うかは、自由でした。ただ、当時は、使徒言行録の4章の32節からのところにあるように、各々が持っていた財産を売って、それを使徒たちのところへ持ってきて、それらは、必要に応じて分配されていたということです。
 原始共産制といったらいいのでしょうか、財産の共有化が図られておりました。皆が、そうしていたので、アナ二アも妻サフィラも同じようにしなければならないと考えたことでしょう。しかし、彼らは、少し惜しいという気持ちが生まれて、一部をごまかし、実際売れた額よりも、少ないものをもってきて、これがすべてであるかのように偽りを述べたのでした。そこでペトロは、「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言いました。私と神様との関係は、それが真実かどうかは神様しか知りません。そこには、真実しかあってはならない、というのが信仰です。神様との関係において、嘘をつく必要などまったくないのです。なぜなら、私たちのすべてのことを、神様はご存じだからです。
 聖書は、私たちに「進んで心から」献げること、奉仕することを教えています。その姿勢を神様は、祝福され、喜んでくださいます。このときの幕屋は、そうしたイスラエルの人々の心がいっぱいつまった結果、完成したものでした。教会を建て上げること、それは、何も目に見える建物だけではありません。中味こそが、さらに重要になってまいります。
 「進んで心から」の姿勢で、献げ、奉仕する群れであれば、教会はしっかりと立っていきます。私たち平尾バプテスト教会の群れは、これまでそうであったと言えると私は思います。そして、来年度から、二つの宣教の場所をいただき、二人の専任の牧師を擁しているこの平尾バプテスト教会は、さらにその姿勢が強く求められることでしょう。
 しかし、決して、ねばならないといった脅迫観念から献げものや奉仕をするのではなく、私と神様との関係に真実に生きていく、そこにおいて「進んで心から」の姿勢を保ちつつ行動していく、そのことができれば、それが一番よいのだろうと思います。イエス・キリストの教会を真実に建て上げていくために、これからも「進んで心から」の姿勢を大切にして、皆で力を合わせ、歩んでまいりたいと思います。


平良 師

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