平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2016年5月29日 アーメン、主イエスよ、来てください

2017-01-06 17:18:29 | 2016年
ヨハネの黙示録22章6~17節
アーメン、主イエスよ、来てください

 21章の1節から22章の5節までは、新しいエルサレムについて述べられています。そこが、どんなにすばらしいところなのか、いたるところが多くの宝石で、造られています。新しいエルサレムは、言葉に言い尽くせないほどの、すばらしい輝かしいものであることを表現しようとしています。そして、そこに入れるのは、小羊の命の書に名前が書いている者だけだとあります。そして、こうした新しいエルサレムがやってくるのを、すぐにも起こるはずのことだと、述べています。
 皆さんも聖書に描かれているような新しいエルサレムの都に行ってみたいと思うでしょう。否、わたしは、さほどにそのようなところには、行きたいとは思いません、などと答えられると、元も子もなくなるのですが、当時のキリスト者たちにとって、ここに描き出されている新しいエルサレムは、この上もない憧れの場所となりうるものであったのでしょう。
 そして、再びお尋ねしたいのですが、ここにお集まりの皆さんは、いかがでしょうか。「主、イエスよ、来てください」と、言いたいお気持ちがあるのでしょうか。それは、つまり、皆様もこの新しいエルサレムに行ってみたいとお思いになることになるのです。イエス様は、「然り、わたしはすぐに来る」と言われています。その「すぐ」が、どれくらいの時間を表しているのかはわかりません。
 聖書では、ペトロの手紙二の3章の8節からのところに「愛する者たち、このことだけは忘れないで欲しい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」とあります。ですから、私たちがもっている時間の概念からしますとズレていますので、結論から言いますと、「すぐにくる」と言われても、それがいつなのかはわからないということです。
 私は、この世の営みももう少し楽しみたいと思います、私には、この日本の風景が一番いいのであって、聖書が私たちにすばらしいものとして提示している新しいエルサレムにも、或いは、神の国とおぼしく表現されているところにも、さほどに魅力を感じません、という方々もきっとおられるのではないでしょうか。
 ところが、当時の、キリスト者たちは、この黙示録が描き出す新しいエルサレム、神の国のイメージに、どれほどの魅力を感じ、イエス様早く来られて、その御国に、この私も迎え入れてください、そのような気持ちになったのだと思います。それは、当時のキリスト者たちが、迫害にさらされ、それこそみじめな死に方をする者たちも多く、殉教の死を遂げる者たちも少なからずいたからでしょう。
 そのような状況の中にあるキリスト者たちにとって、イエス様が再び来られて、新しい神の国が開ける、それもどんなにすばらしい輝くばかりの都といったイメージは、ほんとうにできるならば早くそこへ行きたい、そして、この苦しみから解放されたい、そうした思いは誰にもあったのではないかと、想像されるのです。21章の4節には、新しいエルサレムには、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と書かれています。
 この新しいエルサレムに代表されるような神の国のイメージに対して、憧れを感じる人々の割合は、欧米をはじめ、キリスト者が、比較的に多い国々に比べると、日本人のキリスト者たちは、少ないのではないでしょうか。このような調査をしたためしはありませんので、実際のところはわかりませんが、私の予想としては、いわゆるキリスト者の数が比較的に多い欧米諸国に比べると、日本に住む日本人のキリスト者たちは、天国に対してさほどの魅力を感じないのではないでしょうか。
 それは、日本的な文化のなかで自ずと生活している私たちですから、聖書の描くいわゆる天国は、聞いたとしても異質なものとして、受け取られているきらいがあります。当時のキリスト者たちにとっては、神の国の到来も、新しいエルサレムの都といった表現で、身近だけれども、今までとは違う、たいそう素晴らしいものであることをイメージさせるものになっていたはずです。エルサレムの都ということで、身近ですから、まったくイメージできないということはなかったと思います。
 また、これまでのイスラエルとの比較によっても、新しいエルサレムに対するイメージが描きやすかったとも思われます。ところが、今の時代に生きる、そして、特に日本という、キリスト教世界からすると異文化のなかに住む私たちには、何か天国がすばらしいものとしての受けとりが、難しいのかもしれないのです。キリスト教が、日本では広がりにくいと随分と前から言われていることですが、それにはいろいろな理由があるのですが、一つには、キリスト教が文化としても根付きにくい、そうした土壌があちこちとあるのかもしれません。しかし、問題は、聖書がいわんとしていることが何かなのです。
