平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2016年7月24日 

2017-01-06 18:13:46 | 2016年
サムエル記下21章1~14節
清算されるべき歴史をも

 ダビデ王の時代に、三年続いて飢饉がありました。そもそも飢饉というのは、神様の怒りのあらわれであると理解されておりました。それが三年も続いたのです。人々も飢え渇きで瀕死の状態となり、国家としても危機的な状況でした。ですから、このようなときには、何故、神様の怒りがあらわれているのかを当時の為政者たちは、つきとめなければならなかったのでした。そこで、ダビデは、神様に、託宣を求めました。
 つまり、どうしてこのような飢饉が、しかも三年も続いているのですかと、神様に尋ねたのでした。神様は、「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある」と言われました。「サウルは、イスラエルとユダの人々への熱情の余り、ギブオン人を討とうとしたことがあった」とあります。そもそもイスラエルは、ヨシュア記の9章15節にもあるように、このギブオン人との間に盟約を結んでおりました。モーセの次の指導者、ヨシュアの時代のことでした。「ヨシュアは彼らと和を講じ、命を保障する協定を結び、共同体の指導者たちもその誓いに加わった」。
 イスラエルの人々は、ギブオン人が、イスラエルのなかに定住することを認めたのでした。それなのに、サウルは彼の時代に、命の保障を誓ったはずのギブオン人を絶滅させようとしたのでした。「イスラエルとユダの人々への熱情の余り」とありますが、サウルの時代に国粋主義的な機運が高まりギブオン人に対する差別感情が噴き出してきて、そのような扱いをするに至ったようです。ギブオン人は、イスラエルの人々と共に生活をしながらも、異質な文化を彼らは保持していたのでしょうか。
 そのようななかで、彼らを絶滅しつくそうとサウルはしたのでした。そのときの歴史が、清算されていないというのが、神様が飢饉を三年にもわたってもたらしている理由だということでした。神様は、アブラハムとの関係や出エジプト記のなかでもイスラエルと契約を結ばれましたが、義なる神様であられますから、たとえ、イスラエルに片寄り見られる神様であったとしても、彼らの犯した罪を赦されることはありません。
 旧約聖書に描かれている神様は、人間の犯した罪に必ず裁きをもって、臨まれます。ダビデは、ギブオン人に尋ねました。「あなたたちに何をしたらよいのだろうか。どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるのだろうか」。ここでいう主の嗣業というのは、このカナンの土地であったり、イスラエルとその民をさしていると思われます。それに対してギブオン人は、「サウルとその家のことで問題なのは金銀ではありません。イスラエルの人々をだれかれなく殺すというのでもありません」ということでした。それは、お金で解決できるようなことではなく、また、イスラエルの人々がすべて、この罪の対象になって殺されるというようなことでもない、ということでした。
 「わたしたちを滅ぼし尽くし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも定着できないように滅亡を謀った男、あの男の子孫の中から7人をわたしたちに渡してください。わたしたちは主がお選びになった者サウルの町ギブアで、主の御前に彼らをさらし者にします」と言いました。サウルは、かつて、ヨシュアがギブオン人と結んだ約束を無視して、ギブオン人の絶滅を図りました。その際、かなりひどいことをしたことが想像できます。ギブオン人は、サウル王とその家の罪を問うたのでした。ダビデは、サウル家から7人を選び、ギブオン人に引き渡しました。
 7人のうちの二人は、リツパとサウルの間に生まれた二人の息子のアルモニとメフィボシェトでした。このメフィボシェトは、7節に出てくるサウルの子ヨナタンの息子のメフィボシェトとは、別人です。ダビデは、ヨナタンとの間には、神様をさして立てた誓いがありましたので、このヨナタンの息子のメフィボシェトを引き渡すことはしませんでした。
 サムエル記上20:15に「主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないで欲しい」といった内容で、ヨナタンとの間に、ダビデは、契約を結んでおりました。それから、残りの5人は、サウルの娘ミカルとアドリエルとの間の5人の息子たちでした。
