平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2008年10月19日 必要なことはただ一つ

2008-12-21 17:40:21 | 2008年
ルカによる福音書10章38~42節
    必要なことはただ一つ

 イエス様が、入っていかれたその村は、ベタニヤ村だったと思われます。ここには、マルタとマリアの姉妹、その弟のラザロ(イエス様から蘇らされたあのラザロ)が、住んでおりました。ヨハネによる福音書には、この3人は、血のつながりのある実の兄弟姉妹であったことが記されています。イエス様は、これらの人々もまた非常に愛されておりました。そして、この村に入ったときには、おそらく必ずといっていいほどに、マルタ、マリア、ラザロの家へ、立ち寄ったのではないでしょうか。イエス様は、ある意味では放浪の旅をされておりましたから、こうした、旅の先々での立ち寄る家、イエス様一行をお世話してくれる家々があり、人々がいたのだろうと思います。ときには、野宿をするということもおありだったのでしょう。

 イエス様一行が近くまで来ているということを聞いて、マルタは、迎える準備をしておりました。当然、妹のマリアとも話をし、だんどりをつけ、待っていました。イエス様一行が村に入ってこられるのを見ると、マルタは喜んで、一行を迎えいれます。

イエス様が、家に入られると、一緒についてきていた伴の人々や、また、イエス様が来られたということを聞きつけてやってきた近所の人々などで、家はぎゅうぎゅう詰めとなっていました。マルタは、てんやわんやで接待のために動き回っています。

 ところが、一緒になって接待をするはずの妹がいません。よく見ると、妹は、イエス様の足元に座って、イエス様が話されることに聞き入っております。マルタは、妹は、こういうところがあって、いらいらさせられたり、困るのよねえと思ったことが何度かあったでしょうが、これもまた妹の良さでもあるのだからと、ちょっとだけならいいかと、しばらくは我慢しておりました。しかし、妹は、いつまでたっても、手伝いをしようとはしません。相変わらず、イエス様のおそばで、語られる言葉に食い入るように耳を傾けているのです。

 マルタは、ついに、妹に対して、憤りが収まらなくなりました。マルタは、かなりギリギリのところまで、我慢し続けていたのでしょう。そうでなかったら、妹のところへそっとやってきて、イエス様にもわからないように「手伝ってちょうだい」と小声で言えばよかったのです。マルタは、このとき、気のきかない妹にだけでなく、イエス様にも腹を立てていたようです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。

 イエス様に「何ともお思いになりませんか」というのは、イエス様のお気持を問うている、イエス様も理解しがたいといった感じです。マルタは、イエス様、どうして、妹をたしなめてくださらないのですか、妹も、私と一緒に接待の手伝いをすべきだとはお思いにならないのですか、イエス様がだまっているから、妹は調子にのって手伝いをしようともしないのですよ、私は、一生懸命、イエス様たち一行の食事を用意したり、いろいろなことのために立ち振る舞っておりますのに、とその怒りの矛先は、イエス様の方にまで、向いているのでした。

 マルタの中には、イエス様が、このことに早くに気づいてくれて、マリアに、お姉さんはとても忙しそうだよ、手伝いをしなくても大丈夫かね、とか何とか言ってくれたら、それで、或いは、気持が治まっていたかもしれません。それを黙っておられるというのは、あたかも、イエス様が、マリアを容認しているようで、それがたまらなかったのでしょう。イエス様たちのために、一生懸命働いている自分のことをイエス様は、まるで見てくれていない、認めてくれていないと知らず知らずのうちに、思えてきたのでしょう。逆に、手伝いもせず、話に聞き入っている妹の方をむしろイエス様は認めているようで、ますます、腹が立ってきたのではないでしょうか。

 それに対して、イエス様は、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことは、ただ一つだけである。マリアは、良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われたのでした。

 それなら、イエス様は、どうして、マルタに、「まずはマルタ、私の話を聞いてくれないか、それから、料理の準備に入ったらいいですよ」と言われなかったのでしょうか。もし、マリアが良い方を選んでいる、と思われたのなら、そのようにマルタに言ってあげられたらよかったのに、と思うのです。それをされなかったのには、きっと理由があることでしょう。

 イエス様は、マルタが、自分たち一行のために、一生懸命に奉仕をしてくれていることに対して、ほんとうに感謝されていたのではないでしょうか。ありがたいと思われていたことでしょう。そういうマルタのありようを決して否定されはしなかったのです。マルタ、マルタとの二度にわたる呼びかけには、マルタに対するイエス様の深い哀れみの情すら感じられます。

 ところが、そのマルタが、妹マリアのしていることを非難し、マルタを手伝うように言ってくれと、と言われたとき、そのことをどちらでもよいことのように言うことはできなかったのです。はっきりと、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」と言われました。

 マルタは、ショックだったことでしょう。おそらく、イエス様は、マルタの言うことをそのとおりと言われて、「マリア、マルタの言うとおり、お姉さんを手伝ったらどうですか」、と言ってくださるものと考えていたのではないでしょうか。それが、一般の社会の常識というものです。

 マリアは、イエス様一行を迎えいれた家の者であって、マルタと一緒に、接待の世話をすることを当然のごとくに了解していたはずなのです。一緒に協力して、準備をすることになっていたと思われます。しかも、こんなに大人数の接待をしなければなりません。誰が考えても、マリアが手伝うのは当たり前の話でした。

 そのマリアは、手伝わねばならなかったのですが、イエス様のお話が、とてもすばらしく、大切なものと思われて、接待のことなど忘れて、そこに座り込み、話に聞き入ってしまっていたのでした。しかし、マルタの言うとおりにすれば、マリアがイエス様のお話を聞けなくなってしまいます。イエス様は、マリアから「それを取り上げてはならない」と言われました。主の御言葉を取り上げることは、許されないということでした。

