平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2008年10月26日 求めなさい。そうすれば与えられる。

2009-02-21 23:24:25 | 2008年
ルカによる福音書11章5~13節
 求めなさい。そうすれば与えられる。

 このお話の前には、弟子たちがイエス様に祈りを教えて欲しいというので、イエス様が、彼らに、私たちが今皆で唱えているいわゆる「主の祈り」の原型になるものを教えられたことが記されています。それは、何を祈るかという祈りの内容でした。この主の祈りは、旧約聖書で、モーセがかつて神様からシナイ山で、十戒をいただいたのですが、あの十戒への応答、あるいは、その十戒をさらに深化させたような内容になっているのではないでしょうか。

 十戒の最初の部分は、唯一の全知全能の真の神様をのみ、神とするように、この神のみを愛しなさい、そして、みだりに主の名前を唱えてはならない、それほどに畏れ多いお方であると教えられていました。それに対して、この主の祈りの最初は、「父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように」です。

 畏れ多いはずの神様をアッバ、お父ちゃんと呼びなさいとイエス様は教えられました。それほどに、神様を身近なお方として考えてもよいですよ、否むしろ、そうでなければならない、そういったことから始まっています。

 そして、神様のお名前がすべての人々に崇められますように、神様の支配される世界が、訪れますように。真の神様のみを神とするという姿勢よりもさらに、言われたから、ねばならないという気持ではなく、積極的に人間の側から神様を崇拝する姿を読み取ることができます。そして、次に、わたしたちに必要な糧を毎日与えてください、と。そうれずれば、人のものを欲しがることをせずにすみます。

 人殺しも、盗みも、しないですみますから。十戒では、殺すな、盗むな、他人のものを欲しがるなと戒められていました。必要な糧が、毎日与えられるのなら、それで、私たちは互いに平和に暮らせる状況は一応整います。

 そして、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」。神様に罪の赦しを願うようにとイエス様は言われます。罪を犯した者を義なる神様はお赦しにならないと、旧約聖書の人々は教えられていたのではないでしょうか。罪の赦しを願いなさい、あなたがたは、すべての者が、罪ある者なのだから、そのような思いがイエス様におありだったのでしょうか。

 しかし、自分の罪を赦してもらうことと、自分に負い目のある他者を自分が赦すことは表裏一体の分かちがたいことがらであることをイエス様は述べています。そして、最後に、「誘惑に遭わせないでください」と。誘惑に遭えば、私たちは、ひとたまりもありません。それほどに弱い私たちであることをイエス様は、よくご存知でした。ご自身もまた、弱くもろい人間として、この世に来られたのですから、人間の弱さをよくご存知のお方でありました。

 そして、次に、祈りをするときの姿勢です。ほんとうに求める気持が、必要なのです。この「主の祈り」がどのように成し遂げられていくのか、叶えられていくのか、そうしたこともこの5節から13節の箇所は教えているように思います。

 そのことをある譬え話を用いて、弟子たちになさいました。それは、次のようなお話でした。あなたがたの中の誰かに、友達がいました。友達は、誰にでもいます。友達というのは、どのような存在なのでしょうか。私たちが、困っているときに助けてくれる存在でしょうか。喜びや悲しみを分かち合ってくれる存在でしょうか。相談に乗ってくれる存在でしょうか。一緒に遊んでくれる存在でしょうか。友達は、ありがたいものです。,

 ある夜、あなたのところにその大事に思う友達が来たとします。聞いていた弟子たちは、これまで友達と思っていた、あの人この人のことが頭に浮かんでいたことでしょう。あなたは、夜もふかまって訪ねてきたその友達がたいへんお腹をすかしているのを知りました。聞けば、もう随分と何も食べていないと言います。

 久しぶりに会った友達で、わざわざ訪ねてきてくれた大切な人でした。あなたは、彼のために、接待し、何か食べ物を与えたいと思いましたが、家中、どこを探しても、彼に食べてもらえるようなものがありません。当時のことです。冷蔵庫はもちろんありません。保存できるものとしては、干物くらいだったのでしょうが、それすらもなかったのでした。夜明けまで待つことも、できないことはなかったのでしょうが、その訪ねてきた友達に何かしてあげたい、或いは、あまりにも、つらそうにしているのをみて、思い切って、近くのこれまた友人のところへ行って、パンを借りることにしたのでした。

 彼は、訪ねてきた友達のために、すでに夜中になっておりましたが、パンを借りるために暗く物騒な夜道をでかけて行き、そして、「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄って、何も出すものがないのです」と扉越しに、お願いしたのでした。パンを借りにいった友人も、彼にとっては、とても親しくしていた人であり、何とかしてくれるのではないかと、大いに期待できる人だったに違いありません。

 ところが、この友人はこのように言ったのでした。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」。夜中のことです。実際、皆さんだったらどうするでしょうか。

 私たち、ある意味では、街中に住んでいるものは、夜中と言えどもあたりは明るいし、夜中でも開いているお店はありますし、夜中に明々と電気をともして工事をしている人々はおりますし、動いている人々は結構いるものですから、恐れを感じるなどないかもしれません。しかし、当時は、真っ暗でしんと静まり返っており、声は何となく、友達のようだけれども、ほんとうにその人なのかどうか、心配です。

 ですから、扉を開けることすら躊躇せざるをえなかったでしょう。ですから、最初の段階で、このような応答が返ってきたのは、致し方なかったでしょう。また、当時のことですから、戸締りも厳重なもので、簡単ではなかったと思われます。その戸締りを解く作業にもひと手間かかりますし、おまけに、この住人である友人の隣で子供たちが寝ているというのです。

