ルカ福音書2章1~7節
飼い葉桶のキリスト
このときの皇帝アウグストゥスとは、イウス・オクタヴィアヌスのことで、彼はローマ帝国の最初の皇帝であり、彼の時代にローマがいわゆる世界の支配を成し遂げたのでした。そして、ローマは、支配した国々に対して、そのときどきの皇帝を神として礼拝するように、強要する時代もありました。ユダヤもまた、その属領となり、ローマの支配に屈しておりました。ユダヤの中にもメシア(救い主)を待ち望む思いがありました。
しかし、それは、ローマの皇帝と同じように力で、自分たちのユダヤの国を再び独立したものとして樹立させてくれる強い王としてのメシア、キリストだったのです。それには、このローマの皇帝を凌ぐほどのもでなければ、それはありえないのですから、ほんとうに力強い、かつてのユダヤの王ダビデやソロモン王などをイメージする者たちがおそらくほとんどであったでしょう。
ローマは、財政面を確立するために、支配した領地に住む人々から人頭税を徴収することにしました。この税金の納入は人々を苦しめました。ルカによる福音書の20章20節からのところでも、イエス様の言葉じりをとらえて、訴えようとした者が「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法(彼らが大切にしていた決まり、社会規範)に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と問うて、それに対してイエス様が、デナリオン銀貨は、だれの肖像と銘があるかと尋ね、彼らが、皇帝のものです、と言うと、イエス様が、「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた話があります。
税金をローマに納めることはユダヤ人には、とても屈辱的であり、それだけでなく当然生活の苦しさを強いられることになっていたのでしょう。とにかく、ローマは、その税制を整えるために、人々を生まれ故郷に返して、そこで住民登録をさせることにしたのです。イエス様を身ごもったマリアの夫は、ユダヤのベツレヘム出身のヨセフでした。ヨセフは、ダビデ王の末裔にあたります。ダビデ王は、賛美歌に「エッサイの根より生い出でたる」とありますようにエッサイの息子で、このベツレヘムの地で誕生しておりました。
ですから、ベツレヘムのことをダビデの町と言っていたようです。その遠い子孫が、ヨセフでした。しかし、イエス様は、聖霊によって身ごもったというのですから、直接血を受け継いでいるわけではありませんでした。それでも、聖書は、系図などを通してイエス・キリストは、ダビデ、果てはアダムまで遡る人物として、描こうとしております。そして、初めての住民登録をするようにとの皇帝の勅令が出て、それによって世界中の人々が右往左往しなければならなくなったときに、イエス様のご降誕の時期もぴたっと重なり、彼らはベツレヘムまでの危険な旅をしなければならなくなったのでした。
権力者・支配者の思惑により、一般の市民、特に弱い立場の者の生活や人生が、翻弄されるということは、よくあることです。ときには、無意味な殺戮にさえ、加担させられるときもあります。ルワンダの悲劇もまた、権力を握っていた者たちの思惑のために、利用され、躍らされた一般の市民が、二つの部族に分かれて、敵意を煽られた多数派の部族が、少数の部族の殺害に至ったという痛ましい事件でした。
派遣労働者の問題も、グローバリゼーションという大国の力の前に、さらにシビアに利益、効率を考えざるをえなくなった企業の生み出さざるをえなかったシステムの一つかもしれません。そこで働く労働者が、が、この大不況の中、真っ先に、犠牲となり、この寒空の下、路頭に迷うことになっているのです。
大きな権力の前には、一市民の人生や努力など何ほどのこともないといった扱いを受けるのでしょう。このとき、ヨセフとマリアもまた、その大きな力の前に、マリアは身重と言う体でありながら、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで、つらい旅を強いられたのでした。
そして、ようやくたどり着いたベツレヘムには、帰郷した人々が随分いたとみえ、親戚筋も、あちこちの宿屋もいっぱいで、ヨセフとマリアが泊まるところは、どこにもありませんでした。そうこうして何日か過ぎた頃、マリアは、月が満ちて、イエス様を出産することになりました。かろうじて、どこかの家畜小屋があったようで、そこで出産し、イエス様は、飼い葉桶に寝かされたのでした。本来でしたら、ガリラヤの自宅で安心して出産することになったのでしょうが、大きな権力の前に、ヨセフとマリアは、翻弄され、不便ななか、危険なうちに、出産を余儀なくされたのでした。それでも、主に守られていましたから、ヨセフもまたマリアも、恐れずにすんだかもしれません。