 サウルの娘ミカルは、かつてはダビデの妻で、ダビデが、神の箱をエルサレムに担ぎ入れるときに、喜びのあまり裸同然で跳ね踊ったことがありましたが、その姿を見て冷笑した女性です。ミカルは、ダビデの妻でしたが、ダビデとの間には与えられなかった子どもが、アドリエルとの間には与えられておりました。ただし、ここで登場しているミカルは、サムエル記上18:19に出てくるメラブの間違いであって、写本のミスではないかと言われています。
 どうも、そちらの説が正しいようです。そうしますと、やはり、ミカルには、子どもはいなかったということになります。いずれにしても、ダビデは、この5人を捕え、ギブオン人に引き渡しました。ギブオン人たちは、この7人を山で処刑し、さらし者としました。異邦人のギブオン人が、イスラエルの神様の前で、そのようなことをしたというので、あたかも、神様の正い裁きを象徴するかのような光景であったことでしょう。
 しかし、アルモニとメフィボシェトの母のリツパは、7人が処刑されたあと、粗布で、死者たちを覆い、昼は空の鳥から、夜は野の獣たちから彼らを守りました。粗布というのは、喪のしるしでした。これは、4月下旬から5月上旬の刈り入れの初め、大麦の収穫が始まるころから、雨が天から降り注ぐころまで続きました。リツパは、二人の母親として、また、ミカルの、否、おそらくメラブだと思いますが、彼女の5人の息子たちも含め、この処刑された遺体が鳥や獣たちの餌食になるのを忍びないと思い、せめてと、雨が降り注ぐそのときまで、遺体が傷つけられることから守りとおしたのでした。
 ダビデは、このことを聞いて、さらしものにされて今はギレアドのヤベシュの人々が所有していたサウルの骨とヨナタンの骨を取りに行かせ、また、7人の骨を一緒にして、サウルの父キシュの墓に葬りました。
 この後、神様は、イスラエルの国の祈りに応えられました。この後というのは、ダビデが、サウルとその子ヨナタンの骨と共にベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬ったところまでを指していると思われます。そして、祈りに応えられたというのは、大地に雨が降り注いで、飢饉が終わったということです。
 このお話は、ダビデの一連の物語の流れのなかにはありません。付け加えられたお話であり、おそらく、ダビデの時代に、サウル王の子孫が断たれるという出来事が発生して、それは、このような理由だったのだといった、いわゆる原因譚のようなことを伝えたかったのだと思われます。サウル王の子孫が断たれたのは、ダビデ王が原因していたのではなく、サウル王が、ギブオン人たちをそれまでの約束を破って、不当に虐殺したことが、原因であったということを強調したかったのでしょう。
 このお話は、現代に生きる私たちに、いくつかのことを考えさせられます。一つは、清算されるべき歴史があるということです。よく戦後はまだ終わっていないということを言われます。私たちの国内において、前の戦後が終わっていないという問題もありますし、私たちの国と他の国々との間の問題もあります。前の戦争で犯した数々の罪の清算はできているのかということです。
 国内には、沖縄の基地の問題があります。沖縄は、平和な島でありましたが、江戸時代から、薩摩藩に搾取され、その蓄えた富で、明治維新を推し進めることができたと言われています。戦時中は、唯一日本で地上戦がなされ、多くの犠牲者を出しました。また、戦後もなお、米軍の基地がかなりの面積を占めています。相変わらず、いろいろな意味で、日本は沖縄に犠牲を強いております。他にも、そのような戦後処理が十分に終わっていない国内の事柄があるかもしれません。
 また、アジア周辺諸国とのことでは、戦争中のことは、保障を求めないとの合意を終戦直後に交わしているのでしょうが、それでも、強制連行や従軍慰安婦の問題など、未だに癒されぬ問題がたくさん残されています。いろいろなときに、中国や韓国、北朝鮮など、日本に対する敵意が噴き出すのも、清算されるべき歴史があるにもかかわらず、それが誠意をもって伝えられていないからではないか、そう考えざるをえません。
 最近では、イラク戦争は間違いであった、との見解をイギリスのある機関が発表しておりました。確かに、大量科学殺葎兵器があるとの理由で、攻撃を始めたアメリカでしたが、それに、日本などいくつかの国々が、一緒になってイラク戦争に加担致しました。しかし、実際、化学兵器は見つからなかったのでした。にも、かかわらず、それに対する清算をアメリカはまだしておりません。それどころか、その結果、さらなる混乱に陥り、その中からISといった集団も生まれております。あれ以来、ISの攻撃や世界で発生しているテロの事件などは、この物語の三年も続いている飢饉と見なすこともできないことはありません。清算されるべき歴史があるにもかかわらず、それがなされていないのです。