 ここでは、少なくとも、当時の人々が、抱いていた負のことがらが、神の国では解消されるということでした。例えば、先ほど触れました21章4節の「もはや死はなく、もはや悲しみも、労苦もない」といったことや、21章の1節には、「最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった」。特に海というのは、魔物が住んでいるえたいのしれない恐ろしいところといった理解がありましからから、それがなくなったというのです。
 また、同じく21章の25節「都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである」、夜というのもまた、悪しき者たちの活動する時間帯で、それは恐れられていましたから、それが、なくなったということです。また、22章の1節からのところ「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや呪われるものは何一つない」。
 水も食べ物もよいものが豊かにあり、病になってもすぐに治る、苦しみも悲しみもなくなるというのです。そういう世界なら、今すぐにも行きたいという方々は、当時の迫害のなかにあるキリスト者だけでなく今の時代も随分と、しかもそれはどこの国においても、おられることでしょう。この世に終末が訪れて、やってくる次なる新しい世界、新しいエルサレム、神の国、天国は、完全であるということなのです。
 この世において、私たちの絶望の原因や恐怖や不安材料はすべて取り除かれるということなのです。完全な、完璧な世界がやってくるというのです。命の木からの実を食べて、皆に知恵が与えられ、真実に、分別ができるので、罪を犯したり、他人に危害を加えたり、不愉快なことをしたりする者もいないということなのです。人はこの世にあるとき、人間関係で苦しむ人々も少なからずおられます。他人との関係で、争いになったり、嫌な気持ちにさせられ、ふさぎこむことも多いのです。
 一言で天国とは、よく言うじゃありませんか。温泉に入って「ああ、天国、天国」。温かく気持ちがよくて、何の心配もなく、ゆったりでき、平安である状態です。そこには、また、私たちが一番大事だと思われるかた、愛してやまない方もおそばにおられるのです。神様、イエス様がおられるのです。
 そして、こうした新しいエルサレム、神の国、天国を指し示したあとに、それは終末時に来ること、イエス様が来られるときに成就するお話であること、そして、そこへ入れる者と入れない者とがいることを述べております。7節では「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである」とありますが、その前の6節では「天使はわたしにこう言った」と、天使が語っていたはずですが、いつの間にか、「わたしはすぐに来る」と、イエス様自らが語られているような書き方になっています。
 そういうこともあったのでしょうか、ヨハネは、この天使を拝もうとします。天使は、やめよ、自分もまた神様に仕える者であって、神を礼拝せよ、とたしなめられるのでした。そして、天使は、終末が迫っているゆえに、この書物の預言の言葉を、秘密にせず公に語るように勧めます。そして、また語るのでした。「見よ、わたしはすぐに来る。
 わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」。この言葉は、まさに、イエス様のお言葉としてとらえてよいかと思います。そして、「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」とあります。これは、最後まで、迫害や逆境に耐え忍ぶことをした者、殉教に至るまで忍耐した者は報いに与ることを述べています。
 逆に、犬のような者、魔術を行う者、みだらなことをする者、人殺し、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は新しい都に入ることはできません。このあと霊と花嫁が「来てください」といい、これを聞く者たちも「来てください」と言うように勧められています。世の教会と信徒たちへ、再臨のイエス様を待ち望む姿勢を強く持つようにと勧めています。そして、20節、「以上すべてを証しする方が、言われる。然り、わたしはすぐに来る」。そして、ヨハネ、或いは、世のキリスト者たちが「アーメン、主イエスよ、来てください」と呼応します。