ここには対照的な二人のメシアが登場しています。一人は、まさに、それこそこの世における強力な救い主、皇帝オクタヴィアヌスであり、彼は、全世界に勝利し、いわゆる「パックスローマ」、ローマの平和をもたらしたと考えられた人物でした。もちろん、これは強大な武力で制圧して得た安定でした。しかし、ローマは、支配した国々の自治もある程度認めていきましたので、それはそれで上手に支配したともいえるのです。
そして、もう一人は、この世の支配者の命令で、命がけの旅を強いられ、泊まるところもなく、家畜小屋で誕生した神様の独り子でした。一方は、世界を支配する力強い、成人した立派そうにみえる男性であり、一方は、粗末な家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている無力な赤ちゃんでした。はじめユダヤ人たちの多くが、弟子たちですら、自分たちユダヤ人のメシア、キリスト、救い主は、皇帝のような強い王様であろうと、期待していたのです。ところが、実際は、この無力な赤ちゃんだったのです。
しかし、歴史では、こうした歴代のローマの皇帝たちの威光は、そのときだけで消えうせ、自分を神として礼拝するようにと願った者も死に絶え、その代わり、逆に、キリスト者たちの数は日増しに増え続け、おまけに迫害すればするほどに増えていったとも思われます。そして、ついに、ローマ帝国が、そのキリスト教を国教にせざるをえないほどの力になっていったのは、とても皮肉な話でした。無力なお方が、最後には、勝利されたのでした。
それは、イエス・キリストこそが、まことのメシアだったからに他なりません。この強力な皇帝と無力な救い主と、どちらが、私たちを内側から変革させる力を持っていたかということなのです。どちらが、私たちの生き方を自ずと変える力をもっていたかなのです。少なくとも、皇帝には人々の命を奪うことはできても、新たなる命を与えることなど、到底できませんでした。
日本漢字検定協会が世相を表す漢字一字を募集し、一番多かったものを毎年発表し、それをマスコミが取り上げ報じていますが、今年は、「変」という漢字でした。この一年、多くの変化がありました。世の中の多くの事柄が変わりました。
首相も変わりました。経済事情も大不況となり、変わりました。いろいろなことが、変だ、そういうイメージもありました。アメリカの次期大統領も変わります。そして、彼は、変革が必要だと言っています。経済システムの建て直しも必要でしょうし、対イラク政策も考えなければならないのでしょう。大不況に伴い、多くの方々が、生活のスタイルを変えなければならなくなってきました。いろいろな事柄に、自分たちの生活の防衛、生活を守るということが先立ってしまうようになるかもしれません。おそらく、イエス様の明日のことを思い煩うなという御言葉は、このような明日もわからぬ時代状況の中で、語られたものだったのではないでしょうか。
外からくるいろいろな変化は、私たちの心の変化をある程度まで強いることはできるでしょう。しかし、心の奥深いところまで変えることはできませんし、さらに、私たちを新たに作ることなど決してできないのです。それが、おできになる方が、この無力な、飼い葉桶に寝かされているイエス・キリスト、その人なのです。
当時、皇帝に会うことなど、誰にでもできるというのではありませんでした。今でも、地位のある者に会うことは、簡単にはできません。皇帝にも、限られた者、許された者だけが会うことができたのです。それに対して、イエス様には、救いからもれている、その資格なしと思われていた羊飼いや異邦人の博士たちも会うことができました。否、むしろ、彼らに真っ先に、救い主誕生の知らせが届き、彼らが最初に、イエス様を拝することになるのです。このメシアは、誰でも、会おうと思うならば、いついかなるときにもお会いできるお方です。
そして、この飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんは、私たちに自分のことについつい集中していく心の動きを、この赤ちゃん中心へと考えや関心を向けさせていくのです。一般に赤ちゃんとは、そういう存在であるとも言えます。赤ちゃんが、熱が出たとなると、そのまま放置することはできません。ときには、夜中でも、病院に駆け込むことになります。赤ちゃんを中心にして、私たちの生活のリズムもできあがっていくのです。赤ちゃんの前では、私たちは、自分を作る必要もありません。ありのままでおられるでしょう。赤ちゃんが、笑うと私たちの心もまた、和み、平和になるのです。
赤ちゃんと皇帝は、あまりにも対極にあるでしょう。皇帝のもたらす力による平和と赤ちゃんのもたらす平和は、その本質からして、違うのです。皇帝のもたらす力による平和は、反逆と戦争の不安をつねに背後に抱えており、赤ちゃんのもたらす平和は、人間の罪の悔い改めを迫り、一人ひとりが平和に生きる者へと変革していく力を持っているのです。