 また、清算されるべき歴史というのは、何も国と国の関係ばかりではありません。私たちには、個人と個人の間で発生した問題、個人史のなかに解決されるべき歴史があるのではないでしょうか。イエス様は、神殿に犠牲の供え物をもって上る場合、その途中で自分に反感を抱いている人のことを思い出したら、まずその人と仲直りをして、それから犠牲の供え物をささげるようにと、教えられました。犠牲の供え物をするというのは、祈願なのか、感謝なのか、悔い改めなのか、いずれにしてもそこには形だけではない真実な思いが込められていることが大事です。
 この捧げ物をしようとしている人にとって、まず大事なことは断絶してしまった人間関係、うまくいかなくなった人間関係を改善したり、回復したりすることです。神様を愛すると同時に、隣人を愛するということです。そのときには、相手に対して謝罪が必要になるかもしれませんし、話し合いによって、互いの気持ちを深く理解することが必要になるのかもしれません。
 マタイの5章23節から24節です。「だから、あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるに違いない。はっきり言っておく、最後の一クァドランス(ローマの青銅貨で、1デナリオンの64分の1)を返すまで、決してそこから出ることはできない」。
 もう一つ、この箇所で教えられることは、母の愛、人の愛が、神様の厳しい裁きに及ぼす影響です。リツパにとって、ギブオン人の殺害というのは、それは、夫であり子供たちの父親サウルのやったことでしたから、自分の二人の子どもがその責任を負わねばならないというのは、気持的にはいたたまれなかったと思います。しかし、律法的には、その責任は、息子たち他、子孫が負わねばなりませんでした。そういうわけで、当時としては、やむにやまれぬ思いであったことでしょう。
 しかし、さらされた子どもたちの死体が、鳥や獣の餌食になることは、居たたまれぬことでした。それで、昼夜にわたり、彼女は、メラブの息子たちの遺体も含めて、粗布をかぶせて獣の襲撃から彼らを守ったのでした。そして、その母親の思いは、ダビデを動かすこととなり、ダビデは、サウルやヨナタンの遺骨を持ってこさせて、サウルの父親キシュの墓に、一緒に埋葬してあげることにしたのでした。母親の切ない思い、優しい思いが、ダビデにも影響し、彼もまた、サウルの一族の葬りを懇ろにしようと考えたのでした。
 この歴史を清算するできごと、また、母親の切なくもやさしい思い、ダビデの懇ろに葬りをしようとした出来事、これらのことを通して、神様は、「この後、神はこの国の祈りにこたえられた」というように、この一連の事柄、つまり、歴史の清算とそのあとのリツパとダビデの行いまでを含めて、イスラエルの人々の祈りを聞かれました。
 そして、最後に神の愛です。ここでは、神の愛というよりも、神の正義といった言葉の方が、ぴたりとくるかもしれません。旧約聖書のなかで描かれる神様は、義なる裁き主として神様です。神様は、正義が回復されたところで、イスラエルを再び憐れまれ、飢饉をとかれ、雨を降り注ぐことをなさいました。そして、神様が、正義を行われるときには、いくつかの犠牲が必要となります。
 そして、その犠牲の最後になられたのが、イエス様の十字架であったのだと、私たちは信じております。お一人子であられたイエ・キリストという犠牲の小羊によって、私たちの罪は赦されました。それによってなされたのは、全き赦しであったのだと、私たちは信じています。ただし、その赦しに与った私たちは、その恵みに相応しい生き方をするように、期待されてはいるのです。旧約聖書では、私たちには、清算されるべき歴史、罪があるのだと教えられます。
 しかし、新約聖書において、イエス様の十字架は、清算されるべき歴史をも、我々の個々の罪をも、赦したのだと宣言しております。その恵みを信じ、その恵みに応答する生き方をこれからも、私たちは行ってまいりましょう。その生き方とは、例えば、前の戦争において犯した過ちについて、日本バプテスト連盟も戦責告白をしておりますが、そうやって悔い改め、かつてのような過ちを2度と繰り返すようなことがあってはならないということです。それは、個人と個人との関係においても同じです。神様の恵みの赦しにふさわしい生き方を今週も行ってまいりましょう。


平良 師

最新の画像もっと見る