 そうしますと、彼が、動いた拍子に、起きてしまうことが予想されます。そうするとまた、その子どもたちを寝かしつけたり、たいへんだという思いが先にたって、面倒をかけないでください、つまり、帰ってください、ということになります。

 ここまでは、自然に予想される物語の流れです。そこで、イエス様は言われるのです。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て、必要なものは何でも与えるであろう」。これがイエス様のお考えです。

 つまり、友達と言えども、残念ながら、そうした限界をもっている存在ですよ、ということなのです。私たちは、友達を大切にします。それは、冒頭で言いましたように、私たちには、いろいろとありがたい存在だからです。しかし、人は皆、どのような人も、限界を持っているものなのです。その限界ある友人の振る舞いをもって、あるときは、裏切られたと思う人もいるでしょう。

 しかし、聖書を知っている者は、人はすべての者が、そのような限界を抱えている者たちであると教えられています。イエス様は、あなたがたが友達だからと言うので、起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て、必要とするものを与えるだろう、と言われます。と言うことは、極端なことを言えば、まったく見ず知らずの者であっても、執拗に、つまり、しつこくしつこく頼めば、それを与えてくれるというのです。

 ああ、何度も外でしつこく叫んでいるのは、確かに友達の誰それのようだ、よほどのことなんだろうけれども、起きることは躊躇してしまう。それにしてもうるさいほどに叫び求めている、これじゃ、隣、近所の人々にも迷惑にもなるし、眠るどころじゃない、子どもも起きてしまう、もうこれ以上はかなわない、早くパンを渡して帰ってもらおう、そう思うでしょう。

 ここに私たちは、イエス様の視点を教えられます。これは、神様と私たちの関係を言っております。神様は、私たちのことをおぼえていてくださいますが、おぼえているあたなだからというので、何かをしてくださるということはあるのですが、それはこのあと、父親と子どもの関係にたとえで語っておられますから、すでに作られている関係が大切であることも述べておられるのですが、しかし、そうでなくても、しつこく求めるなら神様は応答してくださるというのです。つまり、神様は、神様の名を呼び求め続ける者の神様であられるのです。

 別の聖書の箇所に同じような祈りの姿勢について述べているところがあります。ルカによる福音書の18章1節からのところです。そこには、神を畏れず、人をひととも思わない悪徳裁判官がおりました。一人のやもめがやってきて、相手を裁いて、自分を守ってくれるように、裁判を行って欲しいと願うのです。悪徳裁判官は、最初は無視していたのですが、彼女がしつこくたのむので、このままでは、ひっきりなしにやってきて、自分をさんざんな目に遭わすにちがいない、と判断して、彼女のために裁判をしてやろうと考えたという話です。

 悪徳裁判官ですらこうなのだから、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほおっておかれることがあろうか」と結んでいるのです。やもめは、選ばれた人かどうかはわかりません。そして、相手を裁いて、自分を守ってくれるように、と言っているのですが、相手が悪いのかどうかもわかりません。ただ、彼女は、自分の側について、裁判を行って欲しいと願っているのです。ここでもまた、神様に願い求め続ける人の姿が描かれているのです。

 それに対して、神様は、その人が、正しいからというのではなく、神様に願い求め続けるがゆえに、動かれるのです。神様は、神様の名を呼び求め続ける者の神様なのではないでしょうか。その願い続けるということそのものが、選ばれた人ということになっているのかもしれません。

 イエス様は言われます。「わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。どのようなときにも、しつこく求め続けること、これによって、神様は動いてくださる、と言われるのです。その人には、誰であったとしても、神様が働いてくださり、求めていたものを得られるのです。道が開かれるのです。

次に、このようにイエス様は言われます。「魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか、また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」。父親ならば、そのようなむごいことをするはずがない、子どもが欲しがっているものを、きっと与えてくれるに違いないということです。

 そして、イエス様は「このように、あなたがたは悪い者でありながら、自分の子どもには良い物を与えることを知っている」。どのような親であれ、自分の子どもは可愛く、それゆえに、できるだけ子どもが欲しがるもの、それも良い物を与えたいと思います。子どもは、お父ちゃんと遠慮なく、甘えたらいいのです。

 神様はどうでしょうか。神様は、私たちが願うものの中で、一番によいものを与えてくださると言われます。それは、「まして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」、聖霊以上のものはない、と言われるのです。聖霊、それは、今ここで働いてくださる神様のお力を言います。神様が、力をお与えになる、それ以上のすばらしいものがあるでしょうか。そして、このことは、逆に、私たちに、私たちが最終的に願うべきものが何かを示しているとも考えられます。

 聖霊、それこそ、私たちがこいねがうべきものです。信仰も、神様から力をいただく体験であるということが言えます。神様のお力をこの弱い私たちにお与えください。

 その祈りをU.T.姉は、8月のバプテスマ式のときの信仰告白でされていました。「私に、病床にある夫を支える力を与えてください」、その祈りを神様は聞かれました。姉妹は、それまで、幾度となく、このような事態を前にして、自分は弱いと泣き崩れておられたのですが、この数週間は違いました。昨日、天に召された夫の千彰さんとこの世での最後のときをしっかりと共に過ごされ、見送られました。千彰さんもすべてのことに感謝します、と幾度となく言われていました。御言葉を聞かせてください、と言ってくださいました。

 まさに、お二人は、今ここで働かれる力をいただいていたと思うのです。私たちも願います。私たちの信仰をさらに確信あるものとしてください。この週もまた、聖霊で私たちを満たしてくださいますように。


平良師

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