私たちもまた、かつては、赤ちゃんでした。こどもでした。何一つ、自分のことを自分ですることはできませんでした。すべてのことをお世話してもらわねばなりませんでした。母親や父親をはじめ、周りのものたちから何から何までしてもらわねばならなかったのです。そして、その赤ちゃんは、すべてを他者に委ねる以外にありません。私たちの存在の本質は、まさにそうであるのはないでしょうか。私たちは、神様にすべてを委ねる以外にないのです。飼い葉桶のイエス様は、そうした私たちの忘れてしまっていた人としての本質を教えてくれる方でもあるのです。
私たちは、今日、誰をメシア、キリスト、救い主と呼ぶでしょうか。ローマ帝国の皇帝のように、強大な権力の座にある誰かでしょうか。彼らは、今の私たちの窮状を救ってくれると期待できるでしょうか。否、私たちの心の渇きを癒すことはできないでしょう。私たちをまったく新しくすることもできないし、そうした命に生きることも指し示すことはできないでしょう。私たちに死に打ち勝つ希望を示すこともできないでしょう。私たちに、真実に心の平安、平和をもたらすこともできないでしょう。
飼い葉桶の無力で、無防備で何もできない赤ちゃんこそ、私たちのメシア、キリスト、救い主です。私たちは、このお方に従うのです。なぜなら、このお方こそ、真の平和の君であり、最高に力ある方であり、私たちに新しい命を与え、その命に生きることを教えてくれるお方だからです。イエス・キリストは、その生涯を通して、ある意味では、赤ちゃんのようにあり続けたお方ではなかったでしょうか。多くの弱い人、病の人に寄り添ったお方でした。私たちにもそのようにするように、教えられた方でした。
私たちに、私たちの弱い人間としての本質を教えてくださいました。そして、最後には、わたしたちのために十字架におつきになられ、まったく、ご自身弱い一人の人間として死んでいかれました。無力な方として、死んでいかれました。このお方を、神様は、三日目に蘇らされ、私たちに永遠の命を約束してくださいました。無力な方であられた方は、否、それゆえにだったかもしれません、力ある方として復活させられ、引き上げられたのです。
私たちが、今年も迎えようとしている救い主は、そして、そこに行って拝しようとしているお方は、飼い葉桶に寝かされている無力で、無防備で、弱い赤ちゃんなのです。まさに、平和の君であられます。
平良師
飼い葉桶のキリスト
このときの皇帝アウグストゥスとは、イウス・オクタヴィアヌスのことで、彼はローマ帝国の最初の皇帝であり、彼の時代にローマがいわゆる世界の支配を成し遂げたのでした。そして、ローマは、支配した国々に対して、そのときどきの皇帝を神として礼拝するように、強要する時代もありました。ユダヤもまた、その属領となり、ローマの支配に屈しておりました。ユダヤの中にもメシア(救い主)を待ち望む思いがありました。
しかし、それは、ローマの皇帝と同じように力で、自分たちのユダヤの国を再び独立したものとして樹立させてくれる強い王としてのメシア、キリストだったのです。それには、このローマの皇帝を凌ぐほどのもでなければ、それはありえないのですから、ほんとうに力強い、かつてのユダヤの王ダビデやソロモン王などをイメージする者たちがおそらくほとんどであったでしょう。
ローマは、財政面を確立するために、支配した領地に住む人々から人頭税を徴収することにしました。この税金の納入は人々を苦しめました。ルカによる福音書の20章20節からのところでも、イエス様の言葉じりをとらえて、訴えようとした者が「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法(彼らが大切にしていた決まり、社会規範)に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と問うて、それに対してイエス様が、デナリオン銀貨は、だれの肖像と銘があるかと尋ね、彼らが、皇帝のものです、と言うと、イエス様が、「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた話があります。
税金をローマに納めることはユダヤ人には、とても屈辱的であり、それだけでなく当然生活の苦しさを強いられることになっていたのでしょう。とにかく、ローマは、その税制を整えるために、人々を生まれ故郷に返して、そこで住民登録をさせることにしたのです。イエス様を身ごもったマリアの夫は、ユダヤのベツレヘム出身のヨセフでした。ヨセフは、ダビデ王の末裔にあたります。ダビデ王は、賛美歌に「エッサイの根より生い出でたる」とありますようにエッサイの息子で、このベツレヘムの地で誕生しておりました。
