平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2016年6月2日 神様の選びと裁きと赦しと

2017-01-06 17:22:32 | 2016年
サムエル記上16章1~13節
神様の選びと裁きと赦しと

 イスラエルが、12部族連合から王政をとるに至ったのは、民の要望でした。当時、祭司のサムエルが、指導者としてイスラエルの部族連合をまとめ、民衆間に起こる諸裁きを行っておりました。ところが、サムエルも高齢となり、彼の仕事を継いた二人の息子たちは、公正なる裁きをせず、賄賂をとって裁きを曲げるなどのことを行い、民衆の信用を失っておりました。
 そういうこともあり、民衆は、周辺諸国と同じように、王政をしくことをサムエルに願い出、サムエルもそれを息子たちのこともあったのでしょう、神様の前によくないことと思いながらも、そのことを神様に願い出ないわけにはいかなかったのです。そのとき神様は、サムエルに、王政を民が願うことは、神様の代わりに王を拝むようなことにもなりかねない、神様を廃すること、サムエルを廃することと同じだといわれて憤られました。
 そして、彼らに王政をしくことがどのような状況を招くことになるのか、その意味を、サムエルを通して、教えました。サムエル記上8章からのところに書かれています。息子たちは、兵士や武器製造に徴用される、娘たちは香料作り、料理作り、パン焼き女として徴用される。民の大切な最上の畑などが没収される。王のために奴隷や若者たちが労働させられる。農作物や家畜の十分の一は徴収される。「こうして、あなたたちは王の奴隷となる」ということ、そして、さらに、その時、あなたたちは泣き叫ぶが、神様は、あなたたちに答えられないと言ったことも伝えました。
 ところが、民衆は、「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」と言って、サムエルの声に耳を傾けることはありませんでした。
 そうして、最初の王になったのが、サウルでした。サウルは、背が高く、美しい若者でした。9章の2節「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」とあります。ところがサウルは、アマレクと戦ったときに、神様がしてはならないと言っていたことを行って怒りをかうこととなりました。それは、神様は、アマレクという国家というか部族は、イスラエルの人々がエジプトから脱出して、荒れ野をさまよっていたときに彼らのいく手を妨害した者たちでした。
 それで、神様は、この戦いで、アマレクのすべての者を滅ぼすこと、また、戦利品などもすべて破棄するように言われていたのですが、それをサウルはしなかったのでした。サウルは、祭司サムエルから戦利品もすべて破棄する、滅ぼすように言われていたにもかかわらず、上等の品々は、神様に献げたらよいと助言する兵士たちを恐れて、彼らの言うとおりにしてしまい、神様の言葉に背いて、罪を犯したのでした。
 それで、神様は、サウルを退け、ダビデを王にされます。その王として選ばれたことを表す油注ぎの儀式をサムエルは行うこととなりました。ここでは神様の選びの基準らしきことが述べられています。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。岩波訳では「人は、外観を見るが、ヤハウェは心を見る」となっています。
 ところが、そうやって、心をご覧になられて、選ばれたダビデであったのでしょうが、結果として、彼の容姿は、血色がよく、目は美しく、姿も立派であったとあります。なんだ、ダビデもやはりイケメンだったのかと思う方もおられるでしょうが、彼の心のありようが、姿に反映されていたと考えることもできます。確かに、詩編にはダビデの詩と言われるものが多いので、それほどにダビデという王は、信仰深い人物だった、神様によりたのむ心の持ち主だったといった評価があったのでしょう。
 しかし、彼もまた、家臣のウリヤの妻バトシェバを自分のものにするために、夫のウリヤを激戦地に送って、戦死させるということをしますから、罪深い一面も持っておりました。ただ、神様がお選びになられたときのダビデの心は神様の目に適ったのでしょう。否、そのあとも、神様の前に、悔い改めることを忘れることはなかったと思います。そのようなダビデの弱さまでもすでに神様は見越して、ダビデをイスラエルの王に据えることをなさったとも考えられます。
 また、神様が、用いられるとき、人はどのようにも変りますから。現に、今日の聖書の箇所の16章13節には、「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」と、あります。神様からの霊がダビデに降り、彼は王としての整えをいろいろとなすことができるようになります。一方、神様の霊はサウルから離れ、彼は、力を失ってまいります。
 さて、神様の選びということで考えますと、イスラエルのはじめての王サウルは、明らかに外観によって選ばれたという感じがいたします。誰が見ても、自分たちとは違って優れたものをかもしだしている人物を最初の王として立てることは、民を安心させるためにとられた神様のお考えであったのでしょう。
 しかし、それは神様の本意ではありませんでした。神様は、選択の基準を16章の7節に明らかにされています。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。祭司サムエルは、エッサイの息子のエリアブを見たとき、まさにこの男を神様は次なる王として立てようとしていると考えました。それほどに、外観が際立っていたのでしょう。ここでの選びは、リーダーの選びについて述べられています。
 しかし、おしなべて神様の選びといった問題は、信仰をもつ者にとっては、永遠の問い、課題ではないでしょうか。何ゆえ、私なのですか、そういう問いです。それは、幸不幸の問題もそうしたものがついて回るような気が致します。そして、私たちが、救いに与ったのも一種の選びということが言えます。容姿や背の高さで選ばれたのではないことは、この自分が数われたということをもってしても明らかです。それでは、心で選びに与ったのかというと、それもまた全く自信がありません。