 マルタが、このイエス様のお言葉を聞いて、どのように考え、何を言ったのか、言わなかったのかは、そうしたリアクションについては、何も書かれていません。マルタは、ある意味では、イエス様から諭されたという形ですから、素直に、そうだったと思えたらよいと思いますが、おもしろくない、どうして私が逆にイエス様から諭されるということになるのか、納得できない、そういった思いだったかもしれません。

 このお話からは、私たちは多くのことを考えさせられるのです。それは、私たちの日常に起こる、実に身近かなどこにでもある風景だからです。教会でも、女性会の皆様が、お昼の準備をしていて、やむをえず、礼拝までそれが食い込むことがあります。途中でやめることのできないものもありますから。奉仕をしている方々も、礼拝堂に入ってきて、お手伝いをしてちょうだいとは言いませんし、礼拝が始まっても奉仕をされている方々を責めたりも致しません。ただし、私たちは、このマルタとマリアのお話を知っていますから、極力、準備が礼拝前には終わるように、努力されておられると思います。

 ただし、このときは、2年あまりという短い宣教活動の中のイエス様のお話ですから、イエス様は実質的には、2年ないし3年くらいしか、神の国の宣教、癒しやその他の業を行ってはおりません。そして、十字架におつきになられたのです。

 ですから、いつでも、いつまでもイエス様のお話が聞けるというわけではありませんでした。今、私たちは、聖書を開きますと、神様の御言葉、イエス様の御言葉を目にすることがいつでもできますが、マリア、マルタの時代は、そうではなかったと言えます。とくに、イエス様の語られるお話の内容は、当時にあって、他の誰からも聞けない、イエス様からしか聞くことのできないようなものだったでしょうから、それを必至になって聞く、一言も聞き漏らさないように聞くというのは、当然のことでありました。

 しかも、もうすぐ十字架におかかりになるのであって、いつまでも、イエス様のお話を聞くことができるわけでもない、という状況のもとにあります。今、ここでは、イエス様の御言葉にしっかりと耳を傾けることこそ、大事なことなのでした。それをマリアは選んだ、そして、それは取り上げられてはならないものだったのです。

 ときということであれば、ヨハネによる福音書の12章の1節からのところに、同じく、イエス様が、ベタニヤ村のマルタ、マリア、ラザロの家に行ったときのことが記されています。そのときも、マルタは、給仕をしていたとあります。

 そして、マリアが、1リトラ(326グラム)のナルドの香油をもってきて、イエス様の足に塗って、自分の髪でそれをぬぐったとのお話があります。ユダは、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言ったと書かれています。

 1デナリオンを1万円と換算しますと、300万円もの価値のある香油でした。確かに、それを普通でしたら水で足を洗うところを、高価な香油で洗ったようなものですから、見方によっては、それはもったいない話であったでしょう。貧しい人々に施した方がよいと、ユダの言っていることの方が、当時の誰もがそのように思ったのではないでしょうか。このときユダは、本心でそういったのではなく、彼は会計をあずかっていたので、それを手に入れてごまかそうとしたのじゃないか、ということですが。

 イエス様はこのとき、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言われたのでした。「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」というのは、今このときは、イエス様のことを第一として考えてくれている、そのありようをイエス様は、ときを得ていることとして、たいへん喜んで受け入れておられるのです。

 イエス様は、いと小さき人々のこと、貧しい人々のことをおぼえることを私たちに勧められていますが、このときは、イエス様のことを第一としてくれたマリヤの行いをとても喜んでいるのです。つまり、ここでは優先順位のようなことが述べられているのです。何を第一とするか。マルタとマリアの先ほどのお話も、つまるところは、何を第一とするか、何が、ほんとうには必要なことなのか、そういうことであります。

 私たちには、主に仕えるということも大事です。マルタが接待をしていたのも、主に仕えるということでした。奉仕はなくてはならぬものです。しかし、御言葉にしっかりと耳を傾けることはもっと大事です。御言葉に耳を傾けることは、イエス様との生きた交流がそこにはあり、それこそが最も大事だからです。

 私たちには、マルタのように、主に一生懸命仕えることも必要ですし、マリアのように、一心不乱に主の御言葉に聞き入ることも大切です。どちらも、私たちには大事なことであります。できれば、両方のものをいつも兼ね備えておきたいと思います。しかし、イエス様は、どちらかを選ばねばならないような状況が発生したときには、必要なことはただ一つしかないと、言われるのです。

 イエス様の御言葉に耳を傾けること、イエス様とのそこでは、交流が計られています。そのことこそが、最も必要なことなのである、と言われています。「必要なことはただ一つ」、私たちは、日頃、多くのことに心を傾け、多くのことに心を乱され、冷静さを失い、平和、平安を失っているかもしれません。主の御言葉をいただくならば、むしろ、それらのことはすべて解決されるはずなのであります。

 これだけを押さえていれば、あとは、大丈夫、そういうことがあります。今日の招きの詞にもありました。マタイの6章31節から33節のイエス様のお言葉です。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらものはみな加えて与えられる」。

 日常のあれこれのことで思い悩むな、むしろ、神の国と神の義を求めるなら、必要なものはすべて加えて与えられる、と。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」。

 主が示される、必要なただ一つのこと、それは、主のみ言葉に耳を傾ける、一心不乱に聞き入る、イエス様の足元に腰を下ろし、主を見上げつつ、お話を聞くことであります。あなたは良い方を選んだ、いつのときも、イエス様から、そう言われる者でありたいと思います。そして、そのことによって、すべては満たされるのであります。


平良師

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