ですから、ベツレヘムのことをダビデの町と言っていたようです。その遠い子孫が、ヨセフでした。しかし、イエス様は、聖霊によって身ごもったというのですから、直接血を受け継いでいるわけではありませんでした。それでも、聖書は、系図などを通してイエス・キリストは、ダビデ、果てはアダムまで遡る人物として、描こうとしております。そして、初めての住民登録をするようにとの皇帝の勅令が出て、それによって世界中の人々が右往左往しなければならなくなったときに、イエス様のご降誕の時期もぴたっと重なり、彼らはベツレヘムまでの危険な旅をしなければならなくなったのでした。
権力者・支配者の思惑により、一般の市民、特に弱い立場の者の生活や人生が、翻弄されるということは、よくあることです。ときには、無意味な殺戮にさえ、加担させられるときもあります。ルワンダの悲劇もまた、権力を握っていた者たちの思惑のために、利用され、躍らされた一般の市民が、二つの部族に分かれて、敵意を煽られた多数派の部族が、少数の部族の殺害に至ったという痛ましい事件でした。
派遣労働者の問題も、グローバリゼーションという大国の力の前に、さらにシビアに利益、効率を考えざるをえなくなった企業の生み出さざるをえなかったシステムの一つかもしれません。そこで働く労働者が、が、この大不況の中、真っ先に、犠牲となり、この寒空の下、路頭に迷うことになっているのです。
大きな権力の前には、一市民の人生や努力など何ほどのこともないといった扱いを受けるのでしょう。このとき、ヨセフとマリアもまた、その大きな力の前に、マリアは身重と言う体でありながら、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで、つらい旅を強いられたのでした。
そして、ようやくたどり着いたベツレヘムには、帰郷した人々が随分いたとみえ、親戚筋も、あちこちの宿屋もいっぱいで、ヨセフとマリアが泊まるところは、どこにもありませんでした。そうこうして何日か過ぎた頃、マリアは、月が満ちて、イエス様を出産することになりました。かろうじて、どこかの家畜小屋があったようで、そこで出産し、イエス様は、飼い葉桶に寝かされたのでした。本来でしたら、ガリラヤの自宅で安心して出産することになったのでしょうが、大きな権力の前に、ヨセフとマリアは、翻弄され、不便ななか、危険なうちに、出産を余儀なくされたのでした。それでも、主に守られていましたから、ヨセフもまたマリアも、恐れずにすんだかもしれません。
ここには対照的な二人のメシアが登場しています。一人は、まさに、それこそこの世における強力な救い主、皇帝オクタヴィアヌスであり、彼は、全世界に勝利し、いわゆる「パックスローマ」、ローマの平和をもたらしたと考えられた人物でした。もちろん、これは強大な武力で制圧して得た安定でした。しかし、ローマは、支配した国々の自治もある程度認めていきましたので、それはそれで上手に支配したともいえるのです。
そして、もう一人は、この世の支配者の命令で、命がけの旅を強いられ、泊まるところもなく、家畜小屋で誕生した神様の独り子でした。一方は、世界を支配する力強い、成人した立派そうにみえる男性であり、一方は、粗末な家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている無力な赤ちゃんでした。はじめユダヤ人たちの多くが、弟子たちですら、自分たちユダヤ人のメシア、キリスト、救い主は、皇帝のような強い王様であろうと、期待していたのです。ところが、実際は、この無力な赤ちゃんだったのです。
しかし、歴史では、こうした歴代のローマの皇帝たちの威光は、そのときだけで消えうせ、自分を神として礼拝するようにと願った者も死に絶え、その代わり、逆に、キリスト者たちの数は日増しに増え続け、おまけに迫害すればするほどに増えていったとも思われます。そして、ついに、ローマ帝国が、そのキリスト教を国教にせざるをえないほどの力になっていったのは、とても皮肉な話でした。無力なお方が、最後には、勝利されたのでした。
それは、イエス・キリストこそが、まことのメシアだったからに他なりません。この強力な皇帝と無力な救い主と、どちらが、私たちを内側から変革させる力を持っていたかということなのです。どちらが、私たちの生き方を自ずと変える力をもっていたかなのです。少なくとも、皇帝には人々の命を奪うことはできても、新たなる命を与えることなど、到底できませんでした。
日本漢字検定協会が世相を表す漢字一字を募集し、一番多かったものを毎年発表し、それをマスコミが取り上げ報じていますが、今年は、「変」という漢字でした。この一年、多くの変化がありました。世の中の多くの事柄が変わりました。