 このようなわたしが救いにあずかるはずがない、そうこの世に生きる多くのキリスト者たちも思うのではないでしょうか。年を経るに従って、ますますそのような思いにさせられます。人の心という点では、ローマの信徒への手紙のなかでパウロも述べているように、すべての者が神様に対して罪を犯しています、とあるとおりではないでしょうか。そうしますと、心もまた神様の選びの対象にはなりえていないことがわかります。
 ただし、ダビデを選ぶときには、そのように、神様は外観で人を見ることをせず、心を見ると言われました。選びに与るときの、その心です。しかし、心も普遍ではありません。「立場が人を変える」、「女心と秋の空」、「間が刺した」など、人の心がどんなにか移ろいやすいものであるかを表現している言葉は山ほどあります。また、文学が扱っているテーマの一つは、人はもろく、如何に強固に見えた人物も、いろいろな状況の変化、誘惑で、心は変っていくのだといった、これまで築いていたものが壊れたり、破滅していく姿を扱ってはいないでしょうか。
 選びということでは、新約聖書に次のようなイエス様の言葉があります。ヨハネによる福音書の15章の16節ですが、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。
 人が選ばれた理由をイエス様は、出かけて行って実を結ぶためだと言われました。実を結ぶというとき、霊の結ぶ実というものがあることを私たちは知らせれています。ガラテヤの信徒への手紙5章の22節「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。その他には、神様が私たち一人一人に与えられた使命というものがあるのではないでしょうか。神様が私たちにお与えになられた賜物を活かして、それを用いて、果たすべき使命が与えられているのです。それらの使命を果たすことができる方もおられますし、できない方もおられます。
 実を結んだ方は、イエス様から与えられて使命を果たすことができた方であり、実を結ばなかった方は、それができなかった方です。サウルは、神様のご命令に従わなかったのですが、それによって、神様のご期待に応えられなかった、実を結ぶことができなかったのです。それで、取り去られることになります。
 そして、実を結ばなかった者たちはどうなるのか、ということです。聖霊が結ぶ実と言われている実の一つも実らすこともできなかった、イエス様から与えられた使命も果たすことができなかった、そうした場合、どうなるのかということです。サウルのように、取り去られてしまうのかといった問題です。
 私は、それに対する答えのようなものをルカによる福音書の13章6節からのところの一つの例え話の中にみます。ある農園の主人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいて、実を探しに来たけれど、実を見つけることができませんでした。それで、園丁(庭師)に言うのです。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」。
 そうしましたら、この園丁が答えるのです。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。この主人は、神様です。そして、園丁は、イエス様です。私たちが、神様のご期待に応えられず、勝手きままに生きているその姿は、この実をつけないいちじくのようです。
 神様は、3年、それはもうずっと長い間ということです、何年も何年もずっと待ち続けてきたのに、わざわざ実を探しに毎年来たのは、それほどに期待をこのいちじくの木に寄せていたからです。そのように、神様は、私たち一人一人に期待をなさっておられます。
 ところが、その期待に応えられない私たちがいるのです。それで、神様は、もう堪忍袋の緒を切らして、このいちじくの木を切ってしまえ、そして、園丁に言うのです。なぜ、このような役にも立たない木をこの大切な土地に植えているのか、取り除いて、他の木を植えた方がよほどよい、と。この何年たっても実をつけないいちじくの木は、悔い改めようとしない人間のかたくなさを言っているともとれるでしょう。園丁は、この3年間、いろいろとこのいちじくの木に対して努力してきました。
 ただ、ほったらかしにしていたのではありません。なぜなら、主人は、このいちじくの木に実がなるのをほんとうに楽しみにしていたからです。ところが、園丁がどのように努力しても、このいちじくの木は実をつけなかったのです。土地を無駄にふさいでいるだけだから、もう切ってしまえと言われても仕方がありません。それでも園丁は言うのです。今年もこのまま、つまり、もう一年待ってください。これは、神様に対する執り成しをされるイエス様の言葉です。
 そして、この園丁は、抜本的な策を講じます。それは、木の周りを掘って、肥しをやるということでした。それでも、人間が実をつけるかはわかりません。園丁も、「そうすれば、来年は実がなるかもしれません」と、きっと実をつけるに違いないと断言はしていません。なるかもしれません、と主人に言っているのです。そして、「もし、それでもだめなら、切り倒してください」と言っています。
 しかし、悔い改めることもしない、神様の期待に応えない、実を結ばない、そのような者が人間です。ところが、実際に、切り倒されたのは、この実をつけないいちじくの木ではありませんでした。そうではなく、その木に代わって切り倒されたのは、園丁であるイエス様であったことを私たちは知っています。このお方によって、実をつけない私たちは救われたのです。そして、いつまでも執り成しを続けてくださるイエス様は、それこそ十字架につけられたまいしままなるキリストであるかもしれません。
 私たちキリスト教を信仰する者にとって、神様の選びと裁きと、救いの問題は、大きな問いです。一つの聖書の箇所からすべての答えをうることはできません。これらの問題については、聖書の箇所によって、いくつかの解釈が可能となるからです。そして、今日のように、旧約聖書をとおしての選びと裁きの理解も、新約聖書の視点から、もう一度、読み直すというか、理解し直す必要があるだろうと思います。
 そうすることで、福音がより明確なものになるかと思います。イエス様による執り成しがあったこらこそ、私たちは赦されている、そのことを感謝しながら、失敗をするこがあるかもしれませんが、恐れず、この週も歩んでまいりましょう。


平良 師

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