 私たちは、希望をどこにおいているでしょうか。ヨハネの黙示録の時代には、当時の迫害にさらされている状況の中に希望を見出すことは、キリスト者たちには、とても困難なことであったはずです。しかし、再臨のイエス・キリストがすぐにでも来てくださる、そして、このつらい状況が一変する、新しい世界の到来、そこにこそ大きな希望を見出したのではないでしょうか。
 「霊と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。渇いている者は、来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」。いつの時代でもあっても、来てくださいといった渇きや願いが、やはり必要です。来てくださいといった気持ちに、イエス様は応答してください。それを願わない者に、それは訪れるでしょうか。私たち人間は、人間関係に苦しみます。人間関係のいろいろなことに傷ついて苦しみます。病に苦しみます。飢えに苦しみます。これらから解放されるところが、神の国、天国です。イエス様は、すぐに来ると言われました。
 あの頃から、2000年が経ちました。1000年は一日のよう、と言われるのですから、まだまだ、ずっと先なのかもしれません。しかし、イエス様が来られることが、私たちの今負っているすべてからの解放につながるのですから、それは、素晴らしいことではないでしょうか。
 20節をもう一度読んでみましょう。「以上すべてを証しする方が、言われる。然り、わたしはすぐに来る。アーメン、主イエスよ、来てください」。イエス様が、最初に「わたしはすぐに来る」と言われたのでした。そして、それを聞いたヨハネが、キリスト者たちが、アーメン、主イエスよ、来てください、と応答しているのです。イエス様が、まず最初にすぐに来る、と言われました。それは、イエス様が、ご自分を待っている者たちがいることをご存じだからです。
 私たちは、神様でなければもうどうすることもできない、そうした事柄を人生のなかにいくつも抱えて過ごしております。そのことを神様はご存じです。このときも、迫害のなかで、もう限界にあるキリスト者たちのことをご存じであったのではないでしょうか。彼らが、イエス様が再び来れることを強く、願い求めていることを知っておられました。「然り、わたしはすぐに来る」。そして、「アーメン、主イエスよ、来てください」。そして、この呼応の関係に今の私たちも生きています。
 イエス様は、2000年前に既に私たちのところに来てくださいました。十字架におかかりになり、復活させられて、天に挙げられましたが、聖霊としてのお姿で、今もなお私たちと共にいてくださっておられます。ですから、イエス様は、既に来られておりますし、今もなお、共にいてくださいますから、そのイエス様が、再び来られるというのはどういうことかと思いますが、聖書は、それぞれの時代のそれぞれの状況のなかにおかれている人々が、神様との関係を意識するなかで書かれているものですから、誰か一人が、統一したテーマのもとに歴史を綴ったものでもありません。
 ですから、矛盾や整合性のとれないものはたくさんあると考えておいた方がよいかと思います。ただし、いずれも、イスラエルの神様との関係を意識した者たちが書いてありますので、そういった意味では、その信仰心や神様を意識する思いは、神様が与えてくださったものと考え、つまり、聖霊のお働きがそこにあり、神様が綴ったものだといった判断をしているのだと思います。
 そして、このことから、私たちに示されていることは、黙示録の1章の4節にもありますように、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」が主なるキリストであり、そうした神様との関係のなかに私たちも生きているということなのです。ですから、この世に生きる私たちは、「既に」と、「未だ」のはざまに生きる存在なのだと説明をされる方もおられます。
 私たちの存在は、私たちが神の国に行きたいと願おうがそうでなかろうが、再び来られるイエス様を待ち望むその「時」のなかに生かされているということなのです。イエス様がこられるとき、すべては完全に、完璧になると聖書は告げています。私は、礼拝の祝祷でテサロニケの手紙一の5章の23節を朗読しているのですが、後半部はこうなっています。
 「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」。私たちを迎え入れてくれる新しいエルサレム、新しい世界、神の国、天国は、完全なところ、完璧なところでありますが、そのとき、私たち自身もまた、完全な者とさせられるのです。主の赦しによって、すべての者が神の国に迎え入れられるよう互いに祈りましょう。


平良 師

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