首相も変わりました。経済事情も大不況となり、変わりました。いろいろなことが、変だ、そういうイメージもありました。アメリカの次期大統領も変わります。そして、彼は、変革が必要だと言っています。経済システムの建て直しも必要でしょうし、対イラク政策も考えなければならないのでしょう。大不況に伴い、多くの方々が、生活のスタイルを変えなければならなくなってきました。いろいろな事柄に、自分たちの生活の防衛、生活を守るということが先立ってしまうようになるかもしれません。おそらく、イエス様の明日のことを思い煩うなという御言葉は、このような明日もわからぬ時代状況の中で、語られたものだったのではないでしょうか。
外からくるいろいろな変化は、私たちの心の変化をある程度まで強いることはできるでしょう。しかし、心の奥深いところまで変えることはできませんし、さらに、私たちを新たに作ることなど決してできないのです。それが、おできになる方が、この無力な、飼い葉桶に寝かされているイエス・キリスト、その人なのです。
当時、皇帝に会うことなど、誰にでもできるというのではありませんでした。今でも、地位のある者に会うことは、簡単にはできません。皇帝にも、限られた者、許された者だけが会うことができたのです。それに対して、イエス様には、救いからもれている、その資格なしと思われていた羊飼いや異邦人の博士たちも会うことができました。否、むしろ、彼らに真っ先に、救い主誕生の知らせが届き、彼らが最初に、イエス様を拝することになるのです。このメシアは、誰でも、会おうと思うならば、いついかなるときにもお会いできるお方です。
そして、この飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんは、私たちに自分のことについつい集中していく心の動きを、この赤ちゃん中心へと考えや関心を向けさせていくのです。一般に赤ちゃんとは、そういう存在であるとも言えます。赤ちゃんが、熱が出たとなると、そのまま放置することはできません。ときには、夜中でも、病院に駆け込むことになります。赤ちゃんを中心にして、私たちの生活のリズムもできあがっていくのです。赤ちゃんの前では、私たちは、自分を作る必要もありません。ありのままでおられるでしょう。赤ちゃんが、笑うと私たちの心もまた、和み、平和になるのです。
赤ちゃんと皇帝は、あまりにも対極にあるでしょう。皇帝のもたらす力による平和と赤ちゃんのもたらす平和は、その本質からして、違うのです。皇帝のもたらす力による平和は、反逆と戦争の不安をつねに背後に抱えており、赤ちゃんのもたらす平和は、人間の罪の悔い改めを迫り、一人ひとりが平和に生きる者へと変革していく力を持っているのです。
私たちもまた、かつては、赤ちゃんでした。こどもでした。何一つ、自分のことを自分ですることはできませんでした。すべてのことをお世話してもらわねばなりませんでした。母親や父親をはじめ、周りのものたちから何から何までしてもらわねばならなかったのです。そして、その赤ちゃんは、すべてを他者に委ねる以外にありません。私たちの存在の本質は、まさにそうであるのはないでしょうか。私たちは、神様にすべてを委ねる以外にないのです。飼い葉桶のイエス様は、そうした私たちの忘れてしまっていた人としての本質を教えてくれる方でもあるのです。
私たちは、今日、誰をメシア、キリスト、救い主と呼ぶでしょうか。ローマ帝国の皇帝のように、強大な権力の座にある誰かでしょうか。彼らは、今の私たちの窮状を救ってくれると期待できるでしょうか。否、私たちの心の渇きを癒すことはできないでしょう。私たちをまったく新しくすることもできないし、そうした命に生きることも指し示すことはできないでしょう。私たちに死に打ち勝つ希望を示すこともできないでしょう。私たちに、真実に心の平安、平和をもたらすこともできないでしょう。
飼い葉桶の無力で、無防備で何もできない赤ちゃんこそ、私たちのメシア、キリスト、救い主です。私たちは、このお方に従うのです。なぜなら、このお方こそ、真の平和の君であり、最高に力ある方であり、私たちに新しい命を与え、その命に生きることを教えてくれるお方だからです。イエス・キリストは、その生涯を通して、ある意味では、赤ちゃんのようにあり続けたお方ではなかったでしょうか。多くの弱い人、病の人に寄り添ったお方でした。私たちにもそのようにするように、教えられた方でした。
私たちに、私たちの弱い人間としての本質を教えてくださいました。そして、最後には、わたしたちのために十字架におつきになられ、まったく、ご自身弱い一人の人間として死んでいかれました。無力な方として、死んでいかれました。このお方を、神様は、三日目に蘇らされ、私たちに永遠の命を約束してくださいました。無力な方であられた方は、否、それゆえにだったかもしれません、力ある方として復活させられ、引き上げられたのです。
私たちが、今年も迎えようとしている救い主は、そして、そこに行って拝しようとしているお方は、飼い葉桶に寝かされている無力で、無防備で、弱い赤ちゃんなのです。まさに、平和の君であられます。
平良師